29 miyazakihayao

みやざき はやお

宮崎 駿

1941年~-年

70

『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』とメガヒット連発で日本映画を制覇、エコロジーな世界観と萌えキャラで世界的巨匠となった日本アニメの完成者

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Episode

「マンガの神様」手塚治虫(本名手塚治)の生家は常陸府中藩の藩医の嫡流で、曽祖父の手塚良仙は緒方洪庵の適塾に学んだ蘭方医、祖父の手塚太郎は関西法曹界の重鎮、父の手塚粲はセミプロ写真家の趣味人であった。手塚治虫は父の手回し映写機でチャップリン喜劇やディズニーアニメに親しみ、近所の宝塚歌劇団の虜になり、『のらくろ』『フクちゃん』『ミッキーマウス』の模写で漫画を描き始めた。名門北野高校に入学した手塚治虫は軍事教練に傷つき大阪大空襲に遭難しつつ軍医養成の大坂医専(阪大医学部とは別)へ進んだが、戦後執筆を再開し1946年四コマ漫画『マァチャンの日記帳』でプロデビュー、翌年長編漫画『新寳島』で「赤本」ブームを引起した。『ジャングル大帝』『鉄腕アトム』『リボンの騎士』『火の鳥』とヒットを連発する手塚治虫は、1953年医師免許を取得するも医業を捨て東京南長崎の「トキワ荘」で4時間睡眠の執筆生活に没頭、25歳で関西長者番付の画家部門首位に輝いた。漫画ブームが到来しマガジン・サンデー・ジャンプと週刊誌の創刊が相次いだが、『カムイ伝』で劇画に主流を奪われ石ノ森章太郎ら後輩が台頭するなか、飽きられ焦る手塚治虫は神経衰弱に陥った。が、手塚治虫は初志のアニメ制作に望みを繋ぎ1961年有金叩いて「虫プロダクション」設立、使い回しでセル画数を切詰める「リミテッドアニメ」で予算・工数不足を打開し、1963年日本初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』・1965年カラーアニメ『ジャングル大帝』を発表し世界に誇る日本アニメの幕を開いた。しかし採算度外視のアニメ経営は破綻を来し、月刊誌『COM』を創刊するが漫画人気も回復せず、労組の造反劇を経て虫プロは倒産し手塚治虫は破産に瀕した。が、異色路線の『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』のヒットで蘇生し、旧作の単行本集『手塚治虫漫画全集』が人気を博し印税収入で財政も持直した。晩年の手塚治虫は、『火の鳥2772』で念願のアニメ映画監督を務め『陽だまりの樹』(主人公は手塚良仙)『アドルフに告ぐ』など青年漫画に挑戦したが、1989年700作品・原稿15万枚の超人的業績を遺し60歳で永眠した。

手塚治虫は多くの漫画家・アニメーターを薫陶し「エンタメ業界の開祖」と称すべき巨大な役割を果した。上京時に移り住んだ豊島区南長崎の「トキワ荘」には手塚治虫に憧れる漫画家の卵が集まり、アシスタントから藤子不二雄(ドラえもん)・石ノ森章太郎(仮面ライダー)・つのだじろう(恐怖新聞)・赤塚不二夫(天才バカボン)が大成した。またトキワ荘組ではないが、横山光輝(鉄人28号)・松本零士(宇宙戦艦ヤマト)・永井豪(デビルマン)・やなせたかし(アンパンマン)・ちばてつや(あしたのジョー)・楳図かずお(まことちゃん)・寺沢武一(コブラ)・あだち充(タッチ)らは直接に手塚治虫の指導や援助を受けている。さらに手塚治虫がノイローゼに陥るほど敵意を燃やした白土三平(カムイ伝)・さいとう・たかを(ゴルゴ13)・大友克洋(AKIRA)ら劇画陣も「マンガの神様」を尊敬している。石ノ森章太郎はトキワ荘の異端児で、手塚治虫が激しく嫉妬するほどの才能に恵まれ、脱手塚スタイルを貫くことで「特撮モノ」など新境地を拓いた。日本アニメの大立者となった宮崎駿は「アニメーションに対して彼がやったことは何も評価できない・・・これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです」と手塚治虫を酷評している。石ノ森章太郎・宮崎駿という次代を担った天才が手塚治虫の神格否定でのし上ったことは「神殺しから文明が生れる」欧州神話のようで興味深い。

藤本弘と安孫子素雄は富山県出身で小学校の同級生、手塚治虫の『新寳島』に感激してコンビを組み四コマ漫画『天使の玉ちゃん』でデビュー、高校卒業後一時就職したが1954年揃って上京し「藤子不二雄」の名で売出した。聖地「トキワ荘」に入居した藤子不二雄は、手塚治虫を手伝いつつ石ノ森章太郎・つのだじろう・赤塚不二夫らと切磋琢磨で腕を磨き、1965年『オバケのQ太郎』のテレビアニメ化でブレイク、さらに『忍者ハットリくん』『怪物くん』『パーマン』とアニメ化ヒットを連発した。藤子不二雄のキャラ重視・一話完結の「生活ギャグ」路線は全国児童を虜にし、劇画や手塚治虫流ストーリー漫画を凌駕した。小学館児童誌に連載した『ドラえもん』は遅咲きだったが1973年アニメ化で人気爆発、藤子不二雄を国民的漫画家へ押上げ、1980年『ドラえもん のび太の恐竜』に始まる劇場アニメは今日へ続く定番シリーズとなった。『ドラえもん』は全世界でテレビ放映されグッズは中国製海賊版でも大人気、今も人気は衰えず「実写版」がトヨタのCMに採用されている。また「版権ビジネスを見据えたキャラ重視の作品構成→テレビアニメ化で宣伝→単行本と版権で大きく稼ぐ」という『ドラえもん』モデルは業界に浸透し漫画・アニメ産業発展の原動力となった。さて『ドラえもん』後の藤子不二雄は、『コロコロコミック』『藤子不二雄ランド』の看板作家を担い、1時間TV番組『藤子不二雄ワイド』で『プロゴルファー猿』『キテレツ大百科』など新作をアニメ化したが、マンネリ化を脱出せないまま1987年突然コンビ解消を発表した。安孫子素雄の姉を嫌う藤本弘が病臥を機に申出たといわれる。藤本弘と安孫子素雄は藤子不二雄の名義で著作権を共有し収入も折半してきたが、実は合作は『オバケのQ太郎』まであり、実状に従い『ドラえもん』『パーマン』は藤本・『忍者ハットリくん』『怪物くん』は安孫子の単独著作に振分けられた。その後も二人は活動を続けたが「藤子不二雄A」こと安孫子素雄の『笑ゥせぇるすまん』くらいしか業績は無く、1996年『ドラえもん』を産んだ「藤子・F・不二雄」こと藤本弘は62歳で永眠。

名古屋市の貧しい家庭に育った鳥山明は絵を描くことが唯一の楽しみで、手塚治虫の『鉄腕アトム』やディズニーの『101匹わんちゃん大行進』の模写で腕を磨き(絵画教室に通ったとも)一宮市の起工業高等学校デザイン科へ進学、マン研に所属したがイラストレーター志望で漫画は描かなかったという。高校を卒業した鳥山明は広告系デザイン会社に就職したが2年半で挫折、ニート生活のなか小遣いに不自由し1977年『週刊少年マガジン』の新人賞賞金50万円を目当てに未経験のストーリー漫画を描き始め、鳥嶋和彦(「Dr.マシリト」のモデル)の引きで集英社専属となり読切作品『ワンダー・アイランド』でデビューした。僅か3年で漫画を会得した鳥山明は1980年『週刊少年ジャンプ』に『Dr.スランプ』で連載デビュー、圧倒的画力と「キャラ立ち」で忽ち読者を魅了し翌年テレビアニメ化され「アラレちゃんブーム」を巻起したが、1984年「ネタ切れ」を理由に突如連載を打切った。しかしジャンプは看板作家の休眠を許さず僅か3ヵ月後に鳥山明は『ドラゴンボール』連載開始、当初は二番煎じと思われたが1986年のテレビアニメ化でブレイクし、1997年の放送終了まで平均視聴率20%の大記録を樹立した。締切に追われるなか鳥山明は「ドラクエ」のキャラクターデザインを手掛けゲームブームに一役買っている。1995年『ドラゴンボール』は連載満了を迎え40歳の鳥山明は悠々自適の趣味生活に入ったが、単行本は全世界で売れ続け累計3億5千万部を突破(世界記録更新中)、アニメ市場は3千億円に膨らんだ。不評だが実写版ハリウッド映画『DRAGONBALL EVOLUTION』も上映され、鳥山明の個人資産は3百億円に迫り日本の漫画・アニメ史上断トツの大富豪となった。鳥山明の軽いノリは尊敬する手塚治虫の「漫画道」とは対照的で創作期間も遥かに短いが、イラスト並の画質と同一作品内に続々と秀逸キャラを産出す手法は漫画・アニメ・ゲームの価値観を一変させ欧米人にも認められた。『ONE PIECE』の尾田栄一郎や『NARUTO -ナルト-』の岸本斉史は鳥山明を尊敬し追随することで大成功を収めている。

1912年道楽で家業を潰した吉本吉兵衛が妻せいの勧めで大阪天神橋の寄席を買取り翌年「吉本興行部」を開設(1932年「吉本興業」へ改称)、せいの弟林正之助は1917年18歳で総監督に就いて「大坂吉本」を担い、林弘高は1928年から「東京吉本」を率いた。吉本吉兵衛は早世したが吉本せい・林正之助の経営で吉本興業は躍進、「安来節」「吉本新喜劇」「しゃべくり漫才」で新味を加えつつ、巧みな芸人扱いと「強面」で寄席を次々買収し(「花月」に統一)桂春団治・三友派の吸収で上方演芸界を制覇、関東へ進出し「浅草花月劇場」を拠点に松竹と覇を競った。さらに吉本興業は、東宝と提携して映画に進出し読売球団創設に参画(戦後撤退)、大坂のシンボル「通天閣」を買収し(5年後焼亡)、東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸に47の直営劇場・寄席・映画館と芸人1300人を擁するまでに膨張した。しかし戦時統制下に芸能界は逼塞し、吉本興業は戦地慰問団「わらわし隊」を供し命脈を保ったが戦乱で演芸施設と専属芸人の大半を喪失、戦後は進駐軍専用キャバレーと映画館で再出発した。1948年吉本せいは社長を退き3年後に逝去、2代目林正之助の吉本興業は翌年株式を上場し、力道山を擁しプロレス・ブームを演出、山崎豊子の『花のれん』で認知度を高め、1959年「うめだ花月」で演芸を再開し「京都花月」「なんば花月」と手を拡げた。林正之助はテレビへ軸足を移し、1969年『ヤングおー!おー!』で笑福亭仁鶴、桂三枝、やすし・きよし、明石家さんま、島田紳助らが全国区となり「吉本新喜劇」も定番化、1980年『花王名人劇場』『THE MANZAI』『お笑いスター誕生!!』で漫才ブームを巻起した。「NSC」(ダウンタウンは一期生)など芸人養成に余念の無い吉本興業にネタ切れの死角は無く「吉本なしでは、番組が作れない」状態を維持、芸能界の覇者となった林正之助は社長のまま92歳で大往生を遂げた。が、林正之助の死後も「社員は虫けら、芸人は乞食」の悪弊は残り、吉本家・林家・経営陣の三つ巴の泥仕合のすえ2007年娘の林マサの暴走で闇勢力の介入が発覚、2009年吉本興業は非上場化された。

ジャニー喜多川(喜多川擴)はLA育ちの日本人(父は高野山米国別院の職業僧)、第二次大戦中は日系移民の強制収容を逃れ和歌山に移住したが、戦後姉の喜多川泰子(メリー喜多川)とLAに戻り高校・大学に就学した。LA公演で美空ひばりの知遇を得たジャニー喜多川は芸能界を志し、1952年米軍の諜報員に選ばれ上智大学生の身分で日本帰国、米軍官舎ワシントンハイツで優雅に暮らしつつバンドを組み芸能活動を始めた。ジャニー喜多川は近所の少年を集め草野球チームを作ったが、映画『ウエスト・サイド物語』に少年愛を刺激され1962年「青井輝彦」ら4人を選んで「ジャニーズ」を結成し「ジャニーズ事務所」を開業した。「ジャニーズ」「フォーリーブス」「郷ひろみ」は電撃解散・移籍で失ったが、ジャニー喜多川は「敬語禁止」「YOU~しちゃいなよ」の軽いノリで美少年を育み続け、1979年『3年B組金八先生』でデビューした「田原俊彦」「近藤真彦」が大ブレイク、「シブがき隊」「少年隊」「男闘呼組」と続き「アイドル全盛期」の立役者となった。1987年の「光GENJI」ブームを最期に「アイドル氷河期」が到来しジャニー喜多川は試練の時を迎えたが、1991年デビューの「SMAP」がバラエティ路線で国民的アイドルへ躍進、「V6」「TOKIO」「嵐」「KinKi Kids」「KAT-TUN」と続き、メディアミックスを駆使し似たようなスターを間断なく輩出するジャニーズ事務所は吉本興業と並ぶテレビ業界の覇者となった。一方、元ホモ愛人らが相次いでジャニー喜多川の暴露本を刊行、枕営業は芸能界の常識だが同性愛ゆえに耳目を集め、ジャニーズ事務所は文芸春秋社を名誉毀損で訴えたが2004年最高裁はホモ行為強要の事実を認め訴えを棄却した。しかしジャニー喜多川の「アイドル帝国」はマスコミに叩かれず、「コンサートのプロデュース数」「ナンバーワン・シングルのプロデュース数」「チャート1位アーティスト輩出数」でギネス記録を獲得している。ジャニー喜多川は80歳を過ぎメリー喜多川は娘の藤島ジュリー景子への世襲を公言、2016年飯島三智が謀反しSMAP脱退騒動を起したが忽ち鎮圧された。