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広田弘毅内閣がワシントン・ロンドン海軍軍縮条約を廃棄し、日英米の建艦競争が復活した。ロンドン海軍軍縮条約を巡る統帥権干犯問題の後、海軍良識派(国際協調軍縮)の多くが失脚し、加藤寛治軍令部総長・末次信正軍令部次長・大角岑生陸相・南雲忠一・岡敬純・石川信吾と続く艦隊派(反英米軍拡)が東郷平八郎元帥・伏見宮博恭王の両大御所を担ぎ主導権を掌握、米内光政・山本五十六・井上成美の良識派トリオが抵抗するも挽回ならず、建艦派は軟弱な広田弘毅首相を揺さぶり軍縮条約撤廃に漕ぎ着けた。海軍は再び建艦競争へ乗出すにあたり、石川信吾中佐の「大鑑巨砲主義」を採用し予算の大半を戦艦「大和」「武蔵」の建造に注込んだ。アメリカ太平洋艦隊の船幅が狭いパナマ運河の幅員に縛られることに付込み、超大型戦艦で主砲の射程距離を伸ばし安全圏から敵艦を砲撃するという戦略であった。一方、山本五十六らは航空兵力優位を主張したが海軍航空本部は十分な予算をもらえなかった。太平洋戦争が始まると、山本五十六の航空機爆撃は真珠湾攻撃・シンガポール攻略戦で華々しい戦果を挙げ、驚いたアメリカ海軍は航空機・空母の大増産を開始したが、大和・武蔵は使い道の無いまま戦争最末期の特攻に駆出され撃沈した。良識派が海軍の主導権を握っていれば予算の多くが航空兵力へ割振られた可能性があり、この点においても艦隊派の勝利は日本の不幸であった。