98 ikedahayato

いけだ はやと

池田 勇人

1899年~1965年

80

大蔵省傍流ゆえに公職追放を免れ吉田茂の「保守本流」を継いで首相に栄達、「寛容と忍耐」で安保問題を封印し従米外交を定着させたが「所得倍増計画」で高度経済成長を彩り貿易立国への道を拓いた「三等重役」の旗手

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Episode

池田勇人の失言癖は歴代首相の中で際立つが、何とも憎めない人柄で敗戦後の日本を明るくした感もある。1949年衆議院選挙に初当選した池田勇人はいきなり吉田茂内閣の蔵相に就任したが、ドッジ・ライン恐慌で日本の産業界が壊滅に瀕すなか「中小企業の一部倒産やむなし」「貧乏人は麦を食え」と口を滑らせ、1952年又も「中小企業の倒産・自殺やむなし」と失言し通産相の職を失った。しかしユーモア溢れる池田勇人は放言癖を逆手にとり1960年の総選挙で自民党のテレビCMに登場、「私はウソは申しません」の名台詞は流行語となった。大酒呑みでザックバランな池田勇人は部下からも慕われ、「所得倍増計画」の謀臣下村治を筆頭に、後に首相となる宮澤喜一と大平正芳、河上弘一(日本輸出銀行初代総裁)小林中(日本開発銀行初代総裁)ら多くの人材に活躍の場を与え、部下の成長と共に「宏池会」は強大化し「保守本流」に定着した。腹心の宮澤喜一は池田勇人を「自分が秀才ではないと思い込んでしまった人」と評し「ディスインテリ」という造語を奉っている。地元広島を愛する池田勇人は広島カープ後援会の名誉会長を務めたが、ある日カープを負かした相手球団の選手にいきなり電話を掛け「ワシは池田勇人じゃ。今日はよくもカープを負かしてくれたなあ」と脅したという。また遡って終戦の3日後、日本政府は近衛文麿の要請に応じ進駐軍兵士専用の売春館「特殊慰安施設」を開業したが、大蔵官僚の池田勇人は「1億円で純潔が守られるのなら安い」と気前良く金を出している。池田勇人の人柄を偲ばせる名場面であった。

終戦の僅か3日後、東久邇宮稔彦王内閣の国務大臣に就いた近衛文麿は真先に「日本の娘を守ってくれ」と要請、警察を司る内務省は即座に動き、大蔵官僚の池田勇人は1億円の予算要求に対し「1億円で純潔が守られるのなら安い」と承諾した。早くも8月27日、大森海岸の料亭「小町園」に日本政府の募集に応じた1360人の慰安婦を擁し進駐軍兵士専用の売春館「特殊慰安施設」第1号が開業した。

アメリカ進駐軍の第一陣が日本上陸した当日、皇族の東久邇宮稔彦王首相は記者会見に応じ有名な「一億総懺悔」発言を行った。曰く「事ここに至ったのは、もちろん政府の政策がよくなかったからであるが、また国民の道義のすたれたのもこの原因の一つである。この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思う。一億総懺悔をすることがわが国再建の第一歩であり、国内団結の第一歩と信ずる。今日においてなお現実の前に眼を覆い、当面を糊塗して自らを慰めんとする如き、また激情にかられし事端をおおくするが如きことは、とうてい国運の恢弘を期する所以ではありません。一言一句ことごとく、天皇に絶対帰一し奉り、いやしくも過またざることこそ臣氏の本分であります」。「臣民全員が天皇に敗戦を詫びる」という東久邇宮稔彦王の思考こそが大日本帝国を狂わせた元凶であろうが、吉田茂内閣の従米路線のもと懺悔対象が「天皇」から「国際社会(民主的なアメリカ→マルクス主義の国際正義→迷惑をかけたアジア諸国)」にすり替って日本は自虐史観の国となり、また一億総懺悔で「戦争責任」は吹飛び日本人自身による開戦敗戦の原因究明も戦犯追及もないままに「戦後」が始まってしまった。なお東久邇宮稔彦王は、皇族の陸軍大将ゆえに戦後最初の暫定首相に担がれ2ヶ月足らずで退陣、1947年に皇籍離脱したが公職追放に遭難した。一般人となった「東久邇稔彦」は、新宿西口の闇市「青空マーケット」で食料品店・喫茶店・骨董品店などを開いたが事業は悉く失敗し、怪しい人脈に担がれ「ひがしくに教」を興すも世間を騒がせただけに終わった。岸信介への首相退陣要求や「東久邇紫香」との婚姻騒動など時たま世間を賑わせた東久邇稔彦は、なんと102歳の長寿を保ち1990年に大往生を遂げた。

東條英機逮捕でGHQの戦犯狩りが始まると、軍部・政財界・新聞各社はもとより日本国中が動揺の渦に包まれ、東久邇宮稔彦王首相・近衛文麿国務大臣を先頭に卑屈なGHQ詣でと浅ましい阿諛追従が横行した。対するアメリカは公然と「アメリカをよく理解し、進んでアメリカの対日政策に従っていこうという熱意ある人」以外を排除する方針を示し、従米派筆頭の吉田茂がGHQ参謀第2部長ウィロビーの手先となって戦犯指定や政府の人選に躍動した。一方、GHQに公平な統治を求める硬骨漢は極めて希で、その筆頭の重光葵外相は「英語を公用語とする」「米軍票を通貨にする」といった無茶な要求の撤回には成功したものの、早くも9月17日に吉田茂への外相交代を強いられ、翌年A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに投獄され東京裁判で禁固7年の有罪判決を受ける羽目となった。

戦犯狩りが始まり要人が挙って保身に奔るなか、重光葵外相は「折衝の もし成らざれば死するとも われ帰らじと誓いて出でぬ」と決死の覚悟でGHQに乗込み「英語を公用語とする」「米軍票を通貨にする」という無茶な布告を撤回させたが、数日後に外相を罷免された。重光葵の後任外相に納まりGHQの占領政策を担った吉田茂は「外務大臣に任命されたとき、総理大臣であった鈴木貫太郎氏に会った。そのとき鈴木氏は『負けっぷりも、よくないといけない。鯉はまな板の上に乗せられてからは、庖丁をあてられてもびくともしない。あの調子で、負けっぷりをよくやってもらいたい』といわれた。この言葉はその後、私が占領軍と交渉するにあたっての、私を導く考え方であったかもしれない」と述懐している。重光葵の腹心で共に布告撤回に尽力した岡崎勝男は、勝ち馬の吉田茂へ乗換えて従米外交の担い手となり日米行政協定に暗躍、「第五福竜丸被爆事件」直後の日米協会のスピーチでは「米国のビキニ環礁での水爆実験に協力したい」などと暴言を吐いた。一方、GHQに危険視された重光葵は外相更迭の翌年東京裁判の獄に繋がれ禁固7年の有罪判決を受けた。『続 重光葵日記』に曰く「結局、日本民族とは、自分の信念をもたず、強者に追随して自己保身をはかろうとする三等、四等民族に堕落してしまったのではないか・・・節操もなく、自主性もない日本民族は、過去において中国文明や欧米文化の洗礼を受け、漂流していた。そうして今日においては敵国からの指導に甘んじるだけでなく、これに追随して歓迎し、マッカーサーをまるで神様のようにあつかっている。その態度は皇室から庶民にいたるまで同じだ・・・はたして日本民族は、自分の信念をもたず、支配的な勢力や風潮に迎合して自己保身をはかろうとする性質をもち、自主独立の気概もなく、強い者にただ追随していくだけの浮草のような民族なのだろうか。いや、そんなことは信じられない。いかに気もちが変化しても、先が見通せなくても、結局は日本民族三千年の歴史と伝統が物をいうはずだ。かならず日本人本来の自尊心が出てくると思う」。

GHQは民間検閲支隊を設置して徹底的な検閲を開始、1952年の占領終結まで継続された。検閲スタッフには「高度な教育のある日本人五千名」が高給で採用され、経費は日本政府から吸上げる「戦後処理費」でまかなわれた。吉田茂政権のもと日本人には秘匿されたため現在でもあまり知られていないが、GHQの言論統制は新聞・雑誌・書籍の事前検閲および発禁に止まらず、戦時中の憲兵隊さえ行わなかった個人の信書開封・翻訳を年間何千万通もの規模で行い、日本人全体の思考把握とコントロールを図るものであった。史上希にみる徹底的な言論統制の結果、発行停止を恐れる新聞各紙は「自主規制」に奔り、言論界・学会の隅々までアメリカ批判をタブー視する風潮が確立されていった。

米国務省は「降伏後における米国の初期対日方針」を決定した。「日本は米国に従属する」との基本方針のもと、政治における非軍事化・戦争犯罪人の処分・民主化にくわえて、「日本の軍事力を支えた経済的基盤(工業施設など)は破壊され、再建は許されない・・・日本の生産施設は、用途転換するか、他国へ移転するか、またはクズ鉄にする」という工業分野の徹底的な破壊が決められた。さらに、日本が負うべき戦時賠償調査のため訪日したE・W・ポーレーは、「日本人の生活水準は、自分たちが侵略した朝鮮人やインドネシア人、ベトナム人より上であっていい理由はなにもない」との極論を述べ、実際に日本の苛性ソーダや製鉄産業の設備をフィリピンなどに移設することを真剣に検討した。対する日本側では英語を解する外交官出身者が主導権を握ったが、アメリカの不条理に反発する重光葵・芦田均らは退けられ、代りに吉田茂ら「協力的人物」が引上げられた。

当初アメリカは直接軍政を予定していたが、準備のための十分な時間がなく、また最小限の兵力とコストで日本の占領統治を行うべく間接統治へ切替えた。GHQ指令を日本政府が法令化する流れを基本としたが、緊急の場合は法令化を省略しGHQ指令を「ポツダム勅令」の名で直接公布する方式が採られた。中央政府廃止で国土を4分割され英米仏ソの各国軍司令官に直接統治されたドイツよりマシかも知れないが、間接統治とはいえ事実上の主権者はアメリカであり、日本を「保護国」とする認識は講和独立後も続き今日の米国政府でも公然と語られている。ヘソ(朕より上)と呼ばれたダグラス・マッカーサーは「私は日本国民に対して、事実上無制限の権力をもっていた。歴史上いかなる植民地総督も征服者も、私が日本国民に対してもったほどの権力をもったことはなかった・・・軍事占領というものは、どうしても一方はドレイ(奴隷)になり、他方はその主人の役を演じ始めるものだ」などと吹聴し、トルーマン米大統領は「日本は軍人をボスとする封建組織のなかの奴隷国であり、一般人にすれば主人が占領軍に切替わっただけで新政権のもとに生計が保たれれば別にたいしたことではない」と痛いところを衝いている。GHQ内部では、反共主義者のチャールズ・ウィロビー部長率いる諜報・保安・検閲担当の参謀第2部(G2)と、社会主義にかぶれ極端な民主化政策を推進するホイットニー局長・ケーディス次長の民政局(GS)の対立が次第に深刻化した。G2は反共の吉田茂を支持し、GSは財閥解体・日本国憲法策定・労働組合育成など実験的政策を進めつつ社会党など革新陣営を支持し片山哲・芦田均内閣を成立させた。が、米ソ冷戦の激化に伴い日本統治でも反共路線が優勢となり、1948年以降GSは急速に力を失いGHQの主導権争いはG2の完勝で終結、吉田茂の長期政権が重光葵・鳩山一郎らの自主路線を封殺した。1952年サンフランシスコ講和条約発効に伴いGHQは廃止され、日本を去ったマッカーサーはトルーマン大統領との政争に敗れ失脚、長すぎた吉田茂政権も漸く終焉を迎えたが、高度経済成長により従米路線が戦後日本の「保守本流」に定着した。

敗戦の混乱を鎮めるため公家の東久邇宮稔彦王が暫定組閣したが、親米政権を望むGHQの意を受けた吉田茂外相は「忘れられた存在」幣原喜重郎を首相に擁立、GHQに楯突き外相交代を強いられた重光葵は「幣原喜重郎内閣は昭和二〇年一〇月九日成立した。その計画は吉田外務大臣が行った。吉田外務大臣は、いちいちマッカーサー総司令部の意向を確かめ、人選を行った。残念なことに、日本の政府はついに傀儡政権となってしまった」と嘆いた。幣原喜重郎内閣は僅か半年の短命に終わったが、日本軍解体・五大改革指令・財閥解体・衆議院選挙法改定と総選挙・公職追放・沖縄施政権剥奪・預金封鎖と新円切替・労働組合法公布・東京裁判開廷と、GHQが命じる重要施策を次々と実行へ移した。国民国家はさておき天皇制存続を使命と考える幣原喜重郎は、昭和天皇に「人間宣言」を促し、自ら英訳してマッカーサーに国体護持を訴えた。憲法改定を迫られた幣原喜重郎は、天皇制に関わるだけにGHQ任せにはせず、憲法改定に延命を賭ける近衛文麿のスタンドプレーを排し、松本蒸治国務相を中心に「憲法問題調査会」を立上げ起草作業に着手した。GHQは「自主憲法」を容認する方針だったが、瑣末な修辞をいじくるばかりの「松本委員会」は抜本的改革案を出せず、業を煮やしたマッカーサーはケーディス民政局(GS)次長に草案策定を命じた。少人数のケーディス・チームが短時日で作成した「押付け憲法」であったが、幣原喜重郎首相は天皇の訴追免除と引換えに受諾を決断、「斯る憲法草案を受諾することは極めて重大の責任であり、恐らく子々孫々に至る迄の責任である。この案を発表すれば一部の者は喝采するであらうが、又一部の者は沈黙を守るであらうけれども心中深く吾々の態度に対して憤激するに違ひない。然し今日の場合、大局の上からこの外に行くべき途はない。」と語り退陣した。後継の第一次吉田茂内閣が「日本国憲法」を成立させ、幣原喜重郎は衆議院議員となり芦田均の民主党で幹部に納まったが、田中角栄ら陣笠を引連れて吉田の自由党に合流し民主自由党が発足、吉田内閣のもと78歳で没するまで衆議院議長を占めた

幣原喜重郎は、満州事変まで「協調外交」を主導し戦後首相となった外務省本流の中心人物、岩崎弥太郎の娘婿で加藤高明・岩崎久弥の義弟である。東大法学部を出て外交官となった幣原喜重郎は、駐米大使としてワシントン海軍軍縮条約をリードし、加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸の内閣で外相を務めワシントン体制維持と対英米協調・経済的利益重視と対中国不干渉を旨とする「幣原外交」を展開した。蒋介石の北伐に際し幣原喜重郎外相は英米の派兵要請を拒否し、国民政府軍が日英領事館を襲撃した「南京事件」でも制裁反対を貫いたが、在華権益や居留民保護の具体策に欠ける「霞ヶ関正統派外交」は「軟弱外交」と批判された。金融恐慌で第一次若槻内閣が倒れ、田中義一内閣は山東出兵など「強硬外交」へ転じたが張作霖爆殺事件で退陣、濱口雄幸内閣が発足し幣原喜重郎は外相に返咲いた。1930年のロンドン海軍軍縮条約で幣原外交は絶頂を迎えたが、海軍軍拡派と政友会が統帥権干犯問題を引起し、濱口雄幸首相銃撃事件が発生した。幣原喜重郎は116日間も首相代理を務め第二次若槻内閣で外相を続投したが1931年柳条湖事件が発生、若槻内閣は「不拡大方針」を宣しつつ関東軍・朝鮮軍の独断専行を追認し特別予算までつけて歩み寄ったが、満州事変と軍拡の勢いを止められなかった。外相退任に伴い隠退した幣原喜重郎は、第二次大戦が起ると「欧州戦争の前途」を著してドイツの苦戦を警告し、日本が参戦すると早期講和を唱えたが、末期には何故か「和平工作などは一切無駄であり、有害である」と徹底抗戦へ転じた。終戦後、GHQと吉田茂は「忘れられた存在」幣原喜重郎を首相に担出し、幣原内閣は僅か半年の間に日本軍解体・五大改革・財閥解体・衆議院選挙法改定と総選挙・公職追放・沖縄施政権剥奪・預金封鎖と新円切替・労働組合法公布・東京裁判開廷と、GHQの命令を粛々実行へ移した。更に憲法改定を迫られた幣原喜重郎首相は、近衛文麿の独走を退け「松本委員会」を発足させたが、抜本的改革案を出せないうちに民政局(GS)次長ケーディスに取って代られ、天皇の訴追免除と引換えに「押付け憲法」を受諾した。

1929年に起った世界恐慌からの脱却を図るため、日本政府は軍事費関連を中心に超積極的な財政出動策を採り、満州事変勃発以降の軍事費急増が拍車を掛け、日本経済は1934年には世界恐慌前の水準に回復した。続く日中戦争、第二次世界大戦においても日本の鉱工業生産は軍需主導で拡大し続けたが、国策主導による統制経済への傾斜は大資本による経済寡占化を促し第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占める「開発独裁」状態となっていた。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」を掲げるマッカーサーのGHQは、軍国主義根絶のためにも財閥解体が最重要と判断し、早くも1945年11月に勅令第657号を公布し幣原喜重郎内閣に財閥解体を命じた。1946年4月には実務を担う持株会社整理委員会を発足させ、同年9月以降次々と十五大財閥(三菱・三井・住友・安田・中島・鮎川・浅野・古河・大倉・野村・渋沢・神戸川崎・理研・日窒・日曹)を指定、1947年12月には財閥解体の根拠法となる過度経済力集中排除法を定め、重箱の隅をつつくような徹底的な産業構造破壊を断行、主要親会社67社と子会社・孫会社3658社が整理され、さらに財閥を主要株主とする395社も整理された。しかし、マッカーサーの思惑を乗越えて多くの財閥系企業は協力関係を維持しつつ生残り、冷戦の緊迫化と朝鮮戦争勃発を受けてアメリカ政府が日本の経済力・工業力を利用する方針に180度転換したのを機に風当たりは弱まって、三菱・三井・住友・安田(扶桑)・三和・第一勧銀の6大銀行グループによる再編が進み、旧財閥を冠した社名も許されるようになっていった。

GHQの指令により、まず軍国主義に関与した人物として1946年1月に約6千人が公職から追放され、次いで1947年1月から1948年8月までの間に約21万人(うち軍人16万7千人)が公職追放指定された。幣原喜重郎内閣の外相でGHQ代理人の吉田茂は、日独伊三国同盟を推進した「外務省革新派」(リーダーの白鳥敏夫は東京裁判で終身禁固刑判決)など意に添わない人物を徹底的に公職追放へ追込み、吉田のイニシャルをとって「Y項パージ」と恐れられた。戦犯狩りに続く公職追放の大嵐に政官財は戦々恐々、虎の威を借る吉田茂の権力は増大し、内務官僚で公職追放令の策定作業にあたった後藤田正晴は「みんな自分だけは解除してくれと頼みにくる。いかにも戦争に協力しとらんようにいってくる。なんと情けない野郎だなと」追想している。しかし米ソ冷戦の顕在化に伴いアメリカの対日政策は「戦前体制を破壊し尽くし軍国主義復活を阻止する」方針から「経済復興を促し反共の防波堤として利用する」方向へ180度転換、その手始めに公職解放指定は全部解除され共産主義者狩りの「レッド・パージ」へ「逆コース」を辿った。1952年の衆議院総選挙は鳩山一郎・重光葵ら戦前派の復活選挙となり公職追放解除者が議席の42%を獲得、極端な従米路線を否定する鳩山・重光ら自主路線派は「ワンマン宰相」吉田茂を脅かす勢力となり両派の対立は次第に深まった。

東京裁判では、裁判中に病死した永野修身・松岡洋右と精神疾患で免訴された大川周明を除く25名が有罪判決を受け、うち東條英機・板垣征四郎・木村兵太郎・土肥原賢二・武藤章・松井石根・広田弘毅の7名が死刑となった。近衛文麿は召還命令を受けると抗議の服毒自殺を遂げた。東條英機は自作の『戦陣訓』に書いた「生きて虜囚の辱めを受けず」の信条を実践すべく拳銃自殺を図ったが、失敗して繋がれた。木戸幸一は、天皇と自身を守るため、GHQに『木戸日記』を提出して弁明に努めたが、保身のために同胞を売った行為として今なお悪評が高い。さらに、上海事変などの謀略工作に従事した陸軍人田中隆吉は、訴追を免れるため虚実取り混ぜた陸軍の行為をGHQに暴露した。大川周明は、裁判中に東條英機の頭をポカリとやって精神疾患と判断され免訴されたが、獄中でイスラム語のコーランを翻訳するなど、偽装の可能性が高い。なお、有罪判決を受けた戦犯は、広田弘毅・平沼騏一郎・東條英機・小磯國昭(以上総理大臣)・板垣征四郎・南次郎・梅津美治郎・土肥原賢二・荒木貞夫・松井石根・畑俊六・木村兵太郎・武藤章・佐藤賢了・橋本欣五郎(以上陸軍)・永野修身・嶋田繁太郎・岡敬純(以上海軍)・賀屋興宣・木戸幸一・松岡洋右・重光葵・東郷茂徳・大島浩・白鳥敏夫・鈴木貞一・星野直樹(以上文官)・大川周明(民間人)であった。東京裁判自体は「勝てば官軍」の暴挙だが、有罪者の顔ぶれは総じて妥当といえよう。対米開戦の張本人である陸軍の田中新一と海軍の伏見宮博恭王・末次信正をはじめ、無謀な計画で大勢を死なせた牟田口廉也・服部卓四郎・辻政信ら陸軍参謀および対米開戦を主導した海軍の高田利種・石川信吾・富岡定俊・大野竹二ら海軍国防政策委員会が対象外なのは解せないが、広田弘毅・松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫など文官のガンもしっかり入っている。訴因が軍政に偏り統帥部が意図的に外されているが、天皇の訴追を避けたいアメリカの思惑が透けて見える。また、陸軍に比して海軍に甘いのが大きな違和感で、「陸軍=戦争=悪」という日本人の戦後史観に大きな影響を及ぼしたであろう。

日本国憲法は、GHQ民政局(GS)次長ケーディスのチームが作成した原案を幣原喜重郎・吉田茂内閣が丸呑みして公布した代物であり、内容はともかく「押付け憲法」の評価は全く正しい。敗戦直後より改憲要求が予期されるなか、国務大臣の近衛文麿が自らの生存を賭けて憲法改定案作成に乗出したが、幣原喜重郎内閣は近衛を抑え「松本委員会」の専権事項として憲法起草に取組んだ。しかし、根本的改革を求めるGHQは日本政府案を完全否定し、民政局のケーディスのチームが短期間で作成した憲法草案を突きつけ、もし受入れなければ、天皇が戦犯として処刑されるかもしれず、吉田茂外相以下の現政府メンバーも芦田均厚生相は「これがもとで内閣が総辞職でもすれば、当然GHQ案を喜んでのむ連中が出てくるに違いない。従って内閣はどうしてもここで踏ん張って、きたるべき総選挙に備えなければいけない」と踏ん張ったが、GHQの圧力には抗すべくもなく、2月13日、遂に幣原喜重郎内閣は受諾の決断を下し、「極めて重大の責任」を痛感しつつ退陣した。そして3ヵ月後の5月22日に第一次吉田茂内閣が発足、国会審議を「国体はいささかも変更されない」との詭弁一点張りで押し切り、11月3日の日本国憲法公布、翌1947年4月25日の新憲法下での総選挙、5月3日の憲法施行を見届けた3週間後に吉田茂内閣は退陣した。自作の「日本国憲法」を押し通したいGHQは、戦後初の総選挙で圧勝し次期組閣が確実であった自由党総裁の鳩山一郎を強引な公職追放で追い払い、配下の吉田茂に組閣させて野望を果した。こうした一連の経緯は、占領中の検閲によって日本国内で完全に秘匿されたため、現在でも多くの日本人が知らないが、アメリカの公文書公開によっても明らかな事実である。ライシャワー駐日大使は著書のなかで「マッカーサーは自分で日本国憲法を書いてしまった」とはっきりと批判している。

吉田茂は、板垣退助の腹心竹内綱の妾腹の子で、横浜の貿易商吉田健三に入嗣し11歳で膨大な遺産を相続した。学業成績が冴えない吉田茂は学校を転々したが、学習院大学科の閉鎖に伴う無試験編入という裏口を使って東大法学部に潜り込み、28歳で外交官試験に合格した。吉田茂は中国領事など外務省の傍流を歩んだが、牧野伸顕伯爵(大久保利通の次男)の長女雪子と結婚し、岳父の威光でパリ講和会議の随員に加えられ1928年外務次官へ栄進、陸軍も顔負けの対中国強硬論で鳴らし(大陸派)幣原喜重郎・重光葵の「協調外交」と対立した。二・二六事件の直後、吉田茂は同志近衛文麿の命により広田弘毅(外交官同期の主席)の組閣に働き、本命の外相は逃したが同格の駐英大使に任じられた。駐英大使後任の重光葵は国際的に高い評価を得たが、吉田茂は貴族趣味に染まるだけで相手にされず1939年「待命」となり一線を退いた。牧野伸顕の影響もあり強硬外交から親英米派へ転じた吉田茂は、日独伊三国同盟に反対し、対米開戦後は早期講和を訴え東條英機内閣打倒に加担、1945年2月「近衛上奏文事件」に連座し憲兵隊に2ヶ月間拘置された。第二次大戦後、逮捕歴が「反軍部の勲章」となり吉田茂はウィロビー参謀第2部長から「窓口役」を仰せつかり、1954年までGHQ傀儡政権の外相・首相を占め「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」の占領政策を実行、日本国民にはGHQとの「対等」を演じ「ワンマン宰相」と畏怖された。重光葵・芦田均ら自主外交派が排除されるなか、吉田茂は日本一国を「俎板の上の鯉」の如く差出し、「押付け憲法」を受入れ、国家予算の2割を超す「戦後処理費」を献上し、講和条約と引換えに不平等な日米安保条約・行政協定を呑まされた。講和独立後も吉田茂は政権にしがみついたが、東西冷戦の本格化で日本の再軍備へ転じたアメリカに見捨てられ、再軍備・自主外交を掲げる鳩山一郎に政権を奪われた。しかし吉田茂の経済優先・外交従米路線は池田勇人・佐藤栄作・宮澤喜一らに引継がれ高度経済成長により「保守本流」に定着、アメリカが日本を「保護国」と呼ぶ状況は今も続く。

選良意識と欧米流「貴族趣味」は外務官僚の宿痾だが、吉田茂は俗物外交官の最たる例であった。吉田茂は、民権土佐派の竹内綱の妾腹の子で横浜貿易商の吉田健三に入嗣、11歳のとき養父が没し50万円(現在価値で20億円)もの遺産を受継いだ。東大進学が遅れ28歳で漸く外交官となった吉田茂は(同期の主席は広田弘毅)長らく傍流の中国領事を転々したが、中国人と中国料理を毛嫌いし張作霖が自ら取分けた料理一品にも箸を付けなかった。牧野伸顕伯爵(大久保利通の実子で宮廷政治家)の長女雪子との結婚で傍流から抜出した吉田茂は、岳父を後ろ盾に猟官運動を行い田中義一首相の引きで外務次官に栄進、駐伊大使で欧州へ赴任した。近衛文麿の命を受け広田弘毅内閣成立に働いた吉田茂は、第一志望の外相は逃したが念願の駐英大使に任じられ、葉巻に紅茶など英国紳士の生活様式とロールス・ロイスなど貴族趣味にどっぷり浸り、3年後に帰国すると「大陸派」の強面は影を潜め親英米の反戦派へ様変りしていた。第二次大戦終結の直後、帝国議会も貴族院議員も有名無実となったが、吉田茂は廃止直前に貴族院議員の勅撰を獲得し「貴族」に列している。余談ながら、第92代内閣総理大臣の麻生太郎は吉田茂の孫だが(三女和子と福岡麻生財閥当主の長男)、庶民生活を圧迫する物価高について新聞記者の取材を受けたときカップラーメンの値段を聞かれ「千円くらい?」と口を滑らせ貴族の馬脚を現している。

吉田茂がGHQの代理執行人に過ぎないことは歴史が示すとおりだが、「バカヤロー解散」など日本人に対しては非常に偉そうな態度をとり、アメリカとの「対等」を演じ「ワンマン宰相」と畏怖された。戦前に遡れば、少壮期の吉田茂は外交官傍流の中国領事を長く務めたが、戦後日本人に対したのと同様に中国人を愚民視し「イギリスがエジプトを支配したように満州支配に強圧的手段で臨むべき」と武力行使を主張した「大陸派」、英国紳士気取りで中国料理を毛嫌いし張作霖が自ら取分けた料理一品すら口にしなかった。さて1946年、公職追放された鳩山一郎の代役として組閣を引受けた吉田茂は、自由党幹部に対し「金作りは一切やらない、閣僚の選考に一切の口出しは無用、辞めたくなったらいつでも辞める」との条件を付け、鳩山には「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と大物ぶりを示した。1951年アメリカの方針転換で公職追放が解除され、政界に復帰した鳩山一郎の派閥は吉田茂首相の極端な従米政策に反発し与党自由党を二分する勢力となった。吉田茂はサンフランシスコ講和条約を花道に引退すると思われたが、改めて鳩山一郎への「首相禅譲密約」をしてまで第四次内閣を組閣、密約を破って第五次内閣まで引延ばし講和条約発効後2年間も政権にしがみついた。しかしGHQは廃止され親分のマッカーサーも失脚するなか、吉田茂首相は冷戦激化に伴うアメリカの安全保障戦略の転換に付いて行けず再軍備反対に固執、合理的なアメリカ政府はあっさりと忠臣吉田を見捨てた。長期政権に飽きた世論でも轟々たる非難が巻起るなか、1954年吉田茂は解散総選挙で第六次組閣を図るが側近にも諫言され断念、漸く政権を鳩山一郎に返上した。とはいえ吉田茂は隠然たる勢力を維持しつつ1967年まで89歳の長寿を保ち、戦後唯一の国葬で送られ官庁や学校は半休となった。吉田茂が敷いた経済優先・外交従米路線は、高度経済成長に恵まれた愛弟子の池田勇人政権で磐石となり「保守本流」は「吉田学校」の佐藤栄作・大平正芳・宮澤喜一らへ受継がれ「55年体制」をリードし続けた。

GHQ=吉田茂政府は、不在地主の土地をタダ同然で取上げ小作農に分与する徹底的な「農地改革」を日本全国で断行した。農地改革の結果、全農地の半分近くを占めた小作地は20%以下に激減し北海道・東北諸県を筆頭に農地「解放率」は劇的に向上したが、農業だけでは自活できない1町歩未満の小規模自作農が大量に発生した。農村を追われた大人口は大都市に流込み安価な工業労働力となって経済成長を牽引、吉田茂政権は幸運にも社会秩序崩壊を免れたが、農村社会の衰退と共に都市部を中心に核家族化が進行し、精神的拠所を求める都市住民を吸収し新興宗教団体が興隆した。

敗戦から朝鮮戦争の特需で蘇生するまで日本は上から下まで窮乏に喘ぎ多くの餓死者も出たが、アメリカは日本経済の再起不能化を進めつつ日本政府から膨大な米軍駐留経費を吸上げた。「戦後処理費」の名目で計上された米軍駐留経費は1946年379億円(一般歳出の32%)・1947年641億円(31%)・1948年1,061億円(23%)・1949年997億円(14%)・1950年948億円(16%)・1951年931億円(12%)、日本政府は講和条約成立までの6年間に合計約5千億円・国家予算の2割を超す巨費を無条件で献上し、ゴルフ・特別列車・花や金魚の代金まで押付けるGHQのやりたい放題を許した。第一次内閣で無茶な米軍駐留経費を規定路線化した吉田茂首相は唯々諾々と従うのみで、更なる増額要求に反抗した石橋湛山は蔵相を更迭され公職追放の憂き目をみた。石橋湛山は「あとにつづいて出てくる大蔵大臣が、おれと同じような態度をとることだな。そうするとまた追放になるかも知れないが、まあ、それを二、三年つづければ、GHQ当局もいつかは反省するだろう」と語ったが、1954年に吉田茂内閣が退陣し鳩山一郎内閣で重光葵が外相に復帰するまで抗米意見は封殺された。GHQと吉田茂ラインの宣伝により戦後日本はアメリカの「寛大な占領」で救われたというのが定説となり、その根拠として真先に挙るのが「ガリオア・エロア資金」である。外貨の乏しい日本政府がガリオア・エロア資金を使い生活必要物資をアメリカから緊急輸入した事実はあるが、1946年から1951年までのネットの対日援助額は13億ドルと膨大な「戦後処理費」のごく一部に過ぎない。また、ガリオア・エロア資金の学資援助で米国留学した大勢の学者や公務員が中心となり、従米路線あるいは米国批判タブーの社会風潮を根付かせたことも考えると、アメリカの「寛大な占領」などではなく「戦略的恩恵」であったことは疑いない。戦後70年の今日に至るまで、日本政府は手を変え品を変え不平等な日米安保条約に基づく米軍駐留と経費負担を継続し、アメリカが日本を「保護国」呼ばわりする異常な状態が続いている。

日本の急進的民主化を図るマッカーサーはGHQ発足当初の「五大改革指令」に「労働組合の結成奨励」を加え社会主義的なGHQ民政局が積極的に労働運動を助成したが、1946年3月に労働組合法が公布されると空腹を抱えた日本国民が殺到し、1946年末には組合数1万7265・組合員数484万9329人へ膨張した。GHQの民主化政策に戦後の深刻なインフレが拍車を掛け労働運動はエスカレート、日本全国で賃上げ闘争や首切り反対闘争が続発するなか1946年10月に国鉄・全労・新聞放送を含む大規模労働争議「一〇闘争」が発生し、1947年初には全官公庁を中心とする「二・一ゼネスト」が計画された。反共の吉田茂政権を揺さぶる大騒擾に慌てたマッカーサーは「二・一ゼネスト」禁止を発令し労働運動抑制へ転換、戦後瞬く間に拡大した労働組合運動は沈静化へ向かった。

1947年、GHQ作「日本国憲法」制定の大任を果した第一次吉田茂内閣が退陣し、総選挙で第一党に躍進した社会党左派の片山哲が組閣した。社会党内閣に対しGHQ内部では、反共主義のウィロビー部長の参謀第2部(G2)は警戒したが、ホイットニー局長・ケーディス次長ら社会主義思想家が多い民政局(GS)は革新政権を歓迎した。米ソ冷戦が未だ緊迫化していない国際情勢も手伝い、マッカーサーはキリスト教徒の片山哲首相を支持し、鳩山一郎の公職追放のようなGHQの横槍は入らなかった。とはいえ、さしものGSも左傾し過ぎた平野力三農林大臣の解任を要求し、これに従った片山哲首相は急進左派の40議席を喪失、片山内閣は総辞職に追込まれ9ヶ月余の短命政権に終わった。重光葵が嘆いたとおり「占領下の日本政府などというものは、あってなきがごときもの」であった。

アメリカの対日政策は蒋介石の親米政権による中国統治を前提としたプランであり、中華民国政府を強大国に育成してアジアにおける西側陣営の柱石とし、日本は非武装の三流国に転落させ、米英仏中・ソの五大国で世界統治を進めるシナリオであった。ところが、1947年7月に始まった共産党軍の大反攻により内部腐敗した蒋介石の国民政府軍の敗色が濃厚となり、さらに李承晩と金日成の対立で米ソ合同委員会による南北朝鮮統一工作が破綻するに及び、アメリカは日本を含むアジア戦略全体の見直しを迫られることとなった。トルーマン政府は迅速に動き、国務省のジョージ・ケナンを訪日させて「改革や追放の停止と戦犯裁判の早期終結。日本国民の不満解消に向け、改革よりも貿易など経済復興を第一義的な目的とすべきこと。日本の講和独立を視野に入れ警察(軍事力)を強化する、また沖縄・横須賀の米軍基地は確保しつつ、GHQの権限をできるだけ日本政府に移譲すること。」を旨とする日本統治戦略の大幅緩和を指示した。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で日本解体に励んできたマッカーサーが面白いはずはなく、特に再軍備には強硬に反対し憲法9条に基づく非武装国家の永続を強調して激しく楯突いた(講和独立・GHQ廃止後も吉田茂はマッカーサーに殉じて再軍備反対に固執し、米政府に見捨てられる)。トルーマン大統領は、ロイヤル米陸軍長官演説(占領経費削減と「反共の防波堤」構築のため、日本経済の破壊から自給自足促進への戦略転換を提言)や「ジョンストン=ドレイパー報告」を支援材料に足場を固め、1948年10月「国家安全保障会議文書」により破壊から復興への日本統治戦略の180度転換を正式決定した。

民政局の翻意で平野力三農省の罷免を強いられ社会党左派内の支持を失った片山哲内閣が退陣し、連立与党の民主党党首である芦田均が後継首相に就任した。反共・軍事優先の参謀第2部(G2)と日本の社会主義的民主化を進める民政局(GS)によるGHQの内部対立は、東西冷戦の緊迫化に伴い日毎に先鋭化しつつあったが、ソ連の「ベルリン封鎖」を機に米国内で反共闘争路線が優勢となり民政局の凋落が明らかになった。G2のウィロビー部長はマッカーサーを抱込んで追討ちを掛け、配下の東京地検特捜部を動員し「昭和電工疑獄」を摘発、民政局員の多くを贈賄容疑にかけ失脚させた。G2の意を受けた読売新聞や朝日新聞は過剰な弾劾報道で昭和電工疑獄を煽り立て、G2が民政局寄りと敵視する芦田均内閣も巻添えを喰い、西尾末広社会党書記長の逮捕で総辞職に追込まれた。外交官出身の芦田均は、外務省同期の重光葵と同様に自主外交を模索し吉田茂の極端な従米路線を否定、外務省の後輩に脱米国依存の研究を示唆し、片山哲内閣の外相として米軍の「有事駐留」を提唱したことでGHQに警戒されていた。後継首相には野党第一党・民主自由党党首の吉田茂が就くのが「憲政の常道」であったが、G2子飼いの吉田を嫌うケーディス民政局次長は最後の抵抗を試み、民主自由党副総裁の山崎猛を擁立し民政局の傀儡政権に仕立てようと企てた(山崎猛首班工作)。が、ウィロビー部長のG2は猛反撃でケーディスの陰謀を葬り第二次吉田茂内閣を樹立、ケーディスはワシントンで占領政策不変更を訴えたが相手にされず、万策尽きて翌1949年5月3日の憲法記念日に民政局次長を辞任した(ケーディスは日本国憲法の作成者)。さて昭和電工疑獄の顛末だが、芦田均元首相のほか大蔵省主計局長の福田赳夫ら多くの官僚と政治家が逮捕され14年半も費やした裁判の末に1962年最高裁判決が下されたが、なんと実刑判決ゼロ・執行猶予付き懲役刑21名・芦田も福田も無罪というお粗末な結果となり、G2=東京地検特捜部の「国策捜査」が明白となった。

東西冷戦が緊迫化する世界情勢のなか、トルーマン米政府は「トルーマン・ドクトリン」「マーシャル・プラン」で共産主義勢力への対決姿勢を鮮明にしたが、ロイヤル米陸軍長官の演説を機に政軍有力者の間で日本経済を復興させ「反共の防波堤」にすべしとの機運が高まった。訪日調査したドレーパー米陸軍次官(日独占領政策担当)は、戦前比で鉱工業生産45%・輸入30%・輸出10%にまで落込んだ日本経済を「死体置き場(モルグ)」と表現し過酷な懲罰政策の緩和を米政府に勧告した。ソ連の「ベルリン封鎖」で冷戦が風雲急を告げ、「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用すること」がアメリカの国益に資すると判断したトルーマン政府は、1948年10月「国家安全保障会議」による「アメリカの対日政策に関する勧告」(NSC13/2)を承認し、破壊から復興への日本統治戦略の180度転換を正式決定した。政府の決定を受けたGHQは、破壊から経済復興促進へ政策を転換し、ソ連に対抗するには人材が必要との判断により1951年戦犯釈放・公職追放解除に踏切り「レッド・パージ」へ切替えた。朝鮮戦争勃発で「反共の防波堤」の要請は一層高まり、アメリカは日本の経済力・工業力だけでなく軍事力も利用すべく策動を始めた。こうした米政府の路線転換は「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で進んできたマッカーサーの占領政策を完全否定するものであり、GHQとトルーマン大統領・国防省との確執が深刻化、「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」という政府方針を巡って対立は沸点に達し、GHQ傀儡の吉田茂政権を操り「奴隷」を相手に「世界史上最高の権力」を自賛したマッカーサーは遂に解任された。トルーマン大統領から日本経済復興を託されたデトロイト銀行頭取のドッジは性急な超緊縮財政を吉田茂首相・池田勇人蔵相に押付け、深刻なデフレ不況を引起し復興途上の日本経済は壊滅の危機に瀕したが(ドッジ・ライン恐慌)、朝鮮戦争の米軍特需で一気に蘇生し奇跡の高度経済成長が始まった。平和憲法を奉じる戦後日本は、皮肉にも米ソ冷戦と朝鮮戦争によりアメリカの破壊政策から救われた。

トルーマン米政府は1948年10月「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用すること」に決め対日政策を破壊から復興へ180度転換したが、米軍は更に踏込んで「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針を定めた。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で占領統治を行ってきたマッカーサーのGHQは抵抗したが、1949年ソ連の核実験成功と翌年の朝鮮戦争勃発でトルーマン米政府も日本の再軍備に傾き、朝鮮半島に出動した米軍とほぼ同数の7万5千人からなる「国家警察予備隊」を創設、国務省政策顧問のジョン・フォスター・ダレスを講和特使として日本へ派遣し吉田茂首相に再軍備を促した。再軍備絶対反対の吉田茂は「たとえ非武装でも世界世論の力で日本の安全は保障される」と夢物語を唱え、ダレスをして「不思議の国のアリスに会ったような気がする」と呆れさせたが、親分のマッカーサーに泣きつきこの場は事を収めた。が、トルーマン大統領との対立が決定的となりマッカーサーがGHQを解任されると(ウィロビー参謀第2部長も退官)、吉田茂首相は後ろ盾を失い日本の再軍備を阻む勢力は無くなった。1951年9月8日サンフランシスコ講和条約調印で日本は占領統治からの独立を許されたが、吉田茂首相は講和条約とセットの日米安保条約・行政協定により在日米軍の常時駐留と日本政府による基地費用負担の継続を呑まされた。アメリカ主導で日本の再軍備・増強も着々と進められ、公職追放を解かれた旧軍人が続々と軍務に復帰して幹部に納まり、1954年7月1日をもって国家警察予備隊は常設軍隊の「自衛隊」へ改組された。吉田茂は猶も再軍備に反対し続けたが、アメリカは「軍備をサボタージュする古狐」を切捨て再軍備を掲げる鳩山一郎内閣の発足を容認した。陸海空の自衛隊は権限と装備の両面で「専守防衛」の枠に縛られつつも米ロ中に次ぐ軍事力を誇る「軍隊」へ発展したが、核兵器の無い軍隊は画竜点睛を欠き、2015年現在も日米安保条約は不平等なまま米軍の常時駐留と膨大な費用負担・自衛隊兵器の対米依存から抜出せずアメリカが「保護国」と呼ぶ半独立状態が続いている。

1950年6月25日、北朝鮮軍が突如砲撃を開始し38度線を越えて韓国領内に侵入、朝鮮戦争が勃発した。首都ソウルはあっという間に陥落し、準備不足の韓国軍は忽ち追い詰められて半島南端の釜山周辺にまで追込まれた。これに先立つ1949年12月、アメリカ国家安全保障会議は南朝鮮からの撤退を決定し、アチソン国務長官は演説の中で「アメリカの防衛ラインは、アリューシャン列島から日本列島、沖縄をへてフィリピンに至るライン」であり朝鮮半島は防衛ライン外であることを明言していた。ソ連のスターリンは、この情報を掴んでアメリカの参戦はないと判断し北朝鮮軍を進発させた可能性が高い。しかし、アメリカは即座に政策を転換し「国連軍」を急遽編成して戦線に投入、圧倒的火力により10月20日には北朝鮮の首都平壌を占拠し、その5日後には中国国境の鴨緑江付近まで攻め上った。慌てたスターリンは建国宣言間もない中国に参戦を要請、血気の毛沢東は「人民義勇軍」を派遣して人海戦術で連合軍を38度線付近まで押し戻した。その後は戦線が膠着し、1953年7月27日に板門店で休戦協定が調印され、38度線が国境となった。朝鮮戦争の犠牲者は、国連軍側17万2千人・共産軍側142万人とされるが、軍人を遥かに凌ぐ一般市民が犠牲となり、その数は400万人とも500万人といわれ、米・中ソの代理戦争は日韓併合時代と比較にならない惨禍をもたらした。一方、日本にとっては、外貨収入の3割に及ぶ膨大な「朝鮮特需」が産業界を蘇生させたうえ、「反共の防波堤」構築・日本経済の破壊から復興への180度戦略転換というアメリカの対日政策を決定的なものにし、経済大国化へ向けた最大の転換点となった。さらに、アメリカは「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針へ傾斜を強め、国家警察予備隊(自衛隊)創設に続いて再軍備反対に固執するマッカーサーを罷免し、日本の占領終結後も米軍の常時駐留と日本政府による基地費用負担を継続させるため、従米派吉田茂内閣との間で講和条約とセットで日米安保条約交渉を開始、吉田茂後も磐石の従米路線を維持するため策動を強化した。

1951年9月8日、日本と交戦国48カ国代表の調印によりサンフランシスコ講和条約が締結され、翌1952年4月28日の条約発効をもってGHQによる軍事占領は終結し日本は主権を回復した。ソ連は出席したが調印を拒み、中国と中華民国(台湾)は招待されず、インドは参加を拒否した。米軍部は日本の占領を続けたかったはずだが、日本政府から膨大な「戦後処理費」を吸上げつつも、占領経費負担は米国財政をも圧迫し世論は占領中止に傾いていた。そこでトルーマン米政府は、ダレス講和特使を日本に派遣して、講和独立を認める代わりに、在日米軍特権の恒久的継続を迫り、これを吉田茂内閣が受入れて日米安全保障条約が結ばれた。講和条約の調印式が華麗なオペラハウスで行われたのに対して、安保条約の方は占領軍基地内の下士官クラブ、しかも署名者は米国側4名に対して日本側は吉田茂首相のみという異様さであった。さらに、国会審議や批准手続きを要する安保「条約」からは当然問題視されるべき米軍駐留のあり方の取り決めが省かれ、政府間合意で足りる行政「協定」を別途締結して、基地の継続使用・米軍関係者の治外法権・有事における統一指揮権(日本軍が米軍の指揮下に入る)といった都合の悪い事項を入れ込んだ。日本全土における米軍基地の自由使用と治外法権まで認めたうえに、日本政府による米軍基地経費負担も継続される一方で、アメリカは日本の防衛義務は負わないとする極めて不平等な内容であり、対等な主権国家同士の条約と呼べる代物ではなかった。そして1960年、岸信介内閣が不平等を是正すべく条約改正に挑んだが、吉田茂の従米路線後継者と「安保闘争」によって妨害され、「集団的自衛権」を建前に双務的体裁を整えた「新安保条約」には漕ぎ着けたものの、本丸の行政協定には踏込めず「地位協定」と改称しただけに終わった。新安保成立後岸信介内閣は退陣したが、新安保の期限を10年とし以降は1年前予告で一方的に破棄できる条項をねじ込み、「真の独立」の課題を次代へ託した。が、その後の内閣において条約破棄権行使も条約改正交渉も行われることなく現在に至っている。

吉田茂首相が推し進める日米行政協定の案策作業の過程で、大蔵省幹部の宮澤喜一はアメリカが日本の同意なく自由に米軍基地の立地を選定できる点に異議を唱え「講和が発効して独立する意味がないにひとしい」と当該規定の削除を外務省に申入れた。宮澤喜一の指摘は至極当然であったが、吉田茂の腹心で日米安保・行政協定交渉担当大臣の岡崎勝男は姑息な隠蔽工作でウヤムヤにした。宮沢喜一曰く「この規定は行政協定そのものからは姿を消したが、『岡崎・ラスク交換文書』のなかには、そのままこの規定が確認されていて、しかも私がそれを知ったときは、すでに行政協定は両国のあいだで調印を終わっていた」。この直後、外相を兼任していた吉田茂首相は岡崎勝男に外相を譲り犬馬の労に報いている。

GHQのやりたい放題を受入れ続けた吉田茂首相であったが、あまりに急激な米政府の「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針への転換についていけず、親分のマッカーサーが解任された後も米政府からの再軍備要請に難色を示し続けた。一方、日本国内では、講和独立後初の総選挙で鳩山一郎ら公職追放解除者が衆議院議席の42%を占め、鳩山派と吉田派の勢力は逆転していた。鳩山一郎は、自主路線の代表的政治家であり、1946年には組閣を目前にしながらGHQに睨まれて公職追放に遭い首相の座を吉田茂に譲り渡したが、追放解除後に政界復帰し、米軍占領からの真の脱却を図るため重光葵と共に積極的な再軍備を主張していた。重光葵は、鳩山一郎と同じく自主路線故にA級戦犯として有罪判決を受け4年7ヶ月も獄に繋がれたが、戦犯釈放により政界復帰を果した吉田茂の宿敵であった。こうした状況のもと、日本の再軍備を優先するアメリカは長年忠勤に励んだ吉田茂を「軍備をサボタージュする古狐」とあっさり切捨て、鳩山一郎首相・重光葵外相の内閣発足を容認した。憲法改正・再軍備・自主外交(中ソ外交)を掲げて発足した鳩山一郎内閣は、吉田茂内閣が言われるがままに差し出してきた「防衛分担金」の削減交渉を成功させ、ダレス米国務長官に一蹴されはしたが在日米軍撤退・防衛分担金廃止提案を行い、アメリカが日ソ分断のために埋め込んだ北方領土問題を乗越えて悲願の「日ソ国交回復」を達成、これを花道に退陣した。その僅か1ヵ月後、自主外交の旗手としてアメリカに対抗し続けた重光葵は謎の突然死を遂げた。

第二次大戦後、政友会の幹部だった鳩山一郎は残党を集めて日本自由党を結成した。1946年新選挙法に基づく初の衆議院総選挙で自由党は最多議席を獲得、鳩山一郎総裁の首相就任は確実であったが、GHQの露骨な横槍で公職追放に遭い吉田茂に首相の座を預けた。1951年アメリカの対日戦略転換で公職追放が解除され、政界に復帰した鳩山一郎の派閥は吉田茂と自由党を二分する勢力となったが、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と述べた吉田は政権を離さず鳩山に「首相禅譲密約」までして首相に居座った。吉田茂が密約も反故にすると、1954年鳩山一郎は反吉田勢力を結集して日本民主党を結成し(重光葵副総裁・岸信介幹事長)内閣不信任案を提出、再軍備反対に固執しアメリカの信任も失った吉田は轟々たる非難のなか首相続投を断念した。1955年「憲法改正・再軍備・自主外交(中ソ外交)」を掲げ発足した鳩山一郎内閣は、「鳩山ブーム」を背景に総選挙を実施するも絶対多数の獲得には至らず、改憲と再軍備は棚上げして外交に専念する方針を採った。鳩山一郎首相は、民主党と自由党の「保守合同」で政権基盤を固め(55年体制)ソ連フルシチョフ政権との交渉に乗出したが、アメリカが日ソ離間のために仕組んだ「北方領土問題」があるうえ、重光葵外相と外務省は反ソ反共、保守合同で取込んだ外交従米の吉田茂派も対ソ強硬論を主張し与党内の意見調整も難航した。ダレス米国務長官は「日本が千島列島に対するソ連の主権を承認した場合は、アメリカは沖縄に対する完全な主権を行使する」と恫喝したが、1956年鳩山一郎首相は病躯を押してモスクワに乗込み「日ソ共同宣言」を達成(日ソ戦争終結)、帰国の翌日「日ソ国交回復lを花道に勇退を表明した。政治的妥協の結果北方領土問題は先送りされたが、鳩山一郎首相は日本人抑留者(シベリア抑留)の釈放・帰国を引出し、ソ連の拒否権を封じたことで国際連合加盟も果した。鳩山一郎首相・重光葵外相はソ連以外の外交問題にも意欲的に取組み、アジア・アフリカ会議に参加し、中国政府との貿易協定を前進させ、東欧諸国との関係正常化も果している。

原子力行政の進展も再軍備を掲げた鳩山一郎政権の見逃せない業績である。日本の原子力行政は1953年「原子力の平和利用」を提唱したアイゼンハワー米大統領演説に端を発し、翌年日本漁船がビキニ環礁でアメリカの水爆実験に遭難する「第五福竜丸事件」が起ると、電源開発が死活問題の日本産業界と日本の反米反核世論を封じたいアメリカ(当初は原発輸出の意図はなかったが)の思惑が一致し露骨な世論操作と行政介入が始まった。第五福竜丸事件の直後、アメリカの意を受けた中曽根康弘らが初の原子力予算案を衆議院に提出し、米CIAに近い正力松太郎の読売新聞は「原子力の平和利用」を喧伝し「原子力平和利用博覧会」に37万人もの来場者を集めた。なお1923年の関東大地震で、朝鮮人が暴動を企てているとか井戸に毒を投げ込んだというデマが飛び交い多くの朝鮮人が殺害されたが、デマ騒ぎの首謀者は警視庁官房主事の正力松太郎であったとされる。直後に摂政宮狙撃事件(虎ノ門事件)が起り警備責任者の正力松太郎は懲戒免官となったが、帝都復興院総裁の後藤新平らの資金援助で読売新聞社を買収し、大政翼賛会総務・貴族院議員を経て第二次大戦後CIAに取込まれ中曽根康弘の盟友となった。さて吉田茂から鳩山一郎へ政権が移った1955年、中曽根康弘の主導で「原子力の平和利用」促進のための「原子力基本法」が成立し「原子力委員会」が発足、産業界の期待を担い正力松太郎が初代委員長に就任した。1956年「日本原子力研究所」(茨城県東海村)が創設され、翌年鳩山一郎内閣は原子力政策を担う「科学技術庁」を設置し正力松太郎を初代長官に任命、電力9社および電源開発の出資で「日本原子力発電株式会社」が発足した。なお、俗物の正力松太郎を嫌うノーベル物理学賞学者の湯川秀樹は原子力委員会委員を辞任している。1963年10月26日(原子力の日)日本原子力研究所が原子力発電に成功し日本各地で原発建設計画が始動、イギリスの対日原発輸出で米政府も容認へ転じGEやWestinghouseが参入(福島第一原発はGE製)、正力松太郎は「原子力の父」の称号を得たが主導権を失い目的の首相就任は果たせなかった。

東大法学部から外務省本流へ進んだ重光葵は「過大な人口を抱え成長を続ける日本は中国と提携する他ない」と平和的日中提携を提唱、対英米協調・対中不干渉の幣原喜重郎に属し、傍流の中国勤務を志願して融和政策を推進したが、松岡洋右・白鳥敏夫・大島浩ら強硬派外交官から「軟弱外交」と罵倒され、武力行使容認の広田弘毅・吉田茂ら「大陸派」の支持も得られず、満州事変で「幣原外交」は瓦解した。それでも中国公使の重光葵は上海事変講和に奔走したが、1932年「上海天長節爆弾事件」で右脚切断の重傷を負った。奇跡的に快復した重光葵は翌年外務次官に昇進し駐ソ連大使・駐英大使を歴任、対英米関係の破綻を招く日独同盟に反対し、欧州戦争に関与せず日中戦争解決と関係再構築に専念すべしと繰返し訴えたが、軍部と大衆に迎合する近衛文麿・広田弘毅・松岡洋右らは耳を貸さず日中戦争を泥沼化させ日独伊三国同盟を断行、東條英機内閣が対米開戦へ追込まれた。重光葵は中国(汪兆銘政権)大使を経て1943年外相に就任、「大東亜会議」で日本の正義を訴えたが戦局は悪化の一途を辿り、木戸幸一ら講和派に与し小磯國昭内閣を総辞職に追込んだ。ポツダム宣言受諾の3日後に東久邇宮稔彦王内閣が発足し、外相に復帰した重光葵は天皇と政府を代表して米戦艦ミズーリ艦上の降伏文書調印式に臨んだ。日本国中がGHQへの追従で染まるなか、孤軍奮闘の重光葵は「英語を公用語に」「米軍票を通貨に」という不条理な布告を撤回させたが、GHQの走狗と化した吉田茂への外相交代を強いられ東京裁判で禁固7年の判決を受けた。1951年講和条約の恩赦で釈放された重光葵は衆議院議員となり、1954年反吉田茂連合の民主党に副総裁で加盟し鳩山一郎内閣の外相兼副総理に就任、憲法改正・再軍備・自主外交(中ソ外交)を推進した。重光葵外相は吉田茂内閣で膨張した「防衛分担金」の削減に成功したが、在日米軍撤退・防衛分担金廃止はダレス米国務長官に一蹴され、日ソ国交回復と国際連合加盟を花道に鳩山一郎内閣は退陣した。その1ヵ月後、アメリカの不条理に抗い自主外交を牽引した重光葵は69歳で急逝、謎の突然死であった。

申請から5年を経て漸く日本の国際連合加盟を果した重光葵外相は、1956年12月国連総会に出席し見事な演説を行った。重光葵は喜びと感謝を述べたあと、日本国憲法と国連憲章の平和に関する理念は完全に一致しており日本は国連に積極的に貢献することを約束し、右のように演説を締めくくった。「日本は世界の通商貿易に特に深い関心を持つ国でありますが、同時にアジアの一国として固有の歴史と伝統とを持っている国であります。日本が昨年バンドンにおけるアジア・アフリカ会議に参加したゆえんも、ここにあるのであります。同会議において採択せられた平和十原則なるものは、日本の熱心に支持するところのものであって、国際連合憲章の精神に完全に符合するものであります。しかし、平和は分割を許されないのであって、日本は国際連合が、世界における平和政策の中心的推進力をなすべきものであると信ずるのであります。わが国の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀にわたる欧米及びアジア両文明の融合の産物であって、日本はある意味において東西のかけ橋となり得るのであります。このような地位にある日本は、その大きな責任を十分自覚しておるのであります。私は本総会において、日本が国際連合の崇高な目的に対し誠実に奉仕する決意を有することを再び表明して、私の演説を終わります」。覇権国家アメリカは「東西のかけ橋」を望まなかったのか、帰国した重光葵には謎の突然死が待構えていた。

「自主外交」の旗手にして吉田茂の宿敵・重光葵は、鳩山一郎内閣で10年ぶりに外相に返咲くと再びアメリカの理不尽に立向かった。1955年4月「防衛分担金を178億円(国家予算の約2%)削減し、その分を防衛予算増額に充当する」との日米合意を成功させた重光葵外相は、同年7月アリソン駐日大使に「米国地上軍の6年以内撤退、その後6年以内の米国海空軍撤退、在日米軍支援のための防衛分担金の廃止」を提案、翌月には岸信介民主党幹事長と河野一郎農商を伴って渡米しダレス国務長官との直談判に挑んだ。「対等国」として安保改定を求める重光葵をダレスは一蹴、岸信介の回想によると「ダレスは、重光君、偉そうなことを言うけれど、日本にそんな力があるのかと一言のもとにはねつけたというのが実情」であった。また河野一郎が著書に曰く「ダレスの言った趣旨はこうだ。日本側は安保条約を改定しろというけれど、日本の共同防衛というのは、今の憲法ではできないではないか。日本は海外派兵できないから、共同防衛の責任は日本が負えないではないか。・・・ダレスさんからやっつけられると、重光さんは立上がって、『どこの国の憲法にはじめから侵略的な海外派兵を肯定している憲法がありますか。アメリカの憲法と日本の憲法と比べてみて、この点についてどこがちがうか』(と主張した)。こうした緊張感のなかで重光さんの態度は堂々としている。やはり戦前の外交官は見識をもっている。」・・・結局、重光葵外相の気魄も老練なダレス国務長官には通じなかったが、条件付ながら「現行の安全保障条約をより相互性の強い条約に置きかえる」との日米合意を引出し、後の岸信介内閣による安保改定交渉への足掛りを築くことはできた。翌1956年12月鳩山一郎内閣は「日ソ国交回復」を花道に退陣、国際連合加盟を果し総会演説で有終の美を飾った重光葵は笑顔で「もう思い残すことはない」と語り外相を退いた。その僅か1ヵ月後、69歳にして健康体の重光葵は湯河原の別荘で好物のスキ焼きと餅を食し床に就いたが、間もなく腹痛を訴えて苦しみ始めそのまま息を引取ったという。重光葵の原因不明の突然死により、日本の自主外交は大きく後退した。

日ソ国交回復を花道に退陣した鳩山一郎に代わり与党自民党の総裁を引継いだ石橋湛山が組閣した(早稲田大学出身の首相第1号)。自民党総裁選で石橋湛山は次点だったが1位の岸信介が過半数を得られなかったため両者の決選投票が行われ、3位石井光次郎の票を吸収した石橋が逆転勝利を収めた。戦前『東洋経済新報』の記者だった石橋湛山は、紛争の元である海外領土の放棄を主張し(小日本主義)統帥権濫用批判など軍部を相手に堂々と平和主義の論陣を張った硬骨の言論人であった。第二次大戦後、石橋湛山は政界へ転じ第一次吉田茂内閣の蔵相として「傾斜生産方式」導入や復興金融公庫設立などに辣腕を振るったが、アメリカに「戦後処理費」(米軍駐留費負担)の削減を要求し公職追放の憂き目をみた。1951年公職追放解除で政界復帰した石橋湛山は自民党に加盟し、鳩山一郎内閣の通産相として「自主外交」を推進した。戦時中に軍部の弾圧にも屈さなかった石橋湛山は、首相に就任すると「アメリカのいうことをハイハイ聞いていることは、日米両国のためによくない。米国と提携するが向米一辺倒ではない」と述べ自主外交政策を推進、因縁の米軍駐留問題に着手すると同時に「日本が中国について、アメリカの要請に自動的に追従していた時代は終わった」と日中国交回復にも踏込む構えをみせた。党派を超え新時代幕開けへの期待が高まったが、石橋湛山首相は不用意に米軍駐留問題・中国問題というアメリカの「虎の尾」を踏んでしまった。突如肺炎を発症した石橋湛山首相は施政方針演説と質疑応答もできない重体に陥り、僅か2ヶ月で退陣し岸信介に政権を譲った。主治医の診断は「体重の異常な減り方が、肺炎でやせたものとしては理解ができない」「極めて不自然な病気」というもので、間もなく快復した石橋湛山は首相辞任後15年も命を保った。

ドワイト・D・アイゼンハワーは連合国遠征軍最高司令官を務めた陸軍人で「第二次世界大戦の英雄」として米大統領に就任した人物だが、大統領退任演説において初めて「軍産複合体(MIC)」を世に表しその危険性を警告した・・・「第二次世界大戦まで、合衆国は兵器産業を持っていなかった。アメリカの鋤製造業者は、時間があれば、必要に応じて剣も作ることができた。しかし今や我々は、緊急事態になるたびに即席の国防体制を作り上げるような危険をこれ以上冒すことはできない。我々は巨大な恒常的兵器産業を作り出さざるをえなくなってきている。これに加え、350万人の男女が直接国防機構に携わっている。我々は、毎年すべての合衆国の企業の純利益より多額の資金を安全保障に支出している。・・・「軍産複合体」の経済的、政治的、そして精神的とまでいえる影響力は、全ての市、全ての州政府、全ての連邦政府機関に浸透している。我々は一応、この発展の必要性は認める。しかし、その裏に含まれた深刻な意味合いも理解しなければならない。・・・「軍産複合体」が、不当な影響力を獲得し、それを行使することに対して、政府も議会も特に用心をしなければならぬ。この不当な力が発生する危険性は、現在、存在するし、今後も存在し続けるだろう。この軍産複合体が我々の自由と民主的政治過程を破壊するようなことを許してはならない」。なおアイゼンハワー大統領は、個人的に岸信介首相を支持し日本の自主独立路線に寛容な態度を示したことでも知られる。1960年岸信介内閣との間で日米安保条約を更改したアイゼンハワーは、米大統領として初めて訪日する予定であったが「安保闘争」に阻まれ実現しなかった。ケネディ・ジョンソン・ニクソンを経て1974年田中角栄内閣でフォード米大統領が初来日を果し、以後オバマに至るまで歴代大統領は全て来日している。

「謎の発病」で退陣した石橋湛山に代わり自民党総裁を引継いだ岸信介が組閣した。「昭和の妖怪」岸信介は謎が多く真意が見えにくいが、アメリカの一枚上手を行く稀有な政治家であった。戦前の岸信介は統制経済を牽引した「革新官僚」で満州国総務庁次長として「弐キ参スケ」に数えられ、東條英機内閣の商工大臣を務めたことでA級戦犯容疑で投獄された。しかし獄中で岸信介が予見した通り東西冷戦に伴うアメリカの対日政策変更で不起訴のまま釈放され、1951年公職追放解除で政界に復帰した。社会党に拒まれた岸信介は実弟の佐藤栄作を頼り自由党に入るも吉田茂の従米路線に反対し除名処分、反吉田勢力が結党した日本民主党に加わり鳩山一郎総裁・重光葵副総裁に次ぐ幹事長に就任した。一方、岸信介は米国要人にも人脈を広げ国務長官・CIA長官のダレス兄弟と親密になりアイゼンハワー大統領にも食込んだ。1955年「保守合同」に際しダレス国務長官は保守政党への財政支援を示唆しCIAから巨額の資金が供与されたが(200万ドルとも1000万ドルとも)、受取り手の中心は岸信介であった。従米派とみられた岸信介首相はアメリカの期待に応え再軍備を推進したが、「戦前の大日本帝国の栄光を取り戻す」べく日米安保条約の不平等是正に挑みアジア重視の外交政策(外交三原則)に取組んだ。アイゼンハワー大統領は「安保改定」に理解を示したが米軍とCIAは岸信介政権を危険視し、池田勇人・三木武夫ら自民党従米派と「安保闘争」の妨害で本丸の日米行政協定には踏込めずに終わった。「新安保条約」成立直後に岸信介内閣は退陣したが安保闘争も忽ち終息、「学生運動指導者らに確たる目的はなく、従米派の政治家・財界人・新聞各社が岸信介内閣打倒のために仕掛けた扇動工作」との説が説得力を持った。岸信介は新安保の有効期限を10年に区切り以降は1年前予告で破棄できる条項をねじ込み「真の独立」を次代へ託したが、佐藤栄作以後の内閣は不変更新を続ける。2015年安倍晋三内閣は「集団的自衛権」を合法化したが、祖父の岸信介が目指した双務的体裁の実質化・米軍撤退・軍事的独立への再挑戦と信じたい。

従米派と見られた岸信介はアメリカの期待を担って組閣したが、首相に就任すると「国際連合中心・自由主義諸国との協調・アジアの一員としての立場の堅持」という「外交三原則」を掲げ自主外交に乗出した。岸信介は首相として初めて東南アジアおよびオセアニアの諸国を歴訪し、アメリカを刺激しかねない「東南アジア開発基金構想」を提唱した。岸信介首相の歴訪で戦争賠償問題は大きく前進しインドネシア・ラオス・カンボジア・南ベトナムと相次いで賠償協定を締結し国交回復を達成、日本政府が賠償額に相当する生産物やサービスを日本企業から調達し相手国に供与する方式を採ったため日本企業の東南アジア「再進出」にも道を拓いた。また岸信介首相は国際連合中心主義を実践し1958年日本は初めて国連安全保障理事会の非常任理事国となっている。岸信介は自民党きっての「親台湾派」「親韓国派」で退陣後も頻繁に両国を訪問、満州国以来旧知の朴正煕韓国大統領と池田勇人首相の間を取持ち日韓国交回復をサポートした。なお、軍事クーデターで発足した朴正煕政権は、国家予算を上回る日本の経済援助(日韓併合で同じ国だったので戦争賠償はありえない)で韓国経済を再建し李承晩が敷いた無闇な反日原理主義を改め本来の敵である反共反北へ舵を切ったが、盧泰愚の失脚で真当な軍事政権は終わり、金泳三以後の親北政権は教育により反日をエスカレートさせ「従軍慰安婦」と「靖国参拝」に特化した朴槿恵(父朴正煕の親日政策を自己批判)の反日専門政権へ至る。

1960年「経済優先・外交従米」の池田勇人内閣は「所得倍増計画」を発表、「10年間で国民所得倍増」を掲げ完全雇用の達成・社会資本の充実・国際経済協力の推進・人的能力の向上・科学技術の振興・二重構造の解消など、経済繁栄に邁進する方策を分り易い形で国民に提示した。第二次大戦後の極端な物資不足とGHQの日本経済破壊方針に「ドッジ・ライン恐慌」が追討ちを掛け日本の産業界は壊滅の危機に瀕したが、1950年に始まった朝鮮戦争の特需で蘇生し1954年「高度経済成長」に突入、1956年鳩山一郎内閣は経済白書に「もはや戦後ではない」と記し戦後復興の完了を宣言した。自動車・家電など重化学工業の飛躍的発展が産業界を牽引し、石炭から高効率の石油へエネルギー転換が進んだことも成長に拍車を掛けた。下村治ら官僚主導による「所得倍増計画」の効果はともかく、池田勇人内閣が発足した1960年から5年間の実質経済成長率は年率9.7%となり1968年には前倒しでGNP倍増を達成、日本は英独仏を抜いて米国に次ぐ経済大国となり戦前と同じ地位を回復した。「世界の奇跡」と賞賛された日本の高度経済成長は1973年のオイルショックまで続き、家庭にはテレビ・冷蔵庫・洗濯機の「三種の神器」が普及し国民生活は格段に向上した。しかしその反面で公害問題と地域間格差が深刻化し、1972年「日本列島改造」を掲げる田中角栄内閣の登場で利権と表裏の地方農漁村への利益誘導が国策となり、地方自治体では革新首長ブームが起り「バラマキ」と「土建行政」の時代が始まった。

1961年から1966年まで駐日アメリカ大使を務めたエドウィン・O・ライシャワーは、日本人を妻(松方正義の孫ハル)とした親日家で、日米蜜月時代をもたらし沖縄返還にも奔走した。「安保闘争」の余韻のなか就任したライシャワーは、日本の左傾化を食止めるべく「日米イコール・パートナーシップ」の演出により占領国・被占領国という従来イメージの一新を図り、賛同したケネディ米大統領は池田勇人首相を厚遇しヨット会談への招待(マクラミン英首相に次ぐ二人目)や合同委員会設置(カナダに次ぐ二国目)で協力した。しかし「反共の防波堤」として日本を援護したアメリカと異なり、西欧諸国は日本の輸出競争力を警戒し国際社会復帰を妨害、日本製品が安いのは長時間・低賃金による「ソーシャル・ダンピング」だと難癖をつけ、日本のGATT加盟後も35条援用により対日貿易に差別的対応をとりOECD加盟も阻んでいた。戦前の中国大陸に代わる主要輸出先として欧米市場に食込みたい池田勇人首相は、反共「冷戦の論理」から「日米欧は自由主義陣営の三本柱」とPRし1962年欧州7ヶ国を歴訪した。フランスのシャルル・ド・ゴール大統領が最後まで反対したが、池田勇人首相は「トランジスタラジオのセールスマン」と揶揄されつつGATT35条撤回の承諾を勝取り、同1963年日本はGATT11条国およびIMF8条国への移行を果し翌年念願のOECD加盟を認められた。池田勇人首相は「日本に軍事力があったらなあ、俺の発言はおそらく今日のそれに10倍しただろう」と側近に漏らしたという。また、吉田茂の後継者ながら「経済自主」を掲げる池田勇人首相は、1961年岸信介の仲介で朴正煕韓国大統領を日本に招待し、1962年戦後初めて対中貿易の枠組みを構築している。合意文書に署名した廖承志と高崎達之助の頭文字をとって「LT貿易」と称された半官半民の貿易形態で、1972年田中角栄内閣による日中国交回復まで日中貿易の柱となった。日中国交は米軍基地駐留に次ぐアメリカの「虎の尾」で、ケネディ大統領も不快感を表明し牽制したが、池田勇人首相は屈することなく日中関係を前進させた。

池田勇人首相は、欧米に訴求した「自由主義陣営の三本柱」の実効を示すべくアジアに日本独自の役割を打立てようと試み、特に岸信介政権による戦争賠償妥結で緊密化しつつあったインドネシアには官民挙げて注力した。日商岩井がスカルノ大統領に斡旋した銀座のホステス「デヴィ夫人」(根本七保子)はその象徴で、「開発独裁」スカルノ・ファミリーと大蔵省のパイプ役を果し池田勇人首相と家族ぐるみの付合いをしたという。反植民地闘争と第三世界ナショナリズムの旗手を自認するスカルノは、マレーシア建国などイギリス植民地再編の動きをインドネシア包囲の陰謀と非難し「マレーシア紛争」を引起した。英米が手を焼くなか池田勇人首相が仲裁に乗出したが、スカルノは受入れないばかりか1965年「北京=ジャカルタ枢軸」を宣言して中国共産党と手を組み国連を脱退した。が、同年9月に起ったクーデター未遂事件(9月30日事件)でスカルノ大統領の求心力は失墜、1967年政権を奪取した右派軍人のスハルトは共産主義勢力を一掃しインドネシアは西側陣営に復帰した。スカルノは「国父」のままジャカルタで軟禁状態に置かれ3年後に逝去、遺されたデヴィ夫人らは各々亡命し独裁者スカルノの一家は一代で滅んだ。池田勇人は日本同様にアジアの政治闘争を経済建設に昇華させEECのようなアジア経済統合を構想したがスカルノの反逆で挫折し、渦中の1964年首相を佐藤栄作に譲り翌年病没した。

佐藤栄作は、吉田茂の後継者ながら実兄岸信介の自主外交を踏襲、高度経済成長の円熟期に歴代2位の長期政権と自民党黄金時代を現出させ、沖縄返還を達成しノーベル平和賞を受賞した。山口県から上京し東大法学部を卒業した佐藤栄作は松岡洋右(妻の伯父)の推薦で鉄道省に出仕、次官コースから外れ大阪鉄道局長で終戦を迎えたが、左遷が幸いして公職追放を免れ運輸次官に浮上した。1948年吉田茂の引きで政界へ転じた佐藤栄作はいきなり内閣官房長官に抜擢され、翌年の総選挙で衆議院議員初当選ながら自由党幹事長に就任、1951年第三次吉田茂内閣で初入閣を果した。佐藤栄作は「造船疑獄」で糾弾され(国連加盟の恩赦で免訴)1955年の「保守合同」では吉田茂に殉じ与党自民党を離れたが、鳩山一郎の政界引退で自民党加入を許され第二次岸信介内閣で蔵相に就任、「安保闘争」に乗じ倒閣に動いた池田勇人と袂を別ち首相官邸で兄を支えた。続く池田勇人内閣では、佐藤栄作は閣内にあって池田首相の経済至上主義を批判し三選を阻止すべく自民党総裁選に出馬、池田が勝利するも間もなく病気で退陣し1964年佐藤栄作内閣が発足した(池田裁定)。佐藤栄作首相は岸信介の自主外交を復活させ「沖縄返還」に挑戦、ジョンソン米大統領との会談では、ベトナム戦争への軍事協力を拒否しつつ1970年に控える安保条約更新を切札に「数年以内の沖縄返還」合意を引出した。反核世論に腐心した佐藤栄作首相は「非核三原則」「核抜き・本土並み」を建前としつつ、非常時の核兵器持込みと日本の繊維輸出自主規制を認めた「密約」でニクソン米大統領の妥協を引出し1972年沖縄返還を達成した。しかし「糸で縄を買った」批判のなか佐藤栄作首相は「繊維密約」に白を切り、激怒したニクソン・キッシンジャー政権は直ちに報復に乗出し1971年同盟国日本に無断で電撃的に「ニクソン訪中」を宣言しドル兌換停止(ドル切下げ)も断行(ニクソン・ショック)、さらに米国務省は「尖閣問題」の日本支持を修正し態度を曖昧化させた。アメリカに敵視された佐藤栄作首相は沖縄返還を花道に退陣を余儀なくされ、3年後に74歳で永眠した。

佐藤栄作首相は組閣翌年の1965年「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、わが国にとっての戦後が終わっていない」と声明し「沖縄返還」を内閣の使命に掲げ対米交渉に乗出した。岸信介首相(佐藤栄作の実兄)は1960年に成立させた「新安保条約」に10年の期限と以降は当事国一方の申出により破棄できる条項を盛込んでおり、アメリカは最初の更新期限である1970年を前に「日本の要求を拒めば、琉球列島と日本本土の双方で基地をまったく失ってしまうことになるかもしれない」と危惧していた。かくして1967年ジョンソン米政権の妥協により「数年以内の沖縄返還」合意が成立、佐藤栄作首相は「非核三原則」を表明し1969年代わったニクソン大統領に「1972年中の沖縄返還、核抜き・本土並み」の日本側方針を通知した。ベトナム戦争が終息に向かい沖縄基地の戦略的重要性が低下したこともあり、ニクソン米政権は大筋で要望を受入れ1972年5月15日に沖縄返還が達成されたが、非常時の核兵器持込みと日本の繊維輸出自主規制を認めた佐藤栄作首相の「密約」が日米両政府の決定的対立を招くこととなった。幸い「非常時」は起らず核兵器持込みの件は表面化しなかったが、繊維輸出自主規制の方は日本国内に漏れ「縄(沖縄)と糸(繊維)を交換した」との批判に晒された佐藤栄作首相が「密約はなかった」と履行を逃れたため大問題に発展した。ニクソン大統領は、外国製繊維の輸入規制を公約に南部諸州の票を獲得し共和党候補者レースに勝利した経緯があり、「繊維密約」は重要な政治課題であった。佐藤栄作首相の違約に激怒したニクソン大統領とキッシンジャー補佐官は直ちに報復に乗出し、1971年同盟国日本を蚊帳の外に置いて電撃的に「ニクソン訪中」およびドル兌換停止(ドル切下げ)を宣言(ニクソン・ショック)、米国務省は「尖閣問題」の日本支持を修正し曖昧な態度をとるようになった。米政権に敵視された佐藤栄作内閣は存続を赦されず沖縄返還を花道に退陣、田中角栄内閣が発足したが「日中国交正常化」で前政権以上に激しくニクソン・キッシンジャー政権と衝突する。

1968年核兵器保有国にして国連常任理事国の米ソ英仏中は、新たな核保有国の出現を阻止すべく国連62か国を巻込み「核拡散防止条約」を成立させた。が、日本の佐藤栄作首相は「核保有国は非保有国に対して核兵器を使ってはならない」という非保有国側が当然主張すべき前提条件を要求し保有国の自分勝手を質した。「核を所有する国が自分のところは減らそうとせず、非核保有国に核をもたせまいとするのはダメで、このような大国本位の条約に賛成することはできるはずがない。『他国の核の傘に入りたい』などといったり、大国にあわれみをこうて、安全保障をはかることは考えるべきでない・・・現在の日本は米国と安全保障条約を結んでいるが、日本はまだ米国の傘のなかには入っていない」という主権国家としての堂々たる態度で、佐藤栄作首相の主張は国連の理解を得て「非核保有国の安全保障に関する安保理決議」に結実したが、「大国本位」はビクともしなかった。この後の1972年「沖縄返還」を達成した佐藤栄作首相は「非核三原則」などによりノーベル平和賞を受賞している。ただしノーベル賞といっても、成果が明らかな物理学賞・化学賞・医学生理学賞と異なり、平和賞は政治臭が強く大きな意味は無い(文学賞・経済学賞も)。

佐藤栄作内閣は「黒い霧事件」など数々の政治不祥事に見舞われ「待ちの政治」に内閣支持率は盛上がらなかったが、高度経済成長の円熟期「昭和元禄」(命名は福田赳夫)に依拠した与党自民党は選挙戦を無難に乗切り、「密約問題」でニクソン米政権と衝突するまで本格的な危機も無く佐藤首相は2798日の連続政権記録を樹立した(通算1位は桂太郎の2886日)。重光葵・鳩山一郎・池田勇人・吉田茂ら戦後第一世代が没し、大野伴睦・河野一郎ら政権を争うライバルの死が相次いだことも佐藤栄作の長期政権に幸いした。吉田茂・池田勇人政権が敷いた「経済優先・外交従米」が定着し本格的な路線対立が終息した自民党で、「人事の佐藤栄作」は田中角栄・福田赳夫・三木武夫・大平正芳・中曽根康弘・鈴木善幸・宮澤喜一・竹下登・安倍晋太郎ら総理総裁候補者を要職に就けて切磋琢磨させ、派閥横断的な師弟関係に基づき求心力を維持した。好調な経済に恵まれ安定多数を堅持した佐藤栄作政権と与党自民党は長い黄金期を満喫したが、当選回数による年功序列・政治家の世襲・金権政治・野党と安易な妥協を繰返す議会運営といった悪しき自民党システムが定着したのもこの時期であった。また、自民党の産業優先政策と一極集中政治は深刻な公害問題や地域格差を生み、外交面では在日米軍基地問題に加え「ニクソン・ショック」以降の日米関係はギクシャクしたまま、岸信介譲りの反中共・親台湾派である佐藤栄作首相は中国問題に切込めず、いずれも次代へ先送りされた。また、佐藤栄作首相はベトナム戦争への軍事協力はしっかり拒否したものの沖縄返還交渉を促すため北爆を支持する声明を出したため、左翼勢力が勢いを盛返し首相官邸前で抗議の焼身自殺事件も引起している。1972年沖縄返還を花道に佐藤栄作内閣が退陣し翌年、第一次オイルショックを区切りに1964年から続いた高度経済成長が終焉、「古き良き戦後」の申し子というべき佐藤栄作は1975年に没し大隈重信以来の「国民葬」で送られた。

福田赳夫は自主路線・岸信介の後継者である。群馬の旧庄屋に生れた福田赳夫は東大法学部から高等文官試験主席合格で大蔵省へ進み、軍部と闘う高橋是清蔵相に感銘を受け、ロンドン勤務や汪兆銘政権の財政顧問も経験した。戦後も出世コースを歩んだ福田赳夫は主計局長に上ったが「昭和電工疑獄」を機に退官し(のち無罪)、1952年衆議院議員へ転じた。福田赳夫は大蔵省傍流の池田勇人ではなく同じエリート官僚の岸信介に仕え、岸内閣で自民党三役となり農林相で初入閣、池田勇人内閣では政調会長に登用されたが「党風刷新連盟」で経済偏重主義を批判して解任され5年も冷飯を食った。しかし続く佐藤栄作内閣は派閥横断人事を行い(人事の佐藤)、福田赳夫は蔵相・幹事長・外相を歴任、戦後初の国債発行で「昭和四十年不況」を克服し「昭和元禄」を守り、沖縄返還では米軍駐留費負担の密約で交渉妥結に寄与、佐藤首相は退陣にあたり福田を後継指名した。1972年、田中角栄が佐藤派を割り「角福戦争」が勃発、大平正芳・三木武夫・中曽根康弘と包囲網を組み自民党総裁戦で福田赳夫を破った。田中角栄首相の「日本列島改造論」はオイルショックで挫折し、蔵相を託された福田赳夫は「総需要抑制策」へ転換し「狂乱物価」を終息させた。続く三木武夫内閣で福田赳夫は副総理兼経済企画庁長官に就任したが、「2年後の政権禅譲の密約(大福密約)」で宏池会の大平正芳と提携し「三木おろし」に成功、1976年71歳にして悲願の政権に就いた。「さあ働こう内閣」を掲げた福田赳夫首相は、カーター米政権の「アジア離れ」の隙を埋める形で「全方位外交」を推進、「福田ドクトリン」でASEAN諸国との連携を強化し懸案の日中平和友好条約を成立させた。しかし1978年、密約を反故にされた大平正芳が自民党総裁選に挑み田中角栄の支持を得て番狂わせの勝利、長期政権を期待された福田赳夫は僅か2年での退陣となった。その後も「昭和の黄門」福田赳夫は「清和会」に影響力を保持し1990年85歳で引退するまで衆議院議員を務めた。福田赳夫の没後、清和会を継いだ森喜朗・小泉純一郎・安倍晋三が政権を担い、長男の福田康夫も首相となった。

福田赳夫首相はカーター米政権の「アジア離れ」の隙を埋める形で「全方位外交」を追求し、従米脱却に挑んだ岸信介直系の名に恥じない働きを示した。ベトナム戦争敗北の翌1977年、大統領に就任したジミー・カーターは直ちに在韓米地上軍の削減を発表し「アジア離れ」の外交方針を鮮明にした。これを受けて福田赳夫首相は、カーター大統領を訪問し日米協調を確認したうえで、ASEAN5ヶ国の首脳を歴訪し「ASEAN工業プロジェクト」への10億ドル拠出およびODA支出額倍増を約束、最後の訪問地マニラで「日本の軍事大国化の否定・心と心が触れ合う相互信頼関係の確立・ASEAN各国の連帯性と強靭性強化に向けた自主的努力への協力」を骨子とする「福田ドクトリン」を表明した。福田ドクトリンとは即ち「米国のプレゼンス喪失で生じたアジアの力の空白を日本の経済力を求心力にASEAN諸国との政治経済両面での連帯強化によって埋めていく」外交方針の宣言であり、あわせて福田赳夫首相はベトナム問題や中ソ対立の波及など国際環境の分極化を未然に防ぐ日本の役割を国際社会に明示した。続いて福田赳夫首相は、改革解放を進める鄧小平復活後の中国と日本国内の親中・反ソ世論に促され、田中角栄内閣が達成した「日中国交正常化」の仕上げに乗出した。福田赳夫首相は、反ソ戦略の一環で対中接近を図るアメリカの了解を取付け、母体の岸派に根強い親台湾派を懐柔し、「反覇権条項」に抗議するソ連の牽制を黙殺して、1978年「日中平和友好条約」締結に漕ぎ着けた。福田赳夫首相は日中関係が「吊り橋から鉄橋になった」と自賛したが、中国への肩入れで「全方位外交」の建前は崩れ日ソ関係は悪化、さらに中国とベトナムの関係悪化を受け対越経済援助を堅持するも中越戦争勃発の抑止力にはなれず、日ソ関係改善に取組むなか自民党総裁選で大平正芳に敗れあっけなく退陣した。国内政治に弱い福田赳夫政権は短命に終わり岸信介以来の悲願である憲法改正・再軍備には踏込めなかったが、しっかりアメリカの了解を得ながらアジア経済共同体の構築を目指した外交戦術は秀逸で後世に範を示すものであった。

大平正芳は「保守本流」池田勇人の後継者で、盟友田中角栄の支持で首相となったが在任2年目に絶命した。「アーウー宰相」「讃岐の鈍牛」と揶揄されたが、政界有数の読書家で教養人だったという。香川の農家に生れた大平正芳は、苦学して東京商科大学(一橋大学)へ進み同郷の津島壽一大蔵次官の推薦で大蔵省出仕、税務畑を歩み傍流の先輩池田勇人に属した。池田勇人蔵相の秘書官を3年務めた大平正芳は1952年衆議院議員へ転身し、1960年池田内閣で官房長官に就くと「低姿勢」のスポークスマンぶりを評価され外相に栄転、利子平衡税や原潜寄港問題を捌いて良好な日米関係に寄与し、朴正煕政権との日韓交渉に働いた。大平正芳は池田勇人を喪い後継の佐藤栄作首相に敬遠されたが、田中角栄の尽力で政調会長・通産相にありつき、1971年「大平クーデター」で前尾繁三郎を追放し「宏池会」会長に納まった。佐藤栄作退陣に伴う自民党総裁選で、大平正芳は存在感を示すべく出馬したが、実際は田中角栄を支持し共に福田赳夫を破った。田中角栄内閣で外相・蔵相に補された大平正芳は、航空協定交渉を妥結へ導き日中国交正常化に貢献、田中首相の「資源外交」を支え、金大中事件・オイルショック・ニクソンショックと噴出する難題の対処に追われた。続く三木武夫内閣で大平正芳は蔵相に留まり「日本列島改造論」とオイルショックによる経済混乱の沈静化に努め、福田赳夫の赤字国債復活には異を唱えたが不況打開のため容認を決断した。1976年「2年後の政権禅譲の密約(大福密約)」で福田赳夫と大平正芳の提携が成り「三木おろし」で福田内閣が成立、大平は幹事長に就任したが、福田が密約を反故にしたため自民党総裁選に挑み田中角栄を後ろ盾に番狂わせを演じた。1978年「角影内閣」こと大平正芳内閣が発足、大平首相は福田赳夫政権の「全方位外交」を引込め「日米同盟」強化で従米路線へ戻し対中「贖罪外交」で「自虐史観」を強めたが、自民党を二分する福田との「怨念の対決」に忙殺され、総選挙の最中に心不全で急逝した。黒幕の田中角栄は大平派の鈴木善幸を後継総裁に担ぎ、福田赳夫の政権復帰は阻まれた。

1979年「東京サミット」を前にアメリカに呼ばれた大平正芳首相は、カーター大統領との会談で「日米同盟」の文句を始めて公式の場で使い「日本は良しにつけ悪しきにつけ、どこまでもアメリカを支持し、良きパートナーとしての役割を果します。なんでもご遠慮なくご相談ください」と営業マンのような追従を奉った。吉田茂・池田勇人の直系「保守本流」を自認する大平正芳首相は「福田首相のかかげた『全方位外交』の旗をおろし、『対米協調路線の前進』という立場を鮮明に打ち出し、日本外交の新しい選択を示した」というが、前の佐藤栄作・田中角栄・福田赳夫内閣が推し進めた自主外交を従米路線へ押戻す重要な役割を演じた。また大平正芳は田中角栄内閣の蔵相として日中国交正常化にあたったが、「戦争で中国にはひどい目にあわせたんだから、ここはやっぱり日本がいろんなことで我慢をして、正常な関係をつくって行かなければならないという、非常に強い信念」に基づき悪しき「贖罪外交」の端緒を開いた。「反日」「抗日」を建国の正統性に置く中国・韓国の現政権にとって贖罪外交は格好の支援材料となり、日本が詫びれば詫びるほど「歴史認識問題」はエスカレート、大平正芳を師と仰ぐ加藤紘一や「江乃傭兵」(江沢民の傭兵)こと河野洋平ら中朝ロビーが傷口を拡げた。贖罪外交の象徴が「従軍慰安婦問題」で、1992年宮澤喜一内閣の加藤紘一官房長官は朝日新聞記者の作り話に基づき碌な調査もせずに日本政府の関与を認め公式に謝罪(加藤談話)、翌年官房長官を継いだ河野洋平は贖罪意識から事実無根の「強制連行」を認めた(河野談話)。従軍慰安婦問題は「靖国参拝」と共に韓国の二大「政策」となり朴槿惠の反日専門政権を支えている。1995年社会党政権の村山富市首相は独断で「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と述べ日本政府として公式に謝罪を表明、不用意な「村山談話」で日本は自ら日本叩きを正当化する羽目に陥り、日韓併合で同じ国だった韓国まで謝罪の対象となった。