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東大法学部を主席で卒業した平沼騏一郎は司法省へ進み司法次官・検事総長・司法相・枢密院議長と累進、陸軍・右翼の支持を背景に首相に上り詰めたが、独ソ不可侵条約でドイツの二面外交に翻弄され僅か8ヶ月で退陣した。平沼騏一郎は中立たるべき法曹家ながらガチガチの国粋主義(観念右翼)を隠さず、民主主義・社会主義・共産主義・ナチズム・ファシズムなど外来思想を悉く嫌悪し、右翼団体「国本社」で大衆啓蒙に努め、「検察のドン」の立場を駆使して社会主義者や政党勢力の排撃に奔走した。平沼騏一郎は、「大逆事件」で幸徳秋水ら12人の死刑を求刑し、「企画院事件」で左翼官僚を弾圧(余波で小林一三商工相と岸信介商工次官が辞任)、若槻禮次郞・濱口雄幸の政党内閣を攻撃し、陸軍と共謀した「帝人事件」スキャンダルで斎藤実内閣を打倒、天皇機関説問題・国体明徴運動で西園寺公望ら天皇側近を揺さぶり、西園寺が首相指名権を手放し政党との対立で近衛文麿が第一次政権を投出すと平沼に念願の組閣大命が降された。が、平沼騏一郎内閣はナチス・ドイツからの同盟提案で右往左往するなか青天の霹靂の独ソ不可侵条約に遭遇、ヒトラーに愚弄された平沼首相は面目を失い「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じましたので」の名言のみを残し退場した。ドイツを憎む平沼騏一郎は、第二次・第三次近衛文麿内閣の閣内にあって日独伊三国同盟に反対し、陸軍統制派の「国家総動員体制」や近衛首相の「新体制運動」(大政翼賛会に結実)にはナチス流国家社会主義の模倣と異を唱えた。対米開戦後、重臣会議に列した平沼騏一郎は陸軍統制派との因縁から一応和平派陣営に属し、東條英機内閣打倒やポツダム宣言受諾に一票を投じたが、常に態度不鮮明な平沼を昭和天皇は「結局、二股かけた人物というべきである」と軽蔑した。東京裁判で投獄された平沼騏一郎は精神を病み1952年に病没したが(終身禁固刑)「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と独善的な歴史認識を開陳している。