日本史年表へ戻る
二・二六事件後、陸軍中央では反乱将校および皇統派の断罪を主導した石原莞爾作戦部長が指導的地位に就き、日中戦争泥沼化を予期し停戦工作に奔走したが、石原に従う河辺虎四郎・多田駿らは少数派であり、蒋介石政府を侮り戦線拡大(華北分離工作)を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と鋭く対立、武藤などは作戦部の部下ながら「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」などと愚弄する始末であった。石原莞爾は政府にも直接不拡大を説いたが、統制派以上に強硬な近衛文麿首相・広田弘毅外相に拒絶され米内光政海相も断固膺懲を主張したため進退窮まり、石原は関東軍参謀副長に左遷され(関東軍参謀長の東條英機と衝突し予備役編入)河辺虎四郎・多田駿ら不拡大派も一掃された。この間の陸軍中央における政治空白は東條英機ら出先指揮官の独断専行を許し関東軍が自律的に戦線を拡大させる無秩序状態をもたらした。陸軍の指揮権を奪った武藤章ら統制派は、永田鉄山以来の「中国一激論」に固執し、強力な一撃を加えれば国民政府は早々に日本に屈服するとの予測のもと大量兵力を投入し戦線を拡大させたが、上海・南京を落としても蒋介石は屈服せず日本軍は「点と線の支配」に終始、石原莞爾の読み通り日中戦争は泥沼化し日本軍は不毛な消耗戦を強いられ、英米の中国権益を侵し蒋介石支援に奔らせる結果を招いた。