日本史年表へ戻る
満州西北部のノモンハンを中心とするホロンバイル草原で、関東軍・満州国軍と、極東ソ連軍・モンゴル軍とが激突した。満州国を認めないソ連軍とモンゴル遊牧民には国境意識が希薄であり、偶発的な小競り合いが頻発するなか些細な「国境紛争」で片付くはずだった。「北守南進論」を採る陸軍中央はソ連との衝突を回避する方針で植田謙吉関東軍司令官に不戦を厳命したが、戦争がなく無聊をかこつ関東軍作戦参謀の服部卓四郎と辻政信は命令を無視して第23師団以下に戦闘命令を下し無用の大戦闘を引起した。ソ連のスターリンは、ドイツがポーランドに侵攻する前に日本軍を叩き潰して東方の安全を確保すべく徹底抗戦を決意、名将ジェーコフを総指揮官に最新鋭の機械化戦車部隊・重砲部隊・航空機部隊を投入した。著しく軍備が劣る日本軍は大苦戦、前線で戦った連隊長のほとんどが戦死または自決し大損害を出して撤退した。ソ蒙軍の損害も大きく日本軍の7720人を上回る戦死者を出したが、実態は日本軍の完敗であった。植田謙吉司令官をはじめ関東軍幹部は責任を問われ退役したが、首謀者の服部卓四郎と辻政信は免責どころか東條英機・田中新一の庇護で陸軍中枢の参謀本部作戦課に呼戻され、ノモンハン事件の反省無きまま南進政策に精を出した。作戦参謀としてシンガポールに赴任した辻政信は「華僑虐殺事件」を引起し、終戦直前のビルマ戦線で敵兵の人肉食を強要、敗戦が決すると僧侶に化けて戦犯追及を逃れ、ほとぼりが冷めると日本に舞戻り逃避行記『潜行三千里』がベストセラー、ワシントン講和後に衆議院議員4期と参議院議員1期を勤め岸信介首相を「東條英機内閣の閣僚だった」と糾弾したが、ラオス視察中に行方不明となり死亡が宣告された。東京裁判での起訴を免れた服部卓四郎はGHQに取込まれ、ウィロビー(G2)肝煎りの「服部機関」で米国の意向に添った太平洋戦史の編纂にあたり、自ら出鱈目な『大東亜戦争全史』を出版した。日本の再軍備に際してウィロビーはマッカーサーに服部卓四郎を参謀総長に推薦したが、吉田茂の猛反対で事無きを得た。