
1408
年
3代室町将軍足利義満死去(天皇位を狙ったため暗殺されたとの説・世阿弥実行犯説もあり)、嫡子足利義持が4代将軍就任
1409
年
足利一族の勢力争いのなか足利持氏が4代鎌倉公方就任
1411
年
山内上杉家の後を継いだ上杉憲定が関東管領に就任・鎌倉公方足利持氏を補佐
1416
年
[上杉禅秀の乱]関東管領を追われた上杉憲定が関東の豪族を率いて挙兵し鎌倉公方足利持氏を駿河に追放、持氏支持の将軍足利義持は追討軍を派遣、敗れた上杉憲定は自害
1419
年
[応永の外寇]倭寇に手を焼いた李氏朝鮮が根拠地の対馬を攻撃、宗氏武士団が撃退
1423
年
足利義持が隠居し嫡子の足利義量が5代室町将軍就任
1425
年
将軍足利義量死去、将軍空位のまま前将軍足利義持が幕府を掌握
1428
年
[正長の土一揆] 近江坂本・大津の馬借から起った徳政強訴が畿内一帯に波及し初の農民一揆発生
1428
年
前将軍足利義持死去、義持の弟4人から籤引きで選ばれた天台座主義円が還俗して足利義教を名乗り6代室町将軍就任、将軍位を狙う鎌倉公方足利持氏が反抗
1435
年
将軍足利義教が反抗する比叡山延暦寺を武力制圧、24人の門徒が抗議の焼身自殺
1436
年
足利義満の寵愛により時宗念仏踊り・猿楽から幽玄能を創始した『風姿花伝』の著者世阿弥(観世氏の家祖観阿弥の子)が佐渡流刑に処される
1438
年
[永享の乱]鎌倉公方足利持氏と対立した山内上杉憲実が関東管領を辞任し領国上野国に退去、持氏は征討軍を送るが、将軍足利義教が持氏追討軍を派遣、扇谷上杉持朝も山内上杉支持で参戦し、足利持氏・義久父子と稲村公方足利満貞を自害させ鎌倉公方は一旦滅亡
1439
年
上杉憲実が足利学校を復興
1440
年
[結城合戦]結城氏朝・持朝父子が前鎌倉公方足利持氏の遺児春王丸・安王丸を担いで挙兵するが山内・扇谷両上杉氏・幕府軍に鎮圧され滅亡、論功行賞で扇谷上杉持朝は相模守護を叙任
1441
年
[嘉吉の乱]将軍足利義教が赤松義雅の所領を没収し男色相手の赤松貞村に下賜、怒った赤松満祐・教康父子が将軍足利義教を饗応に招請し殺害、幕府討伐軍により赤松一族滅亡
1442
年
前将軍足利義教の嫡子足利義勝が7代室町将軍就任
1449
年
足利義勝死去に伴い同母弟の足利義政が8代室町将軍就任
1449
年
越後・信濃守護上杉房定が足利持氏の末子成氏を担いで鎌倉公方再興、山内上杉憲忠が関東管領に就任し扇谷上杉持朝(持氏殺害の首謀者)は嫡子顕房に家督を譲って和解の意を示すが両上杉氏と足利氏の緊張関係は続く
1452
年
細川勝元が幕府管領に就任
1454
年
[享徳の乱]関東公方足利成氏が関東管領山内上杉憲忠を謀殺(家宰長尾景仲は憲忠の弟房顕を関東管領に擁立)、山内・扇谷上杉氏は反撃に出るが武蔵分倍河原で大敗し扇谷上杉顕房も戦死(遺児政真を祖父持朝と家宰の太田資清・道灌父子が後見)、勢い付く成氏は下総古河へ出征するが、将軍足利義政の成氏追討の号令に応じた駿河守護今川範忠が鎌倉を制圧、成氏は鎌倉に戻れず古河に留まり(古河公方)、諸豪は利根川を堺に両陣営に別れ30年に及ぶ関東大乱に発展
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1457
年
蝦夷地南部でコシャマインの乱勃発、花沢館主蠣崎季繁の食客で若狭武田氏を詐称する武田信広(松前氏の家祖)が鎮圧
1457
年
関東管領山内上杉房顕の要請により将軍足利義政が弟政知(天龍寺清久)を還俗させて関東に派遣、同時に関東諸豪に古河公方足利成氏討伐を号令するが足並み揃わず扇谷上杉持朝も離反、鎌倉入りを阻まれ孤立した政知は堀越公方と称される
1457
年
[長禄の変]赤松氏遺臣らが奥吉野襲撃・自天王と忠義王を殺害して後南朝を滅ぼし神璽を奪回、赤松政則は管領細川勝元から赤松家再興を許され加賀守護に就任
1459
年
室町幕府が諸関を廃し京七口に関所を設ける
1462
年
寛正の大飢饉により京畿に土一揆が広がる
1463
年
狩野派初代の狩野正信が室町幕府御用絵師として活躍
1464
年
男児のない将軍足利義政が弟の浄土寺義尋を還俗させて足利義視とし養嗣子に擁立、伊勢新九郎長氏(北条早雲)が近侍となる
1465
年
将軍足利義政と正室日野富子の間に足利義尚が出生、足利義視派との継嗣争いが発生
1466
年
[太田庄の戦い]上杉氏が武蔵五十子に築城し(五十子陣)古河公方足利成氏と対峙、将軍足利義政の号令虚しく成氏討伐軍は来援せず、関東管領山内上杉房顕が陣没、男児が無かったため上杉房定の実子顕定が養嗣子に入り後継
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1467
年
[応仁の乱]将軍家と斯波・畠山両管領家の家督争いから京都で戦争が勃発、全国諸大名が細川勝元(東軍)と山名宗全(西軍)に分れ11年に及ぶ全国規模の内乱に発展
1470
年
[京極騒乱]応仁の乱の渦中に京極家当主持清が死去、嫡孫の孫童子丸が後を継ぐが翌年夭逝、政経と高清の間で30年に及ぶ熾烈な家督争いが勃発(京極政経は出雲へ隠遁、勝利した京極高清・六角高頼による南北近江分割統治で決着)
1473
年
山名宗全・細川勝元が相次いで死去、足利義政は隠居して小河新邸に移り足利義尚が9代室町将軍就任、義尚の生母日野富子が幕府実権を掌握
1473
年
[五十子の戦い]古河公方足利成氏が長躯遠征して相模の堀越公方足利政知を襲撃、太田道灌率いる上杉軍は撃退し武蔵五十子陣まで押し返すが、扇谷上杉政真が戦死し(後継は叔父定正)山内上杉家家宰長尾景信も陣没(山内上杉は景信の弟忠景を後継としたため嫡子景春の謀反を招く)
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1474
年
西軍大将の山名政豊(宗全の後嗣)が細川政元の東軍に投降、西軍の畠山義就・大内政弘らが継戦
1474
年
加賀国で一向一揆が勃発
1476
年
駿河守護今川義忠が遠江の土豪一揆平定戦で落命、扇谷上杉定正の家宰太田道灌が大軍を率いて乗込み小鹿範満(義忠の従兄弟で母は犬懸上杉政憲氏)の今川家相続を強迫するが、伊勢新九郎長氏(北条早雲)が室町幕府の権威を背景に調停、当主には龍王丸(今川氏親・義忠と早雲の妹北川殿の子)を立て成人まで範満が後見することで決着
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1476
年
[長尾景春の乱]太田道灌・扇谷上杉軍の駿河出張の隙を衝き、叔父長尾忠景に山内上杉家家宰をさらわれた景信の嫡子長尾景春が古河公方足利成氏に寝返り武蔵鉢形城で挙兵、関東管領山内上杉顕定を上野国に敗走させ反上杉勢の蜂起が広がるが、帰還した太田道灌が東奔西走の活躍で豊島氏・千葉氏ら抵抗勢力を討平(弟の太田資忠は房総臼井城攻めで戦死)
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1477
年
大内政弘ら西軍諸大名の撤収により応仁の乱終息、足利義視は美濃に退去するが、畠山義就・政長は戦闘を継続
1482
年
前将軍足利義政が古河公方足利成氏と和解
1483
年
前将軍足利善政が東山慈照寺に銀閣を建設
1483
年
[都鄙合体・享徳の乱終息]太田道灌の活躍により古河公方足利成氏・長尾景春が降伏し30年に及んだ関東大乱が終息するが、道灌率いる扇谷上杉氏の権勢が関東管領山内上杉顕定を凌駕し両上杉家の対立抗争が勃発、主君の扇谷上杉定正にも警戒された道灌は『太田道灌状』で「山内家が武蔵・上野両国を支配できるのは、私の功である」と憤慨
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1485
年
細川政元の後援により山城の国人が結束し山城国一揆が勃発、畠山義就・政長の両派を国外に追放
1486
年
扇谷上杉定正が権臣太田道灌を相模糟屋館に招き騙し討ちで殺害(享年55)(北条早雲の謀略説あり)、柱石を失った関東諸豪は再び動揺し山内・扇谷の両陣営に分れ再び争乱に突入(長享の乱)(共倒れの途を辿った両上杉家は道灌末期の「当家滅亡」の叫びどおり60年後に北条氏康に滅ぼされる)
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1487
年
今川氏親が成人し正式に駿河守護を承継(家督を争った小鹿範満は暗殺された疑いが濃厚)、叔父の伊勢新九郎長氏(北条早雲)は富士郡下方庄十二郷の所領と伊豆国境の興国寺城を与えられ60歳にして一城の主となる
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1488
年
[加賀一向一揆]一向一揆が守護富樫政親を討って加賀一国を制圧、加賀は90余年に渡り「百姓の持ちたる国」となる
1489
年
将軍足利義尚が近江で陣没、翌年足利義視の子足利義材(義稙)が10代室町将軍に就任
1493
年
堀越公方足利政知が死去(虐待した嫡子茶々丸に妻子と共に殺害されたとの説あり)、扇谷・山内上杉家の上野合戦で守衛が手薄となった堀越御所を今川家被官北条早雲が急襲し政知の後継者足利茶々丸を追放、善政を敷き伊豆全域を平定(東国戦国時代・下克上の起り)
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1494
年
[明応の政変]管領細川政元が足利義材(義稙)を追放し足利義澄を11代室町将軍に擁立、義稙は越前朝倉軍に捕えられ幽閉されるが、脱出して越中に逃れ将軍在任を宣言し上洛軍を挙兵(越中公方)、義稙についた朝倉氏が一向一揆などの反抗勢力を掃討
1495
年
扇谷上杉家の重臣で小田原城主の大森氏頼が死去、北条早雲は後継の大森藤頼に取り入って安心させ、武蔵の合戦で扇谷上杉定正が落馬死した機を衝き、巻き狩りと偽って小田原城を急襲し奪取、扇谷上杉家に取り入って報復を防ぎつつ関東制覇を睨む
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1499
年
浄土真宗本願寺教団の事実上の開祖蓮如が死去
1499
年
越前朝倉氏の参軍を得られぬまま足利義材(義稙)が挙兵上洛を強行、比叡山延暦寺・根来寺・高野山金剛峰寺と連携して近江へ進軍するが六角高頼に敗北、逃れた河内で管領細川政元に敗れ、大内義興を頼り周防山口へ落ち延びる
1500
年
追放された前出雲守護代尼子清定の嫡子尼子経久が山中勝重(鹿介の先祖)・鉢屋(賤視された遊芸民)を従え元旦の千秋万歳と偽り潜入する奇計を用いて月山冨田城を攻略、塩冶掃部介を討取って出雲守護代職を奪還し出雲国を制圧、石見・伯耆・安芸・備後へ侵出し西の大内義興・東の山名氏と対峙
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1506
年
[九頭竜川の戦い]本願寺が反朝倉の管領細川政元と結び加賀・越中の一向一揆が越前に侵入、朝倉宗滴は圧倒的寡勢で越前九頭竜川の決戦に勝利(1万対30万とも)、吉崎道場を破却し一揆勢を加賀へ撃退
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1507
年
[永正の錯乱]管領細川政元が家臣の香西元長・竹田孫七・薬師寺長忠に暗殺される
1508
年
山陽の盟主大内義興が挙兵上洛し足利義尹(義稙)が将軍に復帰、義興不在に乗じた尼子経久が石見・伯耆・安芸・備後へ勢力伸張
1516
年
[西の桶狭間・有田中井手の戦い]安芸吉田の国人(小領主)で郡山城主の毛利興元が急死し幼少の幸松丸が家督相続、安芸守護の武田元繁が「室町将軍の上意」を口実に毛利氏・吉川氏の領地に侵攻、興元の弟毛利元就が寡兵で撃退し武田元繁は討死
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1516
年
大内義興が室町幕府から日明貿易の恒久的管掌権限を獲得
1519
年
美濃守護土岐政房の死に伴い家督争いが激化、嫡子土岐政頼を擁する越前守護朝倉孝景は弟の朝倉景高を総大将に軍勢を派遣、土岐頼芸(政頼の弟)・長井長弘の敵対勢力を掃討し政頼に家督を継がせる
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1521
年
大内義興の上洛軍が山口に帰国、細川高国は足利義尹(義稙)を追放し足利義澄の子足利義晴を12代室町将軍に擁立
1523
年
[寧波の乱]明の貿易港寧波で細川高国と大内義興の使者が争う
1525
年
美濃内乱に介入した浅井亮政を牽制するため朝倉宗滴が近江小谷城に出征、金吾嶽を築いて在陣し六角定頼との関係修復に奔走、感謝した浅井氏は朝倉氏に忠誠を誓う、同時に朝倉景職軍を美濃稲葉山城へ派遣し土岐政頼を支援
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1526
年
薩摩・大隅守護の島津忠兼が家臣島津実久の専横を抑えるため伊作島津家の忠良(日新斎)の子島津貴久に15代島津宗家を継がせる
1529
年
山陽・九州北部の盟主大内義興が死去、嫡子の大内義隆が家督相続
1530
年
西村勘九郎(斎藤道三)が仕官の恩人長井長弘夫婦を謀殺、美濃稲葉山城と家名を押領し長井新九郎利政(後に秀竜)へ改名、近江守護佐々木義秀の後援も得て土岐頼芸を担いで美濃一国の実権を掌握
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1532
年
町衆を中心とする日蓮宗門徒が京都の自治権を掌握し山科本願寺焼打ちなどで他宗派を排斥
1532
年
本願寺蓮如の子の勢力争いに起因して加賀一向一揆で内紛が発生(享禄の錯乱)、機に乗じた朝倉宗滴は能登畠山氏と提携して出征、手取川付近まで侵攻するが畠山勢壊滅により本願寺と停戦和睦
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1534
年
銀山城主武田光和が重臣熊谷信直との対陣中に急死し安芸守護武田氏は空中分解で断絶、熊谷・宍戸・山内・天野氏等を従え安芸国人の盟主となった毛利元就が独立を期して尼子方から大内方へ鞍替え、備後攻略に着手
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1536
年
陸奥国の戦国大名伊達稙宗が分国法「塵芥集」を制定
1536
年
[花倉の乱]駿河・遠江守護今川氏輝(氏親嫡子)が後嗣無く死去、氏親次男彦五郎も同時に死亡し(謀殺説あり)、同母弟の今川義元が母寿桂尼と謀臣太原雪斎の後押しで家督相続、異母兄の玄広恵探を推す福島越前守ら国人衆が遠江各地で挙兵するが、北条氏綱の援軍で優勢となった義元方が花倉城を落とし恵探を自害させる
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1536
年
[天文法華の乱]延暦寺の僧兵約6万人が京都に押し寄せ日蓮宗寺院二十一本山を焼払い門徒を虐殺
1537
年
[甲駿同盟・駿相同盟破綻)駿河・遠江守護今川義元が抗争状態にあった甲斐守護武田信虎の娘定恵院を正室に迎え甲駿同盟成立、怒った北条氏綱は今川氏親・北条早雲以来の駿相同盟を解消して東駿河に攻込み河東地域を奪取
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1537
年
尼子経久と大内氏との石見銀山争奪戦開始、尼子経久は家督を孫の尼子晴久に譲り隠居
1537
年
豊臣秀吉が尾張国中村の下層民(焙烙売り・賤民とも)の家に出生(父は織田家の足軽から帰農した木下弥右衛門とも伝わるが不詳、母なかは徳川家康の人質に出した大政所、弟秀長は優秀な副将、姉日秀の子は豊臣秀次、妹あさひは徳川家康に入輿)、20歳前後で織田信長に仕えるまでの事跡は不明(家出して悲惨な放浪生活を送り、武家奉公の最初は今川家臣松下之綱だったとされる)
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1538
年
[第一次国府台合戦]鎌倉から武蔵江戸城まで制圧した北条氏綱に対し、小弓公方足利義明が里見義堯・真里谷信応を誘って下総国府台城で挙兵、家柄と武勇を過信し江戸川渡河中の攻撃策を捨てた義明が嫡子義純・弟基頼もろとも討死、戦線離脱し兵力を温存した安房里見氏が漁夫の利を得て久留里城・大多喜城を落とし房総半島の大半を掌握
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1539
年
島津忠良・貴久父子が貴久実久を追い落とし薩摩・大隅守護の権威を回復
1541
年
[吉田郡山城の戦い]毛利元就に安芸・備後の領地を切取られた尼子晴久が武田光和の遺児武田信実を担ぎ反攻、大軍で吉田郡山城を攻囲するが毛利元就の計略(次男の猛将吉川元春初陣)と大内家陶隆房(晴賢)の援軍により撃退され尼子久幸(経久の弟)も戦死、武田信実は出雲に逃亡し安芸守護武田氏滅亡、元就は反抗勢力を皆殺にして安芸を制圧
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1541
年
美濃国を専断する斎藤秀竜(斎藤道三)に対し土岐頼満(頼芸の弟)・頼次(頼芸の嫡子)らが挙兵、秀竜支持の土岐頼芸は尾張の織田信秀・近江の六角定頼・越前の朝倉孝景に仲裁を依頼し内乱収束、秀竜は引責剃髪し斎藤道三と号す
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1542
年
斎藤道三が反抗勢力の首領土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺、これにより対立した傀儡の美濃守護土岐頼芸の大桑城を急襲、土岐頼芸・頼次父子は織田信秀を頼って尾張に亡命し斎藤道三が名実共に美濃一国を平定、土岐頼芸の落胤と考えられていた嫡子斎藤義龍を後継指名して反抗を鎮める
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1542
年
武田信虎の諏訪氏懐柔路線を放棄した武田晴信(信玄)が諏訪氏の家督を狙う高遠頼継と提携し妹婿の諏訪頼重を討滅、領土分割案に不満で反旗を挙げた高遠頼継も一蹴、頼重の嫡子寅王丸を擁して諏訪領を掌握したうえ頼重の娘「かくれなき美人」諏訪御料人(武田勝頼生母)を側室とする
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1542
年
徳川家康(竹千代)が西三河の土豪松平広忠の嫡子として出生(家祖の松平親氏は三河松平郷の庄屋家に婿入りした遊芸僧の徳阿弥、家康の祖父松平清康の代に西三河を制圧したが、清康急死で零落し織田信秀に圧迫された広忠は今川義元に臣従)
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1543
年
一代で越後国を掌握した長尾為景が死去、弱腰の嫡子長尾晴景(守護上杉定実の猶子)を侮り上田長尾家・上杉定憲・揚北衆らの守護派が巻返すが、13歳で元服した弟長尾景虎(上杉謙信)が栃尾城の戦いで初陣を飾り連戦連勝で反乱軍を撃破
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1543
年
[月山富田城の戦い]大内義隆率いる大軍(毛利元就も従軍)が出雲に反攻し尼子晴久の月山富田城に攻込むが吉川興経らの寝返りと補給難により退陣、兵力十分ながら下手な退却戦指揮により被害甚大(備後竹原高山城主小早川正平も戦死)、尼子方が勢いを盛返し大内方から石見銀山も奪還
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1543
年
[鉄砲伝来]倭寇の頭目「王直」の明船がポルトガル人を乗せて種子島に来航、領主の種子島恵時・時尭父子に鉄砲を伝える
1544
年
土岐政頼と土岐頼芸が打倒斎藤道三で和解・連携し越前朝倉孝景・尾張織田信秀の加勢を得て南北から美濃国に侵攻、斎藤道三は防衛に成功し政頼を革手城に・頼芸を揖斐北方城に迎え入れる条件で停戦合意
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1544
年
尼子晴久勢が月山富田城の戦いで戦死した小早川正平の備後竹原高山城に侵攻するが毛利元就出陣により撤退、正平の嫡子又鶴丸が盲目のため毛利元就が三男又四郎を婿養子に送込む(元服後に又鶴丸一派を粛清して家督を継ぎ小早川隆景を名乗る)
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1545
年
[河東一乱]駿河・遠江守護今川義元が関東管領山内上杉憲政や扇谷上杉朝定(朝興後嗣)と連携し富士川を越えて東駿河へ侵攻、北条綱成の武蔵河越城も攻囲され北条氏康は挟撃の危地に陥るが、武田晴信(信玄)の斡旋で河東地域割譲を条件に今川と和睦し河越城救援に向かう
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1546
年
[河越夜戦(日本三大奇襲)]北条氏康と関東管領上杉憲政・上杉朝定・古河公方足利晴氏(妹婿)の連合軍が武蔵河越で決戦、圧倒的寡勢の北条軍は「地黄八幡」北条綱成の奇襲で完勝し、朝定敗死で扇谷上杉氏は滅亡・上野平井城に落延びた憲政の山内上杉家も没落・晴氏は幽閉され傀儡の次男義氏(氏康娘婿)を古河公方に擁立、祖父早雲以来の悲願である打倒上杉氏を果した北条氏康は関東制覇を睨み越後長尾(上杉謙信)・常陸佐竹・安房里見と対峙
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1546
年
舎利寺の戦いで管領細川晴元に敗れた足利義晴が隠居し嫡子の足利義輝が13代室町将軍に就任
1547
年
三河岡崎城主松平広忠が6歳の嫡子竹千代(徳川家康)を今川義元へ人質に送るが、駿府へ護送中に家臣戸田康光が裏切り織田信秀に売却、信秀は臣従を強要するが広忠は拒絶、竹千代は危うくも生かされ2年間を尾張で過ごす(織田信長と会った可能性が高い)
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1547
年
寝返りの常習者吉川興経が毛利元就の仲介で大内義隆に帰順するが家臣団の反抗で強制隠居、毛利元就は次男を養嗣子に入れ新当主吉川元春を擁立(3年後に興経と一族を殺害)、毛利氏は養子戦略(毛利の両川体制)により安芸一国を制圧
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1548
年
[上田原の戦い・塩尻峠の戦い]信濃の覇権を賭けて武田晴信(信玄)が葛尾城の村上義清に決戦を挑むが宿老板垣信方・甘利虎泰の戦死を含む大損害を出し侵攻停止、村上義清に呼応した小笠原長時が諏訪に攻寄せるが再起不能の大敗を喫し深志(松本)林城に逃げ戻る
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1548
年
連戦連勝の長尾景虎(上杉謙信・長尾為景の子)が家臣・国人衆に推戴され家督と越後守護代を承継(兄長尾晴景は隠居)、2年後に傀儡守護の上杉定実が後嗣無く死去し室町将軍足利義輝から越後国主の承認を受け、翌年坂戸城の戦いで上田長尾家政景を降して22歳で越後国統一を達成
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1549
年
[キリスト教伝来]イエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸
1549
年
今川義元と織田信秀の合戦で松平家・岡崎衆は今川方先鋒として三河安祥城を攻略し城主の織田信広(信長の庶兄)を確保、太原雪斎の献策により竹千代(徳川家康)と織田信広の人質交換、竹千代は駿府に移され当主を人質にとられた松平家は今川の属国となり、家臣は虐待され合戦ごとに最前線の危地に送られる
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1549
年
三好長慶が家臣松永久秀の策謀により主君の管領細川晴元と将軍足利義輝を京都から追放し室町幕府の実権を掌握
1551
年
一代で尾張国の旗頭に成り上がった織田信秀が死去、うつけの悪評が高い嫡子織田信長が家督相続、主筋の清洲城主織田信友が反逆し柴田勝家・林秀貞ら宿老も織田信行(信長の同母弟)擁立を企て尾張は内戦状態となる
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1551
年
信濃中部まで制圧した武田晴信(信玄)が北信濃に再侵攻、大苦戦に陥るも真田幸隆が謀略で戸石城を攻略、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)に亡命、武田氏は甲斐・信濃二国を制圧
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1551
年
[大寧寺の変]中国・九州北部の支配者大内義隆が重臣陶隆房(晴賢)の謀反により自害、養子の大内義長(大友宗麟の弟で大内義隆の甥)が大内家を継ぐが実権は陶が掌握、毛利元就は陶に属して安芸・備後を転戦
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1554
年
[甲相駿三国同盟(善徳寺の会盟)]武田晴信(信玄)・北条氏康・今川義元が相互に婚姻を結び同盟、三強連携体制で武田は信濃・北条は関東・今川は尾張の攻略に専念
1555
年
織田信長に内通した尾張守護斯波義統を清洲城主織田信友が殺害、嫡子斯波義銀を保護した信長は叔父の守山城主織田信光と協力して主筋の信友を討ち(織田大和守家滅亡)清洲城と守護所を奪取
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1555
年
朝倉宗滴が越後の長尾景虎(上杉謙信)に呼応して加賀一向一揆討伐に出陣、1日で南郷・津葉・千足の3城を落とし大聖寺を攻囲するが、陣中で病に倒れ一乗谷で死去(享年79)、柱石を喪った朝倉氏は凡庸な義景の下で一族や家臣の内紛が頻発し弱体化、一向一揆の反攻に晒され、18年後宗滴が大器を見抜いた織田信長に滅ぼされる
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1555
年
[厳島の戦い(日本三大奇襲)]毛利元就が謀略により大内家の大軍を厳島に誘い込んで山上から急襲、大内軍潰走のなか逃げ遅れた陶晴賢は厳島青海苔浦で自害、毛利元就・吉川元春・小早川隆景の中国制覇が始まる
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1556
年
[長良川の戦い]廃嫡の陰謀に気付いた斎藤義龍(実は土岐頼芸の落胤とされる)が弟の竜重・竜定を斬殺したうえ父斎藤道三を討って(享年63)美濃国主を承継、道三から美濃の国譲り状を得た娘婿織田信長は救援軍を出すが間に合わず
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1557
年
[防長経略]毛利元就が大内義長(大友宗麟の弟で大内義隆の甥)を滅ぼし大内領の防長二州を獲得(毛利家は義長の助命を申し送ったが身内への猜疑心が強い大友宗麟はむしろ処刑を要求)、豊前国・筑前国の遺領を巡り大友義鎮(宗麟)と対峙、大友は毛利についた筑前古処山城主秋月文種を誅殺
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1558
年
将軍足利義輝が三好長慶とその家臣松永久秀に降り京都に帰還、各地の戦国大名と連携し将軍親政を推進
1559
年
織田信長、長尾景虎(上杉謙信)が相次いで上洛し将軍足利義輝に拝謁
1559
年
毛利元就と対峙する大友義鎮(宗麟)が室町将軍足利義輝への多額の献金により豊前・筑前守護と九州探題の官職を獲得
1560
年
[桶狭間の戦い(日本三大奇襲)]松平元康(徳川家康)の三河を属国とし武田・今川との同盟で背後を固めた駿河・遠江守護今川義元(足利将軍の一族で百万石の太守)が4万の軍勢で尾張に侵攻、20万石・兵力3千人の織田信長は籠城策を捨てて奇襲を敢行し田楽狭間で休息中の今川義元を殺害(享年42)、織田信長は天下に志を抱き、無能な嫡子今川氏真が承継した駿河国は武田・徳川・北条の好餌となる
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1560
年
桶狭間敗戦を受け松平元康(徳川家康)が尾張の前線から岡崎に帰還、岡崎城と三河領を常駐管理していた今川家臣が逃げ帰り祖父松平清康以来悲願の完全独立を達成、織田方諸城を攻め潰して三河国を制圧し尾張へ侵攻、今川家に打倒織田信長を促すも煮え切らない新当主今川氏真(義元の嫡子)に愛想を尽かし、義元の元を捨てて家康に改名
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1560
年
土佐岡豊城主長宗我部国親が死去し嫡子長宗我部元親が家督相続
1561
年
[小田原城の戦い]今川義元討死で甲相駿三国同盟が弱った隙を衝き長尾政虎(上杉謙信)が北条氏康討伐を号令、関東の諸城を攻め潰し10万の大軍で小田原城を攻囲するが固い籠城と武田晴信(信玄)の後方撹乱により上野国に守将を残して撤退、鎌倉鶴岡八幡宮にて上杉憲政から山内上杉家の家督と関東管領職を継ぎ上杉政虎を名乗る
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1561
年
織田信長家臣の木下藤吉郎(豊臣秀吉)が家中の浅野長勝(姉の子浅野長政が家督相続)の養女で杉原定利(嫡子木下家定、その五男が小早川秀秋)の実娘ねね(北政所)と結婚(ねねの母方木下家への婿入り説が有力)
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1561
年
武田信玄と北条氏康の侵攻を防いだ上杉方・箕輪城主の長野業正が死去(後継は嫡子長野業盛)、武田・北条は上野国を猛攻するが、上杉輝虎(謙信)は自ら乗込んで撃退、佐野昌綱・成田長泰・結城晴朝らを破り武蔵・下総・常陸・下野に攻め返すも謙信帰国の度に反抗勢力が盛返す堂々巡り
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1562
年
[清洲同盟]三河岡崎城主の松平家康(徳川家康)が今川氏真を見限り織田信長の誘いに応じて攻守同盟締結、元康は三河の今川方諸城を攻め取り、東方の安全を確保した信長は清洲から小牧山に本城を移し美濃攻略に専念
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1564
年
[第二次国府台合戦]北条氏康が江戸川を越えて里見義堯・義弘率いる上杉派房総連合軍を攻撃、緒戦は家臣の勇み足で落としたが北条綱成の奇襲反撃により敵将正木信茂を討取る快勝、上総国を制圧し里見氏を安房に追い詰めるが上杉謙信対策に手間取り戦線膠着
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1564
年
[三河一向一揆]岡崎上宮寺での米穀徴発に端を発し一向一揆が発生、松平家康(徳川家康)の弾圧策が火に油を注ぎ旧三河守護の吉良氏ら土豪にくわえ松平家臣の多くが武装蜂起、窮地の家康は屈辱的条件で和睦するが、約を違えて一向宗寺院を悉く破却(首謀者の本多正信は松永久秀に一時身を寄せ加賀一向一揆に加わり、流浪の末に帰参を赦され家康の軍師となる)、反撃の好機を座視した今川氏真は逆に東三河の拠点吉田城を奪われ、松平家康が三河一国を制圧
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1564
年
謀臣松永久秀と共に室町幕府の実権を掌握した三好長慶が死去、三好政権は内部分裂により弱体化
1564
年
竹中半兵衛重治が手勢14人で稲葉山城を占拠、織田信長からの開城要請を断り斎藤龍興に返還
1565
年
[永禄の変]三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と三好家家宰の松永久秀が二条御所を襲撃、塚原卜伝から秘伝「一つの太刀」の印可を受けた剣豪の将軍足利義輝は刀を換えつつ奮戦するが力尽きる
1566
年
織田信長が美濃稲葉山城を攻撃(木下藤吉郎(豊臣秀吉)による墨俣一夜城伝説あり)、城主斎藤龍興は凡庸ながら猛反撃に遭って力攻めを断念、稲葉一鉄・安藤守就・氏家卜全の美濃三人衆や竹中半兵衛重治を懐柔して斎藤龍興を孤立させ攻略に成功(近江に逃亡した斎藤龍興は、三好三人衆、最後は越前朝倉義景の反信長軍で転戦するが1573年に戦死)
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1566
年
局地戦は無敵ながら安定基盤を築けない上杉輝虎(謙信)の権威が低下し関東諸豪に守将の北条高広まで離反、最後の拠点上野箕輪城を武田信玄に攻略され長野業盛は自刃、上野・武蔵・常陸・下野・下総を転戦し挽回を図るも輝虎の関東侵出は挫折、代わりに北条氏康が関東諸豪を切崩して勢力を回復
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1566
年
[第二次月山富田城の戦い]毛利元就が5年に及ぶ月山富田城攻囲戦を征し尼子義久が降伏開城(尼子義久・倫久・秀久兄弟は助命され子孫は毛利家家臣として存続、山中鹿介幸盛は上京し諸国を巡歴)、毛利氏は中国地方8ヶ国を制覇
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1566
年
松平家康が改姓し徳川家康を名乗る(松平氏は三河賀茂明神の氏子で賀茂姓を称したが、家祖徳阿弥の出生地が上野国新田郡世良田村徳川で新田源氏の末裔を僭称したことに因み、三河一国の太守に相応しい源姓・名字徳川に改めたと考えられる)
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1566
年
島津貴久が隠居し嫡子島津義久が16代島津宗家を承継、義久・義弘・歳久・家久の島津4兄弟による九州統一への挑戦が始まる
1567
年
北近江小谷城主の浅井長政が越前朝倉氏に背かないことを条件に上洛を望む織田信長と同盟、信長の妹で「近国無双の美人」市は浅井長政に入輿し茶々(豊臣秀吉側室で嗣子秀頼の生母淀殿)・初(京極高次正室)・江(徳川秀忠正室)を出産する
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1567
年
[三船山合戦]北条氏政(氏康嫡子)が安房に攻め入り里見義堯・義弘に決戦を挑むが水陸両戦でまさかの大敗、房総情勢は里見氏優位に転換(その後一時降伏(房相一和)するも反北条を貫く)
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1567
年
浦上宗景家臣の宇喜多直家が舅の中山信正・龍口城主?所元常・備中松山城主三村家親と政敵を次々に謀殺し備前の実権を掌握
1568
年
将軍足利義輝を殺害した三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀が義輝の従弟足利義栄を14代室町将軍に擁立するが、松永久秀の叛逆により対立抗争が発生し将軍足利義栄は入京できぬまま半年後に病死
1568
年
足利義輝の弟一乗院覚慶が松永久秀の探索を逃れ(弟の周暠は捕縛死)還俗して越前朝倉義景に亡命、家臣の明智光秀・細川藤孝の勧めで織田信長に鞍替えすると、織田信長は5万余の上洛軍を挙げ南近江の六角義賢と畿内の三好三人衆を一掃し(松永久秀は投降)入洛して15代室町将軍足利義昭を擁立、織田信長は関所撤廃と楽市楽座により寺社特権を奪い、松永久秀が下したキリスト教宣教師追放令も撤廃
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1568
年
長宗我部元親が宿敵本山茂辰を撃破し土佐中部を平定
1568
年
[甲相同盟破綻と越相同盟]武田信玄が徳川家康と今川領の東西分割を約し駿河侵攻開始、難なく駿府城を落として今川氏真を遠江掛川城へ追い払うが、甲相同盟を解消した北条氏康の侵攻により甲府へ撤退、北条氏康は宿敵上杉輝虎(謙信)に上野国支配と関東管領職を認めて越相同盟を結び元盟友武田信玄を圧迫(今川と北条に塩の移出を止められ難渋する武田信玄に上杉謙信が越後の塩商人を派遣した「敵に塩を送る」逸話はこのときの出来事)
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1569
年
織田信長の岐阜城帰還を衝いて三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が京都の将軍足利義昭館を襲撃、これを一蹴した織田信長は豪壮な二条御所を造営して将軍の武威を示し、衰微した皇室の経営再建に尽力し、武装中立で抵抗を続けた貿易都市堺の自治権を剥奪して外国貿易と鉄砲・煙硝の供給ルートを掌握
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1569
年
織田信長の滝川一益軍団が伊勢に侵攻、三男信孝を神戸氏・弟信包を長野氏の当主に据え、伊勢国司(飛騨姉小路・土佐一条と並ぶ三国司)北畠具教の大河内城を攻囲・恭順させて次男信雄を養嗣子に据え名門北畠家と伊勢国を奪取(北畠具教は塚原卜伝から秘伝「一つの太刀」の印可を受けた剣豪であったが、1576年三瀬の変で一族と共に殺戮された)
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1569
年
武田信玄と今川領の東西分割を約した徳川家康が遠江へ侵攻、掛川城落城により駿河守護今川家滅亡(今川氏真は妻早川殿の実家後北条氏に亡命後、徳川家康の庇護下に入り家名存続)、遠江一国を制圧した徳川家康は三河岡崎城から遠江浜松城に居城を移し大井川を隔てて武田信玄と対峙
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1569
年
[三増峠の戦い]武田信玄が上杉輝虎(謙信)と和睦し安房里見・常陸佐竹と同盟したうえで駿河侵攻を阻む北条氏康の小田原城を攻囲、北条軍を相模国境三増峠で撃破し駿河一国の制圧に成功、常陸の北条方小田氏治が佐竹氏に大敗降伏し北条氏康の関東制覇の野望が費える
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1569
年
秋月種実・高橋鑑種を味方に付け肥前の龍造寺隆信とも連携した毛利元就が豊前・筑前を再攻、吉川元春・小早川隆景の奮闘で拠点立花山城を征すが、山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)・大内輝弘の乱(周防)に後方を脅かされ北九州を放棄して撤退、大友宗麟は忠臣の戸次鑑連(立花道雪、立花宗茂の養父)・高橋鎮種(紹運、立花宗茂の実父)を守将に据え豊前・筑前支配を確立
1569
年
[尼子再興(第一回)]山中鹿介幸盛ら尼子残党が京都東福寺にいた尼子勝久(新宮党国久の孫)を還俗させて主君に担ぎ大友宗麟・山名祐豊の支援を得て挙兵、隠岐から本土に渡って兵を募り、北九州攻めで手薄な毛利勢の虚を衝いて出雲・石見・伯耆を席巻し月山富田城に迫るが、大友宗麟と和睦した毛利氏の大軍が来襲、戦争中に毛利元就は死去するが、児玉就英の毛利水軍に制海権を奪われ最後の拠点新山城も落城、鹿介は吉川元春に捕捉されるが臣従を偽って助命され伯耆尾高城から脱走
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1570
年
六角義賢が柴田勝家・佐久間信盛が守る南近江の長光寺城を攻めるが敗退(瓶割り柴田)、近江源氏佐々木氏の名門六角家は没落
1570
年
[姉川の戦い]織田信長・徳川家康連合軍が近江姉川河原(長浜市)で浅井長政・朝倉義景連合軍と激突、浅井軍の猛攻で織田陣は13段のうち11段まで突破され信長の本陣も危うかったが朝倉軍を破った徳川勢の奮闘で辛勝、合戦後も戦力を残した浅井・朝倉は比叡山延暦寺・本願寺顕如・武田信玄等と提携し信長包囲網を形成、信長は比叡山焼き討ちや磯野員昌ら浅井・朝倉家臣の離間工作で応戦
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1570
年
[石山合戦・信長包囲網(第一次)]織田信長の石山本願寺明け渡し要求を拒んだ顕如が挙兵し11年に及ぶ石山合戦が勃発、呼応して起った伊勢一向一揆で信長の弟織田信興が戦死、浅井・朝倉・本願寺・延暦寺の攻囲に晒された織田信長は将軍足利義昭の仲介で正親町天皇の勅命を得て和睦に漕ぎ着け窮地を凌ぐ
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1570
年
島津義久が薩摩国の内戦を平定
1571
年
武田信玄が遠江・三河の徳川家康領に侵攻、室町将軍足利義昭の使者が来訪し織田信長討伐を懇請
1572
年
[三方ヶ原の戦い]上杉氏・後北条氏との和睦で後方の安全を確保し将軍足利義昭・浅井長政・朝倉義景・本願寺顕如・松永久秀らと提携した武田信玄が織田信長討伐軍を率いて京都へ進発、道中の遠江浜松北方で戦を仕掛けてきた徳川軍を一蹴、武田軍は追撃せず浜松城に逃れた徳川家康は九死に一生を得る
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1572
年
[九州の桶狭間・木崎原の戦い]日向国主伊東義祐の軍勢が薩摩に侵攻、島津義久の弟で飯野城主の島津義弘が少数の手勢で撃退
1573
年
[室町幕府滅亡]武田信玄挙兵に奮起した将軍足利義昭が洛中で織田信長討伐軍を挙兵するが宇治槇島城を大軍に包囲され降伏、義昭を見限った明智光秀・細川藤孝・荒木村重ら家臣は信長に奔り、半年後に追放され室町幕府滅亡(羽柴秀吉の献言で助命されるが毛利領の備後鞆に亡命し反信長策動を続ける)
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1573
年
三河野田城を落とし織田信長との決戦を目前に病に倒れた武田信玄が山県昌景に「明日は瀬田に旗を立てよ」と言い残して信濃下伊奈で陣没(享年53)、武田軍は継戦不能で撤退し、側室諏訪御料人の子武田勝頼が甲斐・信濃・駿河3国と上野・遠江・三河に及ぶ領国と甲斐武田家を相続
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1573
年
武田信玄の急死により信長包囲網(第二次)が瓦解、織田信長は越前一乗谷城の朝倉義景・北近江小谷城の浅井長政を攻め滅ぼし近江・越前を征服、信長の妹市は夫浅井長政に殉じるが現地指揮官の羽柴秀吉(豊臣秀吉)が茶々(豊臣秀吉側室で嗣子秀頼の生母)・初(京極高次正室)・江(徳川秀忠正室)の三姉妹を救出
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1573
年
[尼子再興(第二回)]伯耆尾高城を脱走した山中鹿介幸盛が諸浪人を集めて尼子再興軍を再結成、海賊働きで因幡に割拠し、山名豊国に加勢して鳥取城の逆臣武田高信を討って東因幡を制圧するが、豊国が毛利方に寝返り(この後も寝返りを繰返した豊国は家臣に追放される)、但馬の山名祐豊も毛利と和睦(芸但和睦)、鹿介は若桜鬼ヶ城に籠って吉川元春・小早川隆景の猛攻を凌ぐが挽回ならず撤退、尼子再興軍は織田信長に臣従し明智光秀軍に加わる
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1573
年
織田信長の家臣木下藤吉郎(豊臣秀吉)が家中の長臣柴田勝家と丹羽長秀の字をもらい羽柴秀吉へ改姓、浅井長政討滅の大功により浅井家遺領全部20数万石を与えられ近江長浜城(今浜・小谷城から改名)に拠って織田家中屈指の将領となる(この先頃に軍師竹中半兵衛重治が秀吉の与力となる)
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1573
年
島津義久が大隅国の内戦を平定
1574
年
[長島一向一揆平定]織田信長の滝川一益軍団が長島一向一揆(盟主は本願寺顕如)を猛攻、信長の庶兄織田信広と弟の織田秀成も戦死する激戦となるが、九鬼嘉隆の織田水軍による海上封鎖・兵糧攻めで優位に立ち門徒2万人を全滅に追込む
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1574
年
織田信長が上杉謙信に贈物攻勢、狩野永徳の傑作『洛中洛外図』を贈呈
1575
年
[長篠の戦い]徳川領を狙う武田勝頼の軍勢が奥平貞昌の長篠城を攻囲、織田信長は武田軍を恐れつつも徳川家康の強迫により大軍を率いて出陣、野戦を挑んだ武田軍は馬防柵と鉄砲の三段撃ちで撃破され山県昌景・馬場信春・原昌胤・真田信綱など存命の武田二十四将13人のうち7名が戦死する大敗を喫す
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1575
年
[四万十川の戦い]長宗我部元親が土佐国司(飛騨姉小路・伊勢北畠と並ぶ三国司)の一条兼定軍を撃破し土佐一国を平定
1575
年
[越前一向一揆平定]富田長繁ら朝倉遺臣が土一揆と結託し織田信長が越前守護代に任じた前波吉継を殺害するが、本願寺顕如は加賀一向一揆から七里頼周・下間頼照らを指導者に送り富田長繁ら朝倉遺臣を攻め滅ぼして越前国を制圧、3万余の大軍を率いて出征した織田信長は瞬く間に一揆勢を平らげ、北ノ庄城主で主将の柴田勝家を前田利家・佐々成政・不破光治ら与力衆が補佐する織田家北陸軍団を編成し越後の上杉謙信と対峙
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1575
年
[天神山城の戦い]宇喜多直家が毛利氏の支持を得て主君浦上宗景を追放し備前一国を掌握、3年後に反抗勢力を一掃し支配権確立
1576
年
島津義久が伊東義祐を破り日向国を平定、島津4兄弟は薩摩・大隅・日向の3国統一を達成
1577
年
[越中大乱~七尾城の戦い~信長包囲網(第三次)]上杉謙信が逆臣椎名康胤と国人衆を討ち平らげて越中を制圧、そのまま温井景隆の要請で能登へ攻込み七尾城を奪った織田方の長続連・綱連父子を討滅(傀儡守護の管領畠山氏は滅亡)、越後・越中・能登の三国を征した謙信は本願寺顕如・一向一揆と和睦し毛利輝元・波多野秀治・紀州雑賀衆らと連携して織田信長と対峙
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1577
年
[手取川の戦い]武田家を滅ぼし自信を得た織田信長が上杉謙信との決戦を決意、柴田勝家に3万余の大軍を授け能登七尾城救援に派遣するが加賀南部手取川で上杉謙信に迎撃され惨敗、主将の柴田勝家と対立し無断帰国した羽柴秀吉(豊臣秀吉)は毎日酒宴を開いて遊び惚けることで信長の疑惑と怒りをかわす
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1578
年
[御館の乱]軍神上杉謙信が織田信長討伐の大動員令を発した直後に急死(享年49)、後継未確定のため家中は二人の養子に割れて熾烈な家督争いが勃発、甲越同盟で武田勝頼の支持を得た上杉景勝(長尾政景の子で謙信の甥)が上杉景虎(北条氏康の実子)を自害に追込み勝利するが、上杉家は弱体化し織田信長の侵攻に晒される
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1578
年
[尼子再興(第三回)~上月城の戦い]羽柴秀吉(豊臣秀吉)・小寺孝高(黒田官兵衛)の中国侵攻に従った山中鹿介幸盛の尼子再興軍は、攻略した播磨上月城の守将に任じられるが、三木城主別所長治を寝返らせた毛利方の吉川元春・小早川隆景・宇喜多直家の大軍が来襲、上月城は織田信長の命で見捨てられ尼子勝久一族悉く自刃し降伏開城、捕捉された鹿介は斬殺(享年32)、秀吉陣中にあって難を逃れた亀井茲矩は尼子再興軍を承継し徳川家康に転じて因幡鹿野藩初代藩主(次代に石見津和野藩へ加転封)となる
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1578
年
織田信長配下の荒木村重謀反、摂津有岡城で1年間籠城するが毛利の援軍は来ず側近の中川清秀と高山右近が寝返り、荒木村重は単身脱走、信長は残された荒木一族と重臣36人・女房衆122人のほか匿った高野山僧数百人を惨殺、投降使の小寺孝高(黒田官兵衛)は1年間土牢に幽閉(信長は人質黒田長政の処刑を命じるが竹中半兵衛重治が匿い助ける)
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1578
年
[耳川の戦い]九州北半の支配者大友宗麟の軍勢が日向に侵攻、島津義久軍は「釣り野伏せ」戦法で壊滅的勝利、以後名門大友氏は衰亡の道を辿る
1579
年
織田信長の明智光秀軍団が波多野秀治の八上城、赤井直正の黒井城を攻略し丹波国を平定、福知山城を築城し統治拠点とする
1579
年
徳川家康の正室築山殿(今川一族で義元の養女)の武田勝頼への内通が露見(徳川信康の正室で姑の築山殿と不仲な徳姫が、唐人医師減敬との密通等と合わせて父信長に告発)、安土で信長に真偽を問われた酒井忠次は否定せず、信長の命により家康は築山殿を殺害し関与を疑われた嫡子信康を自害させる
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1580
年
[三木合戦]織田信長の羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍団・軍師小寺孝高(黒田官兵衛)が毛利方に寝返った別所長治の播磨三木城を兵糧攻めで攻略(三木の干殺し)、播磨攻防戦の大勢が決し織田方が優位に立つ
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1580
年
織田信長が顕如を降伏させ11年に及んだ石山合戦を征し信長包囲網を完全破壊、顕如は石山本願寺(直後に焼失)を明け渡して紀伊鷺森別院(鷺森本願寺)に退き、90年続いた加賀一向一揆も解体され加賀国を制圧した柴田勝家軍団は越中・能登の上杉景勝領に侵出
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1580
年
織田信長の躁鬱が激化、無断外出した女中数名を斬り殺し、最古参の佐久間信盛・林秀貞と安藤守就を過去の罪状をあげつらい突然追放(佐久間信盛は高野山にも受入れを拒否され唯一人落ち延びた奥吉野で餓死)
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1580
年
キリシタン大名大村純忠が長崎港周辺をイエズス会に教会領として寄進、領民に改宗を強制し反抗者や仏僧を迫害
1580
年
織田信長が天下布武に向けた多方面作戦遂行のため家臣を再編成し軍団(方面軍)制を確立~柴田勝家軍団=北越・上杉景勝、明智光秀軍団=近畿平定後遊軍、羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍団=中国・毛利輝元、滝川一益軍団=関東・北条氏政、織田信孝・丹羽長秀軍団=四国・長宗我部元親、織田信忠=美濃・尾張・飛騨の抑え、織田信雄=伊勢・伊賀方面の抑え、徳川家康(同盟国)=東海道の抑え
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1581
年
[天正伊賀の乱]織田信長の織田信雄・滝川一益・丹羽長秀軍団が伊賀の領国支配に抵抗する地侍・忍者の勢力を殲滅
1581
年
毛利方を離脱し最後は織田方に付いた備前の梟雄宇喜多直家が岡山城にて死去、家督を継いだ嫡子宇喜多秀家を羽柴秀吉(豊臣秀吉)に託す(秀吉は宇喜多秀家の生母円融院と昵懇となり秀家を一門衆・五大老に取り立てる)
1581
年
[鳥取の渇え殺し]播磨・但馬・備前を完全制圧した織田信長の羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍団が山陰に侵攻、吉川経家(毛利一族)の鳥取城を兵糧攻めで落とし毛利領の因幡を奪取、決死の覚悟で伯耆国境に迫った吉川元春軍との対決は回避
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1582
年
キリシタン大名の大村純忠・有馬晴信・大友宗麟が名代として天正少年使節派遣
1582
年
[甲州征伐・天目山の戦い]織田信長軍が武田領に反攻、穴山梅雪・小山田信茂ら重臣の離反で孤立化した武田勝頼・信勝父子が自害し甲斐守護・武田宗家滅亡、続いて織田軍は越中・信濃・上野を攻略し上杉領に侵攻
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1582
年
[高松城水攻め]織田信長の羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍団・軍師黒田官兵衛孝高が毛利方清水宗治が守る備中国高松城を水没させ兵糧攻め、吉川元春・小早川隆景の救援軍も手を出せず、秀吉は手柄献上のため信長に出陣を要請するが本能寺の変が勃発、清水宗治の切腹と備中・備後・伯耆三国の割譲を条件に(因幡・美作も求めていたが早期停戦のため妥協)毛利氏と和睦、明智光秀討伐へ向かう
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1582
年
[6月2日:本能寺の変]明智光秀謀反、毛利攻め途上に滞在した洛中本能寺にて織田信長自害(享年49)、嫡子織田信忠も二条新御所で自刃、堺見物中の徳川家康は伊賀者の手引きで辛くも帰還(道中別れた穴山梅雪は木津川河畔で土民の落ち武者狩りに遭い落命)
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1582
年
[6月3日:魚津城の戦い]織田信長の柴田勝家軍団が大軍で越中魚津城を攻囲、越中・信濃・上野の三方面から織田軍が本国越後に迫ったため上杉景勝は開城和睦に応じ救援軍を引くが、柴田勝家・佐々成政が和議を破って城を攻め上杉方の守将13人悉くが自害、本能寺の変勃発で織田軍は撤退するが激怒した上杉軍に足止めされ明智光秀討伐に間に合わず
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1582
年
[中国大返し]逸早く本能寺の変を知った羽柴秀吉(豊臣秀吉)が清水宗治の切腹と備中・備後・伯耆三国の割譲を条件に(因幡・美作も求めていたが早期停戦のため妥協)毛利氏と和睦、備中高松城から撤収し総員全速力で京畿の明智光秀討伐に向かう
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1582
年
[6月13日:山崎の戦い]羽柴秀吉(豊臣秀吉)軍が洛外天王山で明智光秀軍と激突、光秀は近親の細川藤孝・忠興父子(細川忠興の正妻ガラシャは光秀の娘)に加え筒井順慶(洞ヶ峠)・中川清秀・高山右近ら与力衆に見放され、織田信孝・丹羽長秀軍を糾合し兵数に勝る羽柴軍が圧勝、明智光秀は逃亡中に伏見小栗栖で土民の落ち武者狩りに遭い落命、近江坂本城も落城し明智氏滅亡
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1582
年
織田信長が築いた名城近江安土城が焼失(動転した次男織田信雄による放火説が有力)
1582
年
[神流川の戦い~天正壬午の乱]本能寺の変の混乱に乗じた北条氏政が上野国の織田領に侵攻、野戦に敗れた主将の滝川一益は厩橋城・箕輪城を放棄し逃走、北条軍は信濃まで侵出し旧武田領を巡って上杉景勝・徳川家康の軍勢と三つ巴戦、上杉が信濃北部4郡、北条が上野国、徳川が甲斐・信濃を切り取り次第との条件で和睦し、徳川家康は甲斐と信濃の大部分を制圧し三河・遠江・駿河・甲斐・信濃五ヶ国の太守となり羽柴秀吉(豊臣秀吉)と対峙
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1582
年
[6月27日:清洲会議]織田信長遺臣の柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉(豊臣秀吉)・池田恒興が参集、織田家の家督争いで三男織田信孝を推す勝家を抑え秀吉が嫡孫三法師(織田秀信)擁立に成功、信孝は三法師の後見職と美濃国を、次男信雄は尾張国を相続、羽柴秀吉は明智光秀の旧領丹波・山城・河内国など28万石を獲得(柴田勝家が秀吉の旧領近江長浜12万石を獲得したほか、明智光秀征伐に参加した丹羽長秀・池田恒興・堀秀政と日和見の細川藤孝・筒井順慶にも加増)
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1583
年
羽柴秀吉(豊臣秀吉)と柴田勝家が激しい調略戦、勝家は滝川一益・織田信孝(信長の三男)と結んで秀吉弾劾状を諸大名にばら撒き四国の長宗我部元親や紀伊の雑賀衆を動かして後方霍乱に励むが、養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主に織田信長の葬儀を主宰し有力者の丹羽長秀・池田恒興・堀秀政・蒲生氏郷に柴田与力の前田利家まで懐柔した秀吉が圧勝
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1583
年
[賤ヶ岳の戦い]羽柴秀吉(豊臣秀吉)が挙兵、近江長浜城等を調略して岐阜城の織田信孝と分断し、滝川一益の伊勢にも侵攻、柴田勝家は近江に出陣するが佐久間盛政の軍令違反や前田利家の戦線離脱により大敗(賤ヶ岳の七本槍の武勇談)、秀吉は越前北ノ庄城へ追撃して柴田勝家を滅ぼし(織田信長の妹市は夫勝家に殉じるが茶々・初・江の姉妹は助命確保)加賀・能登国まで討平(前田利家に与える)、織田信孝も自害(辞世:昔より主を内海の浦なれば むくいを待てよ羽柴筑前)させて織田家簒奪を完遂
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1584
年
[沖田畷の戦い]大友氏の衰退で肥前国主の龍造寺隆信が台頭、有馬晴信の援軍要請を受けた島津義久は末弟の家久を派遣、島津家久は寡兵をもって龍造寺隆信を討ち取り壊滅的勝利、竜造寺氏は島津氏の軍門に降る
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1584
年
[小牧・長久手の戦い]羽柴秀吉(豊臣秀吉)に宣戦した織田信雄に徳川家康が加担、旧柴田勝家方の長宗我部元親(四国)・雑賀衆(紀州)・佐々成政(越中)及び北条氏政(関東)とも連携し秀吉包囲網を形成、寡勢の徳川軍が池田恒興・森長可の奇襲軍を殲滅し強さを示すが、秀吉に調略された信雄が無断で単独講和、名目を失った家康も次男秀康(羽柴→結城)を秀吉の養子に差し出し停戦
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1584
年
伊達政宗が隠居し嫡子伊達政宗が伊達家(自称奥羽探題)の家督を相続
1585
年
[四国攻め・紀州征伐]織田家を掌握した羽柴秀吉(豊臣秀吉)が天下統一戦を開始、弟の羽柴秀長を総大将・黒田官兵衛孝高を軍監に10万の四国征伐軍を送り長宗我部元親を降伏させ(土佐一国は安堵)、藤堂高虎に命じて雑賀衆の首領鈴木重意を謀殺し紀州国を平定
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1585
年
[第一次上田合戦]沼田領引渡しを拒む真田昌幸が徳川家康から離反し次男真田信繁(真田幸村)を人質に上杉景勝に鞍替え沼田城に来襲した徳川・北条連合軍を寡兵で痛撃、信繁を羽柴秀吉(豊臣秀吉)の人質に転じ秀吉の調停で停戦
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1585
年
[阿蘇合戦]島津義久の次弟島津義弘の軍勢が阿蘇惟光を破り肥後国を領国化
1585
年
[人取橋の戦い]領土拡張を図る伊達政宗が畠山義継の二本松城に侵攻、義継は降伏した振りをして斡旋役の伊達輝宗を拉致して逃走、政宗は父もろとも義継らを射殺し再び二本松城を攻めるが、佐竹義重・義宣率いる南奥羽諸侯の救援軍が殺到、伊達軍は潰走し政宗は鬼庭左月斎の捨て身の防戦で窮地を脱する
1586
年
[岩屋城の戦い]島津義久の大軍が筑前・筑後に侵攻、岩屋城の高橋紹運は徹底抗戦の末に開城玉砕、被害甚大の島津軍は紹運の実子立花宗茂が死守する立花山城攻略を諦め大友氏の根拠地豊後攻めへ方針転換
1586
年
[戸次川の戦い]肥後から島津義弘軍、日向から島津家久軍が豊後大友領に殺到、羽柴秀吉(豊臣秀吉)は大友氏救援のため長宗我部元親率いる先発隊を送るが、功を焦った軍監仙石秀久の失策と島津の釣り野伏せ戦法により大敗し十河存保と元親の嫡子信親までが戦死、島津家久は府内城を落とし大友宗麟の臼杵城を包囲、嫡子大友義統は敵前逃亡(仙石秀久は逃亡し改易されるが、小田原征伐の「仙石原合戦」で返り咲く)
1586
年
賤ヶ岳の戦いは不参加で本領安堵されるも小牧・長久手の戦いに加担した越中の佐々成政(柴田勝家与力)が羽柴秀吉(豊臣秀吉)に降伏(厳冬の「さらさら越え」で浜松に赴き徳川家康らに再挙を促すが断られ孤立)、旧知の秀吉は新川一郡を除く所領を没収するが助命し御伽衆に採用、戦功により没収領を得た前田利家は加賀・能登・越中三国の太守となる
1586
年
羽柴秀吉が太政大臣に就任、朝廷から豊臣姓を賜り以後豊臣秀吉を名乗る
1587
年
[九州征伐]惣無事令を無視して大友宗麟を圧迫する島津氏を討つため豊臣秀吉が九州に侵攻、豊臣秀長(秀吉の弟)軍10万が豊後・秀吉の本隊10万が肥後から薩摩に進軍、諸将離反のなか当主島津義久は剃髪出家して降伏、秀吉は寛大にも島津義久・義弘兄弟にそれぞれ薩摩・大隅国を安堵し、石田三成と親密で豊臣姓を与えた島津義弘が17代島津宗家当主となる
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1587
年
[バテレン追放令]大村純忠がイエズス会に長崎港を寄進した事実に驚愕し、宣教師ガスパール・コエリョがスペイン艦隊の武威を笠に傲慢な態度を示したことに立腹した豊臣秀吉が宣教師追放を発令(この時点では実利優先で南蛮貿易は容認され布教活動も事実上黙認)
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1587
年
[北野大茶会]九州征伐から京都に凱旋した豊臣秀吉が庶民自由参加の大茶会を開催・黄金の茶室も披露
1587
年
豊臣秀吉が京都に政庁兼邸宅の聚楽第を建設、後陽成天皇の行幸を迎え、諸大名列席の祝賀式では秀吉に懇願された徳川家康が臣下の礼をとり権威付けに協力
1587
年
[肥後国人一揆]小牧・長久手の戦いで改易された佐々成政が九州征伐の武功で肥後一国の太守に返り咲くが、豊臣秀吉の指示に反して太閤検地を断行し反発する国人が一斉蜂起、佐々は自力で鎮圧できず切腹、秀吉は肥後国の北半分を加藤清正・南半分を小西行長に与える
1589
年
[寺内成敗]聚楽第落書犯の逃走を幇助し斯波義銀ら政治犯を匿ったとして豊臣秀吉(執行役は石田三成)が天満本願寺寺内町を徹底捜索、顕如は叱責され、町人63名と共に孫の願得寺顕悟が処刑される
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1589
年
[摺上原の戦い]伊達政宗が会津磐梯山麓で蘆名義広を破り会津黒川城を奪取・蘆名氏滅亡、反伊達連合を壊滅させ福島県中部から山形県・宮城県に及ぶ広大な領域を制圧
1590
年
[小田原征伐・天下統一]後北条氏家臣猪俣邦憲による真田昌幸領侵犯・惣無事令違反を名分に豊臣秀吉が20万の大軍を率いて侵攻、支城を落とし小田原城を重包囲、徳川家康(氏直は娘婿)が早期降伏を促すが断念、北条氏政・氏直父子は3ヶ月の「小田原評定」の末に結局降伏し後北条氏滅亡、天下統一成る(秀吉は強敵家康から駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国150万石を召上げ武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総の6カ国と下野・常陸の一部250万石へ移封、家康は江戸城を本拠とし大規模都市開発に着手)
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1590
年
[奥州仕置]豊臣秀吉が東北諸大名の領土再編
1591
年
豊臣秀吉が茶頭兼名器製造機として貢献した千利休を切腹させる
1591
年
豊臣秀吉唯一の男児鶴松が2歳で夭折
1591
年
[身分統制令]豊臣秀吉政権による領民統治政策(明侵攻のための兵力と年貢米確保のための施策であり、世襲身分の固定化は企図せず)
1591
年
[九戸政実の乱・戦国最後の内戦]北奥羽南部家で家督争いから一族の九戸政実が反乱挙兵、豊臣秀吉の奥州仕置に反発する土豪一揆が呼応したが、豊臣秀次・徳川家康率いる奥州再仕置軍が鎮圧
1592
年
[文禄の役・朝鮮出兵開始]豊臣秀吉が明の属国李氏朝鮮に宣戦し当時世界最高の鉄砲装備を誇る日本軍を派遣(総大将は豊臣一門扱いの宇喜多秀家)、小西行長の先鋒隊が戦わずに北へ逃れる宣祖王と朝鮮軍を追って首都漢城を落とし平壌まで制圧、釜山浦の戦いで李舜臣の朝鮮水軍を撃破、加藤清正隊はヌルハチの女真族領まで侵攻
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1592
年
豊臣秀吉の母なか(大政所)死去
1593
年
[碧蹄館の戦い]李如松率いる明の大軍が参戦、休戦講和と偽られ攻込まれた小西行長隊は平壌を放棄して漢城へ撤退、後詰の大友義統隊は逃走(宗麟の嫡子・これにより改易)、立花宗茂・小早川隆景らの奮闘で迎撃戦に圧勝するが、漢城の食料貯蔵庫を焼かれた日本軍は明と講和し釜山まで撤退
1595
年
[秀次事件]豊臣秀吉が嫡子秀頼の後顧の憂いを絶つため甥の関白豊臣秀次を自害させ眷属悉くを三条河原で処刑、毛利輝元・浅野長政・藤堂高虎・細川忠興・山内一豊ら秀次に近い諸大名にも追及が及び秀吉人気が失墜
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1596
年
[慶長の役・朝鮮出兵再開]日明双方に敵方降伏と偽った小西行長の腹芸が明使沈惟敬謁見で露呈し激怒した豊臣秀吉が再出兵を決定、日本軍は計画どおり全羅道・忠清道を制圧し朝鮮南部を恒久領土化するため城郭群建築を開始
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1596
年
[慶長伏見地震]伏見城が倒壊するが豊臣秀吉は無事、石田三成・小西行長の讒言により謹慎中の加藤清正が救護に駆けつけ朝鮮出兵を許される(地震加藤)、前年完成したばかりの方広寺大仏が倒壊
1596
年
[蔚山城の戦い]築城中の朝鮮南岸蔚山城を明軍が襲撃、守将加藤清正は兵糧難の籠城戦に耐え毛利秀元等の援軍到着により明軍を撃退し朝鮮南部を確保
1597
年
[サン=フェリペ号事件・26聖人殉教]遭難したスペイン商船が土佐に漂着、豊臣秀吉政権は宣教師同乗を理由に積荷を没収、キリシタン大名による領民迫害やポルトガル商人による日本人奴隷売買が目に余る状況のなか船員が無敵艦隊による日本征服をちらつかせたため再び禁教令を公布、抵抗した京都のキリシタン26人(スペイン等外国人宣教師6人と日本人20人)を捕えキリシタンの多い長崎に送り処刑
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1598
年
[醍醐の花見]豊臣秀吉が再建した醍醐寺の庭園に700本の桜を植樹し身内で花見を楽しむ
1598
年
豊臣秀吉が五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)・五奉行(浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以)に嗣子豊臣秀頼の後見を念押しして死去(享年62、豊国大明神の神号で豊国神社に祀られる)、五大老・五奉行が朝鮮出兵中止を決定し撤兵開始
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1598
年
[泗川の戦い・日本軍圧勝のまま朝鮮出兵終結]豊臣秀吉没後直ちに日本軍が撤収を開始、明軍は蔚山・泗川・順天の三路から追撃に出るが、島津義弘が7千の手勢で10万余の敵軍を壊滅させるなど各方面で日本軍が完勝、水軍戦でも敵将李舜臣らを敗死させ殿軍島津義弘まで無事帰国
1599
年
五大老の重鎮前田利家死去、翌日加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興・浅野幸長・池田輝政・加藤嘉明の7将が石田三成の大坂屋敷を襲撃、徳川家康の仲裁により和解するが、石田三成の五奉行辞任により徳川家康の専横が強まる
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1600
年
蘭船リーフデ号が豊後佐志生に漂着、乗組員のヤン・ヨーステン(八重洲の由来)とウィリアム・アダムス(三浦按針)を徳川家康が家臣にする
1600
年
石田三成が毛利輝元を総大将に担ぎ徳川家康征伐を宣言、在京阪の諸大名の妻子を人質とするが細川忠興の正室ガラシャの自害などで撤回、伏見城を攻略し守将鳥居元忠自害、西軍主力は東軍迎撃の拠点美濃大垣城に入り織田秀信(信長の嫡孫三法師)の岐阜城も調略
1600
年
[小山評定]会津征伐軍で徳川家康が石田三成打倒を宣言、黒田長政の策動で加藤清正・福島正則ら豊臣恩顧大名が挙って賛同、真っ先に掛川城提供を申出た山内一豊は戦後に土佐一国に3倍加増、信濃上田城主の真田昌幸は西軍に就く
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1600
年
[関ヶ原の戦い]石田三成の西軍が野戦に誘い出され関ヶ原で徳川家康率いる東軍を迎撃、西軍は兵数と布陣で有利な状況ながら毛利秀元軍の不戦と小早川秀秋の寝返りで大敗、大谷吉継は戦死、石田三成・小西行長・安国事恵瓊は京都六条河原にて斬首、西軍主力の宇喜多秀家は改易のうえ八丈島に流罪、西軍総大将毛利輝元は偽りの領国安堵に釣られ鉄壁の大阪城を明け渡すが120万石から防長36万石へ大減封、上杉景勝は陸奥会津120万石から出羽米沢30万石へ減転封、佐竹義宣は常陸54万石から出羽久保田20万石へ減転封、島津義弘は遠方薩摩藩のため免責、逆に最大加増者は毛利・小早川調略を担った黒田長政で豊前中津12万石から福岡52万へ加転封
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1600
年
豊前中津で隠居する黒田官兵衛孝高が雑兵1万を掻き集めて挙兵、九州北半を制圧し立花宗茂・鍋島直茂・加藤清正を従えて島津征伐に乗込むが、徳川家康と島津義久との和議成立による停戦命令を水俣で受け断念
1601
年
徳川家康が五街道に伝馬制度を制定、一里塚敷設
1603
年
徳川家康の肝煎りで京都・堺・長崎の商人が糸割符仲間を結成
1603
年
出雲阿国がかぶき踊(歌舞伎の源流)を創始(蒲生氏郷の元家臣で天下三美男に数えられた名古屋山三郎が何代目かの阿国の情夫となり歌舞伎の興隆をリードしたともいわれる)
1607
年
徳川家康が駿府城に移るが幕府の実権は留保(大御所政治)、大久保・本多ら譜代重臣の主導権争いが激化
1607
年
戦争捕虜の回収を目的に朝鮮通信使が来航、以後徳川将軍の代替わりや世継ぎの誕生の都度祝賀使節が派遣される
1609
年
[琉球征伐]島津氏が琉球王国に侵攻、尚寧王を降し属領化
1611
年
福島正則の奔走により淀殿・豊臣秀頼が徳川家康との京都二条城会見に応じる
1611
年
加藤清正死去
1612
年
徳川幕府直轄領にキリスト教禁止令、キリシタンでないことを仏教寺院に証明させる寺請制度を創設(宗門人別帳に発展)
1612
年
徳川幕府が寺院諸法度による仏教教団の保護・統制政策を開始
1612
年
[岡本大八事件・徳川幕閣の内紛]本多正純の家臣岡本大八が有馬晴信にお家最高を持ちかけ賄賂を詐取した罪で火あぶり刑(有馬も死罪)、大久保忠隣・大久保長安の武断派が本多正信・正純父子の文治派に勝利
1613
年
[大久保長安事件・徳川幕閣の内紛]徳川家の金銀山経営を統括した武断派の権臣大久保長安(金春流猿楽師の下層民の出自で武田信玄に仕え徳川家へ移籍)が死去、膨大な遺産を本多正信・本多正純父子の文治派が不正蓄財と断罪し一族郎党を誅殺
1613
年
仙台藩主伊達政宗が正使ルイス・ソテロ-副使支倉常長の慶長遣欧使節を派遣、イスパニア(スペイン)王とローマ教皇パウルス5世に徳川幕府のキリスト禁教政策への介入を訴えるが不首尾に終わる
1613
年
敵対する盗賊鳶沢甚内(後北条の遺臣)の密告により徳川幕府が向崎甚内(武田信玄の寵臣高坂昌信の子孫とも)を捕殺、瘧(マラリア)のために捕縛されたことから浅草甚内神社は瘧治癒で崇敬され、鳶沢甚内は目明し兼古着商支配役を世襲し住地富沢町の名の由来となる
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1614
年
武断派の総帥大久保忠隣改易、本多正信・本多正純父子の文治派が完全勝利
1614
年
[大坂冬の陣]方広寺鐘銘事件に乗せられた淀殿・豊臣秀頼が徳川幕府と開戦、真田信繁(真田幸村)・長宗我部盛親・後藤基次又兵衛・毛利勝永・明石全登の五人衆ら歴戦の関ヶ原浪人が鉄壁の大阪城に参集するが愚将大野治長の差配で勝機を逸し、本丸被弾・侍女8名圧死に怯えた淀殿が不利な講和を即断、徳川方に欺かれて内堀まで埋められ大阪城は裸城となる
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1615
年
[大坂夏の陣・豊臣家滅亡]大阪城からの浪人退去か豊臣家移封を迫られた淀殿・豊臣秀頼が幕府軍と再戦、真田信繁(真田幸村)勢が徳川家康の本陣に迫る見せ場もあったが、防御力を削がれた大阪城は落城、助命嘆願も虚しく豊臣秀頼は淀殿・大野治長と共に城中にて自害、豊臣秀吉=豊国大明神の神号も剥奪して戦国時代以来の内戦は徳川の一人勝ちで完全終結(元和偃武)
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1615
年
徳川幕府が武家諸法度・禁中並公家諸法度を制定
1616
年
戦国の最終勝利者徳川家康が駿府城にて大往生(享年75)、東照大権現を推す南光坊天海が明神を推す金地院崇伝との神号争いに勝利、亡骸は久能山に葬られ(久能山東照宮)1年後に日光東照宮に改葬
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1616
年
信濃川中島・越後高田藩主で徳川家康六男の松平忠輝が行状不良により将軍徳川秀忠に改易される
1616
年
徳川家康の謀臣本多正信が死去
1616
年
鍋島直茂が朝鮮出兵で連行した李参平が肥前有田に白磁鉱を発見し有田焼を創始、島津家など諸藩で朝鮮人陶工や築城技術者が活躍
1617
年
徳川幕府が悪所集約管理のため吉原遊廓を開設(元吉原・日本橋人形町→後に浅草千束へ移転)、盗賊「三甚内」の一人庄司甚内が吉原惣名主を世襲
1619
年
将軍徳川秀忠が広島城の無断改築を口実に福島正則を改易、子の福島正利を召抱え大身の旗本として福島家を存続させる
1619
年
徳川将軍家の血のスペアとして尾張(家康九男徳川義直)・紀州(家康十男徳川頼宣)・水戸(家康十一男徳川頼房)の御三家体制が確立
1620
年
朝幕融和のため将軍徳川秀忠の娘和子が後水尾天皇の中宮に輿入れ(東福門院)
1622
年
[宇都宮城釣天井事件]将軍徳川秀忠が幕閣筆頭本多正純を宇都宮城で秀忠暗殺を企てたという口実で改易
1623
年
徳川秀忠の嫡子徳川家光が三代将軍就任
1624
年
イギリスの日本撤退に続き、キリスト教を先鋒に植民地化を推進するイスパニア(スペイン)と断交
1624
年
徳川幕府がスペイン人の来航禁止、慶長遣欧使節正使を終えて密入国したルイス・ソテロとキリスト教宣教師4名を長崎大村にて火刑
1625
年
天海が上野寛永寺を創建
1629
年
[紫衣事件]徳川幕府の朝廷統制に憤る後水尾天皇が幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用を勅許、幕府は禁中並公家諸法度違反を理由に勅許無効を宣し沢庵宗彭ら反抗者を流罪、不満の後水尾は幕府に無断で明正天皇に譲位
1630
年
日本人町頭領・傭兵隊首領でシャム(タイ)王室の重臣になった山田長政が毒殺される
1631
年
徳川幕府が貿易統制のため奉書船以外の渡航を禁止・徳川家康発行の朱印状の回収が困難なため老中連署による奉書を義務付け
1632
年
前将軍徳川秀忠が死去
1632
年
加藤清正の後嗣忠広の愚行により将軍徳川家光が熊本藩加藤家を改易、代わって豊前小倉藩主細川忠利が熊本藩に転封
1635
年
徳川幕府が日本人の海外渡航を禁止
1635
年
幕府が参勤交代制を導入
1636
年
徳川秀忠の隠し子保科正之を兄の将軍徳川家光が認知し寵遇、信濃高遠藩3万石から出羽山形藩20万石、最終的に陸奥会津藩23万石へ加転封し松平姓を認可、保科正之は優秀な将軍参謀として徳川幕府の屋台骨を築く
1636
年
独眼竜伊達政宗が死去
1637
年
[島原の乱]島原藩主松松倉重政・勝家の苛政とキリシタン弾圧により天草四郎率いる農民一揆が勃発、ローマ教皇・ポルトガルの援軍を期待して島原原城に籠城し力攻めした幕府軍を破り統率者板倉重昌を戦死させるが、老中松平信綱(知恵伊豆)率いる12万余の増援軍による兵糧攻めで落城し一揆勢全滅(生存者1名)、松倉勝家は切腹でなく斬首(江戸時代の大名では唯一)
1639
年
[鎖国]徳川幕府がポルトガル船の日本来航を禁止、清・オランダとの外国貿易を幕府が独占
1640
年
徳川幕府がキリシタン廃絶のため宗門改役を設置、諸藩にも宗門改制度導入を命令(宗門人別帳に発展)
1641
年
徳川幕府が平戸のオランダ商館を長崎出島に移す
1643
年
徳川幕府が農民の没落を防ぎ年貢を確保するため田畑永代売買禁令を発令
1649
年
徳川幕府が農民に質素勤勉を促す「慶安の御触書」布告
1651
年
徳川家光死去により嫡子徳川家綱が4代将軍就任
1651
年
[慶安事件・由井正雪の乱]戦国時代の終焉と大名整理により巷に失業武士(浪人)が溢れるなか、軍学者由井正雪の浪人団による将軍徳川家光の死に乗じた幕府転覆計画が発覚、首謀者の由井正雪は駿府で自害し丸橋忠弥(長宗我部盛親の遺児)は江戸で磔刑、黒幕の疑い濃厚な紀州藩主徳川頼宣は不問、事件の反省から幕府は武断政治から文治政治に転換し浪人救済政策や末期養子の禁緩和などを実施
1652
年
[承応事件」戸次庄左衛門の浪人団が老中襲撃を企て処刑される
1654
年
玉川上水竣工、利根川付替完成
1655
年
徳川幕府が糸割符制を廃止し長崎貿易を相対貿易とする
1657
年
[明暦の大火・振袖火事]江戸最悪の大火事、焼亡した江戸城天守は後まで再建されず
1657
年
水戸藩世子の徳川光圀が駒込邸に史局を設置し歴史書『大日本史』編纂に着手、幕末維新のイデオロギー尊皇攘夷・水戸学が興る
1763
年
藩主島津重豪(~1833)により薩摩藩の近代化が始まる
1767
年
田沼時代(~1786)~老中田沼意次による重商主義開明政策
1767
年
上杉鷹山(治憲)が米沢藩主となり藩政改革開始
1769
年
ジェームズ・ワットが画期的蒸気機関を発明、イギリスで産業革命が本格化
1774
年
杉田玄白、前野良沢らが『解体新書』を刊行
1776
年
アメリカ独立宣言
1781
年
工藤平助がロシア研究書『赤蝦夷風説考』を刊行
1781
年
武田薬品工業創業
1782
年
天命の大飢饉(~1788)
1787
年
フランス革命始まる(~1799)
1787
年
フランスのラ・ペルーズが欧米に宗谷海峡を紹介
1787
年
寛政の改革(~1793)~老中松平定信による重農主義復古政策
1790
年
京都御所を王朝風に再建
1790
年
寛政異学の禁~朱子学復興と実学・蘭学の統制
1792
年
林子平の『開国兵談』が発禁となる
1792
年
ロシアのラスクマンが大黒屋光太夫と来日
1793
年
フランスがオランダを占領
1797
年
ロシア人が択捉島に出没
1798
年
近藤重蔵が択捉島に「大日本恵土呂府」の標柱を立てる
1799
年
ナポレオン帝政樹立(フランス革命収束)
1802
年
デュポン創業
1803
年
ナポレオン戦争(~1815)
1804
年
ロシアのレザノフが長崎で通商を要求
1807
年
アメリカのロバート・フルトンが蒸気船の実用化に成功
1807
年
松前氏を陸奥に移配し蝦夷全域を幕府領とする
1808
年
フェートン号事件~オランダ船を追ってイギリス船が長崎に侵入
1810
年
フランスがオランダを併合
1811
年
最後の朝鮮通信使が対馬に来航
1811
年
ロスチャイルドが金融業創業
1812
年
ナポレオンがロシア遠征に敗北
1815
年
ウィーン会議で復古主義的欧州国際秩序が定まる(ウィーン体制)
1816
年
伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』完成
1817
年
イギリス船が浦賀に来航
1819
年
イギリスがシンガポールを領有
1823
年
シーボルト来日
1825
年
異国船打払令
1828
年
シーボルト事件
1829
年
徳川斉脩の急死に伴い弟の徳川斉昭が9代水戸藩主に就任、水戸学に基づき尊皇攘夷運動を牽引
1833
年
天保の大飢饉
1837
年
大塩平八郎の乱
1837
年
モリソン号事件~アメリカ商船を異国船打払令に基づき砲撃
1837
年
徳川家慶が12代将軍就任
1837
年
12代長州藩主毛利斉広の急死に伴い毛利敬親(11代藩主毛利斉元の嫡子)が13代藩主を承継
1837
年
プロクター・アンド・ギャンブル(P&G)創業
1839
年
蛮社の獄~渡辺崋山や高野長英らの鎖国政策批判への弾圧
1841
年
天保の改革(~1845)~老中水野忠邦による重農主義復古政策
1842
年
異国船打払令を緩和し薪水給付令施行
1844
年
オランダ国王特使の開国勧告を幕府が無視
1845
年
水野忠邦が罷免され、開明派の阿部正弘が老中首座となる
1846
年
統仁親王(孝明天皇)即位、幕府に海防の充実を要望する
1846
年
アメリカのピットル艦隊が浦賀に来航し開国を打診
1846
年
フランスが琉球の開国を要求
1848
年
1848年革命~欧州全域に民主主義的ナショナリズムが台頭
1849
年
ファイザー創業
1850
年
佐賀藩が日本初の反射炉の実証炉を建設し洋式砲の鋳造を開始
1850
年
井伊直亮が死去し弟の井伊直弼が15代彦根藩主に就任、藩政改革に着手し譜代筆頭として幕政に乗出す
1850
年
太平天国の乱(~1864)
1851
年
島津斉彬が老中阿部正弘を後ろ盾に父の島津斉興を引退させ11代薩摩藩主に就任、富国強兵・殖産興業を掲げ集成館事業など藩政改革に着手
1852
年
ジョン万次郎が琉球に上陸、島津斉彬の謁見を経て、土佐藩に仕官
1853
年
徳川斉昭が江戸防備のため大砲74門を幕府に献上、老中安倍正弘の要請により幕府海防参与に就任
1853
年
幕府がペリー艦隊への対処法について大規模な世論調査を実施
1853
年
海防参与徳川斉昭の献策により幕府が大船建造を解禁
1853
年
徳川家定が13代将軍就任、将軍継嗣問題が勃発
1853
年
老中阿部正弘に抜擢された江川坦庵が佐賀藩主鍋島直正の技術支援を得て伊豆韮山に反射炉を設置
1855
年
日蘭和親条約締結
1855
年
日露和親条約締結~国境線を画定
1856
年
クリミア戦争終結・欧州ウィーン体制崩壊
1856
年
アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが着任
1857
年
ハリスが将軍徳川家定に拝謁、日米修好通商条約を要求
1858
年
福澤諭吉が築地鉄砲洲の中津藩中屋敷で蘭学塾を開講(慶應義塾の起源)
1859
年
神奈川・長崎・函館開港
1859
年
安政の大獄で大老井伊直弼が一橋派諸侯の処分を断行
1859
年
イギリス総領事ラザフォード・オールコックが着任
1859
年
島津斉興の死により島津久光が藩主島津忠義の国父として薩摩藩の実権を掌握
1860
年
ロシアがウラジオストック建設
1860
年
徳川斉昭が蟄居中に急死(享年61)、幕府は融和路線に転じ徳川慶喜・松平春嶽らを赦免
1860
年
ロシア軍艦が対馬に侵攻するがイギリスの圧力で退去
1860
年
幕府と攘夷派の間で兵庫開港問題が過熱
1860
年
宇和島藩士で幕府講武所教授の大村益次郎が木戸孝允の招聘で故郷の長州藩へ転籍、最先端の西洋知識で洋式軍制改革を推進
1861
年
アメリカ南北戦争(~1865)
1863
年
松平春嶽が徳川慶喜の専横に怒り政治総裁職を辞任し福井に帰国
1863
年
薩英戦争~イギリス艦隊による生麦事件の報復、賠償金は幕府が負担
1863
年
オールコックがイギリスで『大君の都』を刊行
1863
年
将軍徳川家茂が二度目の上洛
1864
年
フランス公使レオン・ロッシュ着任
1864
年
洋式兵学者の佐久間象山が河上彦斎ら攘夷狂に暗殺される(妹を嫁がせた勝海舟は「蓋世の英雄」と惜しむ)
1865
年
イギリス公使ハリー・パークス着任
1866
年
日本人の海外渡航が正式に認められる
1866
年
将軍徳川家茂が大阪城で急死し徳川慶喜が徳川宗家の家督を相続、自身の長州大討入りを宣言するが小倉城陥落を知り断念
1866
年
徳川慶喜が15代将軍就任
1866
年
孝明天皇崩御
1866
年
ネスレ設立
1867
年
睦仁親王(明治天皇)即位
1867
年
孝明天皇崩御に伴う大赦で長州系の三条実美ら五卿のほか九条尚忠・岩倉具視ら公卿が赦免される
1867
年
坂本龍馬が長崎で後藤象二郎と会談、後藤は上海へ視察旅行
1867
年
高杉晋作が下関にて死去(享年27)、下関郊外吉田の清水山に埋葬される
1867
年
島津久光が薩摩藩兵700を率いて上洛、西郷隆盛が先発し四候会議のお膳立て
1867
年
ええじゃないか騒動が始まる
1867
年
徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表
1867
年
朝廷が幕府の大政奉還を勅許
1867
年
西郷隆盛と木戸孝允が山口で討幕挙兵を確認、西郷は薩摩へ
1867
年
薩摩藩主島津忠義が藩兵3千を率いて上洛(軍司令官は西郷隆盛)
1867
年
長州藩世子毛利定広が藩兵1千余を率いて上洛(薩摩藩を警戒し出兵に反対した大村益次郎は掛助役に左遷)
1867
年
長州藩が朝廷により公式に赦免され藩主毛利敬親は従四位・参議に復帰
1867
年
大阪城に退去した徳川慶喜が辞官納地を拒否、諸外国に徳川政権による外交継続を宣言
1868
年
鳥羽伏見の戦いに官軍が圧勝~戊辰戦争始まる
1868
年
大久保利通が大阪遷都建白書を提出
1868
年
明治天皇が徳川慶喜追討の親征を宣言、薩摩(西郷隆盛)・長州・佐土原・大村の東海道軍と薩長・土佐(板垣退助)など諸藩混成の東山道軍が江戸へ進発、徳川慶喜は小栗忠順ら主戦派を退け恭順派の勝海舟に全権を託す
1868
年
西郷隆盛が東征大総督府下参謀(実質的司令官)に任命される
1868
年
神仏分離令、廃仏毀釈が始まる
1868
年
東海道軍筆頭参謀の西郷隆盛が勝海舟との会談で総攻撃を中止し江戸城無血開城、長州藩の大村益次郎や佐賀藩の江藤新平は薩摩藩の専断に反発
1868
年
官軍が高崎市に隠遁した小栗忠順を襲い斬首
1868
年
江戸を東京と改称する
1868
年
河井継之助の長岡藩が降伏
1868
年
明治政府が徳川宗家16代当主の徳川家達に駿府70万石を与える・徳川慶喜も駿府へ移され駿河宝台院で謹慎
1868
年
明治天皇即位礼、明治に改元
1868
年
盛岡藩に続き庄内藩が降伏、東北戦争終結
1869
年
兵制論争、大久保利通・薩摩士族が大村益次郎の政府直轄軍構想を廃し薩長土供出の御親兵に決定、大村益次郎は木戸孝允に慰留され兵部大輔に就任(大村は弟子の山田顕義を兵部大丞に就ける)
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1869
年
ゴールドマン・サックス創業
1870
年
ジョン・ロックフェラーがスタンダード・オイル設立
1870
年
イタリア統一
1871
年
ドイツ帝国成立
1871
年
日清修好条規調印
1872
年
明治政府が陸軍省・海軍省を創設し御親兵を廃して近衛兵を設置
1872
年
明治天皇の西国巡幸
1872
年
太陽暦が採用される
1873
年
キリスト教解禁
1873
年
岩倉使節団が帰国
1873
年
江藤新平司法卿の追及により尾去沢銅山汚職が事件化、井上馨が大蔵大輔を引責辞任し実業界へ転じる
1876
年
廃刀令布告
1876
年
三井銀行および三井物産設立
1877
年
木戸孝允が京都にて死去(享年45)、京都霊山護国神社に葬られる
1877
年
イギリス領インド帝国成立
1877
年
東京開成学校と東京医学校が統合され東京大学創立
1878
年
大久保利通が紀尾井坂で不平士族に斬殺される(享年49)
1878
年
会頭渋沢栄一と大倉喜八郎が発起人となり東京商法会議所(商工会議所)発足
1878
年
トーマス・エジソンがエジソン電気照明会社設立(GEの前身)
1879
年
琉球処分
1879
年
伊藤博文の要請により井上馨が外務卿就任
1880
年
板垣退助ら土佐派が国会期成同盟結成
1882
年
軍人勅諭公布
1882
年
松方正義主導で日本銀行開業、安田善次郎・三野村利助が創立事務御用掛を務める
1882
年
大隈重信が東京専門学校創立(早稲田大学)
1883
年
鹿鳴館完成~外務卿井上馨の条約改正交渉
1884
年
松方デフレによる不況深刻化
1885
年
銀本位制に移行
1886
年
コカ・コーラ創業
1887
年
徳富蘇峰が民友社結成、『国民之友』創刊
1887
年
ジョンソン・エンド・ジョンソン設立
1888
年
市制・町村制公布
1889
年
東海道本線が全通(新橋-神戸間)
1890
年
府県制・郡制公布
1890
年
第一回帝国議会開催
1890
年
東京・横浜で電話サービス開始
1891
年
吉田松蔭・高杉晋作・久坂玄瑞・周布政之助・武市半平太・中岡慎太郎・坂本龍馬・吉村寅太郎・平野国臣・有馬新七・宮部鼎蔵ら明治維新の功労者に追贈正四位(有馬のみ従四位)
1892
年
第二回衆議院総選挙、松方正義政府が大選挙干渉するも民党勝利
1893
年
政府が官営富岡製糸場を三井へ払下げ
1893
年
アメリカがハワイを併合
1896
年
アテネで近代オリンピック第1回大会開催
1896
年
アジア諸国からの留学生受入れ開始(周恩来、蒋介石、魯迅、朴正煕等)
1896
年
エフ・ホフマン・ラ・ロシュ設立
1897
年
朝鮮が大韓帝国と改称
1898
年
明治民法施行
1898
年
キュリー夫妻がラジウム(放射能)を発見
1899
年
台湾銀行設立
1900
年
台湾製糖会社設立
1901
年
社会民主党結成
1901
年
田中正造が足尾鉱毒問題を天皇に直訴
1901
年
北里柴三郎が第1回ノーベル医学生理学賞の候補となるが共同研究者のベーリングが単独受賞
1903
年
岩崎弥之助の援助により大隈重信の東京専門学校が早稲田大学に昇格
1903
年
ライト兄弟が初の動力飛行に成功
1905
年
帝政ロシアで戦艦ポチョムキンの反乱
1905
年
第二次日英同盟協約締結
1907
年
ロイヤル・ダッチ・シェル設立
1909
年
BP創業
1911
年
IBM創業
1912
年
日本がオリンピックに初参加(ストックホルム大会)
1912
年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
1913
年
米カリフォルニア州で日本人による農地売買が禁止される、他州も追随
1914
年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
1915
年
井上馨死去
1915
年
大戦景気により東京株式市場暴騰
1915
年
全国高校野球大会が始まる
1917
年
イギリスの強要により日本海軍の艦隊が地中海へ出動
1918
年
ウィルソン米大統領が十四カ条の平和綱領発表
1918
年
ソビエト政権がドイツと休戦協定(ブレスト・リトフスク条約調印)
1918
年
渋沢栄一の後援を得て五島慶太が田園都市株式会社(現東京急行電鉄)設立
1918
年
「量子論の父」マックス・プランクがノーベル物理学賞受賞
1918
年
ドイツ革命、皇帝ヴィルヘルム二世亡命
1919
年
朝鮮で三・一独立運動が起る
1919
年
中国で五・四運動始まる
1920
年
松田重次郎がマツダ創業
1921
年
「現代物理学の父」アルベルト・アインシュタインがノーベル物理学賞受賞
1921
年
神戸三菱・川崎両造船所ストライキ(戦前最大規模の労働争議)
1921
年
小松製作所創業
1921
年
原敬首相が東京駅で暴漢に刺殺される(享年65)、高橋是清が政友会総裁を継ぐ
1922
年
陸軍長州閥を築いた山縣有朋が政敵の伊藤博文・大隈重信・板垣退助や子飼の桂太郎・寺内正毅の誰よりも長寿を保ち84歳で死去
1923
年
ウォルト・ディズニー・カンパニー創業
1924
年
レーニン死去、スターリンがソ連の独裁権確立
1924
年
イタリアでファシスト党のムッソリーニが独裁政権樹立
1924
年
アメリカ政府が排日移民法施行
1925
年
日ソ基本条約調印、国交樹立
1925
年
治安維持法制定
1925
年
野間清司の大日本雄弁会(現講談社)が大衆誌『キング』を創刊し150万部を記録(1957年廃刊)
1926
年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
1927
年
第一次山東出兵開始~蒋介石の北伐再開
1928
年
八木秀次東北帝大教授がテレビアンテナの原型「八木アンテナ」を開発、日本では理解されないが欧米の軍隊で採用が進む
1929
年
東京石川島造船所(現IHI)から石川島自動車製造所(現いすゞ自動車)が独立
1932
年
斎藤実内閣が満州国を承認
1933
年
ナチスのヒトラーがドイツ首相就任
1933
年
フランクリン・ルーズベルト(共和党)が米大統領就任(~1945)、ニューディール政策開始
1933
年
塘沽停戦協定締結
1933
年
「海軍の父」山本権兵衛が死去(享年81)
1934
年
東郷平八郎死去
1934
年
正力松太郎の読売新聞社がMLB来日試合を機に大日本東京野球倶楽部創設(→読売ジャイアンツ)、吉本興業も出資し林正之助が球団役員に就任(戦後読売新聞社の完全支配下となり吉本興業は撤退)
1934
年
徴兵逃れが蔓延し徴兵猶予者は過去最高の9万人
1935
年
石原莞爾が参謀本部作戦課長就任、陸軍中枢の指導的地位に就く
1935
年
ナチス・ドイツが再軍備を宣言
1936
年
東京巨人軍・大阪タイガースなど7球団で日本職業野球連盟発足
1936
年
日本の呼称を「大日本帝国」に統一
1936
年
スペイン内戦勃発
1937
年
日本軍が北京・天津・上海を攻略(第二次上海事変)
1937
年
イタリアが日独防共協定に参加
1937
年
近衛文麿内閣が統制経済推進のため企画院を開設
1937
年
大本営設置
1937
年
日本軍が国民政府の首都南京を占領
1938
年
ドイツがオーストリアを併合
1939
年
アステラス製薬創業
1939
年
大相撲の横綱双葉山が69連勝達成
1939
年
ドイツ軍がポーランド侵攻、英仏が独に宣戦布告し第二次世界大戦勃発
1940
年
イタリアが英仏に宣戦布告
1940
年
ドイツがバルト三国を併合、ベネルクス三国を占領
1940
年
紀元二千六百年記念式典
1940
年
晩婚化が進み初婚平均年齢は男性28歳・女性24歳に上昇
1941
年
アメリカがレンドリース法を成立させ連合国へ大規模軍事支援開始
1941
年
極東アメリカ軍創設、ダグラス・マッカーサーが総司令官に就任
1941
年
アメリカが在米日本資産を凍結し英蘭らも追随
1942
年
日本軍が香港・マニラ・シンガポールを攻略
1942
年
アメリカ・キューバ・メキシコで日系移民の強制収容所送りが始まる(合計12万人)
1943
年
東條英機内閣が明治神宮外苑で出陣学徒壮行会を挙行
1943
年
ムッソリーニのイタリアが早々に連合国に降伏
1944
年
連合軍がノルマンディー上陸
1944
年
ブレトン・ウッズ協定、金本位制に基づく対ドル固定相場制の導入
1944
年
学童疎開が義務化され東京・大阪などから41万人以上が集団疎開
1945
年
ハリー・S・トルーマン(共和党)が米大統領就任(~1953)
1945
年
ドイツが連合国に降伏
1945
年
玉音放送
1945
年
全国都市部に闇市が勃興(新宿・小津組、浅草・芝田組、池袋・関口組、銀座・上田組、新橋・松田組・・・)
1945
年
東久邇宮稔彦王内閣(公家)発足、重光葵が外相就任(吉田茂に途中交代)
1945
年
『日米会話手帳』が発売3ヶ月で400万部の大ベストセラーに
1945
年
GHQが陸海軍解体指令
1945
年
昭和天皇・マッカーサー会談(以後11回)
1945
年
マッカーサーが日本軍の武装解体完了を宣言
1945
年
国際連合発足
1945
年
戦後第一回の宝くじ発売
1945
年
GHQの委任により中華民国軍が台湾を実効支配
1945
年
雑誌の創刊・復刊ブーム
1945
年
日本社会党(片山哲書記長)・日本自由党(鳩山一郎総裁)・日本進歩党(町田忠治総裁)の結党が相次ぐ
1945
年
陸軍省・海軍省が復員省に改組され700万人以上の復員軍人を処理
1945
年
日本共産党大会、徳田球一を書記長に選出
1945
年
男女共学解禁
1945
年
GHQ命令により各新聞で「太平洋戦争史」連載、自虐史観が浸透
1945
年
衆議院議員選挙法改定(婦人参政権容認)、「GHQ解散」
1945
年
GHQが日本史・地理・修身の教育全廃を命令
1946
年
天皇の「人間宣言」(神格否定の詔書公表)
1946
年
アメリカ合衆国中央情報局(CIA)発足
1946
年
GHQが日本政府から沖縄施政権を剥奪
1946
年
並木路子の『リンゴの唄』発売(戦後最初のヒット曲)
1946
年
GHQが幣原喜重郎内閣の第一次農地改革法案を拒否し徹底的改革を命令
1946
年
インフレ抑制のため預金封鎖・新円切替を断行
1946
年
昭和天皇の地方巡幸はじまる
1946
年
チャーチル元英首相が「鉄のカーテン」演説(ソ連の閉鎖性を批判し、共産主義勢力への共闘を呼掛け)
1946
年
国際通貨基金(IMF)発足
1946
年
伊豆諸島が本土復帰
1946
年
新選挙法による初の衆議院総選挙で鳩山一郎の自由党が勝利(初の女性議員39名が誕生)
1946
年
親米派財界人により経済同友会発足
1946
年
GHQが自主路線の鳩山一郎を公職追放し第一党自由党の後継総裁に吉田茂が就任
1946
年
フィリピンがアメリカから独立
1946
年
経済安定本部(安本)・物価庁設置
1946
年
ドイツの戦犯を裁くニュルンベルク裁判判決(死刑12人・終身刑3人・有期刑4人・無罪2人)
1946
年
復興金融公庫法・戦時保障特別措置法成立
1946
年
田岡一雄が三代目山口組を襲名し港湾荷役と芸能興行で勢力伸張
1946
年
吉田茂内閣が当用漢字1850字・旧かなづかい禁止の内閣告示
1946
年
吉田茂内閣が閣議で鉄鋼・石炭の「傾斜生産方式」採用を決定
1947
年
新宿帝都座で日本初のヌードショー、ストリップがブームに
1947
年
井植歳男(松下幸之助の義弟)がGHQ対策のため松下電器産業を退社し三洋電機創業(自転車用発電ランプ事業を承継)
1947
年
日本進歩党が民主党に改組(芦田均総裁)
1947
年
トルーマン米大統領が「トルーマン・ドクトリン」発表(ギリシア・トルコへの支援表明により共産主義勢力と戦う決意を示唆)
1947
年
GHQにより独占禁止法制定
1947
年
総選挙、片山哲の社会党が第一党に躍進
1947
年
マーシャル米国務長官が「マーシャル・プラン」発表(西欧諸国への復興援助表明により東西対立が先鋭化、ソ連はコメコン設立で対抗)
1947
年
インド・パキスタンがイギリスから独立、イギリスの謀略で国境紛争常態化
1947
年
芦田均外相がアメリカ政府に米軍の「有事駐留」を提案し怒りを買う
1947
年
昭和天皇がGHQに「沖縄の恒久的軍事占領が望ましい」と伝達
1947
年
山口良忠東京地裁判事が闇物資拒絶により餓死
1947
年
民法改正(夫婦平等・戸主権や長子相続権の廃止・自由結婚など)
1947
年
GHQが匿退蔵物資事件捜査部(東京地検特捜部)を設置
1948
年
ミャンマーがイギリスから独立
1948
年
帝銀事件
1948
年
民主党を離脱した幣原喜重郎グループ(田中角栄も)が自由党に合流し民主自由党成立(吉田茂総裁)
1948
年
美空ひばり歌手デビュー
1948
年
アメリカ軍政のもと大韓民国樹立宣言
1948
年
アメリカで独立シンクタンク「ランド研究所」発足、米国学術界を牽引しノーベル賞受賞者も輩出
1948
年
イスラエル独立宣言、第一次中東戦争でイスラエル軍勝利
1948
年
ソ連が「ベルリン封鎖」を強行し冷戦緊迫化
1948
年
風営法制定
1948
年
ソ連共産党の指導下に金日成が朝鮮民主主義人民共和国樹立
1948
年
GHQが日本解体方針を緩和し「経済安定九原則」発表
1948
年
内閣不信任案が可決され吉田茂首相は衆議院解散で対抗
1949
年
マーシャル・プランに対抗するソ連と東欧6カ国が東欧経済相互援助会(コメコン)設立
1949
年
衆議院総選挙、吉田茂の与党民主自由党が単独過半数獲得
1949
年
第三次吉田茂内閣(民主自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、吉田茂が外相就任(岡崎勝男に途中交代)
1949
年
GHQが1ドル=360円の単一為替レートを設定
1949
年
北大西洋条約機構(NATO)発足
1949
年
東京証券取引所再開
1949
年
吉田茂首相が日本独立後も米軍駐留を望む旨を示唆
1949
年
ドッジ・ラインに基づく国鉄人員整理発表、下山事件・三鷹事件・松川事件
1949
年
ラオスがフランスから独立
1949
年
甲子園で全国高校野球大会はじまる
1949
年
シャウプ勧告(税制改革指令)
1949
年
ソ連の核実験成功で東西冷戦が本格化
1949
年
毛沢東の共産党が国共内戦を制し北京で中華人民共和国樹立を宣言、アメリカで日本再軍備(反共の防波堤)要請が一層高まる
1949
年
東西ドイツ分離独立
1949
年
インドシナ戦争・南北ベトナムの内戦勃発
1949
年
吉田茂首相が西側陣営との単独講和にも応じる旨を声明
1949
年
闇金融で摘発された東大生の山崎晃嗣が自殺(光クラブ事件・藤田田も関与)
1949
年
蒋介石の国民政府が台湾台北に移転
1949
年
インドネシア独立戦争終結・オランダから独立達成
1949
年
ドッジ・ライン恐慌でラジオセットメーカーの大半が倒産し関西の生残りは松下電器産業と早川電機工業(シャープ)のみ、部品供給の村田製作所も経営難に陥る
1950
年
民主自由党が自由党に改称
1950
年
中ソ友好同盟相互援助条約成立、アメリカで日本再軍備(反共の防波堤)要請が一層高まる
1950
年
学者グループが「厳正中立・全面講和」声明発表、西側との「単独講和」を進める吉田茂首相は「曲学阿世」発言で対抗
1950
年
吉田茂首相が池田勇人蔵相・宮澤喜一秘書官を派米し米軍駐留継続と単独講和を申入れ
1950
年
GHQ民主化政策の一環で電波3法成立・NHK独占のラジオ放映権が解放され民放開局が相次ぎラジオ・ブーム加速
1950
年
GHQが徳田球一・野坂参三ら幹部24人の公職追放を命令(共産党弾圧方針を明確化)
1950
年
GHQと反共の吉田茂首相がレッド・パージを開始し約1万2千人を公職追放(逆コース)
1950
年
産業別労働人口:第一次産業48,5%・第二次21.8%・第三次29.6%
1951
年
各新聞がマッカーサー礼賛報道するが、マッカーサーの「日本人十二歳説」により終息
1951
年
自由党に鳩山一郎の派閥が起り吉田茂の主流派と勢力伯仲
1951
年
サンフランシスコ講和条約を巡り社会党が左右派に分裂
1952
年
GHQ指令を受け吉田茂政府が海上警備隊(海上自衛隊)創設
1952
年
ラジオ番組『君の名は』が空前の大ヒット(~1954年)
1952
年
血のメーデー事件(2人射殺・逮捕者1230人)
1952
年
ロバート・D・マーフィー米大使就任(~1953)
1952
年
ヘルシンキ・オリンピック開催、日独が戦後初参加
1952
年
破壊活動防止法成立
1952
年
自由党で吉田茂派と鳩山一郎派の溝が深まり吉田首相は抜打解散で対抗
1952
年
東京都内のジーンズショップが100店を超える
1952
年
衆議院総選挙、自由党が圧勝し鳩山一郎ら公職追放解除者が衆議院議席の42%を占める
1952
年
イギリスが核実験に成功(米ソに次ぐ3番目の保有国)
1952
年
鳩山一郎への首相禅譲密約により第四次吉田茂内閣(自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、岡崎勝男が外務大臣就任
1952
年
アメリカが世界初の水爆実験実施
1952
年
内灘闘争(~1957)、基地反対闘争はじまる
1952
年
GHQ接収施設返還(一般施設1428件・個人住宅1967件)
1953
年
ドワイト・D・アイゼンハワー(共和党)が米大統領就任(~1961)
1953
年
ジョン・フォスター・ダレスが米国務長官就任(~1959)、引き続き対日政策を主導
1953
年
テレビ放送開始
1953
年
吉田茂首相が衆議院を「バカヤロー解散」、鳩山一郎・広川弘禅が分派し分党派自由党結成
1953
年
ソ連に人類史上最悪の恐怖政治を敷いたスターリンが死去、フルシチョフがベリヤ・マレンコフを粛清し後継体制確立
1953
年
第五次吉田茂内閣(自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、岡崎勝男が外務大臣就任
1953
年
ジョン・M・アリソン米大使就任(~1957)
1953
年
『東京物語』(小津安二郎監督)公開
1953
年
鳩山一郎が分自党を解消し吉田茂の自由党に復党、三木武吉・河野一郎・石橋湛山らが離脱し日本自由党結成
1953
年
奄美群島が本土復帰
1953
年
林正之助・林弘高の吉本興業が力道山(元大相撲関脇)を迎え日本プロレス協会(日本プロレスリング興業株式会社)設立、テレビ放送でプロレス・ブーム到来(1957年人気低落に伴い吉本興業は撤退)
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1953
年
ソ連が水爆実験を開始
1953
年
フランシス・クリックとジェームズ・ワトソンがDNAの二重らせん構造を発見~分子生物学の萌芽
1954
年
日本漁船がビキニ環礁にてアメリカの水爆実験に遭難(第五福竜丸事件)
1954
年
集団就職列車はじまる(~1975)
1954
年
『ローマの休日』(オードリー・ヘプバーン主演)日本上映
1954
年
造船疑獄、佐藤栄作逮捕を拒否した犬養健(犬養毅の次男)法相が辞任
1954
年
朝日新聞が「国民所得戦前水準を抜く/消費増で国際収支赤字」と報道
1954
年
アメリカの圧力により吉田茂政府が国家警察予備隊を常設軍隊「自衛隊」へ改組(陸上13万人・海上1万5千人・航空6千人)
1954
年
『ゴジラ』第一作上映
1954
年
反抗勢力が日本民主党に合同し(鳩山一郎総裁・重光葵副総裁・岸信介幹事長)内閣不信任決議で吉田茂内閣を打倒
1955
年
総選挙、鳩山一郎首相の民主党政権は絶対多数を獲得できず憲法改正を断念し対ソ外交に注力
1955
年
アジア・アフリカ会議(バンドン会議)開催
1955
年
砂川闘争(~1960)
1955
年
ワルシャワ条約機構(WTO)発足
1955
年
左右社会党統一(鈴木茂三郎委員長・浅沼稲次郎書記長、衆院156議席・参院69議席)
1955
年
保守合同で自由民主党(鳩山一郎総裁・岸信介幹事長、衆院299議席・参院69議席)が発足し「55年体制」開始
1956
年
『昭和史』(岩波新書)の自虐的左翼史観を亀井勝一郎が批評し「昭和史論争」が起る
1956
年
フルシチョフの「スターリン批判」演説が西側に伝わり「雪どけ」機運高まる
1956
年
日ソ国交回復を期す鳩山一郎内閣の河野一郎農相・重光葵外相らが相次いでモスクワ訪問
1956
年
スエズ動乱(第二次中東戦争)でイスラエル軍が勝利するが米ソの支持を得たエジプトがスエズ運河を国有化
1956
年
日本・フィリピン国交回復(賠償金1980億円・借款900億円)
1956
年
ハンガリー動乱、ソ連軍が武力鎮圧
1956
年
シベリア抑留者の最後の引揚船が舞鶴帰港(「岸壁の母」がミリオンセラーに)
1956
年
公団住宅の供給がはじまる
1957
年
ダグラス・マッカーサー2世が米大使就任(~1961)、日本政府をリード
1957
年
欧州経済共同体(EEC)発足
1957
年
岸信介首相が「憲法は自衛のための核兵器保有を禁ずるものではない」と発言、自衛隊の軍備拡張計画(第一次防衛力整備計画)を承認
1957
年
ソ連で大規模原発事故発生(ウラル核惨事)
1957
年
ソ連が初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げに成功、大陸間弾道ミサイル(ICBM)実用化により北米大陸を射程に置く
1958
年
日本が初めて国連安全保障理事会の非常任理事国となる
1958
年
総選挙、岸信介首相の与党自民党は大勝できず憲法改正を断念し安保改定に注力
1958
年
NASA(アメリカ航空宇宙局)設立
1958
年
岸信介内閣が「勤務評定問題」で日協組を攻撃し対立が深まる
1958
年
岸信介内閣が警職法改正案(警察権限の拡大)を提出するが反対運動により廃案
1958
年
ミッチー・ブーム
1958
年
東京タワー開業
1958
年
毛沢東の「大躍進」政策で中国経済が壊滅し数千万人が餓死(~1960)
1958
年
毛沢東が台湾侵攻を図るが米軍の抵抗で断念(台湾海峡クライシス)
1959
年
フィデル・カストロによるキューバ革命
1959
年
アメリカがソ連に次いで大陸間弾道ミサイル (ICBM) の実戦配備開始
1959
年
鳩山一郎死去
1959
年
『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』創刊
1959
年
ジョン・フォスター・ダレス米国務長官が病気により辞任
1959
年
ソ連が世界初の月ロケット打ち上げに成功
1959
年
「大躍進」の大失敗で毛沢東が一時失脚し劉少奇・鄧小平が経済再建を始動
1959
年
三井三池争議、「総資本対総労働の対決」に組合側敗北
1960
年
フランスが核実験に成功(米ソ英に次ぐ4番目の保有国)
1960
年
毛沢東の「修正主義批判」により中ソ対立が表面化(~1989)
1960
年
東芝が国産第1号のカラーテレビ発売
1960
年
安保闘争によりアイゼンハワー米大統領の訪日中止
1960
年
石油輸出国機構 (OPEC) 設立
1960
年
アメリカが世界初の原子力空母エンタープライズ完成
1960
年
浅沼稲次郎社会党委員長が演説中に刺殺される
1960
年
ベトナム戦争勃発(~1975)、韓国などアジア諸国が派兵するなか池田勇人政府は軍事協力を拒否
1960
年
産業別労働人口:第一次産業32.7%・第二次29.1%・第三次38.2%
1961
年
ジョン・F・ケネディ(民主党)が米大統領就任(~1963)
1961
年
ソ連軍のユーリイ・ガガーリンが世界初の有人宇宙飛行に成功し「地球は青かった」と発言
1961
年
エドウィン・O・ライシャワー米大使就任(~1966)、日米蜜月関係を演出し沖縄返還に奔走
1961
年
日本経済団体連合会(経団連)発足
1961
年
東ドイツが「ベルリンの壁」建設
1961
年
電気洗濯機の世帯普及率が50%突破
1961
年
東京・大阪・名古屋証券取引所に第2部市場発足
1962
年
キューバ危機、フルシチョフ首相のミサイル撤去決断により核戦争回避
1962
年
有名私立大学で軒並み女子学生が過半数を占め「女子学生亡国論」が話題に
1963
年
ベンチャー企業向け証券取引市場(店頭登録制度)開設
1963
年
『花の生涯』でNHK大河ドラマが始まる
1963
年
米ソ英が部分的核実験停止条約調印
1963
年
ジョン・F・ケネディ米大統領暗殺
1963
年
リンドン・ジョンソン(民主党)が米大統領就任(~1969)
1964
年
警視庁が暴力団全国一斉取締り(「第一次頂上作戦」)を開始
1964
年
マッカーサー死去
1964
年
ニチメン・三和銀行ら3商社5銀行が共同出資で大阪市堂島にオリエント・リースを設立し米国直輸入でリース業開始(オリックス創業)、初代社長はニチメンの福井慶三社長が兼務し社員の宮内義彦らが出向
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1964
年
米軍の謀略でトンキン湾事件発生、北爆によりベトナム戦争激化
1964
年
IMF・世界銀行東京総会
1964
年
東海道新幹線・名神高速道路・首都高速道路が相次ぎ開通
1964
年
東京オリンピック
1964
年
ソ連でフルシチョフが失脚しブレジネフ政権へ移行
1964
年
中国が核実験に成功(米ソ英仏に次ぐ5番目の保有国)
1965
年
日韓基本条約調印
1965
年
池田勇人死去
1965
年
日本初のカラーテレビアニメシリーズ『ジャングル大帝』(原作手塚治虫・制作虫プロダクション)放送開始、虫プロの版権部門を独立させ「虫プロ商事」設立、手塚治虫がニューヨーク世界博覧会でウォルト・ディズニーと初対面
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1965
年
朝永振一郎が「量子電気力学分野での基礎的研究」でノーベル物理学賞受賞
1965
年
日韓国交回復(無償供与1080億円・借款720億円・民間借款1080億円超)
1965
年
ウォーレン・バフェットがバークシャー・ハサウェイの経営権取得
1965
年
戦後初の国債発行
1965
年
電気冷蔵庫の世帯普及率が50%突破
1966
年
政権奪還を図る毛沢東が文化大革命を発動し中国が内乱状態となる(~1976)
1966
年
『ウルトラマン』のテレビ放送開始
1966
年
日産自動車が経営難のプリンス自動車工業を吸収合併
1967
年
公害問題が深刻化し四大公害訴訟はじまる(水俣病・第二水俣病・四日市ぜんそく・イタイイタイ病)
1967
年
佐藤栄作首相が「武器輸出三原則」発表
1967
年
第三次中東戦争、勝利したイスラエルの領土が約4倍に拡大
1967
年
中国が水爆実験実施(米ソに次ぐ3番目の水爆保有国)
1967
年
欧州共同体(EC)発足
1967
年
公害対策基本法施行
1967
年
東南アジア諸国連合(ASEAN)発足
1967
年
吉田茂死去
1968
年
全共闘運動が全国の大学に広がる
1968
年
小笠原諸島が本土復帰
1968
年
米ソ英仏中を含む62か国が核拡散防止条約調印
1968
年
少年誌『週刊少年ジャンプ』・青年誌『ビッグコミック』『プレイコミック』創刊
1968
年
インテル設立
1968
年
チェコスロヴァキア「プラハの春」、ソ連が軍事介入により鎮圧
1968
年
文化大革命で毛沢東の政敵鄧小平が失脚、寒村で強制労働
1968
年
日本のGDPがアメリカに次ぐ世界2位となる
1969
年
東大安田講堂事件
1969
年
リチャード・ニクソン(共和党)が米大統領就任(~1974)
1969
年
珍宝島事件・中ソ国境紛争
1969
年
林正之助の吉本興業がテレビ番組『ヤングおー!おー!』放送開始、笑福亭仁鶴、桂三枝、横山やすし・西川きよし、オール阪神・巨人、明石家さんま、桂文珍、月亭八方、島田紳助ら吉本芸人が全国区となり松竹芸能を駆逐
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1969
年
『週刊少年チャンピオン』創刊
1969
年
アメリカNASAのアポロ11号が初の有人月面着陸に成功
1969
年
テレビアニメ『サザエさん』(長谷川町子原作)放送開始
1969
年
ウォルマート設立
1969
年
文化大革命で毛沢東の政敵劉少奇が殺害される
1969
年
冷戦のデタント時代(~1979)
1970
年
日本万国博覧会が大阪で開催され万博史上最高6422万人の入場者数を記録
1970
年
よど号ハイジャック事件
1970
年
三島由紀夫が自衛隊市谷駐屯地で割腹自殺
1970
年
電気洗濯機の世帯普及率が90%突破
1970
年
対日貿易を中心にアメリカの貿易赤字が拡大
1970
年
産業別労働人口:第一次産業19.3%・第二次34.0%・第三次46.6%
1971
年
『仮面ライダー』(石ノ森章太郎原作)のテレビ放送開始
1971
年
ソ連が初の宇宙ステーション・サリュート1号を打ち上げ(搭乗員は全員死亡)
1971
年
環境庁発足
1971
年
大相撲の横綱大鵬が現役引退
1971
年
アメリカの支持により中国が国際連合に加盟(台湾中華民国は脱退)
1971
年
電気冷蔵庫の世帯普及率が90%突破
1972
年
札幌冬季オリンピック
1972
年
連合赤軍あさま山荘事件
1972
年
田中角栄が「日本列島改造論」発表
1972
年
「日本列島改造論」の田中角栄政権で高速道路・地方鉄道の建設ラッシュが始まる
1972
年
カラーテレビの世帯普及率が50%突破
1973
年
『仁義なき戦い』(深作欣二監督)上映
1973
年
日本を含む各国が変動相場制へ移行し円急騰
1973
年
第四次中東戦争、エジプト・シリア軍の先制攻撃にイスラエル軍が大苦戦
1973
年
手塚治虫の虫プロ商事・虫プロダクション倒産、人気低迷のうえ多額の保証債務を抱えるが『週刊少年チャンピオン』連載の『ブラック・ジャック』・『週刊少年マガジン』連載の『三つ目がとおる』で復活
詳細を見る
1973
年
周恩来の工作により鄧小平が中国中央政界に復活
1973
年
江崎玲於奈が「半導体におけるトンネル効果の実験的発見」でノーベル物理学賞受賞
1973
年
カラーテレビの世帯普及率が白黒テレビを突破
1974
年
田中角栄首相が東南アジア歴訪し「資源外交」を展開、米CIAは反日暴動扇動で妨害
1974
年
高校進学率が90%を突破し大学進学率は30%を超え更に上昇
1974
年
インドが核実験に成功(米ソ英仏中に次ぐ6番目の保有国)
1974
年
鄧小平が訪米し新日本製鐵等からの技術導入を号令
1974
年
ウォーターゲート事件でニクソンが米国史上初めて大統領辞任
1974
年
ジェラルド・R・フォード(共和党)が米大統領就任(~1977)
1974
年
テレビアニメシリーズ『宇宙戦艦ヤマト』(松本零士原作)放送開始
1974
年
巨人の連続日本一がV9で終わり長嶋茂雄が現役引退し川上哲治の後任監督に就任~生涯成績は打率305(首位打者6回)・本塁打444(本塁打王2回)・打点1522(打点王5回)・シーズンMVP5回、王貞治は三冠王とシーズンMVPを2年連続獲得
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1974
年
フォード米大統領が現職として初めて訪日し田中角栄首相と会談
1974
年
電源三法成立で原発建設への交付金制度確立
1975
年
サイゴン陥落により共産軍勝利でベトナム戦争終結
1975
年
佐藤栄作死去、日本武道館で大隈重信以来の「国民葬」(葬儀委員長は田中角栄)
1975
年
ビル・ゲイツがマイクロソフト創業
1975
年
合計特殊出生率が急落し2.0割れ(2005年の1.26まで漸減)
1975
年
広島カープがセリーグ初優勝(長嶋茂雄監督の巨人は最下位)
1975
年
第1回先進国首脳会議(サミット)開催、米英仏日独伊が参加
1975
年
カラーテレビの世帯普及率が90%突破
1976
年
周恩来死去、第一次天安門事件、鄧小平失脚
1976
年
中国が支援するクメール・ルージュのポル・ポトがカンボジアを制圧、国民の3割を虐殺
1976
年
スティーブ・ジョブズがアップルコンピュータ設立
1976
年
『ブロックくずし』のヒットでゲーム機普及が加速
1976
年
毛沢東が死去し華国鋒が中国最高指導者を継承、四人組逮捕により文化大革命終結
1976
年
戦後生れが総人口の過半を占める
1977
年
ジミー・カーター(民主党)が米大統領就任(~1981)
1977
年
カーター米大統領が在韓地上軍の削減を発表し米国の「アジア離れ」が始まる
1977
年
日本赤軍が日航機をハイジャック、福田赳夫首相が身代金および赤軍メンバー釈放の要求に応じる
1977
年
第10期3中全会で鄧小平が復活し中共中央の実権を掌握
1977
年
「ビデオ戦争」で日本ビクター・松下電器産業(VHS方式)がソニー(ベータ方式)に勝利
1977
年
日本人の平均寿命が男女共に世界一となる
1978
年
『未知との遭遇』『スター・ウォーズ』が日本で上映されSFブーム到来
1978
年
三里塚闘争が掃討され成田国際空港開業
1978
年
タイトーが『スペースインベーダー』(インベーダーゲーム)を発売し大ブームとなる
1978
年
鄧小平が日中平和友好条約批准で訪日し昭和天皇と会談し新日鉄・トヨタ・松下電器等を視察
1978
年
第11期3中全会で鄧小平指導部が文革否定・改革開放路線決定
1978
年
「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」運用開始
1978
年
乗用車の世帯普及率が50%突破
1979
年
鄧小平が訪米し米中国交樹立、「米中対ソ」の対立構図が鮮明となる
1979
年
ベトナムがカンボジアに侵攻し中越戦争勃発(ソ連と中国の代理戦争)
1979
年
ホメイニーのイスラム勢力が米英の傀儡パーレビ王朝を滅ぼし(イラン革命)第二次オイルショック発生
1979
年
米国スリーマイル島原発事故
1979
年
テレビアニメ『機動戦士ガンダム』放送開始
1979
年
『Japan as Number One: Lessons for America』(ジャパン・アズ・ナンバーワン)刊行
1979
年
松下幸之助が私財70億円を投じ財団法人松下政経塾設立
1979
年
第5回先進国首脳会議(東京サミット)
1979
年
アメリカを後ろ盾にサダム・フセインがイラク大統領就任(イランへの対抗馬)
1979
年
イスラエルが核実験に成功(7番目の保有国)
1979
年
アフガニスタン紛争で米ソ衝突(~1989)、デタントが終焉し冷戦が激化
1979
年
電電公社が世界で初めて車載電話の実用化に成功
1980
年
ナムコが『パックマン』を発売し世界的大ヒット
1980
年
ワインバーガー米国防長官の防衛費増額要請を鈴木善幸首相が拒否
1980
年
イラン・イラク戦争勃発(アメリカによるイラン叩き)(~1988)
1980
年
巨人の王貞治が現役引退し助監督就任~生涯成績は打率301(首位打者5回)・本塁打868(本塁打王15回)・打点2170(打点王13回)・三冠王2回・シーズンMVP9回、3年連続V逸で長嶋茂雄から藤田元司へ監督交代
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1980
年
日本の自動車生産が1千万台を突破し米国を抜いて世界一
1980
年
産業別労働人口:第一次産業10.9%・第二次33.6%・第三次55.4%
1981
年
第11期6中全会で華国鋒が失脚し鄧小平が胡耀邦・趙紫陽を従え支配体制確立
1981
年
孫正義が福岡市に「ユニソン・ワールド」・東京に「日本ソフトバンク」設立(ソフトバンク創業)、家業のパチンコ店の全国展開を断念するが翌年ハドソンと契約しPCソフト卸売市場を独占、「Oh! PC」「Oh! MZ」でPC関連書籍出版に進出
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1982
年
フォークランド紛争
1982
年
東北新幹線・上越新幹線開業
1982
年
ブレジネフが死去しアンドロポフがソ連最高指導者を承継
1983
年
中曽根康弘首相が韓国の全斗煥大統領を訪問、アメリカの対韓経済援助40億ドルの肩代わり献金を決定
1983
年
中曽根康弘首相が訪米し「不沈空母」発言が物議を醸すが訂正せず
1983
年
東京ディズニーランド開園
1983
年
世論調査で「レジャー・余暇生活」が「今後の生活の力点」でトップとなる
1983
年
レーガン米政権が戦略防衛構想(SDI)発動
1983
年
ソ連空軍機が領空侵犯した大韓航空機を撃墜
1983
年
AT&T創業
1984
年
アンドロポフが死去しチェルネンコがソ連最高指導者を承継(老人支配政治が終焉)
1984
年
グリコ・森永事件
1985
年
ソ連でゴルバチョフが政権を掌握しペレストロイカ(再建)・グラスノスチ(情報公開)を断行
1985
年
中曽根康弘政権下で日本電信電話公社が民営化されNTTグループ発足
1985
年
中曽根康弘政権下で日本専売公社が民営化され日本たばこ産業株式会社 (JT) 発足
1985
年
女子差別撤廃条約批准のため男女雇用機会均等法成立
1985
年
日航機墜落事故
1985
年
65歳以上人口が10%突破(総人口1億2105万人)
1985
年
レーガン米大統領とゴルバチョフソ連書記長がジュネーヴで会談し核軍縮協議を開始
1985
年
エアコンの世帯普及率が50%突破
1986
年
ソ連チェルノブイリ原子力発電所事故
1986
年
第12回先進国首脳会議(東京サミット)
1986
年
エニックスがゲームソフト『ドラゴンクエスト』発売・『ドラゴンボール』の鳥山明がキャラクターデザインを担当
1986
年
中曽根康弘内閣が「防衛費1%枠」撤廃
1986
年
ODAが50億ドル突破・アジア向けが急増
1987
年
中国で保守派が巻返し革新派の胡耀邦総書記(鄧小平の腹心)が失脚
1987
年
中曽根康弘政権下で国鉄が分割民営化されJR各社発足
1987
年
岸信介死去
1987
年
ニューヨーク株式市場大暴落(ブラックマンデー)
1987
年
大韓航空機爆破事件
1987
年
スクウェアがゲームソフト『ファイナルファンタジー』発売
1987
年
米ソが中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)締結
1988
年
青函トンネル開業
1988
年
瀬戸大橋開通
1988
年
イラン・イラク戦争終結
1989
年
昭和天皇が崩御し平成に改元
1989
年
竹下登政権が初の消費税導入(3%)
1989
年
ゴルバチョフ訪中、中ソ対立終結
1989
年
宇野宗佑内閣(自民党・中曽根系)発足
1989
年
革新派の胡耀邦追悼集会が第二次天安門事件に発展、保守派優勢となり趙紫陽総書記失脚
1989
年
東欧革命、ポーランド・ハンガリー・チェコスロヴァキアで非共産党政権発足
1989
年
第一次海部俊樹内閣(自民党三木三木武夫系・従米路線)発足
1989
年
アジア太平洋経済協力(APEC)発足
1989
年
「ベルリンの壁」崩壊
1989
年
H・W・ブッシュ米大統領とゴルバチョフソソ連書記長がマルタ会談で冷戦終結を宣言
1989
年
バブル潰しの土地基本法成立
1989
年
ルーマニア革命・チャウシェスク共産党指導者が射殺される
1989
年
日経平均株価の終値最高値更新(38915.87円)
1990
年
バルト3国がソ連から独立
1990
年
第二次海部俊樹内閣(自民党・三木系従米路線)発足
1990
年
「土地関連融資抑制に関する行政指導(総量規制)」を機に一気に信用収縮へ向かう
1990
年
ゴルバチョフのライバル・エリツィンがロシアの実権掌握
1990
年
ドイツ再統一
1990
年
世界の金融機関総資産ランキングで邦銀7行がベスト10入り
1990
年
産業別労働人口:第一次産業7.1%・第二次33.3%・第三次59.0%
1990
年
15年ぶりに赤字国債発行停止
1991
年
バブル潰しの金融証券不祥事摘発はじまる
1991
年
ゴルバチョフが訪日し海部俊樹首相と会談
1991
年
ティム・バーナーズ=リーがWorldWideWebを公開
1991
年
暴力団対策法成立、暴力団に対する取締り強化
1991
年
ユーゴスラビア紛争(民族独立運動による内戦)(~2000)
1991
年
ゴルバチョフが共産党側近に軟禁される(ソ連8月クーデター)
1991
年
「SMAP」(デビュー曲『Can't Stop!! -LOVING-』)がバラエティ路線で国民的アイドルへ台頭、「V6」「TOKIO」「嵐」「KinKi Kids」「KAT-TUN」と続きジャニー喜多川のジャニーズ事務所は「アイドル氷河期」から完全復活
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1991
年
宮澤喜一内閣(自民党・財務官僚)発足(経世会の小沢一郎が総裁選出馬を見送るが「面接」で宮澤総理を選択)
1991
年
エリツィン・ロシアの脱退でソ連が崩壊し米ソ冷戦が完全終結
1991
年
米国覇権主義「グローバリズム」「新自由主義」が台頭
1991
年
ODAが100億ドル突破・以後高止まり
1992
年
鄧小平が「南巡講話」で保守派を抑え改革開放路線を決定付ける
1992
年
細川護煕が日本新党を結成し新党ブーム始まる
1992
年
アメリカの「エコニミック・アニマル」批判を受け完全週休二日制が普及
1992
年
国連地球サミットが「持続可能な開発」を提唱
1993
年
日韓首脳会談で宮澤喜一首相が『朝日新聞』の誤報に基づく「朝鮮人従軍慰安婦問題」を含む諸問題を謝罪
1993
年
武村正義・鳩山由紀夫・菅直人らが新党さきがけ結成
1993
年
小沢一郎の造反で細川護熙内閣(非自民連立・公家・自主路線)が発足し「55年体制」終焉
1993
年
欧州連合(EU)発足
1993
年
APECシアトル会議でクリントン米大統領が貿易・投資の自由化促進を提唱
1994
年
ソニー・コンピュータエンタテインメントが「PlayStation」発売
1994
年
政治改革四法成立(小選挙区比例代表並立制と政党交付金の導入)
1994
年
羽田孜内閣(非自民連立)発足
1994
年
村山富市内閣(自社さ連立)発足
1994
年
Amazon.com設立
1994
年
アメリカによる対日内政干渉「年次改革要望書」の運用開始
1994
年
チェチェン紛争勃発(パイプラインを巡るソ連の武力干渉)
1994
年
赤字国債発行が再開され以後国債発行残高が急増
1995
年
GATTが発展解消し世界貿易機関(WTO)発足
1995
年
阪神・淡路大震災
1995
年
地下鉄サリン事件
1995
年
円高が急進しドル円が80円割れ
1995
年
野茂英雄が鈴木啓示監督と衝突し近鉄退団、「任意引退」で日本球界を追われマイナー契約でLAドジャースに入団すると開幕直後にMLBデビューし13勝・防御率2.54で最多奪三振・新人王獲得
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1995
年
オウム真理教の麻原彰晃らを逮捕
1995
年
Microsoftが「Windows 95」発売、日本市場開拓のため孫正義のソフトバンクと合弁で「ゲームバンク」設立(1998年業績不振で撤退)
1995
年
テレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』放送開始
1995
年
ODA147億ドル
1996
年
ゲームフリークがゲームソフト『ポケットモンスター』を発売し記録的大ヒット
1996
年
台湾海峡ミサイル危機、中国の恫喝は奏功せず李登輝が台湾総統就任
1996
年
住専処理法成立
1996
年
鳩山由紀夫・菅直人らが自社さ連立政権から離脱し民主党結成
1996
年
総選挙、政権交代を掲げた新進党も民主党も勝てず橋本龍太郎首相は自民党単独組閣へ
1996
年
「金融ビッグバン」で外資の日本侵出が加速、宮内義彦が政府規制改革審議会の議長に就任し(2006年小泉純一郎内閣退陣まで在任)適債基準撤廃など大蔵規制緩和を引出したオリックスは直接金融で資金力を高めM&Aで躍進
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1997
年
三木谷浩史が楽天創業
1997
年
鄧小平が死去し江沢民らの集団指導体制が発足、格差社会・資本主義国化が加速
1997
年
東京三菱銀行が不良債権をバルクセールで外資系ファンドに売却、サーベラス・ローンスター・ムーア等の「ハゲタカ」が日本買いに殺到
1997
年
消費増税(5%)
1997
年
アメリカの圧力により独占禁止法改定・持株会社解禁
1997
年
鄧小平の「一国二制度論」に基づき香港返還
1997
年
ヘッジファンドの売り仕掛けでアジア通貨危機が発生し経済破綻したタイ・インドネシア・韓国がIMF管理下に入る
1997
年
政府の「護送船団方式」放棄により拓銀・長銀・日債銀・山一證券・三洋証券など大手金融機関の破綻が相次ぐ
1997
年
京都議定書成立(温室効果ガスの削減目標設定)、二大排出国の米中は参加せず
1997
年
携帯電話普及率が50%突破
1997
年
乗用車の世帯普及率が80%突破
1998
年
長野冬季オリンピック
1998
年
パキスタンが核実験に成功(8番目の保有国)
1998
年
アメリカの圧力により大規模小売店舗法廃止(大店立地法に移行後2000年完全廃止)
1998
年
小渕恵三内閣(自自公連立)発足
1998
年
北朝鮮が弾道ミサイル「テポドン」を日本に向け発射
1998
年
ラリー・ペイジとセルゲイ・ブリンがGoogle設立
1998
年
長銀経営破綻、リップルウッドが僅か10億円で買収に成功
1998
年
金融再生関連法が相次いで成立
1998
年
エアコンの世帯普及率が80%突破
1998
年
「新自由主義」「市場原理主義」が世界を席巻
1999
年
日銀のゼロ金利政策はじまる
1999
年
NATO軍がユーゴ空爆
1999
年
新日米防衛協力指針(新ガイドライン)関連法成立
1999
年
東海村JCO臨界事故
1999
年
アメリカの圧力で労働者派遣法が改定され人材派遣原則自由化
1999
年
ソ連大統領のエリツィンが失脚しKGB出身のプーチンが最高指導者を承継
1999
年
中国石油天然気(ペトロチャイナ)設立
1999
年
ODA154億ドル・最高額更新
2000
年
第一次森喜朗内閣(自公連立)発足
2000
年
ベライゾン・コミュニケーションズ設立
2000
年
竹下登死去
2000
年
「抵抗勢力の総本山」大蔵省解体・財務省と金融庁に分割
2000
年
第二次森喜朗内閣(自公連立)発足
2000
年
第26回主要国首脳会議(沖縄サミット)
2000
年
ソフトバンク・オリックス・東京海上が連合し経営破綻した日本債券信用銀行を安値で買収(→あおぞら銀行)、孫正義のソフトバンクは株価急騰で株式時価総額が国内2位となり2003年持分転売で巨利を獲得
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2000
年
白川英樹が「導電性高分子の発見と発展」でノーベル化学賞受賞
2000
年
中国移動通信(チャイナモバイル)設立
2000
年
産業別労働人口:第一次産業5.0%・第二次29.5%・第三次64.3%
2000
年
国債発行額が200兆円突破
2001
年
ITバブル崩壊
2001
年
ジョージ・W・ブッシュ(共和党)が米大統領就任(~2009)~「予防戦争」論に基づく米軍大暴走で「テロ時代」幕開け
2001
年
イチローが任天堂・山内溥オーナーのシアトル・マリナーズでMLBデビュー、最多得票でオールスターゲームに選出され242安打・打率350・盗塁56で首位打者・盗塁王・新人王・シリーズMVP・ゴールドグラブ賞を獲得
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2001
年
9.11同時多発テロ、小泉純一郎内閣が対テロ戦争参加を表明
2001
年
テロ対策特別措置法成立
2001
年
野依良治が「キラル触媒による不斉反応の研究」でノーベル化学賞受賞
2001
年
ゴールドマン・サックスが「BRICs」の潜在能力を示唆
2001
年
パソコンの世帯普及率が50%突破
2001
年
国債発行額が300兆円突破
2001
年
完全失業率が初めて5%突破
2002
年
EU統一通貨ユーロ流通開始
2002
年
ブッシュ大統領が一般教書演説でイラン・イラク・北朝鮮を「悪の枢軸」と断罪
2002
年
小泉純一郎政権がアメリカの要求に応じ健康保険本人3割負担導入
2002
年
FIFAワールドカップ日韓大会
2002
年
竹中平蔵の金融庁が産業再生機構等で不良債権処理を促す「金融再生プログラム」策定、「ハゲタカ」外資に道を開く
2002
年
小泉純一郎首相が北朝鮮と初の首脳会談を行い日朝平壌宣言を行うがブッシュ米政権に叱られ従米転向
2002
年
小柴昌俊が「カミオカンデ」を使った「天体物理学、特に宇宙ニュートリノの検出に対するパイオニア的貢献」でノーベル物理学賞受賞
2002
年
田中耕一(島津製作所従業員)が「生体高分子の同定および構造解析のための手法の開発」でノーベル化学賞受賞
2002
年
フリーターが200万人突破
2002
年
携帯電話普及率が90%突破
2003
年
小泉純一郎政権が郵政事業庁を廃止し日本郵政公社発足
2003
年
個人情報保護法成立
2003
年
有事関連三法成立
2003
年
「マニフェスト選挙」で民主党躍進
2003
年
国債発行額が400兆円突破
2004
年
マーク・ザッカーバーグがFacebook設立
2004
年
小泉純一郎政権がアメリカの要求に応じ労働者派遣法改定で製造業派遣解禁
2004
年
小泉純一郎政権がアメリカの要求に応じ司法試験制度を変更し法科大学院(ロースクール)設置
2004
年
江沢民から胡錦濤指導部へ政権交代
2004
年
デジカメの世帯普及率が50%突破
2005
年
「青色LED訴訟」東京高裁和解勧告を中村修二が「日本の司法は腐っている」と罵りつつ受諾(一審判決約200億円に対し和解金額は延滞損害金込で約8億4千万円に激減)、事件後東京高裁は知的財産高等裁判所を設置
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2005
年
JR福知山線脱線事故
2005
年
小泉純一郎政権がアメリカの要求に応じ日本道路公団を解散し分割民営化
2005
年
小泉純一郎政権がアメリカの要求に応じ商法改定で米国流会社法へ改編
2005
年
「郵政解散」総選挙で小泉純一郎首相が「抵抗勢力」を駆逐し民主党も大敗
2005
年
人口減少社会突入・65歳以上人口が20%突破(総人口1億2777万人)
2005
年
合計特殊出生率1.26、2006年から微増傾向に転じる
2005
年
小泉純一郎政権が「日米同盟 未来のための変革と再編」で日米同盟の範囲を全世界の「予防戦争」へ拡大
2005
年
小泉純一郎政権が郵政民営化関連法を成立させ大蔵省は悲願達成
2005
年
地価が1991年ピーク時の50%を割る
2006
年
オリックスのM&A実働部隊「村上ファンド」の村上世彰がインサイダー容疑で逮捕(2011年執行猶予付き有罪判決が確定)、小泉純一郎首相の任命責任に係る福井俊彦日銀総裁と宮内義彦は運良く検察の追及を免れる
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2006
年
第一次安倍晋三内閣(自公連立)発足
2006
年
北朝鮮の核実験成功宣言で(真偽不明)東アジア情勢が緊迫化
2006
年
米軍がイラクでサダム・フセインを拘束し殺害
2007
年
サブプライム危機で米住宅バブルが崩壊し超円高時代へ突入
2007
年
アップルが「iPhone」発売
2007
年
アメリカの圧力により日本版三角合併解禁(外資によるM&A促進策)
2007
年
参議院選挙、小沢一郎の民主党が過半数議席を獲得し「ねじれ国会」始まる
2008
年
第34回主要国首脳会議(洞爺湖サミット)、ブッシュ米大統領の自衛隊輸送機アフガニスタン派遣要請を福田康夫首相が拒否
2008
年
リーマン・ショックが世界的金融危機に拡大し日経平均株価は7000円割れ
2008
年
麻生太郎内閣(自公連立)発足
2008
年
小林誠・益川敏英が「小林・益川理論とCP対称性の破れの起源の発見」でノーベル物理学賞共同受賞
2008
年
南部陽一郎(米国籍)が「素粒子物理学における自発的対称性の破れの発見」でノーベル物理賞受賞
2008
年
下村脩が「緑色蛍光タンパク質 (GFP) の発見と生命科学への貢献」でノーベル化学賞受賞
2009
年
バラク・オバマ(民主党)が米大統領就任
2009
年
大学進学率が50%突破
2009
年
裁判員制度はじまる
2009
年
総選挙、民主党が憲政史上最高の議席占有率64.2%を獲得
2009
年
鳩山由紀夫政権がアメリカの対日内政干渉「年次改革要望書」を廃止
2009
年
民主党政権が行政刷新会議で目玉政策「事業仕分け」をはじめるが官僚の抵抗でパフォーマンスに終始(のちノーベル賞を受賞する山中伸弥京大教授も大幅予算カット)
2010
年
尖閣諸島で中国漁船衝突事件が起り菅直人内閣が混乱
2010
年
鈴木章・根岸英一が「クロスカップリングの開発」でノーベル化学賞共同受賞
2010
年
中国のGDPがアメリカに次ぐ世界2位となり日本は42年ぶりに転落
2011
年
菅直人首相がアメリカによる「第三の開国」を受入れTPP推進を表明
2011
年
菅直人内閣が「年次改革要望書」に代わる内政干渉「日米経済調和対話」受入れ
2011
年
東日本大震災および福島第一原子力発電所事故
2011
年
米軍特殊部隊がパキスタンでウサマ・ビン・ラーディン殺害
2011
年
民主党政権の無策で超円高が進行しドル円が75円32銭の戦後最高値を更新
2012
年
東京スカイツリーが開業
2012
年
石原慎太郎東京都知事の暴走で尖閣諸島問題が先鋭化し日本政府は已む無く国有化
2012
年
胡錦濤から習近平指導部へ政権交代、社会格差是正・汚職撲滅を標榜
2012
年
民主党政権初の総選挙、民主党は歴史的大敗を喫し(230→57)自民党が議席占有率61.2%で大逆転
2012
年
第二次安倍晋三内閣(自公連立)発足
2012
年
スマートフォン普及率が50%突破
2013
年
アベノミクスへの期待と異次元金融緩和で株高・円安への是正が進展
2013
年
スノーデン元CIA職員の告発によりアメリカの全世界的通信傍受が発覚
2013
年
総選挙、自民党完勝で「ねじれ国会」解消
2013
年
65歳以上人口が25%突破(総人口1億2726万人)
2014
年
小保方晴子の「STAP論文」の不正が発覚し理研は論文を撤回、理研発生・再生科学総合研究センター長の笹井芳樹が自殺
2014
年
ロシア・ウクライナ紛争
2014
年
消費増税(8%)
2015
年
梶田隆章(小柴昌俊の門下生)が「スーパーカミオカンデ」を使った「ニュートリノ振動の発見」でノーベル物理学賞受賞
2015
年
大村智が「微生物による感染症治療法の発見」でノーベル物理学賞受賞