84 ayukawayoshisuke

鮎川あゆかわ 義介よしすけ

1880年~1967年

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井上馨の姉の孫で長州閥政商の雄、買収と経営再建で日産コンツェルンを築き満州の重工業開発を牽引したが早期撤退の大英断で財閥崩壊を免れた日産・日立グループ創業者

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エピソード

長州藩士の家に生れた鮎川義介は、大叔父で財界重鎮・元老・侯爵の井上馨の庇護のもとで成長し、旧制山口高等学校から東京帝国大学工科大学機械科へ進んだ。井上馨は自分が属する三井財閥に誘ったが、鮎川義介「自らの身体を使って技術を体得したい」と謝絶し、出自と帝大卒工学士の身分を隠して芝浦製作所(東芝の前身)の一職工となった。工学士の月給は45円が相場だったが、職工の日給は48銭と3分の1に満たなかった。井上馨が創設した毛利家の「時習舎」で良家の子女に囲まれ少年期を過ごした鮎川義介は、上流階級への懐疑と嫌悪を抱き「おれは絶対に金持ちにはなるまい。だが大きな仕事はしてやろう。願わくは人のよく行い得ないで、しかも社会公益に役に立つ方面をきりひらいて行こう」と決意したのだという。さて、芝浦製作所に入った鮎川義介は、職工として機械・鍛造・板金・組立て・鋳物など製造ラインで就労しつつ、東京近郊の工場を70~80箇所も見学して回った。その結果「日本で成功している企業はすべて西洋の模倣である。ならば日本で学んでいても仕方がない」との結論を得た鮎川義介は、日露戦争の最中に先端技術を習得すべく井上馨の援助を受けアメリカへ渡った。現場主義の鮎川義介は可鍛鋳鉄工場の見習工など実地に製鉄技術を学び、真赤に溶けた鉄を取鍋に受け鋳型に注込むといった過酷な労働も経験した。

アメリカでの技術修行から帰国した鮎川義介は、1910年井上馨の援助を受け北九州市に「戸畑鋳物株式会社」を設立、自ら主任技術者となって可鍛鋳鉄工場を開業した。製造も販売も手探りの当初、鮎川義介は会社存続のため資金繰り忙殺され、海軍へ納品した六インチ砲弾が全部不合格になるといった失態も演じたが、第一次大戦や関東大震災の特需が追風となり戸畑鋳物の経営は軌道に乗った。この間、株主が揃って追加出資を渋るなか藤田小太郎(長州人で藤田財閥を築いた藤田伝三郎の甥)の未亡人藤田文子だけが増資を快諾してくれ、これで窮地を脱した鮎川義介は生涯藤田文子を井上馨と並ぶ恩人と敬った。さて、軍需景気の波に乗り成長を続ける鮎川義介と戸畑鋳物は、可鍛鋳鉄への電気炉の導入、農業用・工業用・船舶用の石油発動機製造、電線製造などへ技術分野を広げつつ、帝国鋳物・木津川製作所・安来製鋼所・東京製作所・東亜電機などを次々傘下に収め業容を急拡大、人材と資金の機動的な運用を図り戸畑鋳物グループの組織効率を高めるべく持株会社「共立企業」を設立し系列企業群を再編した。1920年鮎川義介は久原財閥の経営再建を引受け共立企業モデルを雛形に「日産コンツェルン」を形成、「国産工業」へ改称した戸畑鋳物はグループ再編で小平浪平の日立製作所に吸収されたが、第二次大戦後の1956年再び分離独立し「日立金属工業株式会社」となった。

大叔父井上馨の支援のもと戸畑鋳物で成功を収めた鮎川義介は、田中義一ら陸軍長州閥の要請に応じ、1920年破綻に瀕した久原財閥の経営再建を引受けた。長州人政商の久原房之助は、鮎川義介の妹婿で、叔父藤田伝三郎の藤田財閥から独立して日立銅山や日立製作所を興し「久原財閥」と称されたが、「大風呂敷」な放漫経営で破綻に瀕し自力再建不能に陥った。この後政界へ転じた久原房之助は田中義一内閣に逓信相で入閣し、大政翼賛会支持で近衛文麿首相の取巻きとなった。さて鮎川義介は、久原鉱業(のち日本産業)を持株会社へ改組し傘下に日産自動車・日立製作所・日本鉱業・日産化学・日本油脂・日本冷蔵・日本炭鉱・日産火災・日産生命など多数の系列企業を連ね「日産コンツェルン」を形成した。鮎川義介が興した企業群も整理統合され、持株会社共立企業は日本産業に、戸畑鋳物は日立製作所に吸収された。短期間で久原系企業の再建を果した鮎川義介は、持株会社の日本産業(日産)を証券取引所に上場させ、当時斬新な「公衆持株」の発想で広く大衆から出資を募った。公衆持株は銀行融資が得られない状況で生れた苦肉の策であったが、1931年の金価格高騰で日本鉱業が花形株となり膨大な資金を獲得、積極投資と事業拡大が株価を押上げ更に資金を呼込む好循環が出来上り、日産は業績不振企業の買収と再建を繰返す「企業再生ファンド」と化した。軍拡に乗り重化学工業主導で膨張を続ける日産コンツェルンは三井・三菱に迫る勢いを示し、鮎川義介は日窒コンツェルンの野口遵・森コンツェルンの森矗昶と共に「財界新人三羽烏」と持て囃された。

日産コンツェルンの鮎川義介は、満州事変後の軍用車両の需要増に対応すべく、自動車工業株式会社(いすゞ自動車の前身)からダットサンの製造権を取得し自動車製造株式会社を設立した(のち日産自動車へ改称)。間もなく豊田喜一郎が豊田自動織機製作所内に自動車製作部門を創設しトヨタ自動車を創業、奇しくも日本が誇る二大自動車メーカーは同じ1933年に出発した。

石原莞爾ら陸軍首脳は満州経営の主導権を満鉄から奪取すべく、鮎川義介の日産コンツェルンを満州へ招致した。石原莞爾の狙い軍用の自動車産業だったが、鉱工業一貫生産を期す鮎川義介は日産重工業部門の全面移転を決意し、1937年受皿の満州重工業開発株式会社(満業)を設立し自ら総裁に就任した。鮎川義介は満州開発資金の3分の1乃至半分を欧米から募り「金質」を戦争抑止力にしようと図ったが、陸軍の反対で実現しなかった。また鮎川義介は陸海軍や外務省(松岡洋右ら)の「大陸派」と連携し、ドイツで迫害を受けるユダヤ人を満州へ誘致し米国の政策を左右するユダヤ移民との連帯により対米開戦回避を図る「河豚計画」にも加担していた。河豚計画も頓挫したが、日産・満業の事業は成功を収め、重工業開発を牽引した鮎川義介は東條英機(関東軍参謀長)・星野直樹(国務院総務長官)・岸信介(総務庁次長)・松岡洋右(満鉄総裁)と共に「弐キ参スケ」と称され満州支配の支柱となった。が、石原莞爾の失脚で「五族協和」の夢は破れ日中戦争は泥沼化、専横を強める関東軍を見限った鮎川義介は1939年には満州撤退の検討を始め、日産傘下の日本食糧工業(日本水産)取締役の白洲次郎らと話すうち欧州戦争はドイツ敗北・英仏勝利と確信した。ミッドウェー敗戦を知らない日本国民が未だ戦勝気分に沸く1942年、鮎川義介は満州からの全面撤退を決断し、各事業部門を国内と満州に分割再編したうえで満州重工業開発総裁を辞任し資本を引上げた。膨大な設備投資を重ねた満州からの撤退は大きな痛みを伴ったが、鮎川義介の間一髪の大英断により日産は破滅を免れ資本と事業基盤の国内温存に成功、第二次大戦後も事業活動を継続した日産自動車・日立製作所・日本鉱業(JXホールディングス)の各企業グループは高度経済成長で大発展を遂げ、日本水産・ニチレイ・損害保険ジャパン・日本興亜損害保険・日油などを連ね日産・日立グループを形成した。なお、大倉喜八郎は鮎川義介と同様に陸軍長州閥に従い中国大陸へ事業を移したが満州事変を前に没し、逃げ遅れた大倉財閥は壊滅した。

満州の重工業開発を牽引し東條英機内閣の顧問も務めた日産コンツェルンの鮎川義介は、A級戦犯容疑で巣鴨プリズンに投獄され東京裁判に掛けられた。獄中にあってもユーモアを忘れない鮎川義介は、退屈凌ぎに芝居を作り本も一冊書いたが、チャーチル「やり手婆あ」・ルーズベルト「大金持ちの若旦那」・ヒトラー「大山師」・スターリン「因業高利貸し」・東條英機「一徹居士」・松岡洋右「奇術師」に扮した鮎川劇はA級戦犯の面々に大受けしたという。獄中生活2年で鮎川義介は不起訴赦免となったが、日産の経営に復帰することはできなかった。

小平浪平は、欧米技術の模倣を嫌悪し「国産技術立国」の理想を追求し続けた日立製作所創業者である。東大工学部を卒業し発電設備技術者となった小平浪平は、秋田県の藤田組小坂鉱山・広島水力電気を経て「電気工学を学んだ者の羨望の的」東京電燈(現東京電力)送電課長に栄進したが、どの職場でも外国製機械と外国人技師への依存に反発し、「痩せても枯れても自力で機械を作る」ため1906年元上司の久原房之助が開業した久原鉱業所日立鉱山に入社した。鉱山経営に不可欠な電源開発を託された小平浪平は発電所建設を陣頭指揮したが、排水ポンプ用の電動機(モーター)に故障が多く難渋、大半がGEやWestinghouseなど外国製だったことに反骨心を刺激され「故障しないモータが日本人の手で作れるはずだ、作れないのは、作ろうとしないからだ」と修理改良に乗出した。故障を克服し自信を得た小平浪平はモーターの国産化を決意し、1910年久原房之助を口説いて出資金を引出し現日立市に「日立製作所」創業(企業名より地名が先)、交通不便な僻地で工場も掘立小屋同然だったが、帝大教授陣を抱込んで倉田主税(2代目社長)・駒井健一郎(3代目社長)ら優秀な技術者を獲得し、見習工養成所(現日立工業専修学校)も開設した。設備も経験も不足するなか国産初の大型電動機製造に成功した日立製作所は、創意工夫で技術力を高めつつ発電設備・電動機市場に割安な国産製品を浸透、大物工場の全焼で小平浪平は経営危機に直面したが、翌1920年久原房之助義兄の鮎川義介が経営難の久原財閥を承継し窮地を脱した。「日産コンツェルン」に再編された日立製作所は成長を加速、電気機関車製造に進出し、小平浪平が「日立精神を守る」と製造拠点を留めたことで関東大震災を免れ東芝などが壊滅的被害を蒙るなか復興需要で急伸、日中戦争に伴う軍需景気と日産の満州重工業開発に乗り一流重機メーカーへ発展を遂げた。第二次大戦後、小平浪平は公職追放に遭い、1951年相談役で復帰したが世襲経営を否定し「日立製作所がおれの論文であり、記念だよ。ほかに何もいらぬ」と言残し同年77歳で世を去った。

外国依存に反発し藤田組小坂鉱山を去った小平浪平は、広島水力電気を経て東京電燈(東京電力の前身)に入社し「東洋一のプロジェクト」桂川発電所建設に従事、「電気工学を学んだ者の羨望の的」東電送電課長に昇進した。が、「国産技術立国」を志す小平浪平はここでも外国製機械と外国人技師への依存に失望し間もなく退職、「痩せても枯れても自力で機械を作る」ため、1906年久原房之助の招聘に応じ茨城県の久原鉱業所日立鉱山へ転じ工作課長となった。この前年、久原房之助は親分の井上馨の援助で赤沢銅山を買収し日立鉱山へ改称、すぐに鉱山開発を軌道に乗せ、掘削・精錬機械の電力確保のため発電所の建設と買収を進めていた。小平浪平は石岡川発電所の建設などを陣頭指揮したが、排水ポンプ用の電動機(モーター)に故障が多く難渋、大半がGEやWestinghouseなど外国製だったことに反骨心を刺激され「故障しないモータが日本人の手で作れるはずだ、作れないのは、作ろうとしないからだ」と修理改良に乗出した。故障を減らし自信を深めた小平浪平はモーター製造を決意し、1910年渋る久原房之助から出資金を引出し「日立製作所」を創業した(「日立」は企業名より地名が先)。当時の日立は酷い僻地で工場は掘立小屋同然だったが、小平浪平は帝大教授陣も巻込んで熱心に技術者招致に努め倉田主税(2代目社長)・駒井健一郎(3代目社長)・大西定彦ら優秀な人材を獲得、社内に見習工養成所(現日立工業専修学校)も開設した。設備も経験も足りない日立製作所では悪戦苦闘が続いたが、国産初の大型電動機製造を成功させ、創意工夫で技術力を高めつつ発電設備・電動機市場に割安な国産製品を浸透させていった。大物工場の全焼で小平浪平は窮地に陥ったが、翌1920年鮎川義介が経営難の久原財閥を承継し「日産コンツェルン」に再編、日立製作所は窮地を脱し株式会社へ改組された。日産の資金力を得た小平浪平は成長を加速、電気機関車製造に進出し、主力工場を日立に留めたことが幸いし関東大震災の復興需要を満喫、さらに日産の満州重工業開発と軍需に乗り日立製作所は一流重機メーカーへ躍進した。

小平浪平は東大工学部在学中から欧米技術の模倣を嫌悪し、生涯妥協することなく「国産技術立国」の理想を追い続けた。曰く「日本の工業を発展させるためには、それに用いる機械も外国から輸入するのではなく、自主技術、国産技術によって製作するようにしなくてはならない。それこそが日本が発展していく道だ」「財閥系ではなく、これといった資本の背景もない。となれば、そのハンディを補うのは、なんとしても国産技術を確立するのだという初心、これこそが日立精神であり、それなくして日立はありえない」・・・。また、反骨心旺盛な小平浪平は独立独歩を貫き、交通網が未整備で酷い僻地だった茨城県日立にこだわり続けた(なお、「豊田市」と異なり「日立製作所」の社名より地名が先である)。業容を拡大した日立製作所は1918年本社機能を東京へ移し、翌年の大物工場全焼で社内は製造拠点の東京移転へ傾いたが、小平浪平は「この通り工場は全焼した。しかし私はあくまでここに残る。東京に行きたい者は行け、私はここにとどまって工場を再建し、日立精神を守るのだ」と創業の地に留まった。果して4年後に関東大震災が起り、ライバルの東芝をはじめ京浜地区に製造拠点を置く電機メーカーは壊滅的打撃を蒙ったが、ほぼ無傷の日立製作所は震災後の復興需要を満喫し一人勝ち、一躍業績を伸ばすと同時に地方の二流メーカーのイメージを払拭し大発展への地歩を築いた。鮎川義介の日産コンツェルンに属した日立製作所は、日産の満州重工業開発など軍需に乗り一流重機メーカーへ飛躍したが、第二次大戦後の公職追放で小平浪平ら経営陣は退場を余儀なくされた。サンフランシスコ講和条約調印の1951年、公職追放は全面解除され小平浪平は日立製作所の相談役に復帰したが、世襲経営を否定し「日立製作所がおれの論文であり、記念だよ。ほかに何もいらぬ」と言残し77年の生涯を閉じた。

井上馨は、幕末の志士時代から伊藤博文の大親友で、共に高杉晋作のクーデター「長州維新」を支え、伊藤と二人三脚で明治政界をリードした。名門出身の井上馨は長州藩庁に危険視された吉田松陰の松下村塾には加わらなかったが、木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作ら尊攘派志士グループの一員となり、イギリス公使館焼き討ちにも加わった。井上馨と伊藤博文はイギリス留学へ派遣されたが、長州藩と西洋列強の関係悪化を知り急遽帰国、不戦工作に奔走するも馬関戦争を止められなかった。禁門の変後の第一次長州征討に際し井上馨は高杉晋作と共に徹底抗戦を唱え、佐幕恭順派の闇討ちに遭い全身を切り刻まれ瀕死の重傷を負ったが、奇跡的に蘇生すると功山寺で決起した高杉晋作・伊藤博文に合流し尊攘派の政権奪回に貢献した。維新後の井上馨は、九州鎮撫総督参謀・長崎製鉄所御用掛を経て、志士時代に金策が得意だった流れで参議兼大蔵大輔となり新政府の財政政策を主導したが、尾去沢銅山汚職事件で辞職に追込まれた。実業界へ転じた井上馨は、長州閥を背景に黎明期の財界で辣腕を振るい、三野村利左衛門・中上川彦次郎・益田孝ら三井財閥と癒着して西郷隆盛から「三井の番頭」と揶揄され、腹心の渋沢栄一、長州政商の久原房之助・鮎川義介・藤田伝三郎・大倉喜八郎、石坂泰三ら多くの財界人を支援し、貪官汚吏と批判されつつも死ぬまで財界に君臨した。口うるさい「維新の三傑」が相次いで没すると井上馨は伊藤博文の要請で政界に復帰し外務卿・外相として「鹿鳴館外交」を展開するも条約改正失敗で失脚、第三次伊藤内閣の蔵相を最後に政府から退いたが、長州閥元老として影響力を保持し伊藤の裏方として政治活動を支え続けた。日露開戦が迫ると、井上馨は伊藤博文と共に「満韓交換論」「日露協商」を推進し、戦時財政の総監督役として日銀副総裁の高橋是清を特使に抜擢し膨大な戦費調達を成功させた。伊藤博文暗殺後の井上馨は長州閥長老として政界調整に奔走、伊藤の後継者である西園寺公望・原敬らを盛立てつつ山縣有朋直系の桂太郎と縁戚を結び、第一次山本権兵衛内閣や第二次大隈重信内閣の成立を主導した。

伊藤博文と井上馨は長州藩の志士時代から行動を共にし親友関係は終生続いた。井上馨は220石取りの歴とした上士身分で「雷公」と渾名された癇癪持ちだが、気さくな人柄で農民出身の伊藤博文にも対等に接し「聞多(井上)」「利輔(伊藤)」と呼び合う間柄であった。井上馨の裏工作で伊藤博文もイギリス留学を許されたが、往きの船中で伊藤は下痢に悩まされ、井上は荒れる甲板から用を足す伊藤の体をロープで支え必死に励ました。西洋文明に圧倒された伊藤博文と井上馨は忽ち尊攘派から開国派へ転じ、高杉晋作の藩政奪回「長州維新」を支えた。長州藩主の毛利敬親は何故か癇癪持ちの井上馨を可愛がり意見をよく聴いたといい、馬関戦争の不戦講和・第一次長州征討の武備恭順(いずれも反対派に潰された)・薩長同盟など、敬親への献策役はいつも井上に託された。明治維新後の井上馨は、鹿鳴館外交をぶち上げるも不平等条約改正に失敗、財界へ転じると貪官汚吏の筆頭格となり西郷隆盛から「三井の番頭」と面罵されたが、伊藤博文は身を挺して井上を庇い続け、伊藤のお陰で政治的致命傷を免れた井上は元老のまま長州志士中最長寿を全うした。

戊辰戦争を後方任務で終えた伊藤博文は、木戸孝允の推挙で明治政府に出仕し、英語力を買われて外国事務掛・外国事務局判事・兵庫県知事を歴任したが、賞典禄を与えず「いつまでも家人扱いする」木戸から離反、岩倉使節団で外遊中に大久保利通の腹心となり、帰国すると西郷隆盛ら征韓派の追放に奔走し明治六年政変で参議に採用された。なお山縣有朋は、山城屋事件の大恩人西郷隆盛と長州閥首領の木戸孝允の板挟みとなり鎮台巡視の名目で東京から脱出、保身は果したものの参議就任を見送られた。独裁政権で富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通が暗殺されると、後継者の伊藤博文と大隈重信が政権を担ったが、開拓使官有物払下げ事件を機に薩摩閥と結んで大隈一派を追放し(明治十四年政変)伊藤が薩長藩閥政府の首班となった。薩長の「超然主義」の限界を悟った伊藤博文は、国会開設の詔で民権派との協調を図り、立憲制視察のため自ら渡欧、華族令で貴族院の土台を整え、1885年太政官制を廃して内閣を創設し初代総理大臣に就任、3年で薩摩閥の黒田清隆に首相を譲り憲法起草に専念し1889年大日本帝国憲法を制定、翌年公約どおり帝国議会開催に漕ぎ着けた。憲法で伊藤博文は三権分立を確保したものの、山縣有朋ら軍閥と妥協するため軍事権(統帥権)を天皇独裁としたため文民統治の機能が欠落、山縣と陸軍長州閥は軍部大臣現役武官制で倒閣力まで手に入れ軍国主義化に邁進した。二度目の組閣で伊藤博文は、アウトローの陸奥宗光を外相に抜擢し不平等条約改正に成功、国土防衛線の朝鮮を守るため日清戦争を敢行し勝利して下関条約を締結した。伊藤博文は第四次内閣を終えると政友会の西園寺公望に政権を託したが、朝鮮・満州への南下政策を露にするロシアに対し井上馨と共に融和策(日露協商・満韓交換)を提唱、山縣有朋直系の桂太郎首相が日露戦争に踏切ったが、金子堅太郎を通じてアメリカを講和斡旋に引張り出し国難を救った。朝鮮を保護国化すると伊藤博文は自ら初代韓国統監に就き穏健な民政を図るも抗日運動で挫折、伊藤はハルビン駅頭で朝鮮人に射殺され翌年陸軍長州閥は韓国併合を断行した。

渋沢栄一は「日本資本主義の父」とも称される財務官僚・実業家でる。藍玉の製造販売も手掛ける武蔵の豪農に生れた渋沢栄一は、少年期から商売に親しみつつ、従兄尾高惇忠の影響で尊攘運動に身を投じ同志と共に高崎城襲撃・横浜焼打ちを企てるが頓挫し逃亡(従兄の渋沢成一郎は上野彰義隊頭取となり箱館戦争まで転戦)、一橋家重臣の平岡円四郎に拾われた。一橋家に仕官した渋沢栄一は忽ち「建白魔」となり領内の農民兵徴募や財政改革を任されて成功を収め、主君の徳川慶喜にも評価された。徳川慶喜の将軍就任に伴い幕府御家人に大出世した渋沢栄一は、パリ万国博覧会に出席する徳川昭武(慶喜実弟)の随員に選ばれる大幸運に恵まれ、維新の動乱期を優雅な外遊生活で過ごした。帰国した渋沢栄一は徳川宗家と慶喜が移された静岡に移住するも仕官は断り、石高拝借金の合本組織運用を提案し静岡商法会所の頭取となって資本主義の実践に着手した。がその矢先、渋沢栄一は大蔵大輔の大隈重信に突然スカウトされ新政府に出仕、改正掛の革新運動を牽引し、岩倉使節団に出た大久保利通に代わり大蔵省のトップに就いた井上馨の腹心となり、銀座煉瓦街建設、富岡製糸場開設、第一国立銀行設立・国立銀行条例制定など洋化政策を主導した。が、岩倉使節団が帰国すると大蔵省は再び大久保利通の掌中に帰し、井上馨は尾去沢銅山汚職事件で引責辞任、渋沢栄一は井上に殉じ実業界へ転じた。第一国立銀行に天下った渋沢栄一は、三井組の吸収工作撃退で実権を掌握して頭取に就き本格的な財界活動に入った。西南戦争後、薩長藩閥と大隈重信=三菱の対立が激化し、井上馨に連なる渋沢栄一は矢面に立たされ窮地に陥ったが、明治十四年政変で薩長藩閥が勝利を収め政府から大隈一派を追放、「三菱海上王国」も共同運輸会社に吸収された。以降の渋沢栄一は第一国立銀行を拠点に順風満帆の活躍を続け財界人で唯一子爵を受爵、自ら60社近い事業を立上げ、東京証券取引所・東京瓦斯・東京海上火災保険・王子製紙・東京急行電鉄・秩父セメント・秩父鉄道・京阪電気鉄道・キリンビール・サッポロビール・東洋紡績・帝国ホテルなど500社以上の設立に関与した。

1882年に渋沢栄一の呼掛けで発足した大阪紡績(現東洋紡)は、株式発行によって膨大な資金を集め、最新・最大級の紡績機を導入した大規模工場を建設、また実用化間もない電力を大々的に導入し、24時間操業も行った。大阪紡績は大成功を収め、それに倣って次々と紡績会社が設立され、紡績業は主要な輸出産業へと発展した。世界の紡績業は産業革命発祥のイギリスがリードしてきたが、日本は100年遅れで産業革命に乗出したためリング紡績機など最新技術をそのまま導入することとなり、旧来型のミュール紡績機からの転換が進まず設備の老朽化が著しいイギリスより有利な状況で紡績業に参入することができた。また、中小事業者が乱立するイギリスに比べ、日本では渋沢栄一をはじめとする財界人が協力して大規模工場の建設を進め、三井物産を筆頭に商社による綿花の大量仕入れも奏功、人件費の安さも手伝って、日本の紡績業は国際市場で比較優位を確立するに至り、主要市場である中国からイギリス製品を駆逐していった。日本の綿製品の輸出量は、1928年にはイギリス製品の37%に達し、1932年には92%と肉薄、1936年には141%と完全に抜き去った。だが、日本の繊維産業の躍進は深刻な経済摩擦を生み、1929年の世界恐慌以降、イギリスは露骨なブロック経済化によって日本製品の排除を進め、インド市場から締出された日本はそのはけ口を満州に求め、日英対立は戦争レベルまでエスカレートすることとなった。そして、遂に第二次世界大戦が勃発すると、インドなど欧米列強植民地への輸出が完全に封鎖され、さらに戦局悪化により輸送路が途絶えたために中国大陸への輸出も激減、隆盛を誇った日本の繊維産業は壊滅的打撃を蒙った。

生糸・綿糸・綿織物・絹織物などの繊維産業は、明治維新から第二次世界大戦に至るまで輸出総額の過半を占め、獲得した外貨は軍艦などの兵器や産業機械の輸入を促し殖産興業を牽引した。初期の繊維産業は家内制手工業が中心だったが、産業資本の成長(財閥形成)と電力会社の勃興により日露戦争を境に大規模工場への集約化が進み大量生産へシフト、豊田佐吉の自動織機など安価な国産機械の普及も後押しとなり、日本の繊維産業は品質価格両面で高い国際競争力を獲得、1909年には製糸輸出が中国(イギリス資本)を抜いて世界一となった。日露戦争後の反動不況はあったが、第一次世界大戦で実害を受けず繊維産業などで特需を満喫した日本は1919年に初めて債権国となり、戦前11億円の債務超過から1920年には約27億円の大幅な債権超過となった。その後、1929年に始まった「世界恐慌」で繊維産業は世界的不況に陥ったが、日本は満州事変後の軍需バブルで逸早く不況を脱し、紡績業輸出は1932年に「世界の工場」イギリスに肉薄し1936年には完全に凌駕、内需振興の軍拡政策で重化学工業も興隆した。が、中国市場を奪われた大英帝国は特恵関税による保護主義政策で(ブロック経済)日本を中国侵出へ奔らせ、第二次大戦勃発に伴い連合国は対日輸出入を完全封鎖、戦局悪化で中国への輸送路も絶たれ、日本の繊維産業は壊滅状態となった。なお、ほとんどの繊維関連企業が破滅するなか、豊田佐吉の長男豊田喜一郎は鮮やかに事業転換を成遂げトヨタ自動車の礎を築いている。

大倉喜八郎は、維新の動乱期に武器の輸入販売で台頭し、陸軍長州閥に食込み大倉財閥を築いた立志伝中の企業家である。越後新発田から17歳で単身江戸へ上った大倉喜八郎は、幕末の戦乱に乗じ大倉銃砲店を開業、鳥羽伏見戦が起ると官軍に取入って御用達となり、上野彰義隊に殺されかかるも啖呵でかわし、奥州征討軍の輜重を担い大儲けした。戊辰戦争後、大倉喜八郎は貿易視察のため欧米を巡遊し岩倉使節団の大久保利通や伊藤博文と交流、帰国すると大倉組商会を設立し、日本商社の海外支店第一号となるロンドン支店を開設、インド・朝鮮貿易にも進出した。山縣有朋・桂太郎・田中義一ら陸軍長州閥に大胆不敵さを買われた大倉喜八郎は、台湾出兵・西南戦争・日清戦争・日露戦争で軍隊輜重を任され武器販売や兵站輸送で巨富を積んだ。「冒険商人」大倉喜八郎は自ら命懸けの戦時輸送に乗込み、多くの部下を喪い大嵐で遭難もしたが度重なる死線を潜り抜けた。戦乱の度に焼け太る大倉喜八郎は世間から「死の商人」「政商」「グロテスクな鯰」と呼ばれたが、井上馨・渋沢栄一・安田善次郎ら財界首脳の支援も得て、明治末期には軍需関連・土木建築・鉱工業の三本柱で「大倉財閥」を形成、自ら50以上の会社設立に関与し傘下企業は200社へ膨張した。が、大倉商業学校(現東京経済大学)の創設など経済人養成に尽力した大倉喜八郎の意に反し、大倉財閥に人材は育たず、嫡子の大倉喜七郎は道楽者となった。日露戦争後、大倉喜八郎は陸軍長州閥に歩調を合わせ中国大陸進出を加速、喜八郎没後も大倉財閥は多種多様な大陸事業に巨費を投じたが、成功したのは本渓湖煤鉄公司のみだった。満州の重工業開発を牽引した鮎川義介は逸早く全面撤退し日産・日立を残したが、逃げ遅れた大倉財閥は注込んだ資産を全て中国に接収され、2代目体制は財閥解体の嵐に翻弄され大倉財閥は壊滅した。銀行を核に四大財閥の再編が進むなか、銀行部門の無い大倉財閥では大成建設・帝国ホテル・ホテルオークラ・日清オイリオグループ・帝国繊維・日油・サッポロビールなどの紐帯は復活せず、辛うじて存続した中核の大倉商事も1998年に倒産し大倉財閥は完全に消滅した。

南満州鉄道会社(満鉄)は、ポーツマス条約で獲得した東清鉄道南満州支線(旅順-長春間)等の鉄道と付属地の炭坑の経営を目的として、政府の過半数出資により設立された国策会社である。満鉄株は熱狂的な人気を博し、第1回株式募集では10万株に対して1077倍もの応募を集め、大倉喜八郎(長州閥系武器商人)のように1人で全額を申込む者もあった。満鉄上場は株式ブームに火をつけ、第一次大戦では満鉄を含む軍需関連株が高騰し多くの「株成金」が出現した。初代満鉄総裁には台湾総督府民政長官として植民地経営を成功させた後藤新平が就任した。満鉄周辺には野心的な官僚や事業家が参集して関連事業を拡げ鉄道・鉱山のほか都市開発・製鉄所・農地開拓・商社・アヘンなど多種多様な分野に拡大、満州事変の勃発で軍政へ移行する1931年まで満鉄は満州計略の中核を担った。なお、アメリカは、日露戦争講和で日本を援けたが、中国進出への遅れを挽回するため日本の満州権益に関心を示し、早くも満鉄設立に際してアメリカ人実業家エドワード・ヘンリー・ハリマンとの共同経営を持ち掛けた。日本政府は、桂・ハリマン協定によりこの提案を受入れようとしたが、小村寿太郎外相の反対により拒否した。アメリカでは反日機運が高まって日本人移民排斥運動が始まり、対外硬派の加藤高明外相が辞任する事態となった。

陸軍長州閥を築いた山縣有朋は政治に乗出し、松下村塾同窓で国際協調と自由民権運動との融和を図る伊藤博文と妥協しつつも、一貫して軍国主義化・文民統治排除と政党弾圧を推し進め、特に自身の内閣では教育勅語・地租増徴・文官任用令改定・治安警察法・軍部大臣現役武官制・北清事変介入等の重要政策を次々に断行、伊藤の暗殺死に伴い遂に最高実力者に上り詰めた。山縣有朋と陸軍長州閥の法整備を担った清浦奎吾は司法官僚から司法相に栄進し、貴族院に送込まれて親藩閥勢力を扶植し念願の首相職を与えられた。1912年、陸軍が軍部大臣現役武官制を楯に第二次西園寺公望内閣を倒すと余りの難局に後継首相の引受け手が無かったが、伊藤の死で傀儡不要となった山縣有朋は首相復帰への意欲を示し、桂太郎を上りポストの内大臣に押込んだうえで「自分か桂かどちらか決めてもらいたい」と元老会議に迫った。が、賢明な元老会議は慣例を破って桂太郎に第三次内閣の大命を下し、桂からは「これからは、あれこれご指示をくださらなくても結構です。大命を奉じたからには、自分一個の責任でやりますから、閣下はどうかご静養なさいますように」と冷や水を浴びせられる始末だった。山縣有朋は元老筆頭として影響力を保持し、死の前年の宮中某重大事件で権威が低下したものの、栄耀栄華に包まれたまま84歳で大往生、伊藤博文・山田顕義・板垣退助・大隈重信ら政敵の誰よりも長生きした。山縣有朋は伊藤博文と同じく国葬で送られたが、大隈重信の「国民葬」が空前の参列者で賑わったのと対照的に人出の少ない寂しい葬儀であった。明治維新後1年で暗殺死した大村益次郎は「日本陸軍の創始者」と崇敬され今も靖国神社の一等地に銅像がそびえ立ち、国会議事堂では伊藤博文・板垣退助・大隈重信の銅像が憲政の発展を見守るが、1922年まで生きて幾多の軍事政策を行い位人臣を極めた山縣有朋に対する後世の評価は非常に低い。

桂太郎は、陸軍長州閥・山縣有朋の腹心として首相となり日露戦争と韓国併合を断行、三度組閣し首相の通算在職日数2886日は歴代1位である(単独内閣では佐藤栄作が首位)。桂太郎は、長州藩の中級藩士の嫡子で、吉田松陰の親友だった叔父の中谷正亮のコネで同族の木戸孝允らに引立てられ、戊辰戦争では下級仕官ながら異例の賞典禄を授かり、長期のドイツ遊学を経て山縣有朋の側近に納まり、ドイツ式陸軍「天皇の軍隊」の建設を牽引した。少壮にして実務を担った陸軍省=軍政の桂太郎・参謀本部=軍令の川上操六(薩摩)・児玉源太郎(長州)は「陸軍の三羽鴉」と称された。軍政に明るい桂太郎は、軍部大臣現役武官制など山縣有朋の政党弾圧の裏方を担い覚え目出度く順調に昇進、日清戦争では山縣の第1軍旗下の第三師団長として出征し、台湾総督・東京湾防御総督を経て第三次伊藤博文内閣で陸相に就任、約3年陸相を務めた後に首相に栄達し、伊藤博文から政友会を継いだ西園寺公望と交互に3度組閣し政治的安定期は「桂園時代」と称された。桂太郎首相は、日露協商・満韓交換論を説く伊藤博文・井上馨を退けて日露戦争に踏切り、勝利によって英雄となり韓国併合を断行、先輩の井上馨や松方正義より早く公爵を授かり位人臣を極めた。とはいえ桂太郎の業績は日露戦争勝利に尽きるが、開戦を可能にした日英同盟は林薫駐英公使と小村寿太郎外相の手柄で、軍事は陸軍の大山巌・児玉源太郎・川上操六や海軍の山本権兵衛・東郷平八郎・秋山真之ら優秀な軍人の功績、さらに物資欠乏・継戦不能の日本を救ったポーツマス条約は伊藤博文が派遣した金子堅太郎の対米工作と難交渉をまとめた小村主席全権の偉業であり、山縣有朋と桂太郎は賠償金に固執し講和潰しを図るなど感覚がズレていた。政友会の護憲運動で第三次内閣を倒された桂太郎は(大正政変)政党の必要性を痛感し、政党嫌いの山縣有朋を宥め反政友会勢力を掻集め「桂新党」同志会を結成、桂は間もなく病没したが同志会(憲政会・民政党)は政友会の対抗馬に成長し加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸が組閣した。陸軍長州閥では山縣有朋が長寿を保ち没後は寺内正毅・田中義一が受継いだ。

長州藩の下級藩士に生れた寺内正毅は、少年期から長州藩軍に駆出され16歳で戊辰戦争を転戦した。寺内正毅と児玉源太郎は同じ長州出身で同年生、共に京都河東操練所で大村益次郎の薫陶を受け、後年寺内は娘を児玉の嫡子(児玉秀雄)に嫁がせ縁戚を結んだ。寺内正毅は、山田顕義(長州人で大村益次郎の愛弟子)に属し、兵制論争で山田が失脚すると山縣有朋に鞍替えして順調に出世を続け、西南戦争で右手に後遺症を負ってからは軍政や教育畑を歩み、初代教育総監から日露戦争時の陸相となり初代朝鮮総督を6年務めた後、山縣の傀儡首相に担がれた。日露戦争の英雄で陸軍長州閥を担うべき児玉源太郎の早世により凡庸な寺内正毅にお鉢が回ってきた次第だが、時代遅れの「超然主義」を振りかざす寺内首相は、顔貌が酷似するビリケン人形と非立憲(ひりっけん)に引掛けて「ビリケン内閣」と揶揄された。寺内正毅内閣は、ロシア革命に乗じて「シベリア出兵」を断行するも赤軍の猛反撃に遭い失敗、日本は第一次世界大戦の特需景気に沸いたが野放図な輸出は国内の物資不足を招き「米騒動」が全国へ波及、鎮圧軍を発動した寺内内閣は国民の非難を浴び総辞職に追込まれた。翌年寺内正毅は急逝し、三宅坂に北村西望作「寺内正毅元帥馬上像」が建てられたが(功山寺の高杉晋作一鞭回天像のマネか)、東京市民の轟々たる非難に晒され警視庁が厳戒態勢を敷く事態となった。辛くも生延びた寺内正毅像は、太平洋戦争中の金属没収に供され溶解への末路を辿った。

田中義一は長州藩出身だが、12歳のとき萩の乱で反乱軍に加わったことで前途を塞がれた。長崎・対馬・松山を転々し独学を続けたが、陸軍教導団で受験資格を獲得し2・3年遅れで陸軍士官学校に進学、校長は萩の乱で鎮圧軍を指揮した三浦梧楼だった。田中義一は晴れて陸軍長州閥に連なり、日清戦争では第一師団副官として動員計画を担い第一師団参謀に昇進、参謀本部勤務を経てロシア留学に出された。明朗な田中義一は部下に慕われ、30歳前の結婚まで兵卒と営内居住を共にした。陸軍主流(ドイツ留学→作戦担当)から外れた田中義一は陸士同期の山梨半造や大庭二郎に水を空けられたが、ロシアで情報収集任務と語学習得に励みつつ外遊生活を謳歌、海軍駐在武官の広瀬武夫と共に女優出身のロシア帝室付ダンサーからダンスを習び、ギリシア正教に入信、ロシア将校の妹と浮名を流した。日露開戦が迫ると、帝政ロシアの弱体化を確信する田中義一は開戦を主張、不戦(日露協商)派の伊藤博文に嫌われロシア革命に身を投じようと思い詰めたが、ロシア通ゆえに大本営参謀本部に召喚されロシアの動員能力を過小に偽り開戦を促した。日露戦争の軍令は児玉源太郎参謀総長の独壇場で参謀に活躍の場は無かったが、田中義一は山縣有朋・井上馨ら長州閥首脳に認められ陸軍省軍務局長を経て原敬内閣で陸相に栄達した。桂太郎・寺内正毅・山縣有朋の死で田中義一は陸軍長州閥首領へ躍り出たが、在郷軍人会で独自の勢力基盤を築き政友会とも協調関係を構築、普通選挙法で政友会が資金難に陥ると田中は陸軍機密費300万円の持参金を手土産に高橋是清から総裁を継ぎ首相に上り詰めた。高橋是清蔵相が積極財政で金融恐慌を収拾し「おらが首相」田中義一は大衆人気を博したが、足元の陸軍では長州閥打倒を掲げる永田鉄山・石原莞爾ら一夕会系幕僚が台頭し張作霖爆殺事件が発生、昭和天皇の意を受けた田中首相は事件究明を図るも配下の白川義則陸相・阿部信行次官・杉山元軍務局長まで敵対する上原勇作元帥に靡き、天皇から叱責された田中は陸軍との対決を避け総辞職を選択、間もなく急死した(自殺説あり)。

1929年、「暗黒の木曜日」に始まったニューヨーク株式市場の大暴落が世界恐慌に発展した。不況の波はすぐに日本にも押し寄せ、農産物価格の下落により農村は困窮化、全世界的な繊維不況と欧米列強によるブロック経済化の進展により輸出産業の柱であった生糸・綿糸・綿布産業も壊滅的打撃を蒙った。追込まれた日本は国を挙げて中国大陸に活路を求め、満州事変勃発、日中戦争拡大と続くなかで、高橋是清蔵相が主導した積極財政政策により軍事費が急拡大して第二次大戦終結まで国家予算の70%という異常な水準で高止まりした。一方、旺盛な軍需により重化学工業が勃興、中国市場の獲得で繊維輸出も持ち直し、日本経済は早くも1933年に回復基調に入り翌年には世界恐慌前の水準に回復、他の先進国より5年も早く経済回復を果した。高橋是清は、膨張した財政支出の正常化を図るため軍拡抑制に舵を切ろうとしたが、国家総動員体制の構築を企図する軍部と軍需景気に沸く世論を抑えられず、軍部や右翼に憎まれて「君側の奸」に加えられ、二・二六事件で斬殺されてしまった。以降も軍需主導の経済成長は進み、1940年には、鉱工業指数は世界恐慌前の2倍、国民所得は140億円から320億円と2.3倍に拡大、超高度というべき経済成長を遂げた。しかし、国力を度外視した戦争経済は、過剰な軍国主義的風潮と軍部の強権化、民生の圧迫など多くのひずみを生んだ。また、国策主導による統制経済への傾斜は、大資本による経済寡占化を進展させ、第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占めるという「開発独裁」状態をもたらした。財閥に富が集中する一方で農村では困窮化が進むという「格差社会」情勢は、社会主義的風潮と軍部主導による「国家改造」への期待を醸成し、安田善次郎暗殺、濱口雄幸首相襲撃、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件と続いたテロの温床となり、ますます軍国主義化を助長して格差はさらに拡大するという皮肉な結果をもたらした。

満州事変勃発後に戦地で目覚しい活躍を示したトラックの増産を図るため、岡田啓介内閣は石原莞爾ら陸軍の要請に応え1936年国内自動車産業の育成を目的に指定事業者を助成する「自動車製造事業法」を閣議決定した。一連の統制経済立法の一つで、軍用として重要な自動車の国産化推進のため、外国資本を排除することが主たる狙いだった。豊田喜一郎の豊田自動織機自動車部(トヨタ自動車工業)は、「A1型乗用車」と「G1型トラック」の初号機完成を何とか間に合わせて実績をアピールし、先行する鮎川義介の日産自動車と共に許可会社の指定を受けることに成功した。後に東京自動車工業(いすゞ自動車)が加えられ許可会社は3社となった。自動車製造事業法施行後、日中戦争勃発による円為替相場下落もあって、1939年にフォード・GM・クライスラーの3社は日本から撤退することになったが、国産車の信頼性向上や大量生産化は容易には達成されず、ヘンリー・フォードは「自動車産業の育成は甘いものではなく、フォード工場を受入れた方が多数の熟練工が得られて戦時の日本にもプラスになるはずだった」との書簡を残している。国産技術が未熟な当時においては国内でも評判の悪い法律であったが、今振り返れば、我が国自動車産業の萌芽期を支えた有意義な国内産業保護政策であったといえよう。

「方針-満蒙を独立国トシ我保護ノ下ニ置キ、在満蒙各民族ノ平等ナル発展ヲ期ス」関東軍参謀の石原莞爾・板垣征四郎は東京に一時帰国し、「一夕会」同志と「満蒙領有の前段階として宣統帝溥儀を擁立して日本の傀儡政府をつくり、南京に拠る蒋介石の国民政府から切離して独立国を樹立する方針」を策定、関東軍に「1年間の隠忍自重」を促した永田鉄山軍事課長も撤収に伴う事態悪化を危惧し「満州以外に絶対に兵力を使わない」条件で「独立政権の設定」を承認、板垣が陸軍首脳と若槻禮次郞内閣を説得し「満州国建国方針」を認めさせた。独断専行で満州事変を引起した板垣征四郎・石原莞爾・林銑十郎・神田正種らは、軍法会議で極刑に相当する重罪犯であったが、この事後承諾で逆に評価される立場となり、処罰どころか陸軍で出世の道を歩んだ。軍部暴走を正当化する致命的失策を犯した若槻禮次郞内閣は思考停止に陥り退陣、民政党政権の対中国不干渉・国際協調(幣原外交)を主導してきた幣原喜重郎外相も政界を退き、軍部・右翼および近衛文麿・松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫らの強硬論が日本外交を席巻する時代へ移った。「中国通」の犬養毅内閣も手を付けられないなか、関東軍は満州全域を制圧し新京(長春)に満州国政府を樹立し中華民国(蒋介石の国民政府)からの独立を宣言した。国際批判をかわすため満洲国執政(のち皇帝)に愛新覚羅溥儀(清朝最後の皇帝)を据え中国人国家の体裁を整えたが、実態は純然たる傀儡であり、激怒した蒋介石は大抗議声明を発表、反日世論が沸騰し国共合作復活・統一民族戦線を求める機運が高まった。満州国では石原莞爾の「五族協和」の理想のもと統制経済に基づく壮大な国家建設が試みられ、「産業開発五ヵ年計画」を主導した岸信介ら「革新官僚」が台頭、陸軍の東條英機(関東軍参謀長)主導で星野直樹(国務院総務長官)・鮎川義介(満州重工業開発社長)・岸信介(総務庁次長)・松岡洋右(満鉄総裁)らによる支配体制が確立された(弐キ参スケ)。

石原莞爾は、陸士(21期)・陸大で奇才を現し「陸軍随一の天才」と称されたが、平然と教官を侮辱する異端児で哲学・宗教に傾倒し、写生の授業で己の男根を模写し退学になりかけたこともあった。田中智学の「国柱会」(日蓮宗)に帰依する石原莞爾は宗教的カリスマを帯び、服部卓四郎・辻政信・花谷正ら後輩の崇敬対象だった(なお国柱会には近衛文麿の父篤麿や宮沢賢治も加盟)。鈴木貞一(22期)らと「木曜会」を興した石原莞爾は永田鉄山(16期)の「一夕会」に合流し「満蒙領有方針」を牽引、関東軍参謀に就くと永田の制止を振切り板垣征四郎(16期)と共に満州事変を決行した。南二郎のアジア主義に薫陶された石原莞爾は中国独立運動のシンパで、日満蒙の平和的連携による資源と市場の獲得を追求(王道楽土)、「第一次世界大戦後に世界平和は回復されたが、列強はいずれまた世界戦争を始める。いろんな組合せで戦っていくうちに、最後にはアメリカ、ソ連、日本が残る。日本は戦いを避けて国力と戦力を整えつつ待ちの姿勢を貫くことが肝心で、そうすればいずれアメリカがソ連を破り、最終戦争で世界の覇権を賭けてアメリカと対決することとなろう」という「世界最終戦争論」を唱え、日本は「無主の地」満州を領有して国力不足を補い日中鮮満蒙の「五族協和」で総力戦に備えるべしとした。統制派・皇道派に属さず「満州派」を自称する石原莞爾は永田鉄山斬殺事件に伴い陸軍中央の指導的地位に就任、二・二六事件が起ると戒厳司令部参謀に就き皇道派を断罪し壊滅させた。反乱将校を扇動した荒木貞夫(陸士9期)に対し石原莞爾は「バカ!おまえみたいなバカな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけ、軍規違反と怒る荒木に「反乱が起っていて、どこに軍規があるんだ?」と言返したという。盧溝橋事件が起ると、日中戦争泥沼化を予期する石原莞爾は停戦講和に奔走したが、武藤章・田中新一(25期)・東條英機(16期)ら統制派の「中国一激論」「華北分離工作」が優勢で近衛文麿内閣の和解拒否により不拡大派は失脚、関東軍参謀副長へ左遷された石原は参謀長の東條英機と衝突し、東條が陸相に就くと完全に政治生命を絶たれた。

大黒柱の永田鉄山が皇道派将校に殺害された後、陸軍の主導権は一夕会系の石原莞爾、武藤章、田中新一、東條英機へと変遷した。永田鉄山斬殺事件と二・二六事件への関与で真崎甚三郎・荒木貞夫・小畑敏四郎ら皇道派が自滅した後、二・二六事件を断固鎮圧した石原莞爾が陸軍中央で主導的立場となり、参謀本部に作戦部を創設して権限を集中し自ら作戦部長に就任した。石原莞爾は、自陣の林銑十郎・板垣征四郎を首相・陸相に担ぎ、持論の「世界最終戦争論」に沿った対中融和・日満蒙連携による国力・軍事力涵養政策を推進した。が、盧溝橋事件が勃発すると、日中戦争の泥沼化を予期し不拡大を唱える石原莞爾・河辺虎四郎・多田駿らは少数派となり、強硬な「華北分離工作」を主張する武藤章・田中新一・東條英機ら統制派と鋭く対立、近衛文麿首相・広田弘毅外相が日中戦争拡大に奔ったことで統制派が主導権を確立し陸軍中央から石原ら不拡大派を一掃した。この間の陸軍中央における政治空白は、東條英機・板垣征四郎ら出先指揮官の独断専行を招き関東軍が自律的に戦線を拡大させる事態をもたらした。武藤章らは永田鉄山以来の「中国一激論」に固執し「強力な一撃を加えれば国民政府は早々に日本に屈服する」との甘い期待のもと大量兵力を投入し中国全土に戦線を拡大したが、上海・南京が落ちても蒋介石は屈服せず日本軍は「点と線の支配」に終始、石原莞爾の危惧通り日中戦争は泥沼化した。武藤章は日中講和へ転じるも近衛文麿首相は「トラウトマン工作」を一蹴、「国民政府を対手とせず」と声明し蒋介石を後援する米英を「東亜新秩序声明」で挑発した挙句に日独伊三国同盟で敵対姿勢を鮮明にした。武藤章軍務局長は対米妥協に努めたが果たせず、主導権を奪った最強硬派の田中新一が東條英機内閣で対米開戦を断行、東條首相は憲兵隊を使って反抗勢力を締上げ宿敵の石原莞爾を軍隊から追放し倒閣工作に加担した武藤を前線のスマトラへ放逐した。「負けを認めない」田中進一は、ガダルカナル島撤退に反発して佐藤賢了軍務局長と乱闘事件を起し東條首相を面罵してビルマ方面軍へ左遷されたが、牟田口廉也司令官のインパール作戦の大暴挙に関与した。

東條英機と石原莞爾の犬猿の仲は有名だ。石原莞爾は、永田鉄山より5期・東條英機より4期下の陸士21期のエリートで少壮の頃から天才と称され、その世代の「木曜会」では鈴木貞一と共に指導的立場にあり、木曜会は永田らの「二葉会」に合流して「一夕会」となった。木曜会に目付役として参加した東條英機は石原莞爾らを指導し、共に「満蒙領有方針」の策定などを手掛けた。石原莞爾は陸軍の花形である作戦畑に進んで満州事変で名を轟かせ、永田鉄山の横死後は作戦部長に就いて陸軍中央を取仕切った。一方の東條英機は、永田鉄山・統制派のために奔命するも作戦畑には進めず、皇道派に恨まれて日陰のポストを転々とさせられた。才気煥発で自負心も強い石原莞爾にすれば東條英機など取るに足らない先輩であり、劣等視された東條は石原を敵視し、石原が日中戦争不拡大を唱えると拡大派の武藤章を支持し石原一派を陸軍中央から追出した。関東軍参謀副長に左遷された石原莞爾は参謀長の東條英機を公然と無能呼ばわりし聞こえよがしに「東條上等兵」「憲兵隊しか使えない女々しいやつ」などと挑発、怒り心頭の東條は石原を閑職の舞鶴要塞司令官に飛ばし、間もなく予備役編入に追込んで報復を果した。軍務を離れた石原莞爾は言論・教育活動などに従事したが、東條英機は得意の憲兵攻撃で執拗に石原を監視した。そして日本の敗戦が決定的となるなか、石原莞爾に師事する柔術家の牛島辰熊と津野田知重少佐による東條英機首相暗殺計画が発覚(なお、空手の大山倍達や極道の町井久之も石原莞爾に師事)、両名の献策書の末尾には「斬るに賛成」との石原の朱筆があった。東京裁判の証人尋問で東條英機との確執を訊かれた石原莞爾は「私には一貫した主義主張があるが、彼にはなかったのではないか。此れでは反目し合う事など有るわけがない。彼は一貫した信念がなく右顧左眄して要らぬ猜疑心を持つから、戦局の対応も適宜でなかっただろう。」と東條の無能を扱下ろしたが、戦勝国が裁く横暴を論難し「略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等だ、戦争責任なら満州事変を起した自分と鎖国を破ったペリーを裁け」と気炎を上げた。

東條英機は陸軍中将の父に倣い陸軍幼年学校・陸士(17期)・陸大へ進み純粋培養の陸軍官僚に成長、ドイツ留学中に長州閥打倒・国家総動員を提唱する永田鉄山(陸士16期)に私淑し「バーデン・バーデン密約」に加盟、陸大教官に就くと入試選考工作で長州系人材の排除に努めた。東條英機は永田鉄山の腹心として「二葉会」「木曜会」「一夕会」で重きを為したが、能力凡庸で陸軍の花形部署には就けず、一夕会が永田鉄山(統制派)と小畑敏四郎(皇統派)の対立で分裂すると、永田信者の東條は皇道派の目の敵にされ非主流ポストをたらい回しにされた。林銑十郎を陸相に担いだ永田鉄山が枢要の陸軍省軍務局長に座り統制派が優勢となったが、東條英機の復権は成らず、「もう少し待て、必ず何とかするから」と慰めた永田が皇道派のテロに斃れると、東條は満州の関東憲兵隊司令官に飛ばされ予備役編入を待つ身となった。が、直後に驚天動地の二・二六事件が発生、一夕会系だが無党派の石原莞爾(21期)は寺内寿一(長州閥の寺内正毅の息子)を陸相に担ぎ軍規粛清を掲げ皇統派を断罪、真崎甚三郎・荒木貞夫ら七大将を予備役に追込み将佐官を一掃した。陸軍中央の主導権は石原莞爾が握ったが、皇統派を葬った武藤章・田中新一(25期)ら統制派が圧倒的優勢となり最年長の東條英機も関東軍参謀長に栄転、東條は日産の鮎川義介と満鉄の松岡洋右と結んで陸軍の満州国支配を確立し、ソ満国境の武力衝突事件で暴走、日中戦争が始まると察哈爾方面を率い独断で戦線を拡大し名を上げた。一方、陸軍中央は日中戦争不拡大を説く石原莞爾と「華北分離」を説く武藤章ら統制派の対立で大混乱に陥り、石原が板垣征四郎を陸相に担ぐと統制派は東條英機を陸軍次官に擁立、東條は多田駿参謀次長と衝突し共に更迭されたが、第一次近衛文麿内閣の日中戦争拡大政策で統制派が勝利し石原一派を追放した。東條英機は新設の陸軍航空総監に左遷されたが、停戦講和へ傾いた武藤章を田中新一ら強硬派が圧倒し東條を陸相に擁立、東條陸相は田中の戦略に従い日独伊三国同盟・関特習・南部仏印へと第二次・第三次近衛文麿内閣を牽引し、後継首相として対米開戦を決断した。

松岡洋右は米国オレゴン大学を出て外交官の傍流を歩んだが、山口出身ゆえに長州閥・後藤新平の引きで満鉄副総裁に就任、張作霖爆殺事件後の好戦ムードに乗じて「満蒙生命線論」を煽り、大衆人気を背景に衆議院議員へ転じた。「大東亜共栄圏」を唱える松岡洋右は、外務省主流の幣原喜重郎を弾劾し対英米協調・対中不干渉の「幣原外交」を打倒、1933年「満州国」が欧米の批判を浴びるなか首席全権として国際連盟総会に乗込み独断で派手な脱退劇を演じた。軍部と大衆の人気を得た松岡洋右は代議士を辞めて全国遊説し「政党解消運動」で首相を狙うも挫折、古巣の満鉄で総裁に就くと関東軍参謀長の東條英機を支持し親戚の岸信介・鮎川義介と共に陸軍主導の満州支配を実現させ「弐キ参スケ」に数えられた。1940年反欧米(現状打破)の近衛文麿が第二次内閣を組閣すると同志の松岡洋右は外相に就任、主要外交官40数名の一斉更迭など大粛清を強行し白鳥敏夫・大島浩・吉田茂ら積極外交派で外務省中枢を固め、田中新一・石川信吾ら陸海軍の強硬派と共に日独伊三国同盟および南進政策(北部仏印進駐)を主導した。が、徒に「漁夫の利」を狙う松岡洋右の場当り外交は激変する国際情勢で右往左往し脆くも破綻した。欧州を席巻するナチス・ドイツ軍の強勢をみた松岡洋右は「1940年秋頃」の大英帝国崩壊を予想し、第一次大戦における日英同盟と同様に日独同盟で参戦の口実を整え、米ソと不戦体制を維持しつつ手薄なアジアを攻め英仏蘭の植民地奪取を企図した(南進政策)。松岡洋右はスターリンと日ソ中立条約を締結し有頂天となったが独ソ戦勃発で計算が狂い、アメリカは意に反して大規模な英中援助に乗出し対日経済封鎖を強行、軍需物資の大半を対米輸出に頼る日本は窮地に陥った。慌てた松岡洋右外相は南進政策停止と対米妥協へ転じたが、野村吉三郎駐米大使の日米和解交渉を妨害し、蘭印との経済交渉も打切らせ、対ソ開戦(関東軍特種演習)を主張するに至り迷走は極みに達した。近衛文麿首相は内閣改造で松岡洋右を放逐したが既に退路は無く、日本は資源を求めて南部仏印進駐を強行し対米開戦へ引込まれた。

松岡洋右は米国留学時代からコカインを常用し中毒化していたとする説もあり、そのためか極めて浮き沈みの激しい性格で、国際連盟脱退や日独伊三国同盟・日ソ中立条約を締結して悦に入るかと思えば「こんなことになってしまって、三国同盟は僕一生の不覚であった」「死んでも死にきれない。陛下に対し奉り、大和民族八千万同胞に対し、何ともお詫びの仕様がない」などと号泣、そうかと思えば自己弁護に躍起になった。躁鬱でお調子者の松岡洋右は、訪米時には「キリストの十字架と復活を信じている」と公言して憚らず、ソ連のスターリン会談ではウォッカに泥酔し「私は共産主義者だ」と語ったかと思えば天皇を宸襟を慮って涙を流し、公式外交の場では「八紘一宇」だの「大東亜共栄圏」だのを大真面目に力説した。松岡洋右は一貫してコテコテの天皇崇拝者だったが、昭和天皇は軽佻浮薄で真実味のない松岡が大嫌いで『昭和天皇独白録』には「松岡は帰国してからは別人の様に非常なドイツびいきになった。恐らくはヒットラーに買収でもされたのではないかと思われる」「一体松岡のやる事は不可解の事が多いが彼の性格を呑み込めば了解がつく。彼は他人の立てた計畫には常に反対する、また条約などは破棄しても別段苦にしない、特別な性格を持っている」「松岡はソ連との中立条約を破ること(イルクーツクまで兵を進めよ)を私の処にいってきた。こんな大臣は困るから私は近衛に松岡を罷めさせるようにいった」などと珍しく痛烈な批判を書き連ねている。第二次大戦後、東京裁判でA級戦犯指定を受けた松岡洋右は「俺もいよいよ男になった」と勇んで出廷し自慢の英語で無罪を主張、死刑が確実視されるなか持病の肺結核が悪化し公判中に病死した。

長州出身の岸信介は吉田松陰と高杉晋作に憧れて勉学に励み、東大法学部に進学すると北一輝や大川周明の社会主義的右翼思想に啓発され、美濃部達吉の「天皇機関説」を糾弾した上杉慎吉東大助教授に師事した。優等生の岸信介は東大残留を勧められたが国事を志して官界へ進み、花形官庁の内務省ではなく農商務省(→商工相)を選択した。なお、松岡洋右(満鉄総裁→外相)と鮎川義介(日産創業者・満州重工業開発社長)は岸信介の親戚で、実弟の佐藤栄作は東大法学部へ進んだが岸信介ほど優秀ではなく鉄道官僚の傍流を歩んだ。さて優秀な岸信介は順調に昇進し、1936年満州国国務院へ転出して産業部次長・総務庁次長を務め、星野直樹国務院総務長官のもと「産業開発五ヵ年計画」を策定し統制経済を主導した。岸信介は若輩ながら星野直樹・松岡洋右・鮎川義介・東條英機(関東軍参謀長)ら大物と並んで満州国の「弐キ参スケ」に数えられ、軍部・官僚・財界に広範な「満州人脈」を築き、瀬島龍三・笹川良一・児玉誉士夫・里見甫ら怪しい人脈とも交流した。1939年「革新官僚」の旗手となった岸信介は凱旋帰国し商工次官に昇進したが、統制経済を嫌う小林一三商工相(阪急東宝グループ創業者)と対立し、軍部と平沼騏一郎が仕掛けた「企画院事件」で小林を辞任に追込むも喧嘩両成敗で商工次官辞任に追込まれた。が、「国家総動員体制」を目指す陸軍統制派と同志関係の岸信介は失脚を免れ、第二次近衛文麿内閣の入閣要請は謝辞したが東條英機内閣で商工相を拝命、「翼賛選挙」で衆議院の議席も得た。しかし1943年、戦局悪化により商工省が軍需省へ改組されると東條英機首相が軍需相を兼任、岸信介は無任所国務大臣に留まるも軍需次官に降格された。太平洋戦争で日本の敗戦が決定的となり、降格人事を恨む岸信介は木戸幸一・岡田啓介・米内光政ら重臣の東條英機内閣打倒工作に加担、閣僚辞任を拒否して内閣改造を阻み総辞職へのトリガー役を果した。

ワシントン・ロンドンで英米と軍縮条約を締結した海軍主導で軍事費の縮小が進んでいたが、満州事変勃発により一転、若槻禮次郞内閣は陸軍の永田鉄山・石原莞爾らに引きずられ軍事費の急増が始まった。1930年には約5億円とアメリカの3分の1・イギリスの半分ほどだった軍事費は、1931年から急拡大し、日中戦争開戦の1937年には50億円と十倍増してアメリカとイギリスの軍事費を上回るほどに膨張、1940年には遂に100億円を超えた。「財政の第一人者」高橋是清は、世界恐慌脱出のため軍事費を中心とする財政出動に賛成し日本は軍需バブルで他国より早く不況を脱したが、勇気をもって引締めに転じたため「君側の奸」に加えられ二・二六事件で殺害された。国家予算に占める軍事費の割合は、1930年には30%ほどだったのが、1937年以降は70%を超える水準で高止まりすることとなった。日独の軍拡に対抗するため英米も軍事費を増やしたが、それでも軍事予算割合は日本の半分程度に抑えられた。

1937年の機械系輸出品目で自転車が初めて首位に立ち、次いで船舶・鉄道車両・自動車・自動車部品の順となり、玩具や製鉄も輸出産業へ台頭した。なお1937年は日中戦争開戦の年であり、豊田喜一郎が軍用トラック製造のためトヨタ自動車工業を設立し、日産自動車の鮎川義介は満州重工業開発を設立し日産コンツェルンの満州移転を開始している。自転車の輸出先は中国32%を筆頭にインドネシア・インド・満州など。江戸時代初頭より各藩にはお抱えの鉄砲鍛冶が存在したが、幕末に洋式銃砲に切替わったことで多くが職を失った。失業した鉄砲鍛冶たちは文明開化で普及が始まった自転車に着目し、修理業から始め自転車製造の担い手へ成長した。宮田自転車を創業しトップメーカーに育てた宮田栄助も、常陸笠間藩のお抱え鉄砲鍛冶の出身である。優秀で低コストな職人の活躍で、日本の自転車生産台数は1923年の7万台から1928年12万台・1933年66万台と急増し1936年には100万台を突破した。世界の自転車市場はイギリスの牙城であったが、イギリス製品の半額ほどで品質も劣らない日本製品は瞬く間にシェアを獲得し、大英帝国は中国・インドなどの支配地で日本製自転車に高関税をかけるなどして対抗したが圧倒的な低価格攻勢に押切られた。繊維製品に続き自転車でも輸出競争に敗れたイギリスの反日感情は一層悪化した。

豊田佐吉は、国産初の動力織機など特許84件・実用新案35件を誇る「発明王」、繊維産業の衰退で「紡績財閥」は壊滅したが長男豊田喜一郎のトヨタ自動車の礎となった。愛知県湖西市で家業の大工を手伝ううち発明家を志した豊田佐吉は、出奔して東京の工場を徘徊し臥雲辰致の「ガラ紡」に感銘、変人扱いされながら納屋で研究に没頭し国産初の動力織機「豊田式木鉄混製力織機」を完成、人力織機の10~20倍の生産性と品質均一化を実現した。豊田佐吉は綿布製造に乗出したが販社の三井物産は織機に注目、格安な豊田式木鉄混製力織機は忽ち輸入織機に取って代り、家内制手工業の綿織物業が大規模工場・大量生産へシフトする起爆剤となった。1906年三井物産の出資で「豊田式織機株式会社」が発足し(現豊和工業)、常務取締役兼技師長の豊田佐吉は製品改良に励んだが、日露戦争後の反動不況で業績が急落し責任を押付けられ追放された。新天地を求める豊田佐吉は右腕の西川秋次を伴い欧米を巡察したが自分の技術が最高と確信し帰国、1912年名古屋市で「豊田自働織布工場」を開業すると、第一次大戦に伴う物資不足で綿布注文が殺到し急成長を遂げ「豊田紡織株式会社」(現トヨタ紡織)へ改組した。海外進出を念願する豊田佐吉は、最大輸出先の中国の関税引上げ(大英帝国の特恵関税・保護貿易化)に対処すべく三井物産の支援を得て上海に輸出代替工場を開設(豊田紡織廠)、西川秋次を送込み「在華紡」の一角へ成長させた。十余年で「豊田財閥」を築いた豊田佐吉は、本丸の紡績事業を婿養子の豊田利三郎に任せ、東大工学部を出た豊田喜一郎と共に「豊田自動織機試験工場」で再び織機開発に没入、1925年動力織機の完全版「無停止杼換式自動織機(G型自動織機)」を完成させ翌年「株式会社豊田自動織機製作所」を設立した。1929年世界恐慌で繊維不況が始まり、豊田佐吉は翌年63歳で病没したが、豊田喜一郎はトヨタ自動車創業へ動き始めた。その後、第二次大戦による輸出断絶で豊田佐吉が築いた紡績事業は壊滅したが、トヨタ紡織・豊田自動織機は自動車事業の一翼を担い今も創業者の名を伝えている。

豊田喜一郎は日本最強トヨタグループの創業者である。国産初の動力織機を発明し一代で「紡績財閥」を築いた豊田佐吉の長男であり、自らも織機開発の第一人者であったが、繊維産業の衰退を予見し自動車事業への大転換を図った先見の明が光る。東大工学部機械工学科を卒業し「豊田紡織」に入った豊田喜一郎は、経営者より技術者を志向し「無停止杼換式自動織機(G型自動織機)」の開発を陣頭指揮、「豊田自動織機製作所」で織機事業に参入し本場イギリスへも進出した。が、世界恐慌が繊維産業を直撃すると、豊田喜一郎は愛知県で勃興する自動車産業への参入を決意、妹婿で家長の豊田利三郎の猛反対を抑え1933年豊田自動織機製作所内に自動車部を創業した。豊田喜一郎は、大番頭の西川秋次や従弟の豊田英二の支援で膨大な開発資金を捻出し、「A1型乗用車」「G1型トラック」の試作成功で日産自動車と共に自動車製造事業法の助成認可を獲得、1937年「トヨタ自動車工業」を設立し量産を開始した。日中戦争の激化でトヨタ自動車工業には軍用トラックの注文が舞込み、国策に乗った豊田喜一郎は挙母(→豊田市)に巨大工場を立上げ部品製造子会社の継足しで急速に業容を拡大(愛知製鋼・アイシン精機・トヨタ車体・デンソー・豊田通商などへ発展)、業績不振の豊田紡織を吸収し第二次大戦の輸出封鎖で壊滅した紡績関連事業を自動車事業に取込んだ。第二次大戦後、トヨタ自動車工業は財閥解体の対象とされるも分社化戦略が幸いし実害を免れたが、1950年ドッジ・ライン恐慌で経営危機に陥り大規模労働争議も発生、東海銀行・三井銀行などの協調融資で倒産は免れたが、「工販分離」を強制され豊田喜一郎社長ら首脳陣は引責辞任へ追込まれた。が、皮肉にも直後に朝鮮戦争が始まり軍用トラックの特需で業績はV字回復、権威回復した豊田喜一郎は石田退三ら後継体制から社長復帰を要請されたが1952年57歳で急逝した。1955年クラウン発売で自家用車へ転換したトヨタは高度経済成長に乗り「工販合併」も果し世界一へ躍進、社長は豊田喜一郎直系の豊田英二・豊田章一郎・豊田章男へ受継がれ同族支配が続いている。

1950年、ドッジ・ライン恐慌で経営危機に陥ったトヨタ自動車工業に対し、アメリカの顔色を窺うばかりの吉田茂政権と金融界は冷淡で、日銀総裁の一万田尚登(一万田法王)に至っては「日本に自動車産業はいらない」などと売国的追従を露にした。しかし日銀名古屋支店長の高梨壮夫は本店にトヨタ救済を訴え、東海銀行・三井銀行(帝国銀行)ら24行の協調融資を斡旋し倒産の危機を救った。後年、高梨壮夫は東京トヨペット会長に迎えられたが、トヨタは非協力的だった住友銀行を敬遠し川崎製鉄(JFEスチール)との取引も妨害している。さて協調融資と引換えに抜本的な経営再建を呑んだ豊田喜一郎社長は、約束に従いトヨタ自動車販売を分社化し(工販分離)生産調整を行ったが、大規模労働争議の発生で人員整理は難航、大騒動の末に豊田喜一郎ら主要役員が引責辞任に追込まれ、溜飲を下げた労組は人員整理を受入れストを解除、反喜一郎の豊田利三郎に連なる石田退三が3代目社長に就任した(豊田自動織機製作所社長を兼任)。が、皮肉にも1ヶ月も経たないうちに朝鮮戦争が勃発し、軍用トラックの注文殺到で業績はV字回復を遂げ膨大な在庫と累積損失も一気に解消した。豊田喜一郎の偉業は見直され石田退三ら経営陣は社長復帰を要請、喜一郎は快諾したが直後に食事に立寄った先で昏倒し帰らぬ人となった。その3年後に「クラウン」で大衆向け自家用車に参入したトヨタは日本一の巨大企業へ躍進したが、徳川家康の「三河武士団」に擬せられるトヨタ幹部の忠誠心は衰えず豊田喜一郎の直系子孫を盛立て続けた。「トヨタ中興の祖」石田退三は、喜一郎長男の豊田章一郎を取締役に迎え、逆に豊田利三郎家を本流から排除、中川不器男の次の5代目社長に創業期から従兄の喜一郎を支えた豊田英二を迎えた。1982年「工販合併」で発足したトヨタ自動車の初代社長(6代目)に豊田章一郎が座り「大政奉還」が実現、一族外の奥田碩・張富士夫・渡辺捷昭がバブル崩壊後の難局を乗切り、2009年章一郎長男の豊田章男を11代目社長に擁立した。他にも豊田佐吉の子孫の男子は悉くトヨタグループの要職に就いている。

1945年9月2日、東京湾に浮かぶ米戦艦「ミズーリ」艦上で重光葵外相と梅津美治郎参謀総長が天皇および東久邇宮稔彦王内閣を代表して降伏文書に署名した。重光葵らは「日本の首都から見えるところで、日本人に敗北の印象を印象づけるために、米艦隊のなかで最も強力な軍艦の上」に呼びつけられ「連合軍最高司令官に要求されたすべての命令を出し、行動をとることを約束」、ここにアメリカによるアメリカのための占領統治が始まり1951年のサンフランシスコ講和条約まで「日本政府はあって無きが如き」状態が続くこととなった。早速当日、マッカーサーは「日本を米軍の軍事管理下におき、公用語を英語とする」「米軍に対する違反は軍事裁判で処分する」「通貨を米軍票とする」という無茶苦茶な布告案が突きつけている(重光葵外相の奮闘で後日撤回)。最後まで粘った日本の降伏により米英ソ(連合国)の圧勝で第二次世界大戦は終結、犠牲者数には諸説あるがソ連1750万人・ドイツ420万人・日本310万人(うち民間人87万人)・フランス60万人・イタリア40万人・イギリス38万人・アメリカ30万人など合計4500万人もの死者を出したといわれ、空襲と市街戦・ユダヤ人虐殺などにより軍人を大幅に上回る民間人が犠牲となった。なお、満州には関東軍78万人がほぼ無傷で駐留していたが、陸軍首脳は8月14日のポツダム宣言受諾を受け早々17日に武装解除を命令、高級軍人から我先に日本本土へ逃げ帰った。が、ソ連のスターリンは8月14日の終戦通告は一般的な「ステートメント」に過ぎず降伏文書調印(9月2日)まで攻撃を継続すると宣言、無抵抗の満州を蹂躙し尽し北朝鮮まで制圧した。関東軍も約8万人の戦死者を出したが、満蒙の奥地に置去りにされた居留民は更に悲惨で18万人もの民間人が暴虐なソ連兵に虐殺された。さらに軍民あわせて57万人以上が「シベリア抑留」に遭難し、法的根拠が無いまま何年も過酷な強制労働を強いられ、最終的に10万人以上が極寒の地で没する悲劇を生んだ。かくして満州事変に始まった中国侵出は、最強国アメリカとの開戦で行詰り、兵士だけで40万人以上の犠牲者を出し最悪の結果で終結した。

米国務省は「降伏後における米国の初期対日方針」を決定した。「日本は米国に従属する」との基本方針のもと、政治における非軍事化・戦争犯罪人の処分・民主化にくわえて、「日本の軍事力を支えた経済的基盤(工業施設など)は破壊され、再建は許されない・・・日本の生産施設は、用途転換するか、他国へ移転するか、またはクズ鉄にする」という工業分野の徹底的な破壊が決められた。さらに、日本が負うべき戦時賠償調査のため訪日したE・W・ポーレーは、「日本人の生活水準は、自分たちが侵略した朝鮮人やインドネシア人、ベトナム人より上であっていい理由はなにもない」との極論を述べ、実際に日本の苛性ソーダや製鉄産業の設備をフィリピンなどに移設することを真剣に検討した。対する日本側では英語を解する外交官出身者が主導権を握ったが、アメリカの不条理に反発する重光葵・芦田均らは退けられ、代りに吉田茂ら「協力的人物」が引上げられた。

1929年に起った世界恐慌からの脱却を図るため、日本政府は軍事費関連を中心に超積極的な財政出動策を採り、満州事変勃発以降の軍事費急増が拍車を掛け、日本経済は1934年には世界恐慌前の水準に回復した。続く日中戦争、第二次世界大戦においても日本の鉱工業生産は軍需主導で拡大し続けたが、国策主導による統制経済への傾斜は大資本による経済寡占化を促し第二次大戦終結時には三井・三菱・住友・安田の四大財閥が全国企業の払込資本の半分を占める「開発独裁」状態となっていた。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」を掲げるマッカーサーのGHQは、軍国主義根絶のためにも財閥解体が最重要と判断し、早くも1945年11月に勅令第657号を公布し幣原喜重郎内閣に財閥解体を命じた。1946年4月には実務を担う持株会社整理委員会を発足させ、同年9月以降次々と十五大財閥(三菱・三井・住友・安田・中島・鮎川・浅野・古河・大倉・野村・渋沢・神戸川崎・理研・日窒・日曹)を指定、1947年12月には財閥解体の根拠法となる過度経済力集中排除法を定め、重箱の隅をつつくような徹底的な産業構造破壊を断行、主要親会社67社と子会社・孫会社3658社が整理され、さらに財閥を主要株主とする395社も整理された。しかし、マッカーサーの思惑を乗越えて多くの財閥系企業は協力関係を維持しつつ生残り、冷戦の緊迫化と朝鮮戦争勃発を受けてアメリカ政府が日本の経済力・工業力を利用する方針に180度転換したのを機に風当たりは弱まって、三菱・三井・住友・安田(扶桑)・三和・第一勧銀の6大銀行グループによる再編が進み、旧財閥を冠した社名も許されるようになっていった。

GHQの指令により、まず軍国主義に関与した人物として1946年1月に約6千人が公職から追放され、次いで1947年1月から1948年8月までの間に約21万人(うち軍人16万7千人)が公職追放指定された。幣原喜重郎内閣の外相でGHQ代理人の吉田茂は、日独伊三国同盟を推進した「外務省革新派」(リーダーの白鳥敏夫は東京裁判で終身禁固刑判決)など意に添わない人物を徹底的に公職追放へ追込み、吉田のイニシャルをとって「Y項パージ」と恐れられた。戦犯狩りに続く公職追放の大嵐に政官財は戦々恐々、虎の威を借る吉田茂の権力は増大し、内務官僚で公職追放令の策定作業にあたった後藤田正晴は「みんな自分だけは解除してくれと頼みにくる。いかにも戦争に協力しとらんようにいってくる。なんと情けない野郎だなと」追想している。しかし米ソ冷戦の顕在化に伴いアメリカの対日政策は「戦前体制を破壊し尽くし軍国主義復活を阻止する」方針から「経済復興を促し反共の防波堤として利用する」方向へ180度転換、その手始めに公職解放指定は全部解除され共産主義者狩りの「レッド・パージ」へ「逆コース」を辿った。1952年の衆議院総選挙は鳩山一郎・重光葵ら戦前派の復活選挙となり公職追放解除者が議席の42%を獲得、極端な従米路線を否定する鳩山・重光ら自主路線派は「ワンマン宰相」吉田茂を脅かす勢力となり両派の対立は次第に深まった。

東京裁判では、裁判中に病死した永野修身・松岡洋右と精神疾患で免訴された大川周明を除く25名が有罪判決を受け、うち東條英機・板垣征四郎・木村兵太郎・土肥原賢二・武藤章・松井石根・広田弘毅の7名が死刑となった。近衛文麿は召還命令を受けると抗議の服毒自殺を遂げた。東條英機は自作の『戦陣訓』に書いた「生きて虜囚の辱めを受けず」の信条を実践すべく拳銃自殺を図ったが、失敗して繋がれた。木戸幸一は、天皇と自身を守るため、GHQに『木戸日記』を提出して弁明に努めたが、保身のために同胞を売った行為として今なお悪評が高い。さらに、上海事変などの謀略工作に従事した陸軍人田中隆吉は、訴追を免れるため虚実取り混ぜた陸軍の行為をGHQに暴露した。大川周明は、裁判中に東條英機の頭をポカリとやって精神疾患と判断され免訴されたが、獄中でイスラム語のコーランを翻訳するなど、偽装の可能性が高い。なお、有罪判決を受けた戦犯は、広田弘毅・平沼騏一郎・東條英機・小磯國昭(以上総理大臣)・板垣征四郎・南次郎・梅津美治郎・土肥原賢二・荒木貞夫・松井石根・畑俊六・木村兵太郎・武藤章・佐藤賢了・橋本欣五郎(以上陸軍)・永野修身・嶋田繁太郎・岡敬純(以上海軍)・賀屋興宣・木戸幸一・松岡洋右・重光葵・東郷茂徳・大島浩・白鳥敏夫・鈴木貞一・星野直樹(以上文官)・大川周明(民間人)であった。東京裁判自体は「勝てば官軍」の暴挙だが、有罪者の顔ぶれは総じて妥当といえよう。対米開戦の張本人である陸軍の田中新一と海軍の伏見宮博恭王・末次信正をはじめ、無謀な計画で大勢を死なせた牟田口廉也・服部卓四郎・辻政信ら陸軍参謀および対米開戦を主導した海軍の高田利種・石川信吾・富岡定俊・大野竹二ら海軍国防政策委員会が対象外なのは解せないが、広田弘毅・松岡洋右・大島浩・白鳥敏夫など文官のガンもしっかり入っている。訴因が軍政に偏り統帥部が意図的に外されているが、天皇の訴追を避けたいアメリカの思惑が透けて見える。また、陸軍に比して海軍に甘いのが大きな違和感で、「陸軍=戦争=悪」という日本人の戦後史観に大きな影響を及ぼしたであろう。

敗戦から朝鮮戦争の特需で蘇生するまで日本は上から下まで窮乏に喘ぎ多くの餓死者も出たが、アメリカは日本経済の再起不能化を進めつつ日本政府から膨大な米軍駐留経費を吸上げた。「戦後処理費」の名目で計上された米軍駐留経費は1946年379億円(一般歳出の32%)・1947年641億円(31%)・1948年1,061億円(23%)・1949年997億円(14%)・1950年948億円(16%)・1951年931億円(12%)、日本政府は講和条約成立までの6年間に合計約5千億円・国家予算の2割を超す巨費を無条件で献上し、ゴルフ・特別列車・花や金魚の代金まで押付けるGHQのやりたい放題を許した。第一次内閣で無茶な米軍駐留経費を規定路線化した吉田茂首相は唯々諾々と従うのみで、更なる増額要求に反抗した石橋湛山は蔵相を更迭され公職追放の憂き目をみた。石橋湛山は「あとにつづいて出てくる大蔵大臣が、おれと同じような態度をとることだな。そうするとまた追放になるかも知れないが、まあ、それを二、三年つづければ、GHQ当局もいつかは反省するだろう」と語ったが、1954年に吉田茂内閣が退陣し鳩山一郎内閣で重光葵が外相に復帰するまで抗米意見は封殺された。GHQと吉田茂ラインの宣伝により戦後日本はアメリカの「寛大な占領」で救われたというのが定説となり、その根拠として真先に挙るのが「ガリオア・エロア資金」である。外貨の乏しい日本政府がガリオア・エロア資金を使い生活必要物資をアメリカから緊急輸入した事実はあるが、1946年から1951年までのネットの対日援助額は13億ドルと膨大な「戦後処理費」のごく一部に過ぎない。また、ガリオア・エロア資金の学資援助で米国留学した大勢の学者や公務員が中心となり、従米路線あるいは米国批判タブーの社会風潮を根付かせたことも考えると、アメリカの「寛大な占領」などではなく「戦略的恩恵」であったことは疑いない。戦後70年の今日に至るまで、日本政府は手を変え品を変え不平等な日米安保条約に基づく米軍駐留と経費負担を継続し、アメリカが日本を「保護国」呼ばわりする異常な状態が続いている。

日本の急進的民主化を図るマッカーサーはGHQ発足当初の「五大改革指令」に「労働組合の結成奨励」を加え社会主義的なGHQ民政局が積極的に労働運動を助成したが、1946年3月に労働組合法が公布されると空腹を抱えた日本国民が殺到し、1946年末には組合数1万7265・組合員数484万9329人へ膨張した。GHQの民主化政策に戦後の深刻なインフレが拍車を掛け労働運動はエスカレート、日本全国で賃上げ闘争や首切り反対闘争が続発するなか1946年10月に国鉄・全労・新聞放送を含む大規模労働争議「一〇闘争」が発生し、1947年初には全官公庁を中心とする「二・一ゼネスト」が計画された。反共の吉田茂政権を揺さぶる大騒擾に慌てたマッカーサーは「二・一ゼネスト」禁止を発令し労働運動抑制へ転換、戦後瞬く間に拡大した労働組合運動は沈静化へ向かった。

東西冷戦が緊迫化する世界情勢のなか、トルーマン米政府は「トルーマン・ドクトリン」「マーシャル・プラン」で共産主義勢力への対決姿勢を鮮明にしたが、ロイヤル米陸軍長官の演説を機に政軍有力者の間で日本経済を復興させ「反共の防波堤」にすべしとの機運が高まった。訪日調査したドレーパー米陸軍次官(日独占領政策担当)は、戦前比で鉱工業生産45%・輸入30%・輸出10%にまで落込んだ日本経済を「死体置き場(モルグ)」と表現し過酷な懲罰政策の緩和を米政府に勧告した。ソ連の「ベルリン封鎖」で冷戦が風雲急を告げ、「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用すること」がアメリカの国益に資すると判断したトルーマン政府は、1948年10月「国家安全保障会議」による「アメリカの対日政策に関する勧告」(NSC13/2)を承認し、破壊から復興への日本統治戦略の180度転換を正式決定した。政府の決定を受けたGHQは、破壊から経済復興促進へ政策を転換し、ソ連に対抗するには人材が必要との判断により1951年戦犯釈放・公職追放解除に踏切り「レッド・パージ」へ切替えた。朝鮮戦争勃発で「反共の防波堤」の要請は一層高まり、アメリカは日本の経済力・工業力だけでなく軍事力も利用すべく策動を始めた。こうした米政府の路線転換は「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で進んできたマッカーサーの占領政策を完全否定するものであり、GHQとトルーマン大統領・国防省との確執が深刻化、「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」という政府方針を巡って対立は沸点に達し、GHQ傀儡の吉田茂政権を操り「奴隷」を相手に「世界史上最高の権力」を自賛したマッカーサーは遂に解任された。トルーマン大統領から日本経済復興を託されたデトロイト銀行頭取のドッジは性急な超緊縮財政を吉田茂首相・池田勇人蔵相に押付け、深刻なデフレ不況を引起し復興途上の日本経済は壊滅の危機に瀕したが(ドッジ・ライン恐慌)、朝鮮戦争の米軍特需で一気に蘇生し奇跡の高度経済成長が始まった。平和憲法を奉じる戦後日本は、皮肉にも米ソ冷戦と朝鮮戦争によりアメリカの破壊政策から救われた。

トルーマン米政府は1948年10月「ソ連への対抗上、日本の経済力・工業力を利用すること」に決め対日政策を破壊から復興へ180度転換したが、米軍は更に踏込んで「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針を定めた。「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」で占領統治を行ってきたマッカーサーのGHQは抵抗したが、1949年ソ連の核実験成功と翌年の朝鮮戦争勃発でトルーマン米政府も日本の再軍備に傾き、朝鮮半島に出動した米軍とほぼ同数の7万5千人からなる「国家警察予備隊」を創設、国務省政策顧問のジョン・フォスター・ダレスを講和特使として日本へ派遣し吉田茂首相に再軍備を促した。再軍備絶対反対の吉田茂は「たとえ非武装でも世界世論の力で日本の安全は保障される」と夢物語を唱え、ダレスをして「不思議の国のアリスに会ったような気がする」と呆れさせたが、親分のマッカーサーに泣きつきこの場は事を収めた。が、トルーマン大統領との対立が決定的となりマッカーサーがGHQを解任されると(ウィロビー参謀第2部長も退官)、吉田茂首相は後ろ盾を失い日本の再軍備を阻む勢力は無くなった。1951年9月8日サンフランシスコ講和条約調印で日本は占領統治からの独立を許されたが、吉田茂首相は講和条約とセットの日米安保条約・行政協定により在日米軍の常時駐留と日本政府による基地費用負担の継続を呑まされた。アメリカ主導で日本の再軍備・増強も着々と進められ、公職追放を解かれた旧軍人が続々と軍務に復帰して幹部に納まり、1954年7月1日をもって国家警察予備隊は常設軍隊の「自衛隊」へ改組された。吉田茂は猶も再軍備に反対し続けたが、アメリカは「軍備をサボタージュする古狐」を切捨て再軍備を掲げる鳩山一郎内閣の発足を容認した。陸海空の自衛隊は権限と装備の両面で「専守防衛」の枠に縛られつつも米ロ中に次ぐ軍事力を誇る「軍隊」へ発展したが、核兵器の無い軍隊は画竜点睛を欠き、2015年現在も日米安保条約は不平等なまま米軍の常時駐留と膨大な費用負担・自衛隊兵器の対米依存から抜出せずアメリカが「保護国」と呼ぶ半独立状態が続いている。

1950年6月25日、北朝鮮軍が突如砲撃を開始し38度線を越えて韓国領内に侵入、朝鮮戦争が勃発した。首都ソウルはあっという間に陥落し、準備不足の韓国軍は忽ち追い詰められて半島南端の釜山周辺にまで追込まれた。これに先立つ1949年12月、アメリカ国家安全保障会議は南朝鮮からの撤退を決定し、アチソン国務長官は演説の中で「アメリカの防衛ラインは、アリューシャン列島から日本列島、沖縄をへてフィリピンに至るライン」であり朝鮮半島は防衛ライン外であることを明言していた。ソ連のスターリンは、この情報を掴んでアメリカの参戦はないと判断し北朝鮮軍を進発させた可能性が高い。しかし、アメリカは即座に政策を転換し「国連軍」を急遽編成して戦線に投入、圧倒的火力により10月20日には北朝鮮の首都平壌を占拠し、その5日後には中国国境の鴨緑江付近まで攻め上った。慌てたスターリンは建国宣言間もない中国に参戦を要請、血気の毛沢東は「人民義勇軍」を派遣して人海戦術で連合軍を38度線付近まで押し戻した。その後は戦線が膠着し、1953年7月27日に板門店で休戦協定が調印され、38度線が国境となった。朝鮮戦争の犠牲者は、国連軍側17万2千人・共産軍側142万人とされるが、軍人を遥かに凌ぐ一般市民が犠牲となり、その数は400万人とも500万人といわれ、米・中ソの代理戦争は日韓併合時代と比較にならない惨禍をもたらした。一方、日本にとっては、外貨収入の3割に及ぶ膨大な「朝鮮特需」が産業界を蘇生させたうえ、「反共の防波堤」構築・日本経済の破壊から復興への180度戦略転換というアメリカの対日政策を決定的なものにし、経済大国化へ向けた最大の転換点となった。さらに、アメリカは「日本の軍事力も強化してアメリカの安全保障に貢献させる」方針へ傾斜を強め、国家警察予備隊(自衛隊)創設に続いて再軍備反対に固執するマッカーサーを罷免し、日本の占領終結後も米軍の常時駐留と日本政府による基地費用負担を継続させるため、従米派吉田茂内閣との間で講和条約とセットで日米安保条約交渉を開始、吉田茂後も磐石の従米路線を維持するため策動を強化した。

1956年版経済白書抜粋(首相鳩山一郎・通産相石橋湛山):「戦後日本経済の回復の速さには誠に万人の意表外にでるものがあった。それは日本国民の勤勉な努力によって培われ、世界情勢の好都合な発展によって育まれた。・・・貧乏な日本のこと故、世界の他の国々にくらべれば、消費や投資の潜在需要はまだ高いかもしれないが、戦後の一時期にくらべればその欲望の熾烈さは明かに減少した。もはや戦後ではない。」

浜松の鍛冶屋に生れた本田宗一郎は(マツダ創業者の松田重次郎も鍛冶屋の出)、高等小学校卒で東京の自動車修理工場へ丁稚奉公に入り22歳で暖簾分けを許され「アート商会浜松支店」を開設、これを従業員に譲り「東海精機重工業」を設立したが上手く行かず1945年三河地震による工場倒壊を機に豊田自動織機に会社を売却した。翌1946年、浜松で浪人していた本田宗一郎は妻の自転車に「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と着想し原動機付自転車「バタバタ」を開発し大ヒット、1948年「本田技研工業株式会社」を設立し経営担当に藤沢武夫を迎えた。1952年発売の小型バイク「カブ」で本田技研工業は躍進、東京への本社移転と株式公開を果し、1955年二輪車生産台数日本一を達成、1958年発売の「スーパーカブC100」で世界の小型バイク市場を席巻した。「町工場のおやじ」のままの本田宗一郎は過少資本の欠陥を抱えたまま「本田技術研究所」で技術開発に邁進、二輪車世界一の座を掴むと1963年軽トラックで四輪車生産を開始し、1972年「シビック」で自家用車に参入し低公害エンジン「CVCC」を搭載、F1レースで「技術のホンダ」を世界に示した。本田宗一郎は海外展開にも積極的で、業界に先駆けて欧米に販社を網羅しベルギーの二輪車工場・米国オハイオ州の四輪車工場など海外生産も推進した。しかし1973年のオイルショックで本田技研工業の自転車操業は行詰り、本田宗一郎は銀行に全持株を差出す覚悟で支援を引出し経営破綻を免れたが、「空冷」への固執など技術的信任の低下もあって辞任に追込まれた。道連れで副社長を退いた藤沢武夫は「名参謀」の呼声が高いが、実際はブローカー上りの野心家に過ぎず銀行の信用は低かったともいわれ、本田宗一郎は一番弟子の河島喜好を後継社長に選んだ。1983年本田宗一郎は取締役も退き1991年84歳で永眠したが(終身最高顧問)、創業者の遺命どおり本田技研工業の社長はエンジニアの久米是志・川本信彦・吉野浩行・福井威夫・伊東孝紳・八郷隆弘へと受継がれ、外資の買収攻勢を退けたホンダはトヨタと共に「ものづくり日本」の象徴であり続けている。

久留米の小さな仕立屋に生れた石橋正二郎は、17歳で家業を継ぐと足袋専門店へ業態転換し工場を開いて量産を開始、格安均一価格と街宣車など斬新な広告宣伝で業績を伸ばした。第一次大戦の特需もあり年産200万足へ急伸した「二〇銭均一アサヒ足袋」は四大足袋メーカーに食込み石橋正二郎は「日本足袋株式会社」を設立した。反動不況で売上が伸悩むと、石橋正二郎は実用性の高いゴム底作業靴「アサヒ地下足袋」を開発、九州の炭鉱夫から評判は全国へ広がり、関東大震災後の土木建築ラッシュも追風となり、今に続く大定番品となった。石橋正二郎は学童靴「アサヒ靴」や長靴・ゴム靴へも事業を広げ、専売店は日本全国6万店へ拡大し中国・満州へも進出、年産6~7千万足を誇る日本足袋は日本有数の消費財メーカーへ躍進した。ゴム製造に乗出す過程で自動車時代を予見した石橋正二郎は、タイヤ製造へ進出し初の国産化を成功させ1931年「ブリッヂストンタイヤ」を設立、日産自動車・トヨタ自動車の創業より2年も早い偉業であった。輸入品の半値以下ながら世界基準の品質を獲得したブリッヂストンタイヤは、日中戦争に伴う軍用トラックの需要拡大で急成長を遂げた。第二次大戦後、石橋正二郎は株式交換で兄と弟に日本ゴム(←日本足袋)を譲って財閥解体を回避し、物資不足とドッジ・ライン恐慌で逼塞するも朝鮮戦争の軍用トラック特需で蘇生、自転車製造へ参入し(現ブリヂストンサイクル)、米国グッドイヤー社から最新技術を導入した。プリンス自動車工業の経営破綻で自動車製造への参入は頓挫したが、石橋正二郎はマレーシアに戦後初の海外工場を設立し巨大市場アメリカに販社を開設、相談役へ退いたのち1976年87歳で永眠した。自家用車の普及と共に「ブリヂストン」は成長を続け、1988年米ファイアストンを買収、2005年仏ミシュランを抜いて世界シェアトップに立ち、時価総額4兆円を窺うグローバル企業となった。2代目社長を継いだ長男の石橋幹一郎が同族経営を放棄したが、石橋家は大株主に君臨し鳩山家のスポンサーとしても健在である。なお、日本ゴム改めアサヒコーポレーションは1988年に倒産し再建途上である。

『海賊とよばれた男』出光佐三は、石油メジャー・業界規制の妨害に負けず民族資本「出光興産」を築いた異端児である。福岡県宗像の藍玉問屋に生れた出光佐三は、不眠症や神経衰弱に悩みつつ神戸大学へ進んだが、エリートの道を捨て1911年北九州門司に「出光商会」を設立、日本石油の特約店となり発動機付き漁船の燃料油販売で礎を築いた。1914年出光商会は車軸油取引で満鉄に食込み凍結耐性に優れた製品開発で鉄道事故減少に貢献、満鉄・軍需を足掛りに満州から中国全域・朝鮮・台湾へ販路を拡げ、出光佐三は高額納税で貴族院議員に叙された。石油国策に乗った「出光興産」は多くの従業員を喪いながら外地主導で業容を拡大したが、敗戦に伴う在外資産接収で全てを失った。出光佐三は無職の従業員1千人を抱えたが解雇ゼロを宣言、社員総出で食扶持を探し旧海軍のタンク底の残滓油清掃からラジオ修理や漁業までやって糊口を凌ぎ、1947年石油配給公団発足に伴う販売店指定で本業復帰し1949年元売業者へ昇格した。ヒトしか無かった出光佐三は「大家族主義」を掲げ、感謝した従業員は薄給で猛烈に働いたが、高度経済成長で出光興産が躍進するに従い人件費抑制と同族経営の方便と化した。さて、戦後日本では元売各社も監督官庁も石油メジャー支配に組込まれたが、出光佐三だけは外資を拒否し「消費者本位」を唱え「石油業法」規制に反抗、絶えず妨害工作に苦しめられたが猛烈営業で乗越えた。1951年イランが石油国有化を宣言し欧米は対決姿勢をとったが、反骨の出光佐三は「日章丸二世」をイランへ送り英国海軍の海上封鎖を突破して原油を持帰りBPの横槍も排除した(日章丸事件)。出光興産は快進撃を続け1957年の徳山を皮切りに全国に自社製油所を展開、「出光タンカー」「出光石油化学」を分離増強し、中ソ原油輸入や中東事務所開設でも先鞭を付けた。出光佐三は生産調整に反発し石油連盟を脱退したが、1966年世界最大「出光丸」の就航を花道に社長を末弟の出光計助に譲り石油連盟復帰、1981年95歳で大往生した。出光佐三が固執した同族経営は2002年で終わり2006年上場会社となった。