29tachibana michiyuki

立花たちばな 道雪どうせつ

1513年~1585年

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百数十戦無敗の戦国最強戦績を誇る「雷神」、毛利元就を撃退して九州6カ国を制覇したが慢心の大友宗麟が耳川合戦に惨敗、主家衰亡のなか孤軍奮闘で島津勢の猛攻を凌ぎ養嗣子の立花宗茂に後を託して陣没した大友家の大黒柱

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エピソード

立花宗茂(高橋統虎)は、養父立花道雪亡き後孤軍奮闘で島津氏の猛攻を凌ぎ豊臣秀吉から「西国無双」と激賞され、碧蹄館の戦いで朝鮮役屈指の武勲を挙げたが関ヶ原合戦で西軍に属し改易、放浪生活の末に筑後柳川藩主に返咲いた幸運な勇将である。大友宗麟の耳川惨敗で主家が衰亡へ向かうなか、1581年立花道雪の婿養子に迎えられて家督を継ぎ14歳で初陣、岩戸の戦いで早良城・許斐山城・龍德城を攻め落し島津勢を追って筑後奪還の一翼を担うが、1585年大黒柱道雪の死で寝返りが相次ぎ筑前へ撤退した。翌年島津氏と国人衆の連合軍10万余が来襲、実父の高橋紹運は岩屋城で城兵763人と共に玉砕して果て、実弟高橋統増の宝満山城も降伏開城したが、立花山城の立花宗茂は詐降の計で油断を誘い豊後攻めに転じた島津軍を痛撃、原田・秋月勢を追払い星野鎮胤の高鳥居城を落として岩屋城・宝満山城も奪回、秀吉の九州征伐まで凌ぎ切って筑後柳川城13万2千石を与えられた。秀吉直臣となった立花宗茂は、肥後国人一揆を討平し朝鮮出兵に従軍、1593年李如松率いる明の大軍の侵攻で日本軍が漢城に追詰められると弱腰の宇喜多秀家・石田三成を叱咤して自ら迎撃戦の先鋒を務め小早川隆景と協力して撃退に成功(碧蹄館の戦い)、蔚山城の戦いでは加藤清正を救援して勝利に貢献した。1600年関ヶ原の戦いで西軍の近江大津城攻めに参陣し、敗戦後は大阪城の毛利輝元に籠城抗戦を説くも容れられず憤慨して柳川へ帰還、黒田官兵衛・加藤清正・鍋島直茂の大軍に攻囲されて降伏し清正に庇護された。1602年立花宗茂は共回り19人と共に肥後を出奔、乞食同然の放浪の身ながら加賀藩主前田利長からの10万石での招聘を「腰抜けの分際で生意気申すな」と撥ね付け、将軍家への仕官を求めて京都から江戸高田宝祥寺に移動、1604年虚無僧姿の十時摂津が狼藉者3人を斬捨てた事件が将軍徳川家忠の耳に届き5千石の相伴衆に取立てられ、2年後に奥州棚倉藩1万石で大名に復活し大坂陣で活躍、1620年10万9千石で筑後柳川藩主に返咲いて悠々自適の大名生活を過ごし、養嗣子忠茂に家督を譲って74歳まで長寿を保った。

大友宗麟(義鎮)は、父を謀殺して家督を奪い、宿敵大内氏の滅亡に乗じ立花道雪の活躍で豊後・筑後・肥後・豊前・筑前・肥前の6ヶ国を支配したが、享楽と宗教に溺れ耳川の惨敗で運命が暗転、龍造寺隆信に領土を侵食され島津義久に追詰められて滅亡寸前、豊臣秀吉に救われ豊後一国を保つも愚息義統が自滅・改易された九州一の名門大名である。豊後・筑後・肥後守護の大友義鑑の嫡子に生れ、21歳のとき廃嫡を企てた父を弟諸共に謀殺して家督を奪取(二階崩れの変)、翌1551年に陶晴賢の謀反で大内義隆が滅ぼされると(大寧寺の変)、弟の義長(義隆の甥)を大内家の傀儡当主に差出して陶と同盟し筑前・豊前を獲得、龍造寺隆信・菊池義武(叔父)ら反抗勢力を討平して肥前・肥後も制圧し、小原鑑元・秋月文種らを討って毛利元就の侵入を防いだ。絶頂の大友宗麟は見境無い女漁り(人妻強奪も)と享楽生活に耽って家臣の離反を招き、1562年門司城奪還戦で小早川隆景に大敗、1567年筑前の秋月種実・高橋鑑種・宗像氏貞・筑紫惟門・原田隆種が反旗を掲げた。1569年山中鹿介・大内輝弘の後方撹乱策と立花道雪の奮闘で毛利軍を九州から追出し、離反した龍造寺隆信を大軍で攻めるも大敗して肥前を奪われ(今山の戦い)、1578年伊東義祐の哀願に応じて日向を攻めるも島津義久・家久の「釣り野伏せ」にかかって壊滅的敗北を喫し田北鎮周・角隈石宗・佐伯惟教・蒲池鑑盛ら多くの武将を失い(耳川の戦い)、龍造寺に漁夫の利をさらわれて筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで侵食された。耳川合戦直前に改宗した大友宗麟はキリスト教国建設を掲げて行軍中に寺社を破壊、祟りに怯える大友軍の戦意は乏しかった。1584年沖田畷の戦いで龍造寺を斃した島津の大軍が大友領に殺到、大黒柱の立花道雪を病で喪い、岩屋城の高橋紹運は玉砕、立花宗茂の孤軍奮闘で辛うじて筑前を防衛したが、大友宗麟は天下人豊臣秀吉に泣きつくほかなかった。1586年長宗我部元親の先発隊は島津家久に撃退されたが(戸次川の戦い)、秀吉が兵20万余を率いて来援すると島津軍は撤退、秀吉から豊後一国37万石を安堵された大友宗麟は栄枯盛衰の生涯を閉じた。

龍造寺隆信は、一族虐殺を生延びて曽祖父から家督を継ぎ大友宗麟の力添えで東肥前支配を確立、耳川合戦の漁夫の利をさらって肥前統一を果し大友領の筑前・筑後・肥後北部・東豊前を侵食するが、疑心暗鬼の国人統治で離反が相次ぎ沖田畷の戦いで島津家久に討取られた九州下剋上の第一人者である。馬場頼周の反乱で父と祖父を殺されたが曽祖父の龍造寺家兼に伴われて筑後柳川城主蒲池鑑盛に身を寄せ、家兼が復讐を果した直後に病死したため17歳で家督を相続した。周防の大内義隆に臣従して主家の少弐冬尚を追放し傀儡の本家から家督を奪ったが、1551年陶晴賢の謀反で後ろ盾の義隆を失い立花道雪の猛攻を受けて敗走、再び蒲池鑑盛に救われて2年後に肥前に帰還すると、1559年大友宗麟に帰服して旧主の少弐冬尚・千葉胤頼を攻め滅ぼし東肥前支配を確立した。1563年肥前の領袖有馬義貞・大村純忠兄弟を撃退し(丹坂峠の戦い)、1567年高橋鑑種・秋月種実の反乱に呼応して大友氏に反旗、筑前・筑後を鎮圧した立花道雪の討伐軍が来襲するも毛利軍の九州侵攻で難を逃れ、1570年宗麟率いる6万の大軍を夜襲で破り干渉を排除した(今山の戦い)。1578年宗麟が耳川の戦いで惨敗すると道雪が堅持した防衛ラインが決壊、龍造寺隆信は島原半島の大村純忠・有馬晴信を降して肥前を平定し、一気に筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで支配圏を広げ九州三強の一角に躍り出た。が、冷酷で猜疑心が強く「肥前の熊」と称された龍造寺隆信は酷薄な恐怖政治に陥り、蒲池鎮漣(大恩人鑑盛の後嗣で娘婿)を族滅して柳川城を奪った暴挙を機に離反者が続出、武威を示すべく北上する島津氏に決戦を挑み有馬晴信の島原城へ攻込んだが、寡兵の島津家久に戦国史上最悪の惨敗を喫し隆信自身と龍造寺四天王全員(成松信勝・江里口信常・百武賢兼・円城寺信胤・木下昌直)が討取られた(沖田畷の戦い)。嫡子の龍造寺政家は、島津氏を降した豊臣秀吉に肥前佐賀城32万石を安堵されたが、秀吉に取り入った鍋島直茂に家を乗取られ、嫡子高房が抗議の自殺を遂げた直後に死去し龍造寺の嫡流は断絶した。

島津義弘は、薩摩・大隅を切り従え日向の伊東義祐・肥後の相良義陽・肥前の龍造寺隆信を滅ぼし大友宗麟を追詰めた島津四兄弟の次男坊、九州制覇の野望は豊臣秀吉に破られたが、朝鮮役泗川の戦い・関ヶ原「島津の退き口」で勇名を馳せた西国最強武将である。島津勝久から島津宗家と薩摩・大隅守護職を奪った島津貴久の次男で、兄義久が家督を継ぐと日向方面を受け持ち伊東義祐の猛攻を凌いだ。1572年貴久の死に乗じて伊東の精兵3千が飯野城を急襲、雑兵300で迎え撃った島津義弘は「釣り野伏せ」戦法で「九州の桶狭間」に快勝(木崎原の戦い)、南九州に武威を轟かせると、翌年長年争った肝付氏らが降伏して島津氏は薩摩・大隅を平定した。1577年伊東義祐を追出して三州統一を達成(伊東崩れ)、翌年大友宗麟の大軍が日向に来襲したが島津義久・家久が撃退(耳川の戦い)、多くの武将を討取られた名門大友氏は骨抜きとなった。矛先を九州西辺に転じた島津軍は、1581年肥後人吉城主の相良義陽を降伏させ、1584年大友氏から独立した龍造寺隆信を攻撃、島原城主有馬晴信の救援に兵3千で乗込んだ島津家久は2万5千の龍造寺軍を湿地帯に誘い入れて殲滅(沖田畷の戦い)、隆信以下重臣悉くを討取る大勝利で肥前・筑前・筑後・肥後北部・東豊前を奪取、義弘が阿蘇氏を降して肥後も掌中にした。1586年島津氏は総仕上げの大友征伐を開始、筑前・筑後の義久軍は立花宗茂に苦戦したが、肥後から義弘・日向から家久が本拠の豊後へ侵攻、豊臣秀吉の援軍2万を敵失と「釣り野伏せ」で撃退し府内城を落として宗麟を臼杵城に追詰めた(戸次川の戦い)。しかし翌年、徳川家康を従えた豊臣秀吉が九州征伐を号令、20万余の大軍を前に諸豪は悉く秀吉に靡き、島津軍は日向へ退いて決戦を挑むも敗北(根白坂の戦い)、義弘は徹底抗戦を主張したが当主義久は降伏を選び、島津氏は薩摩・大隅などの本領を安堵された。義久から当主を継いだ島津義弘は、梅北一揆・庄内の乱で家臣を引締め朝鮮出兵で大活躍、西軍に参陣した関ヶ原合戦では敵陣強行突破で武名を上げ、戦後の難局を武備恭順策で乗切り薩摩藩56万石を子の島津忠恒に譲り渡した。

島津家久は、「釣り野伏せ」を駆使して耳川・沖田畷・戸次川の戦いで芸術的快勝を収め龍造寺隆信はじめ名立たる武将を討取った戦国随一の野戦指揮官である。島津貴久の四男だが妾腹のため嫡出の兄義久・義弘・歳久とは別扱いで育ち、発奮して武芸軍略を磨き15歳の初陣で敵将工藤隠岐守を鑓合せで討取る活躍、祖父島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と嘱目された。1570年肥後人吉城主相良義陽から大口城を奪回して薩摩平定へ導き、1578年北部九州の支配者大友宗麟が日向に押寄せると、田原親賢率いる3万余の大軍を迎え撃ち田北鎮周・角隈石宗・佐伯惟教・蒲池鑑盛を含む3千名を討取る完勝、島津氏は南九州の覇権を確立した(耳川の戦い)。敗走を装って囮部隊を退却させ追走する敵を伏兵の鉄砲攻撃で包囲殲滅する「釣り野伏せ」は家久のお家芸となった。深手を負った大友氏が衰退すると、被官の肥前国主龍造寺隆信が台頭し盛んに大友領を侵食したが、過酷な国人統治に離反が相次ぎ島原城主有馬晴信が島津氏へ寝返り、決戦を決意した隆信は大軍(2万5千とも6万とも)を率いて島原へ侵攻した。肥後・日向戦線で手一杯の島津義久は取り急ぎ島津家久の先発隊(3千とも)を派遣、圧倒的劣勢ながら撃滅を企図する家久は敵を湿地帯に誘い込んで鉄砲隊で急襲、大混乱に陥った龍造寺軍を撫で斬りにし龍造寺隆信・康房兄弟に成松信勝・江里口信常・百武賢兼・円城寺信胤・木下昌直を討取る奇跡的勝利を収め(沖田畷の戦い)、後継の龍造寺政家を降伏させて肥前・筑前・筑後・肥後北部・東豊前を奪取した。1586年島津氏が総力挙げて大友討伐に乗出すと、宗麟の哀訴に応じた豊臣秀吉は長宗我部元親率いる先発隊2万を派遣し、日向から豊後へ向かう島津家久軍1万3千は戸次川で対峙、軍監仙石秀久が無謀な冬季渡川で戦端を開くと家久は鮮やかに「釣り野伏せ」を決め、壊走する敵を殲滅して長宗我部信親・十河存保を討取った。が、20万余に膨れ上がった秀吉軍には成す術無く、日向佐土原城に退いて逸早く降伏、九州征伐の顛末を見ることなく病没した。

相良氏は、遠江相良荘に住した工藤周頼(藤原南家)に始まり、相良頼景は源頼朝に従わず肥後へ追放されるが帰順して肥後多良木荘(球磨)の地頭に任官、相良長続が肥後守護菊池氏に属して球磨・八代・葦北の領有を認められた。相良義滋・晴広の代に同族の上村・犬童・深水・丸目氏らを束ね肥後人吉城に拠って戦国大名化し、菊池義武(大友宗麟の叔父)を隈本城に迎え豊後大友氏からの独立を図るが立花道雪に阻まれた。晴広嫡子の相良義陽は、西原氏から薩摩大口城を奪取し島津貴久に対抗するが、重臣の上村頼孝・菱刈重任を誅殺したため相良家は弱体化、丸目長恵の勇み足で島津家久に大口城を奪回され、日向の伊東義祐(親戚)・大隅肝付氏が島津領へ侵攻すると援軍を出すが奇計に嵌って逃げ帰り友軍は島津義弘に惨敗(九州の桶狭間・木崎原の戦い)、1581年耳川の戦いで大友宗麟を撃破した島津義久に攻められ次男頼房を人質に差出し降伏、阿蘇氏攻伐を命じられた相良義陽は宇城響野原で親友の甲斐宗運と戦い討死した(響野原の戦い)。犬童頼安・深水長智は次男の相良頼房を当主に担ぎ島津氏の九州平定戦に従うが1587年豊臣秀吉の九州征伐に降参、肥後国人一揆で佐々成政に呼応し島津軍と抗戦するが処罰を免れた。相良頼房は、加藤清正旗下で朝鮮役に出征するが国許で抗争が起り犬童頼安・頼兄を帰国させ竹下監物と深水一党73名を誅殺、深水頼蔵は清正を通じて秀吉に惣無事令違反を訴えるが石田三成が犬童を庇いお咎め無し、頼房は蔚山城合戦の武功を賞され豊臣姓を賜った。関ヶ原の戦いで相良頼房は西軍に属し美濃大垣城に詰めるが井伊直政に調略され秋月種長・高橋元種兄弟と共に東軍へ寝返り守将の福原長堯らを謀殺、徳川家康に本領を安堵され肥後人吉藩2万石を立藩し幕末まで存続した(秋月は高鍋藩3万石・高橋は日向延岡藩5万石)。相良氏庶流の丸目蔵人長恵は、大口城敗戦の罪で致仕となったが17年後に赦され兵法指南役(117石)で帰参、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に広がった。長恵には権内・半十郎の二児があったが共に早世し(謀殺説あり)娘婿の八左衛門が丸目家を継いだ。

丸目蔵人長恵は、勇み足で島津家久に敗れ放逐されるも肥後相良家の兵法指南役に返咲いたタイ捨流創始者、上泉信綱門下筆頭「兵法天下一」を公称し柳生宗矩に決闘を挑むが徳川家康の「天下二分の誓約」で断念した。丸目氏は肥後人吉城主相良氏の庶流で、16歳で兵法家を志した丸目長恵は肥後本渡城主の天草伊豆守に師事したのち上洛して上泉信綱に入門、正親町天皇の天覧では信綱の相手役を勤める栄誉に浴し、柳生宗厳と共に上泉門下の双璧と称され、愛宕山・誓願寺・清水寺に「兵法天下一」の高札を掲げ真剣勝負を求めるが挑戦者は現れず新陰流の印可を授かった。相良義陽に帰参した丸目長恵は薩摩大口城の守備に就くが1570年島津家久の偽装運搬の計略に釣り出され相良勢は大敗し大口城は陥落、激怒した義陽は出撃を主張した長恵を逼塞に処した。1587年豊臣秀吉に帰順して本領を安堵された相良頼房(義陽の後嗣)は17年ぶりに丸目長恵の出仕を赦し兵法指南役に登用、長恵のタイ捨流は東郷重位の薩摩示現流と共に九州一円に普及した(筑後柳河藩主の立花宗茂も門人)。新陰流を名乗らなかったのは正統を継いだ柳生宗厳に遠慮したためとも、甲冑武士用に工夫した新流儀であったためともいわれる。1600年関ヶ原の戦い、相良頼房は豊臣賜姓大名ながら東軍へ寝返り秋月種長・高橋元種兄弟と共に美濃大垣城の守将福原長堯らを謀殺し本領安堵で肥後人吉藩2万石を立藩、諜報蒐集に活躍した柳生宗矩(宗厳の五男)は徳川秀忠の兵法指南役に抜擢され初代大目付・大和柳生藩の大名へ累進し「日本兵法の総元締」となった。相良藩士117石で燻る丸目長恵は江戸へ出て宗矩に決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と相手にせず徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い射殺したとも)、長恵は潔く隠居して黙々と開墾に勤しむ余生を送り89歳で没した。丸目長恵は剣の他に槍・薙刀・居合・手裏剣など21流を極め言動は猪武者そのものだが、青蓮院宮流書道や和歌・笛も能くしたという。

大内義興は、日明・朝鮮貿易を牛耳って周防・長門・豊前・筑前・石見・安芸を支配し文化都市山口で栄華を誇った大内氏絶頂期の当主、挙兵上洛して室町幕府を掌握するが尼子経久の台頭で撤退、陶晴賢の謀反で嫡子義隆が滅ぼされ遺領は晴賢を討った毛利元就が奪取した。応仁の乱で西軍主力として戦い6カ国の太守となった大内政弘の嫡子で、1495年に権臣の内藤弘矩・陶武護(晴賢の兄)を排除して18歳で家督を継ぐと、豊後の大友政親を捕殺し(大友氏の懐柔には失敗し家督は反対派の大友親治=宗麟の祖父が承継)、筑前の少弐政資・高経父子も討滅し父祖の宿敵を除いた。1499年管領細川政元と南近江守護六角高頼に追われた前将軍足利義稙を山口に匿い、西国28大名に朝敵義興討伐の号令が下るが大友・少弐連合軍を撃退して筑前・豊前を防衛し毛利弘元(元就の父)ら安芸国人も掌握、1508年細川政元暗殺後の家督争い(永正の錯乱)に乗じて挙兵上洛し、将軍足利義澄・細川澄元(晴元の父)・三好之長(長慶の祖父)ら阿波勢を追払って幕政を掌握、足利義稙の将軍復位と細川高国の細川宗家相続を実現させ、自身は管領代・山城守護の官職と日明貿易の恒久的管掌権限を獲得した。1511年阿波勢に京都を奪還されたが、旗印の足利義澄が病没し後ろ盾の六角高頼も寝返るなか決戦を挑んだ阿波勢を洛北で撃滅、総大将の三好政賢まで討取り澄元・之長を阿波へ敗走させたが(船岡山合戦)、管領細川高国との確執が深まり、尼子経久が石見西半を奪って安芸に侵入すると1518年大内義興は帰国を決断した。畿内では阿波勢が盛返し細川高国は朝倉宗滴を招じ入れて対抗したが1531年大物崩れで討取られ最終的に三好長慶の天下となった。大内義興は、安芸・石見戦線で尼子勢に圧されたが、独立を期す毛利元就の寝返りを誘って押返し、1527年備後に出陣した尼子経久を山名氏と同盟して撃退し備後・安芸を制圧した(細沢山の戦い)。大内義興はその2年後に病没、嫡子の義隆は全盛期を謳歌するが堕落し1543年月山富田城の大敗を機に暗転、1551年重臣の陶晴賢に殺害され名門大内氏は滅亡、その晴賢も毛利元就に滅ぼされた。

毛利元就は、安芸の土豪から権謀術数で勢力を拡大、厳島の戦いで陶晴賢を討って大内家の身代を乗っ取り、月山富田城の尼子氏も下して安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中を制覇した戦国随一の智将である。小領主の次男坊で不遇の少年期を送ったが、兄毛利興元の急死で運が開けた。1516年毛利・吉川領に侵攻した安芸守護武田元繁を寡兵で討取る「西の桶狭間」でデビュー戦を飾ると、興元の嫡子幸松丸の急死(謀殺説あり)に伴い尼子経久の介入を退け反対派を粛清して毛利家を相続、武田氏を滅亡させて安芸国人の盟主となり備後攻略に乗り出した。1537年元就の智謀を警戒する尼子経久から鷹揚な大内義隆に鞍替えすると、尼子領を切取って勢力を伸ばし、1541年尼子晴久の毛利征伐軍を計略と陶隆房(晴賢)の援軍で撃退したが(吉田郡山城の戦い)、翌年大内義隆自ら起した出雲攻めは下手な退却戦で甚大な被害を蒙り尼子勢は盛り返した(月山富田城の戦い)。尼子と大内の攻防が続くなか、独立を帰す毛利元就は、次男元春を吉川家・三男隆景を小早川に送り込む養子計略で安芸・備後を固め、権臣井上一族を誅殺して独裁体制を確立した。1551年陶晴賢が謀反を起し主君大内義隆を自害させて大内家の実権を奪うと(大寧寺の変)、尼子と陶の提携を警戒する毛利元就は陶に属して隠忍していたが、形勢をみて3年後に陶晴賢討伐を決意、謀略を駆使して尼子新宮党と大内家江良房栄を討たせた後、1555年謀略を凝らして狭い厳島に大軍を誘い込み陶晴賢を誅殺(厳島の戦い)、山口攻めで大内義長を滅ぼして周防・長門を制圧(防長経略)、九州大友氏と山陰尼子氏を相手に二正面作戦に乗り出した。石見銀山を皮切りに次々と拠点を攻略して月山富田城に迫り、1566年尼子義久を降して中国10ヶ国を制覇した。一方九州では、1562年豊前門司城の戦いで小早川隆景が大軍を撃破し、1599年再攻して拠点立花山城を制圧するも、山中鹿介幸盛の尼子再興軍(出雲)・大内輝弘の乱(周防)に後方を脅かされ撤退した。将帥不足と多方面作戦の無理を悟ったのだろう、毛利元就は「天下を望まず」の遺訓を残し72年の生涯を閉じた。

天下を獲った織田信長軍団以外で、一代で最大版図を築いた毛利元就の下克上ストーリーはスケール壮大で最も面白い。殊に神業ともいうべき権謀術数は痛快で逸話も多いが、温厚で律儀な一面のせいか卑劣さは感じられない。毛利元就の人生は、疑えば疑えることだらけだ。先ず、父毛利弘元に続き兄で当主の興元も「酒毒」で若死にしている。興元存命なら元就の出世はなかっただろう。続く幸松丸は9歳で亡くなったが、先立って外祖父高橋興光を滅ぼしていることや、既に実権を握る元就の襲封に反発する家臣が多かったことを考えると、謀殺の可能性大とすべきだろう。このとき弟の就勝(元綱とする説もあり)と与党を殺害したともいう。安芸に勢力を伸ばし国人の盟主となった毛利元就にとって、安芸守護の名目を保つ武田氏は最も目障りだった。直接手は下していないが、自派の熊谷信直が武田光和に叛逆し退陣中に光和が急死、毛利派優位の武田家臣団は混乱し後嗣を立てられずに雲散霧消した。吉田郡山城の戦いでは反抗勢力を皆殺しにし、権臣井上元兼一族30人の誅殺も断行している。小早川家と吉川家との養子縁組は各家臣と組んだ露骨な謀略で事後に反対派を粛清しているが、吉川家簒奪は妻妙玖の死の直後という点が心憎い。毛利元就最大の転機は陶晴賢謀反・大内義隆滅亡だが、予て陶叛逆の噂は高く、事変後は即座に陶に属し働いている。尼子と陶の提携・挟撃を恐れる元就は、両家の要である尼子新宮党と江良房栄を除くことを企て、尼子晴久に新宮党を、陶に江良を討たせる計略を成功させている。勝負を賭けた陶晴賢との決戦では、圧倒的な兵数の劣勢を挽回するため狭い厳島におびき寄せる策を立て見事に成就させた。敵方スパイの逆利用や、偽の密書を懐に忍ばせた使者を敵陣で殺して発覚させるといった計略を用いたともいう。「三本の矢」は後世の作為だが、筆まめで律儀な毛利元就は一族郎党に手厚い訓戒を残している。そのなかで「毛利氏が大になったから家臣は面従しているに過ぎない、毛利一族は固く団結して決して心を許すな」という遺訓は謀略王ならではであろう。

吉川元春は、12歳の初陣から64戦無敗を誇り父毛利元就の山陰経略を担って出雲尼子氏を滅ぼし三度の尼子再興軍を粉砕した中国地方最強武将である。弟の小早川隆景と共に元就・輝元を支える「毛利両川」と称された。1541年吉田郡山城の戦いで12歳にして初陣を飾り、母の実家吉川氏の養嗣子となり吉川興経・千法師父子を殺害して家中を掌握、安芸新庄に日野山城を築いて本拠とし、1555年厳島の戦いで義兄弟の陶晴賢を討った。石見攻略を託された吉川元春は大内方諸豪を平らげて石見銀山で尼子晴久と対峙、1562年大友宗麟を撃退した毛利軍が山陰へ押寄せると守将の本城常光を族滅して石見を制圧し、1566年出雲月山富田城に籠る尼子義久を降伏させ一気に山陰道を蹂躙、毛利氏は安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・伯耆・因幡・備中の10ヵ国制覇を達成した。1569年龍造寺隆信と通謀した毛利元就は豊前・筑前へ侵攻し吉川元春・小早川隆景は拠点の立花山城を攻略するも立花道雪の奮戦で戦線膠着、大友宗麟の後方撹乱策で山中鹿介の尼子再興軍(出雲)と大内輝弘の乱(周防)が起り九州戦線を放棄した。反乱討伐に戻った吉川元春は、元就病没の大不運に見舞われるなか弔い合戦と称して山陰戦線に踏み留まり尼子再興軍を撃滅して出雲・石見・伯耆を回復、逃亡した山中鹿介が因幡鳥取城を奪うが城主の山名豊国を寝返らせ鹿介を敗走させた。1577年黒田官兵衛の要請に応じた織田信長が毛利攻めを開始し豊臣秀吉軍団が播磨へ来襲、吉川元春・小早川隆景は三木城主別所長治を寝返らせ上月城を落として山中鹿介と尼子再興軍を討果すが、元春の危惧通り備前の宇喜多直家が寝返り三木城陥落で播磨を断念、山陰に転じた秀吉軍団に鳥取城を攻め破られたが元春は決死の覚悟で伯耆国境を防衛した。1582年備中高松城が水攻めで落城寸前に陥るなか突如秀吉が和睦を提案、元春は涙を呑んで清水宗治切腹を了承したが間もなく信長討死が発覚、追撃を主張するも隆景に退けられた。天下人秀吉に臣従した毛利家で吉川元春は隠居して従軍を拒絶したが、最期に膝を屈して九州征伐に赴き豊前小倉城で陣没した。

小早川隆景は、父元就没後の毛利家を宰領し豊臣秀吉の信任を得て120万石を保ち五大老に任じられた智将、「器量の無い毛利輝元は天下の軍事に関わらず領国を堅守すべし、違えれば所領を失い身も危うし」との遺命に背いた愚甥は関ヶ原合戦の西軍総大将に担がれるが南宮山の毛利軍は参戦せず小早川秀秋の寝返りで勝利を献上、輝元は不戦のまま大阪城を明渡すも防長36万石に押込められた。11歳で小早川氏の養子に出され1550年17歳のとき後嗣の又鶴丸を出家させ反対派を粛清して家督を簒奪、安芸・備後沿岸部の支配を確立した毛利元就は大内家から独立し、1555年旧主大内義隆を滅ぼした陶晴賢を討滅、小早川隆景は村上水軍を味方に付けて海上封鎖を成功させた(厳島の戦い)。防長計略を終えた元就は1566年旧主尼子氏を攻め滅ぼし、山陽道を託された小早川隆景は豊前門司城の戦いで大友宗麟を撃破し伊予の反乱も制圧するが、立花道雪の奮戦と山中鹿介の後方撹乱に屈して九州戦線を放棄、1571年大黒柱の元就を喪った。1575年小早川隆景は主君浦上宗景を追放して備前を掌握した宇喜多直家と同盟し、織田信長へ寝返った三村元親(直家は父の仇)を滅ぼして備中を押え播磨へ侵出、信長包囲網に加盟して石山本願寺への兵糧補給を敢行し、豊臣秀吉・黒田官兵衛と対峙した。三木城主別所長治を寝返らせ上月城に籠る山中鹿介を討って優勢に立ったが、宇喜多の寝返りで要の三木城が落城、荒木村重・本願寺顕如も信長の軍門に降り、鳥取城を落とされ備中高松城は秀吉の水攻めに晒された。1582年毛利攻めに向かう信長が明智光秀謀反で落命、小早川隆景は備中・備後・伯耆の割譲を条件に和睦を受入れて追撃せず、秀吉は中国大返しで仇討ちを果し賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を討伐、隆景は天下人秀吉に帰順し安芸・備後・周防・長門・石見・出雲の6国と備中・伯耆の西半を安堵され、天下統一戦に従軍して筑前・筑後・肥前1郡の37万石を与えられた。朝鮮役では6番隊を率いて出征し立花宗茂と共に碧蹄館の戦いに勝利、秀吉が輝元の養嗣子に押付けてきた小早川秀秋(秀吉正室北政所の甥)を自分の養嗣子に迎えて毛利家を守り3年後に病没した。

村上武吉は、毛利元就の厳島合戦に貢献し小早川隆景に属して瀬戸内海を牛耳るが豊臣秀吉に逆らい海賊停止令で命脈を絶たれた村上水軍の頭領、子孫は長州藩士に没落したが秀吉に帰服した同族の来島通総は豊後森藩1万4千石を立藩した。瀬戸内海では藤原純友のころ既に海賊が横行し、南北朝時代に襲撃免除の「帆別銭」(通行料)を確立した村上義弘は「海賊大将」と称された。多島海の芸予諸島では海難事故が頻発し水先案内人の実需も存在した。三家に分かれた村上氏は能島・来島・因島を要塞化して監視・略奪体制を整え「三島村上水軍」と恐れられたが同族間抗争で嫡流能島の村上隆勝が暗殺死、孫の武吉は大内義隆の後援を得て従兄との家督争いを制した。1555年「1日だけの味方」要請に応じた村上武吉は厳島合戦で毛利元就に加勢、村上水軍の手引きで闇夜厳島へ渡った毛利軍は陶晴賢の大軍を奇襲で殲滅し、村上水軍は防長経略で勢力を伸ばし瀬戸内海を掌握した。1568年村上武吉は毛利氏の伊予出兵に従うが、毛利が九州侵攻に失敗すると大友宗麟に接近、1571年毛利と交戦中の宇喜多直家・浦上宗景に加勢したが小早川隆景に拠点の備前児島本太城を攻落とされ来島・因島水軍も毛利に帰順、能島に孤立した武吉は降参した。顕如の籠る石山本願寺への海上輸送に任じた毛利・村上水軍は九鬼嘉隆の織田水軍を撃退するが、織田信長が大筒・大鉄砲を装備し焙烙火矢が効かない鉄甲船6隻を投入、1578年村上武吉は自ら水軍を率いて決戦を挑むが惨敗した(木津川口の戦い)。1582年信長の毛利攻めに際し来島通総が豊臣秀吉へ寝返り、武吉は来島水軍の拠点を攻落とすが毛利を降した秀吉に返還を迫られ拒絶、四国伊予攻めに率先働いた通総は伊予風早郡1万4千石の大名に栄達したが従軍を拒否した武吉は能島を奪われ小早川家へお預け、1588年海賊停止令で抵抗虚しく村上水軍は解体され、帰順を拒んだ海賊衆は芸予諸島の隅へ逃れ蔑視の対象とされた(家船のルーツとも)。村上武吉は小早川隆景の隠居に伴い子の村上元吉・景親と共に毛利へ帰参、元吉は関ヶ原合戦で戦死し嫡子元武と景親は長州藩の船手組組頭の微職に留まった。

長宗我部元親は、父長宗我部国親の遺志を継いで土佐統一を果し本能寺の変に乗じて四国制覇を成遂げた智勇兼備の名将だが、豊臣秀吉に屈して土佐以外の所領を没収され後嗣盛親が関ヶ原合戦・大坂陣に敗れ滅亡した。長宗我部兼序が土佐国人連合に討たれた後、遺児の国親は土佐国司一条房家に養われ元服後に長岡郡の旧領に戻された。岡豊城に帰還した国親は、復讐心を隠して国人衆の離間を図りつつ勢力を伸ばし、仇敵の山田教道を討果し1560年本山茂辰を攻めて長浜城・浦戸城を落とすが合戦中に陣没した(長浜の戦い)。嫡子の長宗我部元親は、本山勢の反攻を自ら槍を振るって撃退し「姫若子」と揶揄した家臣達を心服させると(潮江堤合戦)、一条兼定(房家の曾孫)と共に諸豪を切従え1568年本山氏を降伏させて土佐中部を平定、翌年安芸国虎を攻め滅ぼし土佐東部まで制圧し、毛利氏の伊予出兵で致命傷を負った一条兼定を圧迫した。疑心暗鬼の兼定が柱石の土居宗珊を殺害すると、1575年長宗我部元親は一条家重臣を篭絡して兼定を追放し大友宗麟の力添えで攻め返すも殲滅(四万十川の戦い)、土佐統一を果した元親は織田信長と同盟を結び一領具足を率いて強敵不在の四国平定に乗出した。元親は三好一族を掃討して阿波・讃岐を掌中にしたが、1580年畿内を平定した信長が土佐以外の放棄を要求し、1582年抵抗する元親を討つべく大軍を送るが渡航直前に本能寺の変が勃発、昵懇の明智光秀・斎藤利三に窮地を救われた元親は阿波勝瑞城を攻落として十河存保・三好残党を讃岐十河城に追詰め、柴田勝家・徳川家康と通謀して豊臣秀吉に抵抗、1584年讃岐の豊臣勢と伊予の毛利勢を追払い河野通直を降して四国統一を達成した。が、翌年10万余の豊臣軍が来襲すると為す術なく長宗我部元親は土佐一国の安堵を条件に降伏、1586年先発隊2万を率いて九州征伐に乗込むが軍監仙石秀久の勇み足で島津家久の「釣り野伏せ」に嵌って惨敗、期待の嫡子信親を喪った。悲嘆の余り暴君となった長宗我部元親は、反対派重臣を容赦なく誅殺して四男盛親を家督に立て、小田原征伐と2度の朝鮮出兵に従軍して忠誠を示し関ヶ原合戦の直前に病没した。