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北清事変後に日本人居留民保護のために天津に駐留した日本軍は、増派により一旅団(約7千人)の規模となっていた。この天津駐留軍のうちの一大隊が、盧溝橋付近で軍事演習中に偶発的に中国軍と衝突、緊張が高まった。第一報を受けた牟田口廉也連隊長は無断で抗戦命令を出したが、特務機関が間に入って一旦は停戦協定が成立した。ところが、牟田口廉也は協定を無視して軍を進め、中国軍から銃撃を受けると又も無断で攻撃命令を下し宛平県城を攻落し天津付近の中国軍を掃討、戦闘はすぐに上海へ飛び火し「日中戦争」が始まった。現地指揮官の河辺正三旅団長は牟田口廉也の暴走を黙認した。なお、皇道派に属した牟田口廉也は二・二六事件で陸軍中央を追われ天津に左遷されたが、盧溝橋事件を統制派に評価され「東條英機の子分」となった。8年に及ぶ日中戦争のトリガーを引いた牟田口廉也・河辺正三コンビは、お咎めなしどころか東條英機に引立てられ、ビルマ方面軍指揮官として「インパール作戦」で再び大暴走、イギリス軍に無意味なインド侵攻作戦を仕掛け6万4千人(拉孟騰越戦の2万9千人を含む)もの戦死者と4万2千人の戦傷病者を出す戦史上最悪の大失策を犯した。