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長州出身の岸信介は吉田松陰と高杉晋作に憧れて勉学に励み、東大法学部に進学すると北一輝や大川周明の社会主義的右翼思想に啓発され、美濃部達吉の「天皇機関説」を糾弾した上杉慎吉東大助教授に師事した。優等生の岸信介は東大残留を勧められたが国事を志して官界へ進み、花形官庁の内務省ではなく農商務省(→商工相)を選択した。なお、松岡洋右(満鉄総裁→外相)と鮎川義介(日産創業者・満州重工業開発社長)は岸信介の親戚で、実弟の佐藤栄作は東大法学部へ進んだが岸信介ほど優秀ではなく鉄道官僚の傍流を歩んだ。さて優秀な岸信介は順調に昇進し、1936年満州国国務院へ転出して産業部次長・総務庁次長を務め、星野直樹国務院総務長官のもと「産業開発五ヵ年計画」を策定し統制経済を主導した。岸信介は若輩ながら星野直樹・松岡洋右・鮎川義介・東條英機(関東軍参謀長)ら大物と並んで満州国の「弐キ参スケ」に数えられ、軍部・官僚・財界に広範な「満州人脈」を築き、瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫・里見甫ら怪しい人脈とも交流した。1939年「革新官僚」の旗手となった岸信介は凱旋帰国し商工次官に昇進したが、統制経済を嫌う小林一三商工相(阪急東宝グループ創業者)と対立し、軍部と平沼騏一郎が仕掛けた「企画院事件」で小林を辞任に追込むも喧嘩両成敗で商工次官辞任に追込まれた。が、「国家総動員体制」を目指す陸軍統制派と同志関係の岸信介は失脚を免れ、第二次近衛文麿内閣の入閣要請は謝辞したが東條英機内閣で商工相を拝命、「翼賛選挙」で衆議院の議席も得た。しかし1943年、戦局悪化により商工省が軍需省へ改組されると東條英機首相が軍需相を兼任、岸信介は無任所国務大臣に留まるも軍需次官に降格された。太平洋戦争で日本の敗戦が決定的となり、降格人事を恨む岸信介は木戸幸一・岡田啓介・米内光政ら重臣の東條英機内閣打倒工作に加担、閣僚辞任を拒否して内閣改造を阻み総辞職へのトリガー役を果した。