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北一輝・西田税の「国家改造論」を信奉する皇道派の相沢三郎中佐(陸士22期の剣豪)が、任地の広島県福山から鉄路上京して陸軍省軍務局長室に乗込み統制派首領の永田鉄山少将を斬殺した(没後中将へ特進)。永田鉄山は軍務局長の要職にあって陸軍中央から統制を乱す皇道派を締出す動きを主導しており、皇道派重鎮の真崎甚三郎大将の教育総監更迭問題を巡り両派の対立は沸点に達していた。教育総監更迭は林銑十郎陸相の肝煎りで永田鉄山は抑え役だったのだが、真崎甚三郎は永田を「恩知らず」と恨み陸軍人事を専断する「統帥権干犯」と糾弾し「三月事件」「陸軍士官学校事件」関与の濡れ衣を着せ攻撃、永田を犯罪者と信じ込んだ相沢三郎が暴挙に及んだ。罪の意識が無い相沢三郎は転任地の台湾へ向かおうとしたが逮捕されて軍法会議で死刑判決を受け、執行が迫ると暴れて手が付けられなくなり「真崎にそそのかされた」と恨み節を残したが、最期は従容と銃殺刑に服したという。永田鉄山斬殺事件後、真崎甚三郎・荒木貞夫を旗頭とする皇道派は「相沢に続け」とばかりに二・二六事件への策動を始めた。一方、永田鉄山を喪った統制派は求心力を失い、武藤章・田中新一・東條英機ら単純な強硬派が手柄を競うように暴走、統制派と距離を置く石原莞爾の不拡大路線を排して日中戦争を泥沼化させ、無謀な対米開戦へと突き進んだ。永田鉄山は一夕会に同志を結集して長州閥から陸軍の主導権を奪い「国家総動員体制」=軍事国家へのレールを敷いた戦前史最大のキーパーソンだが、遵法と陸軍の統制を重視し(統制派の由来)十月事件を起した橋本欣五郎の極刑を主張し、石原莞爾らの満州事変では暴走抑止に努めた。また、国家総動員は総力戦時代に伴う世界的潮流であり、第一次大戦を研究した永田鉄山はスイス流の武装中立国家を目指したともいわれる。一夕会・統制派の幹部で企画院総裁を務めた鈴木貞一は第二次大戦後「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」「永田が生きていれば東條が出てくることもなかっただろう」と無念がったというが、「陸軍の至宝」永田鉄山の早すぎる死は正に国家的損失であった。