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石原莞爾ら陸軍首脳は満州経営の主導権を満鉄から奪取すべく、鮎川義介の日産コンツェルンを満州へ招致した。石原莞爾の狙い軍用の自動車産業だったが、鉱工業一貫生産を期す鮎川義介は日産重工業部門の全面移転を決意し、1937年受皿の満州重工業開発株式会社(満業)を設立し自ら総裁に就任した。鮎川義介は満州開発資金の3分の1乃至半分を欧米から募り「金質」を戦争抑止力にしようと図ったが、陸軍の反対で実現しなかった。また鮎川義介は陸海軍や外務省(松岡洋右ら)の「大陸派」と連携し、ドイツで迫害を受けるユダヤ人を満州へ誘致し米国の政策を左右するユダヤ移民との連帯により対米開戦回避を図る「河豚計画」にも加担していた。河豚計画も頓挫したが、日産・満業の事業は成功を収め、重工業開発を牽引した鮎川義介は東條英機(関東軍参謀長)・星野直樹(国務院総務長官)・岸信介(総務庁次長)・松岡洋右(満鉄総裁)と共に「弐キ参スケ」と称され満州支配の支柱となった。が、石原莞爾の失脚で「五族協和」の夢は破れ日中戦争は泥沼化、専横を強める関東軍を見限った鮎川義介は1939年には満州撤退の検討を始め、日産傘下の日本食糧工業(日本水産)取締役の白洲次郎らと話すうち欧州戦争はドイツ敗北・英仏勝利と確信した。ミッドウェー敗戦を知らない日本国民が未だ戦勝気分に沸く1942年、鮎川義介は満州からの全面撤退を決断し、各事業部門を国内と満州に分割再編したうえで満州重工業開発総裁を辞任し資本を引上げた。膨大な設備投資を重ねた満州からの撤退は大きな痛みを伴ったが、鮎川義介の間一髪の大英断により日産は破滅を免れ資本と事業基盤の国内温存に成功、第二次大戦後も事業活動を継続した日産自動車・日立製作所・日本鉱業(JXホールディングス)の各企業グループは高度経済成長で大発展を遂げ、日本水産・ニチレイ・損害保険ジャパン・日本興亜損害保険・日油などを連ね日産・日立グループを形成した。なお、大倉喜八郎は鮎川義介と同様に陸軍長州閥に従い中国大陸へ事業を移したが満州事変を前に没し、逃げ遅れた大倉財閥は壊滅した。