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二・二六事件で退陣した岡田啓介に代わり外相の広田弘毅が組閣した。元老の西園寺公望は近衛文麿を推薦したが、陸軍皇道派・青年将校に同情的な近衛に断られ、独占してきた首相指名権を重臣会議に譲り一線を退いた。最難局の後継選びは難航したが、重臣の一木喜徳郎が広田弘毅を推し、賛同した近衛文麿が懇意の吉田茂(広田と同期の外務官僚)を送り承諾させた。右翼結社「玄洋社」に属し出自も悪い広田弘毅の組閣に昭和天皇は難色を示し「名門を崩すことのないように」と異例の訓示を与え、広田は「自分は50年早く生れ過ぎたような気がする」と漏らしたという。外務省傍流ながら野心家の吉田茂は外相を狙ったが、軍部の反対で挫折し駐英大使に回されている。前年に統制派首領の永田鉄山が斬殺され(相沢事件)二・二六事件を起した陸軍は激しく動揺したが、一夕会員ながら両派に属さない石原莞爾が主導権を握り中立派の寺内寿一(長州閥の寺内正毅の嫡子)を広田弘毅内閣の陸相に擁立、軍規粛清を掲げ二・二六事件に関与した真崎甚三郎・荒木貞夫ら七大将を予備役に追込み皇道派の将佐官を陸軍中央から一掃した。その結果、武藤章・田中新一ら「中国一撃論」の統制派が圧倒的優勢となり、予備役編入を噂された東條英機も復活し関東軍参謀長に就任した。さて、昭和天皇と重臣会議に軍部抑制を期待された広田弘毅首相だが、玄洋社右翼の本性を現し軍部の強硬外交を助長、軍部大臣現役武官制の復活・「満州開拓移民推進計画」決定と開拓移民団の派遣・日独防共協定調印・「北守南進政策」の決定・海軍軍縮条約廃棄と、1年に満たない広田弘毅内閣のもと軍国主義化と反米英路線が一気に加速した。第一次近衛文麿で外相に復帰した広田弘毅は再び強硬外交を展開、盧溝橋事件が起ると直ちに増派を決定して日中戦争へ拡大させ、トラウトマンの和解工作を蹴り「蒋介石の国民政府を対手とせず」との第一次近衛声明で日中戦争を泥沼化へ追込み、無謀な「東亜新秩序声明」で英米を敵に回す愚を犯した。