10 syouin

よしだ しょういん

吉田 松陰

1830年~1859年

100

「二十一回猛士」と称して海外密航・老中襲撃・討幕挙兵を画策し松下村塾を開いて長州藩を覚醒させ門弟の高杉晋作・久坂玄瑞・木戸孝允に「狂」を植付け討幕の原動力ならしめた純粋激烈な大教育者

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Episode

吉田松陰は、長州藩の山鹿流兵学師範を世襲する吉田家に入嗣し8歳にして藩校明倫館に出勤、10歳のとき藩主毛利敬親の御前で『武教全書』を講義したが、敬親は松蔭に弟子の礼をとり山鹿流兵学を学び始めるほど才能を愛した。明倫館での松陰門人には木戸孝允・益田弾正(禁門の変で引責切腹した長州藩家老)・斎藤弥九郎(神道無念流の大剣客)・斎藤栄蔵(弥九郎の子)などがあり、木戸は松陰に兄事し松下村塾生と行動を共にした。好奇心旺盛なうえ好学な家庭に育った吉田松陰は、幼少から没するまで猛烈な勉強と読書を貫き、和漢・兵学に納まらず地理・日本史・洋式兵学等々あらゆる分野に精通し、実地見聞のため旅行を好み全国各地で志士と交流した。20歳過ぎで江戸遊学へ出た吉田松陰は、昌平坂学問所儒官の安積艮斎(同門に岩崎弥太郎・小栗忠順・清河八郎など)・山鹿流家元の山鹿素水・洋式兵学の佐久間象山らに師事しオランダ語学習も開始、寝食を惜しんで勉学に励む傍ら親友の宮部鼎蔵と共に江戸湾口防備視察の名目で三浦半島から房総半島を旅した。激情家の吉田松陰は、盛岡藩士江幡五郎の仇討ち計画に感激し加勢を約束、10ヶ月の休暇願いを届捨てにして東北へ飛出した。江幡が挙行を引延ばす間に、吉田松陰は水戸で会沢正志斎ら水戸学の権威と交流し白河・会津・新潟・佐渡・津軽・青森を踏破、北海道渡海を図るも便船の都合で断念し盛岡・日光東照宮を回って江戸へ戻ったが、過書手形未交付のため脱藩罪を問われ家名断絶に処された。なお江幡五郎は、逡巡の末に目指す仇が病死し仇討ちを吹聴した志士仲間の評判は地に落ちたが、盛岡藩に帰参して明治維新を迎え、那珂通高へ改名し儒学者として名を成した(東洋史の那珂通世は養子)。

毛利敬親は、改革派の村田清風・周布政之助に長州藩政を託し木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら吉田松陰門下生を後援して長州藩を尊攘・討幕運動へ投入、明治維新後は版籍奉還に率先応じた偉大なる「そうせい候」である。いつも「そうせい」と家臣に丸投げした毛利敬親の政治能力を疑う向きもあるが、激変する対幕関係と藩内闘争のなか持論の尊攘方針を堅持し重要事項は自ら決断、有能な家臣を登用し細事を任せ切った。18歳で長州藩主を継いだ毛利敬親は、「俗論党」に配慮しつつ「正義派」の村田清風を後押しし藩政改革・財政再建に成功し長州藩は「雄藩」となった。21歳の毛利敬親は10歳の吉田松陰の御前講義に感服し弟子の礼をとったといい、脱藩事件で家名断絶に処された松蔭に10年間の諸国遊学を許し、ペリー来航後先鋭化する攘夷論に耳を傾け、密航を企てた松蔭が幕府に捕まり萩の野山獄へ投獄されると病気保養の名目で出獄させ「松下村塾」を黙認、遊学奨励や軍制改革などの諸献策を採用し、門人の木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作らを取立て中央政界へ送り出した。松下村塾は公認され尊攘派の拠点となったが、安政の大獄に激昂した吉田松陰は急速に過激化し老中間部詮勝の襲撃を公然と画策、毛利敬親は上書を許しガス抜きを図ったが、松蔭が門弟17人と血盟を結び周布政之助ら尊攘派要人に協力を要請するに及び、周布が求める松蔭の再投獄を認めざるを得なかった。毛利敬親は冷却期間のつもりだったと思われるが、別件で幕府に召喚された吉田松陰は間部襲撃計画を自白してしまい斬首に処された。が、井伊直弼が暗殺され尊攘派が盛返すと、毛利敬親は松陰の遺志を継ぐ久坂玄瑞・木戸孝允の「破約攘夷」へ藩論を切替え決然と幕府(薩摩藩の島津久光が主導する公武合体運動)に挑戦、禁門の変・第一次長州征討・四国連合艦隊の来襲(馬関戦争)と凶変が続き滅亡寸前に追詰められた長州藩は幕府への恭順を余儀無くされたが、高杉晋作が武力クーデターを成功させると毛利敬親は政権交代を容認し薩長同盟して討幕へ邁進、明治維新後は木戸の要請に応じ真先に版籍奉還を是認した。「わしはいつ将軍になるのか」と木戸に尋ねたという話は創作だろう。

18歳で長州藩主を継いだ毛利敬親は、慢性的な財政難を克服するため、優秀で開明的な村田清風に藩政改革を託した。村田清風は、「三七ヵ年賦皆済仕法」で大胆な債務減免策を断行する一方(薩摩藩・調所広郷の250年賦・無利子償還よりましだが事実上の借金踏倒し)、商人への自由貿易承認と運上銀課税、越荷方の設置による貿易運輸・決済業務への参入など藩収入を増やすための経済政策を実施した。村田清風の一連の改革により長州藩は潤沢な準備金を蓄えるまでになり「幕末雄藩」の基盤を構築、政治資金をばら撒いて朝廷を統制下に置き洋式軍備を導入して精強軍を整えた(木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作ら長州藩士は潤沢な交際費を遣い京都で豪遊した)。村田清風は教育普及にも尽力、後継者の周布政之助を都講に抜擢し藩校明倫館の拡充政策を担当させた。明倫館は、儒学・漢籍教育に留まらず、シーボルト仕込みの蘭学医青木周弼の進言で設立された医学館好生堂、オランダ語や洋式兵学を教える西洋学問所も備える当時最先端の総合学園へ発展、少年期の木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞も就学した。山鹿流兵学師範の世襲家を継いだ吉田松陰は、8歳にして明倫館に出仕し20歳前に遊学へ出るまで兵学教授を勤め、木戸孝允・益田弾正(禁門の変で引責切腹した長州藩家老)・斎藤弥九郎(神道無念流の大剣客)らを薫陶、明倫館再興に関する意見書も上表した。

脱藩罪を得た吉田松陰は萩に召還されたが、長州藩主毛利敬親の温情により翌年には10年間の諸国遊学を許され、江戸へ戻った矢先にペリー来航に遭遇、藩の兵学師範である松陰は浦賀へ急行し黒船艦隊を視察した。洋式軍備の脅威を目の当たりにし生来の好奇心を逆撫でされた吉田松陰は、すぐに佐久間象山の私塾に入門して洋式兵学・砲術・蘭学を学び、同年中には毛利敬親に開明的な長州藩の国防論を提言しつつロシア船による密航を志し長崎へ出向した。佐久間象山は山深い信州松代藩士ながら生涯に門弟1万5千人と号した洋式兵学の第一人者、「象門の二虎」と称された吉田松蔭(寅次郎)と小林虎三郎につき「吉田の胆略と小林の学識は、皆稀世の材である。天下のことをなすには吉田が適しており、わが子を託するには小林がよい」と評し、後に松蔭門下の高杉晋作や久坂玄瑞を薫陶した。なお小林虎三郎は、河合継之助が敗死し焼土と化した越後長岡藩の執政に就き「米百表」の逸話を残している(このとき小林が設立した国漢学校は山本五十六らを輩出)。さて、佐久間象山に洋式兵学を学び、藩主に兵制の洋式化を提案し、自ら海外密航を企てた吉田松蔭であったが、意外にも終生激烈な攘夷論者であり、日本人を泰平の眠りから醒ますべく「二十一回猛士」と称して過激行動を繰返した。ただし、松蔭の主張は「威迫に屈して開国するのでは国の体面が立たない。一旦退けて、国力を充実したうえで、自主的に開国すべきである」とし、国力・軍備充実のためには西洋文明を積極的に摂取しなければならないとする現実的な「大攘夷」であり宗教罹った「小攘夷」とは一線を画した。島津斉彬・徳川斉昭など開明派知識人は概ね「大攘夷」論者であり、松陰門下生が主導した過激な尊攘思想は維新後に忽ち消え失せ明治政府は文明開化・脱亜入欧に邁進した。

西洋文明への憧憬を抑えられない吉田松陰は、ペリー来航直後にロシア船による密航を企て、翌年ペリー再来航を聞きつけると長州藩足軽の金子重之助を伴い直ちに江戸へ向かった。吉田松陰と金子重之助は、伊豆下田郊外でアメリカ人士官を待伏せし漢文の手紙を手渡して密航を申込んだうえ、同夜小船を漕いで旗艦ポーハタン号に乗付けたが、ペリー提督は同情しつつも日本の国法を犯しては両国の和親を破ることになると考え密航を拒絶、壮挙と信じる松陰は自首し伊豆下田の牢に繋がれた(牢跡地の側に下田開国博物館が建つ)。「彼等は教育ある人達で、漢文を見事に書き、態度は礼儀正しく、立派であった」と記したアメリカ士官は吉田松陰に好意を寄せ、直接会わなかったペリーも大いに同情し幕府に寛大な処分を申入れた。国禁違反は死罪相当の重罪だが、長州藩への遠慮からか幕府は江戸伝馬町獄舎で取調べたのち自藩幽閉の軽い処分で済ませた。佐久間象山は、吉田松陰へ贈った壮挙を激励する書簡が見つかり松代藩幽閉を命じられた。この後、松蔭門下の高杉晋作や久坂玄瑞は度々松代の佐久間を訪ねて教えを請い藩校明倫館の教授に招聘するほど感化された。佐久間は8年後に赦され徳川慶喜の招きで上洛し公武合体論と開国論を説いたが、傲岸不遜な性格も災いし京都木屋町で「人斬り」河上彦斎らに暗殺された。さて、吉田松陰と金子重之助は囚人用の唐丸籠で萩へ護送されたが、結核性の痢病と牢屋瘡を患った金子は寒風のなか薄着を強いられ萩到着の3ヶ月半後に獄死、松陰は節約した食費を遺族へ贈って墓碑建立を依頼し佐久間象山・宮部鼎蔵・久坂玄瑞らに弔死詩を頼み追悼歌集を編纂した。生来前向きな吉田松陰はすぐに立直り野山獄で囚人相手に教育の才を発露、孟子・論語・日本外史を平易に講義し(出獄後に『講孟余話』を著作)勉強嫌いには俳諧や書道の稽古を督励、牢役人の福川犀之助まで弟子となり夜間の点灯を許すなど便宜を図ってくれた。富永有隣は親類縁者に持余され野山獄に入れられた拗者だが吉田松陰に敬服して弟子となり、後に吉田は藩庁に運動して富永を出獄させ松下村塾の助教にした。

松下村塾は、吉田松陰の叔父玉木文之進が1842年に長州萩城下外れの松本村に設立した私塾で、密航事件の罪で地元に蟄居した松蔭が1857年に引継いだ。吉田松陰が罪人となっても長州藩主毛利敬親の敬愛は変わらず、また松陰に好意的な周布政之助や益田弾正など正義派人士が藩庁の要路にあって、藩政改革に係る松陰の上書がよく採用され、その効果もあり松下村塾の入門者は増え尊攘派の拠点として一大勢力を形勢した。松下村塾は、学校というよりはサークルのような雰囲気で、特段の規則はなく、授業料の類もとらなかった。皆で米搗きや農作業をしながら勉強することも日常で、ときに登山・撃剣・水泳の実習も行い、塾舎の増築工事は塾生の手で行った。藩校明倫館で行われた藩士子弟の漢籍素読の試験では、松下村塾から応試した15人全員が優等の成績を採り基礎教育にも強いことを証明した。松下村塾は、士分だけが入学できた藩校明倫館とは異なり、入門者の身分を問わなかったが、門閥藩士は国禁を犯した吉田松蔭を危険思想家と敬遠し、父に戒められた高杉晋作は家人の目を盗んで通わねばならなかった。そのため松下村塾では中級藩士(大組士200石扶持)の高杉晋作が群を抜いて地位が高く、ほとんどの門人が下級藩士か庶民の出自であり、1858年に吉田松蔭が野山獄に再入獄となるまで僅か1年余の就学だったが、幕末長州藩をリードする多くの尊攘派志士を輩出した。入門者は50名ほど、高杉晋作と久坂玄瑞(松陰の妹文の夫)が最優秀で「松下村塾の双璧」、これに吉田稔麿と入江九一を加えた4人が「松下村塾の四天王」といわれた。松下村塾の生残り渡辺某は後年「高杉は恐ろしかった。栄太郎(吉田稔麿)はかしこかった。久坂はついていきたいようであった」と述懐している。他の門人に、寺島忠三郎・伊藤博文・山縣有朋・前原一誠・品川弥二郎・山田顕義・赤根武人などがいる。なお、木戸孝允は、吉田松蔭が藩校明倫館で兵学を教えていたときの弟子で生涯松陰に師事したが松下村塾生ではない。亡き松蔭を慕う乃木希典は玉木文之進の家に寄寓した。松下村塾の遺構は現在も保存され側には松陰神社が建つ。

長州藩では村田清風の藩政改革以来、保革対立が絶えなかった。「正義派」と称した革新系は、尊皇攘夷から後に討幕派へ発展した流れで、村田清風・周布政之助・木戸孝允が直系であり、藩主の毛利敬親と家老の浦靱負・益田弾正らが支持した。吉田松陰・松下村塾生と長井雅楽は共に正義派に属したが、幕府不要論者で草莽崛起を説く松陰は中央政局で公武合体を進める長井に猛反発しだ。正義派が「俗論党」と憎悪した保守系は、村田清風と政権を争った坪井九右衛門から椋梨藤太へ受継がれた派閥で、大組士など門閥世襲士族の大多数を支持基盤とし、徹底的なお家大事・幕藩体制擁護論を固持した。藩主毛利敬親の尊攘方針のもと最初は正義派が優勢、安政の大獄で俗論党が盛返すが桜田門外事変で正義派が復活し、「航海遠略策」と共に長井雅楽を葬った周布政之助・木戸孝允・久坂玄瑞が藩論を「破約尊攘」へ転換させたが八月十八日政変が起り一夜にして瓦解、池田屋事件で新撰組に吉田稔麿らを殺され激昂した過激尊攘派は坪井九右衛門を血祭りに挙げ京都へ攻込んだが禁門の変で大敗し長州藩は朝敵となった。久坂玄瑞・入江九一は戦死し木戸孝允は行方不明、絶望した周布政之助まで自殺するなか第一次長州征討と馬関戦争が同時に勃発、高杉晋作は井上馨・伊藤博文を従え徹底抗戦を叫んだが長州藩は恭順の道を選び俗論党の天下となった。が、僅か90人を率い功山寺で挙兵した高杉晋作は奇兵隊など諸隊を引込んで長州藩正規軍を打倒(山縣有朋ら奇兵隊幹部は当初日和見)、椋梨藤太を殺して俗論党を殲滅し逃避行から戻った木戸孝允が執政に就任、薩長同盟を締結し、大村益次郎の洋式兵制改革で増強した長州藩軍は第二次長州征討で幕府軍を返討ちにした。死力を尽くして戦った高杉晋作は間もなく病没したが、岩倉具視と提携し朝廷を掌握した薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通が戊辰戦争の火蓋を切り長州藩も出兵して討幕を成遂げた。正義派の吉田松陰と松下村塾四天王(高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿・入江九一)に長井雅楽・周布政之助、俗論党の坪井九右衛門・椋梨藤太まで悉く非業の死を遂げた壮絶な長州維新であった。

吉田松陰は公武合体論者であったが、大老井伊直弼の暴政のなか次第に幕府不要論へ傾き、井伊を支える老中間部詮勝及び水野忠央の襲撃を画策、再び野山獄へ投獄されたが獄中で先鋭化し討幕挙兵を公言するに至った。吉田松蔭は、俗論党が根強い長州藩の因循に失望し、諸国有志が脱藩上洛し天皇を担いで天下を動かすべしとする「草莽崛起論」を唱え、動きの遅い周布正之助や長井雅楽など正義派の同志まで弾劾した。過激化する吉田松陰を松下村塾生も持余し半ば狂人視するようになり、江戸に居た高杉晋作・久坂玄瑞は血判状を送って師を諌めたが松陰は逆ギレ、安政の大獄で逮捕された梅田雲浜の脱獄救出を赤根武人に命じ、参勤交代で江戸へ向かう長州藩主毛利敬親を京都で強引に担出し討幕の兵を起すべく画策した。吉田松陰は先発上京する連絡員を募ったが応じる者は無く、無理やり承諾させた入江九一・野村和作兄弟はノイローゼとなったが前原一誠らが苦肉の策で藩庁へ通報し出発直前に逮捕され事無きを得た。そうしたなか吉田松陰は江戸へ召喚され評定所の尋問を受けた。安政の大獄の核心は一橋派による戊午の密勅事件と条約勅許妨害であり、吉田松陰は不関与で嫌疑の梅田雲浜との通謀も無実であったが、国士を自認する松陰はペリー来航以来の幕府政治を滔々と論難し勢い余って間部要撃計画まで自白、驚いた幕府は松陰を伝馬獄へ移し小塚原刑場で斬首に処した。処刑前は眼光炯々幽鬼の相貌であったが、江戸送りの段階では「死生一如」の境地に達し見送りに来た門弟達を優しく迎えて遺志を託し、司獄の福川犀之助の計いで帰宅を許され家族と今生の別れをした。伝馬獄の吉田松陰は、高杉晋作へ「死んで不朽の名を残す見込みがあるなら、いつ死んでも構わない。生きて大業をなす見込みがあるならば、あくまで生きるべきである。」と言葉を贈り、『留魂録』を著述して「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」の辞世を遺した。処刑の二日後、江戸に居た木戸孝允・伊藤博文らが遺骸をもらい受けて小塚原に仮葬し目印に巨石を設置、その4年後に高杉晋作らが世田谷若林に改葬し松蔭神社を建てた。

安政の大獄は大老井伊直弼が断行した徳川慶喜擁立派の大粛清であり、井伊の謀臣長野主膳が京都に乗込み主導したとされる。戊午の密勅事件に激怒した井伊直弼は、密勅降下と条約勅許妨害の首謀者と断じた梅田雲浜を逮捕し、一橋派の徹底弾圧に乗出した。徳川斉昭・徳川慶喜は蟄居に処され、福井藩主松平春嶽・宇和島藩主伊達宗城・土佐藩主山内容堂・尾張藩主徳川慶勝には隠居を強制、他にも一橋派に加担した諸侯や幕府官僚の多くが蟄居や謹慎を課され、梅田雲浜・吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎ら14人もの尊攘派志士が刑死または獄死した。薩摩藩主島津斉彬は、率兵上洛して井伊直弼を打倒する決意を固め、準備工作のため西郷隆盛らを先発させたが、出発直前に突然死し計画は頓挫した(佐幕派の実父島津斉興による暗殺説あり)。安政の大獄により雄藩や尊攘派志士は逼塞し井伊直弼の策謀は一時的に成功したが、逆に反幕府の機運が全国へ広がり、井伊の暗殺(桜田門外の変)を皮切りに尊攘運動は勢いを増し時流は一気に倒幕維新へと流れた。怪しい出自ながら井伊直弼に登用された長野主膳は、正統派国学に基づく万世一系の血統主義を持論とし将軍家と血統が近い徳川家茂の将軍就任を正当化する理論を展開した。13代将軍徳川家定が無嗣没し将軍継嗣問題が起ると、長野主膳は紀州藩付家老の水野忠央と連携し幕閣や大奥に盛んに工作、徳川斉昭の誹謗中傷を流布して大奥の斉昭嫌いを煽った。謀反疑惑はデマだが、真偽取混ぜた女性ゴシップは効果的であり、好色漢徳川斉昭の不徳の致す所であった。窮した一橋派は、老中首座堀田正睦の上洛に伴い雄弁家で美男子の橋本左内(福井藩士)を京都に送込み長野主膳に対抗し、徳川慶喜擁立の勅許を得る寸前まで漕ぎ着けた。南紀派は敗北必死の状況に追詰められたが、長野主膳は大奥を動かして精神薄弱者の将軍徳川家定から強引に言質をとり、井伊直弼を非常職の大老に就任させ徳川家茂の将軍就任を断行、スパイを駆使して安政の大獄を指揮した。井伊直弼暗殺後も長野主膳はしぶとく彦根藩政を握ったが、天誅騒動で失脚し縛り首に処された。

井伊直弼は、「譜代筆頭」彦根藩主として幕政に乗込み「魔王」長野主膳の暗躍で大老に就き安政五ヶ国条約の無勅許調印と徳川家茂の将軍就任を強行、安政の大獄で反抗勢力を大弾圧したが桜田門外の変で落命した。彦根藩主の子ながら十四男の井伊直弼は、自己研鑽に励んで養子の口を求めたが果たせず、生涯を不遇で終わる覚悟を決め三の丸尾末町の居宅を「埋木舎」(現存)と自嘲した。無聊な部屋住み生活のなか、学問・武芸はもちろん禅・書・絵・歌・茶道・能楽などあらゆる芸事に手を染め、得意の居合道では一派を開き、狂言制作や能面作りにも精通、茶道の「一期一会」を広めたのは井伊直弼といわれる。学問・思想的には国学に傾注し町学者の長野主膳を師と仰いだ。35歳まで不遇を託った井伊直弼だが、藩主の長兄と世子の次兄が相次いで無嗣没する幸運に恵まれ彦根藩主に就任、門外漢の長野主膳を謀臣に抜擢し幕府政治に乗込んだ。彦根藩では藩政改革を進めつつ堅実な善政を敷き名君と讃えられたいう。徳川慶喜から「才略には乏しいが、決断力のある人物」と評された井伊直弼は、才略は長野主膳で補い忽ち譜代大名・守旧派の領袖へ台頭、徳川家定の将軍継嗣問題が起ると紀州藩主徳川家茂を担いで南紀派を形成し、徳川斉昭・「四賢候」の一橋派と対立した(なお佐賀藩主鍋島直正と会津藩主松平容保は南紀派)。老中阿部正弘の急死で幕閣の理解者を喪った一橋派は、老中首座堀田正睦の条約勅許失敗で攻勢を強め、松平春嶽・島津斉彬と謀臣の橋本左内・西郷隆盛の奔走で徳川慶喜の将軍勅許寸前まで漕ぎ着けた。が、長野主膳は謀略を駆使して井伊直弼を大老に就かせ大奥と将軍徳川家定を篭絡して徳川家茂の将軍就任を強行、安政の大獄を発動した。島津斉彬の突然死で薩摩藩率兵上洛の脅威が去り、「戊午の密勅」に激怒した大老井伊直弼は一橋派諸侯を引退に追込み志士狩りを断行したが、恐怖政治は1年も続かず徳川斉昭の意を受けた水戸浪士らが江戸城桜田門外で井伊を殺害した。一時逼塞した全国の尊攘派志士は拍手喝采し幕府不要論が萌芽、逆に幕府は融和路線へ転じ一橋派諸侯を赦免した。

「幕末の魔王」長野主膳は、稀世の美男子で学識豊富・上品高雅な威厳に満ち、権謀術数を駆使して井伊直弼の大老就任から安政の大獄を差配したといわれる。怪人らしく前半生は不肖、伊勢滝野村に現れ国学塾を開いた長野主膳は、村の名士滝野次郎左衛門の妹滝を娶り、紀州藩付家老の水野忠央に接近、滝野の援助で近畿・東海道を巡歴したのち近江坂田郡志賀谷村に「高尚館」を開き彦根・京都へも出張って多くの門人を得た。京都では二条家に庇護され多くの公家や諸大夫の島田左近らを弟子にし、彦根藩では不遇期の井伊直弼に取入り政治的な助言も行う間柄となった。彦根藩主に就いた井伊直弼は長野主膳を150石で藩校弘道館の国学教授に召抱え、晴れて腹心となった長野は、水野忠央と紀州藩主徳川家茂の将軍擁立を図り、京都で朝廷工作を担いつつ江戸の幕閣や大奥へも謀略の手を伸ばした。野心家の水野忠央は、大名格の紀州藩付家老の地位に満足せず立藩・幕政参与を望み、妹二人を幕臣の養女に落として将軍徳川家茂に献上し幕府官僚に賄賂攻勢を仕掛けたが、逆に顰蹙を買って老中安倍正弘からも敬遠されていたところで、将軍継嗣問題は渡りに船だった。さて、老中間部詮勝の黒幕として安政の大獄を主導した長野主膳は多くのスパイを操り、島田左近は公家社会上層部の情報網・目明し猿の文吉(妹の君香が島田の妾)は一般社会の密偵として暗躍した。京都政界を戦慄させた島田左近と文吉は高利貸しなどで巨利を貪り「今太閤」と称されたが、久坂玄瑞・武市半平太ら尊攘派が京都で台頭すると真先に「天誅」の標的となった。島田左近は京都木屋町で君香と逢瀬中に田中新兵衛らが斬殺、青竹に刺した首を先斗町川岸に晒され、文吉は岡田以蔵らが三条河原で細引で絞殺、裸体の肛門から頭頂まで竹で串刺し性器に釘を打った姿を晒された。そして長野主膳は、井伊直弼暗殺後もしぶとく彦根藩に留まり100石加増されたが、島田左近の斬殺で空気が一変、彦根藩士らは藩主井伊直憲に強訴して長野を禁固し牢内で縛り首(庶民刑)にした。2年後に成就した和宮降嫁(公武合体策)の発案者は長野主膳であったという。

高杉晋作は、吉田松陰の枠を超えた「防長割拠論」を実践し庶民軍の奇兵隊を創設して洋式軍備を拡充、功山寺挙兵で佐幕政権を覆し薩長同盟で背後を固め第二次長州征討の勝利で幕威を失墜させた長州維新の英雄である。維新直前に早世し他藩や朝廷との交流に批判的だったことから知名度は「維新の三傑」に及ばないが、高杉晋作なくして長州藩の復活は無く、薩長同盟の形で討幕が実現することも無かった。高杉晋作は、松下村塾の師匠である吉田松蔭や尊攘派同志の枠から離れて独創的な「防長割拠論」を唱え、討幕戦に備えて洋式軍備の導入に取組み、日本初の近代的民兵組織である奇兵隊などの諸隊を創設した。同志が公武周旋や過激な攘夷論に浮かれるなか、一人冷静に現実を見据えていた。「松下村塾の双璧」と並び称された久坂玄瑞は、吉田松陰から受継いだ「草莽崛起論」に則り諸国の志士と提携して京都政局で破約攘夷運動を主導、孤立した高杉晋作は自暴自棄となったが、禁門の変で久坂は戦死し長州藩は朝敵となった。続く四国連合艦隊の襲来で窮地に陥った長州藩は高杉晋作を呼戻し、高杉は有利な条件で講和交渉を纏め、兵員不足を補うため庶民から徴兵して奇兵隊を創設、第一次長州征討が起ると伊藤博文・井上馨と共に徹底抗戦を叫んだが長州藩は幕府に恭順した。絶望した周布政之助は自決し俗論党(佐幕派)政権は正義派を弾圧し井上馨は瀕死の重傷、高杉晋作は筑前へ逃れたが、すぐに長府へ舞戻り奇兵隊などの諸隊に決起を呼掛け、応じたのは伊藤博文・前原一誠の手勢と中岡慎太郎ら遊撃隊(浪士隊)の90名のみだったが功山寺挙兵を断行した。三田尻で藩の軍艦3隻を奪い東山寺に転陣して馬関割拠の体制を固めると、解散を迫られた山縣有朋の奇兵隊など諸隊が呼応し大田・絵堂の戦いで長州藩正規軍を撃破した。高杉晋作は、奪回した政権を木戸孝允に譲渡し、逡巡する木戸の背中を押して薩長同盟を締結、第二次長州征討が起ると自ら最前線に乗込み大島口奇襲で緒戦を制し老中小笠原長行が守る小倉城を攻落して勝利を決定付けた。が、肺結核で動けなくなり「おもしろき ことをなき世を おもしろく」の辞世を遺し27歳で死去した。

久坂玄瑞は、吉田松蔭の妹文を娶った松下村塾の筆頭門人で「草莽崛起」を受継ぎ「破約攘夷」で中央政局をリードしたが八月十八日政変で突如瓦解し禁門で戦死、長州藩は朝敵にされ窮地に陥った。久坂玄瑞は、長州藩医の三男坊で幼少から英才を謳われ、熊本の宮部鼎蔵の勧めで吉田松陰に会い過激な攘夷論を披瀝したが空理空論と論破され学門に降り、1つ年長の高杉晋作と共に「松下村塾の双璧」と称された。吉田松陰の名代として江戸・京都へ出た久坂玄瑞は、梅田雲浜・梁川星厳の導きで中央政界へ乗出し、安政の大獄が起り吉田松陰は江戸で刑死したが、大老井伊直弼が斃れると先輩の木戸孝允・土佐藩の武市半平太と共に活発な尊攘運動を展開、和宮降嫁を幕府の謀略と糾弾して岩倉具視を退隠させ、長井雅楽の「航海遠略策」を幕主朝従と排撃し薩摩藩の島津久光に対抗して長州藩論を「破約攘夷」へ転換、長州藩世子毛利定広と勅旨を奉じて幕府に攘夷を迫り、圧力に屈した徳川家茂は将軍として230年ぶりに上洛し朝廷に5月10日の攘夷決行を約束した。草莽崛起(全国志士の決起)を目指す久坂玄瑞は、長州藩の外国船砲撃で天下に攘夷決行の実を示し(下関事件)「光明寺党」を率いて奮戦するも米仏軍艦に惨敗、京都へ戻り討幕含みの攘夷親征計画(大和行幸)を策動するが八月十八日政変で一夜にして瓦解した。朝敵とされた長州藩では藩主の上洛釈明・出兵論が沸き起り、木戸孝允・高杉晋作・周布政之助は自重論を唱えたが、久坂玄瑞は来島又兵衛・真木和泉らと強硬論を唱え参預会議瓦解を機に即時出兵を断行、池田屋事件で激発した長州藩は京都御所を攻めたが西郷隆盛率いる薩摩軍の参戦で大敗し首謀者の久坂玄瑞・入江九一・来島又兵衛・真木和泉は戦死した。続く第一次長州征討・四国連合艦隊との馬関戦争で長州藩は存亡の危機に陥り久坂玄瑞の野望は費えたが、久坂の「草莽崛起」を批判し続けた高杉晋作が奇兵隊・諸隊を率いて政権を奪回し薩長同盟して討幕を実現した。明治維新後、西郷隆盛は木戸孝允に「お国の久坂先生が今も生きておられたら、お互いに参議だなどといって威張ってはおられませんな」と語ったという。

久坂玄機は緒方洪庵の適塾の塾頭を務め長州藩の医学所好生堂の都講に迎えられた秀才であったが、20年年下の弟久坂玄瑞は吉松淳蔵の家塾(高杉晋作も机を並べた寺子屋)を振出しに藩校明倫館・医学所好生堂へ進み玄機に劣らない英才と評判が高く、16歳の頃には一端の志士となり九州の志士を歴訪した。熊本で宮部鼎蔵に会い吉田松陰を激賞された久坂玄瑞は、生意気にも先ず書簡を交わして松蔭の見識を量ろうとし「元寇の北条時宗に倣い外国使節を斬るべし」という過激な攘夷論を披瀝、松蔭は内心では久坂の非凡を認めつつも「上っ調子で思慮浅く、実践を考えない空理空論」と突返した。久坂は食下がり書状の応酬が数回あったが「それなら攘夷をやってみろ、出来ないなら大言壮語に過ぎないではないか」と論破され、襟を直して松下村塾の門人となった。吉田松陰は末妹の文を娶わせるほどに久坂玄瑞を評価し、多才と行動力を認めたが「志壮気鋭、これをめぐらすに才をもってす」と評し才に頼りすぎる性質や多才故に多岐に流れることを懸念した。一方、吉田松蔭は高杉晋作の頑質を長所ととらえ、門人中第一の秀才であった久坂玄瑞を大いに持上げることで高杉の負けじ魂を刺激し学問に熱中させ、高杉は生来の独創性に学問知識を加えて久坂と共に「松下村塾の双璧」と称されるまでに成長した。木戸孝允は高杉晋作が強情で独善的な人間になる恐れがあると危惧し矯正を勧めたが、吉田松蔭は「角を矯めて牛を殺す結果になることを恐れる。十年放っておけば必ず成長するので大丈夫」と放任教育を続けた。晩年の吉田松陰は師弟の関係を超え同志として高杉晋作を頼りにし、松下村塾生は過激で唯我独尊な高杉を離れ牛(繋がれていない牛)と評し畏怖した。

高杉晋作は身長160cm足らずの痩型であばた面、音楽や作詞も上手い享楽的な性格ながら政治姿勢は内向的だったのに対し、久坂玄瑞は身長180cmの堂々たる体躯で丸顔できりっとしまった美男子、声もよかったといい、活発に他国人と交流し中央政界を席巻した。西郷隆盛・大久保利通・武市半平太も揃って大柄であり、他国周旋には押出しも重要だったのだろう。久坂玄瑞と共に長州藩の周旋役に任じた木戸孝允も170cm以上あり、若い頃は練兵館(神道無念流)の塾頭を務め他藩にも聞こえた剣豪で筋骨隆々、幕末屈指の男前で京都芸妓の垂涎の的だった(木戸は維新後に芸妓幾松と結婚)。写真や評伝をみる限り、木戸孝允と土方歳三が幕末美男の双璧か。因みに幕末京都において、長州人は藩の公金で豪遊し金離れが良かったので人気があり、朴訥でケチな薩摩人や会津人は不人気、艶聞は長州系に集中している。

農民出身の伊藤博文は、16歳のとき作事吟味役の来原良蔵が相模警備に赴く際に下働きとして召抱えられ、長崎出張にも随行した。来原良蔵は後に禁門の変で暴発する来島又兵衛の盟友で尊攘派同志の吉田松陰を伊藤に紹介、翌年伊藤は松下村塾に入門し立身出世の手掛りを掴んだ。少年期にまともな教育を受けていない伊藤博文は松下村塾の劣等生で、吉田松陰から「才劣り、学幼し」と酷評されたが、図太さと交際術で「利助(伊藤)もまた進む。なかなか周旋家となりそうなり」と評価を上げた。来原良蔵は伊藤博文を世に出すため義兄の木戸孝允を紹介、木戸は松蔭門下の伊藤を雇人とし藩の文武修行道場「有備館」に就学させ他藩同志との連絡係に使った。木戸孝允の江戸出向に随い志士グループの末席に連なった伊藤博文は、長州藩の外交官で運動資金が潤沢な木戸のオコボレに預り、不自由無い小遣いを与えられ品川遊廓で遊びも覚えた。手柄に飢えた伊藤博文は、長井雅楽暗殺の企てに名乗りを上げて久坂玄瑞・高杉晋作に認められ、神奈川外人襲撃計画およびイギリス公使館焼き討ちに加わり、和宮降嫁で尊攘派に睨まれた塙次郎を親友の山尾庸三と共に暗殺した。尊攘派の「正義党」が公武合体派の長井雅楽を自害させ長州藩の実権を握ると、一端の志士と認められた伊藤博文は「主人」木戸孝允の計いで一代限りながら士分に採り立てられ念願の武士身分を手に入れた。吉田松陰の処刑時に運良く江戸に居た伊藤博文は木戸孝允に従い小塚原刑場に赴いて遺骸を仮埋葬し、5年後の高杉晋作による世田谷若林への改葬にも参加(松蔭神社)、偉大な師匠を葬ったことで一層箔が付いた。

戊辰戦争を後方任務で終えた伊藤博文は、木戸孝允の推挙で明治政府に出仕し、英語力を買われて外国事務掛・外国事務局判事・兵庫県知事を歴任したが、賞典禄を与えず「いつまでも家人扱いする」木戸から離反、岩倉使節団で外遊中に大久保利通の腹心となり、帰国すると西郷隆盛ら征韓派の追放に奔走し明治六年政変で参議に採用された。なお山縣有朋は、山城屋事件の大恩人西郷隆盛と長州閥首領の木戸孝允の板挟みとなり鎮台巡視の名目で東京から脱出、保身は果したものの参議就任を見送られた。独裁政権で富国強兵・殖産興業を推進した大久保利通が暗殺されると、後継者の伊藤博文と大隈重信が政権を担ったが、開拓使官有物払下げ事件を機に薩摩閥と結んで大隈一派を追放し(明治十四年政変)伊藤が薩長藩閥政府の首班となった。薩長の「超然主義」の限界を悟った伊藤博文は、国会開設の詔で民権派との協調を図り、立憲制視察のため自ら渡欧、華族令で貴族院の土台を整え、1885年太政官制を廃して内閣を創設し初代総理大臣に就任、3年で薩摩閥の黒田清隆に首相を譲り憲法起草に専念し1889年大日本帝国憲法を制定、翌年公約どおり帝国議会開催に漕ぎ着けた。憲法で伊藤博文は三権分立を確保したものの、山縣有朋ら軍閥と妥協するため軍事権(統帥権)を天皇独裁としたため文民統治の機能が欠落、山縣と陸軍長州閥は軍部大臣現役武官制で倒閣力まで手に入れ軍国主義化に邁進した。二度目の組閣で伊藤博文は、アウトローの陸奥宗光を外相に抜擢し不平等条約改正に成功、国土防衛線の朝鮮を守るため日清戦争を敢行し勝利して下関条約を締結した。伊藤博文は第四次内閣を終えると政友会の西園寺公望に政権を託したが、朝鮮・満州への南下政策を露にするロシアに対し井上馨と共に融和策(日露協商・満韓交換)を提唱、山縣有朋直系の桂太郎首相が日露戦争に踏切ったが、金子堅太郎を通じてアメリカを講和斡旋に引張り出し国難を救った。朝鮮を保護国化すると伊藤博文は自ら初代韓国統監に就き穏健な民政を図るも抗日運動で挫折、伊藤はハルビン駅頭で朝鮮人に射殺され翌年陸軍長州閥は韓国併合を断行した。

山縣有朋は、伊藤博文と同じく長州藩での立身は望むべくもない農民同然の出自で、青年時代までは槍術師範が精一杯の夢だったが、吉田松陰の松下村塾に入門し木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら正義党の末端に加わったことで大きく運が開けた。吉田松陰から「小助(山縣)の気・・・才というべし」「しかれども大識見、大才気のごとき、おそらくはまたここに在らず」と評された山縣有朋は武人を志し、久坂玄瑞の光明寺党に加わって馬関戦争で奮闘し、高杉晋作が創設した奇兵隊の幹部(軍監)となった。高杉晋作から奇兵隊総督(トップ)を譲られた河上弥市は生野の変で戦死し、後任の赤根武人は俗論党政府に懐柔され失脚(最期は刑死)、軍監の山縣有朋が幸運にも奇兵隊の実質上のトップに納まった。長州藩政よりも奇兵隊と保身が大事な山縣有朋は、高杉晋作の功山寺決起で日和見を決め込んだが、高杉が敗れれば奇兵隊ら諸隊の解散が確実な情勢となり長州藩正規軍の不意を衝いて参戦、大田・絵堂の戦いを勝利に導き藩政奪回の功労者となった。が、力士隊30人を率い功山寺決起から参戦した伊藤博文に対する負目は伊藤が没するまで拭えなかった。長州藩の軍権を担った大村益次郎は軍制改革と洋式軍備導入で近代的軍隊に改造し、奇兵隊など諸隊を組込んだ長州軍は第二次長州征討で幕府軍を撃退し戊辰戦争の主力として活躍、指揮官の山田顕義・前原一誠・山縣有朋は揃って賞典禄600石を賜った(大村は1500石)。が、維新の翌年に大村益次郎が暗殺され、次席の前原一誠兵部大輔は黒田清隆と衝突して下野し萩の乱で敗死、大村の愛弟子でフランス流市民軍を構想した山田顕義は一派と共に自滅し、長州軍人首領の座は山縣に転がり込んだ。さらに幸運は続き陸軍大将の西郷隆盛が明治六年政変で下野すると次席の山縣有朋中将が全陸軍のトップに浮上、篠原国幹・村田新八・桐野利秋らライバルの薩摩軍人は西南戦争で揃って戦死した。山縣有朋は桂太郎・児玉源太郎・寺内正毅・田中義一ら自派幕僚で陸軍中央を固め陸軍長州閥に君臨、文治派の伊藤博文と張り合いながら軍国主義政策と民権派弾圧を推進した。

木戸孝允(桂小五郎)は、吉田松陰・久坂玄瑞・高杉晋作の遺志を継ぎ薩長同盟して討幕を仕上げた長州藩首領にして「維新の三傑」、明治維新後3年で最難関の廃藩置県を成遂げ憲法制定を志したが大久保利通と対立し西南戦争の渦中に病没した。先を見通す識見に優れ、久坂玄瑞と「破約攘夷」運動を主導したが池田屋事件・禁門の変を間一髪で生延び、明治政府ではリベラルな政策を牽引した。木戸孝允は、長州藩医の和田家に生れ中級藩士桂家に入嗣、藩校明倫館で俊秀を謳われ兵学教授の吉田松陰に兄事した。幼少から剣術に打込み、19歳で江戸四大道場の練兵館に入門すると翌年には免許皆伝、塾頭・師範代を任され剣名を馳せたが、ペリー来航で国事に目覚め江川坦庵や中島三郎助から海外知識を習得した。長州藩に出仕した木戸孝允は、大村益次郎を招聘して洋式軍制改革を推進し、久坂玄瑞と共に「航海遠略策」の長井雅楽を斃して藩論を「破約攘夷」へ転換し外国船砲撃(下関事件)や攘夷親征計画(大和行幸)を主導したが八月十八日政変で一夜にして瓦解、周布政之助・高杉晋作と共に出兵論を抑えたが池田屋事件で決壊し禁門の変が勃発、久坂は戦死し長州藩は朝敵となった。開戦直前に失踪した木戸孝允は、変装して京都を脱出し但馬出石に潜伏、第一次長州征討・馬関戦争で長州藩が窮地に陥っても動かず、高杉晋作が藩政を奪回すると指導者に迎えられ、薩長同盟を結び討幕へ突進んだ。明治政府の首班に就いた木戸孝允は、「五箇条の御誓文」で民主主義を宣言し、版籍奉還・廃藩置県を断行、四民平等・学制制定で国民皆学の平等社会を実現し、奇兵隊など長州諸隊の反乱を断固鎮圧した。岩倉使節団から戻った木戸孝允は、教育・政体優先の立場から征韓論に反対し憲法制定へ動いたが、大久保利通と対立し台湾出兵に抗い下野、立憲を条件に参与に復帰すると立憲政体の詔書を発布し地方官会議を開いたが大久保の内務省に無効化され、病状が悪化した木戸は秩禄処分を機に大久保政府を去った。木戸孝允の予見通り特権を奪われた不平士族の反乱が続発し、西南戦争が起ると自ら鎮撫使を希望したが「西郷、もういい加減にせんか」の言葉を残し病没した。

周布政之助は、村田清風から受継いだ正義派の首領として俗論党や長井雅楽と戦い木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞ら吉田松蔭門下生を支援した長州藩執政、禁門の変の暴発を抑えられず絶望し自殺した。周布氏は毛利家譜代の名門益田氏の庶流で、禁門の変で引責切腹した家老の益田弾正は本家筋である。中級藩士の家督を継いだ周布政之助は、藩政改革を成功させた村田清風を尊敬し政治少年を集めて「嚶鳴社」を結党、14歳で出仕すると村田の腹心となり藩校明倫館の拡充などで長州藩主毛利敬親の信任を得て19歳にして政務役に大抜擢されたが、村田の死を機に椋梨藤太ら俗論党との政争が激化した。尊皇攘夷論者の周布政之助は、ペリー来航に際して武備主戦論を建言して採用され、蟄居中の吉田松陰を庇護し門人に便宜を図った。安政の大獄で暫し逼塞したが、大老井伊直弼の暗殺で尊攘派が台頭、長州藩は長井雅楽の「航海遠略策」で公武合体運動に乗出したが、主導権奪回を図る周布政之助は木戸孝允・高杉晋作・久坂玄瑞と連携して藩論を「破約攘夷」へ転換し長井を切腹に追込んだ。門閥重臣ながら過激行動を辞さない周布政之助は久坂らにとって得難い後ろ盾であった。久坂玄瑞に引きずられた周布政之助は、外国船砲撃による攘夷決行(下関事件)、高杉晋作による奇兵隊創設と大村益次郎の洋式兵制改革、攘夷親征計画(大和行幸)へと長州藩を導いたが八月十八日政変が起り一夜にして瓦解した。「無実」を晴らすべく長州藩では世子毛利定広の上洛を決定し出兵論が沸騰、周布政之助は、藩首脳で唯一人反対を貫き木戸孝允・高杉晋作と共に鎮撫に奔走したが池田屋事件で決壊、周布が逼塞に処された翌日来島又兵衛率いる遊撃軍が周防三田尻から先発した。禁門の変に敗れた長州藩は朝敵とされ徳川慶喜が第一次長州征討を発動、便乗した四国連合艦隊が馬関海峡に来襲し(馬関戦争)風前の灯となった長州藩は三家老・四参謀の死刑と五卿の追放を呑んで降伏恭順、出兵に反対した周布政之助は無罪ながら心折れて自決した。が、間もなく高杉晋作が功山寺で挙兵し奇兵隊など諸隊を率いて正規軍を撃破し椋梨藤太ら俗論党を一掃して藩政を奪回した。

吉田松蔭は、長州藩の要路に働きかけ松下村塾の門人を京都や江戸へ遊学に出した。高杉晋作が19歳で江戸遊学に出たとき、1歳年少の久坂玄瑞は京都で梅田雲浜・梁川星厳ら有名志士と結んで活躍中、江戸には木戸孝允・吉田稔麿・入江九一らがおり、伊藤博文や山縣有朋らの軽輩まで高杉の一足先に京都に上っていた。「松下村塾の双璧」たる高杉晋作は、父の高杉小忠太の反対で外遊を抑えられていたが、必死に説得しようやく許された。高杉晋作は喜び勇んで中央政界へ乗込んだが、長州藩や水戸藩の尊攘派志士達の議論は空論ばかりで取るに足りないと感じ期待を裏切られ意気消沈、吉田松蔭へは「真の忠義の士も真の英傑も一人もいない」と書き送り木戸孝允や久坂玄瑞にも反発した。

高杉晋作は、江戸伝馬町の獄舎に入れられた吉田松陰に差入れなどの世話をしたが面会は許されず、連座を危惧する父と藩庁の命令で長州へ発った10日後に松陰は斬首に処された。無念千万の高杉晋作は、「あせらずに、遠大な構えでやることです。まず遊学がすんだら結婚や士官のことは両親にまかせ、君側に仕えるようになれば、精一杯忠誠を尽くして君心を得ることです。その後正論正義を主張すべきです。だがそのとき禍がおこって失脚するでしょう。そのあと退いて学問をやりなおし、俗世間を超越した真の人物になれば、十年の後にはきっと大忠を立てる日がくるでしょう。」という吉田松陰の遺命に従って学問修養を志し、長州海軍の興隆を牽引すべく航海術習得のため萩の軍艦教授所に入学した。藩命により藩船丙辰丸の航海演習に乗組んだが、航海中に何らかの大失敗をしたらしく、江戸に着くとあっさり海軍を断念し文学と剣術修行に切替え江戸滞留を願出て許された。高杉晋作は大いに不面目を恥じたが、海軍経験は後の四境戦争における大活躍に少なからず寄与した。江戸を早々に退去した高杉晋作は、水戸の加藤有隣・信州松代に蟄居中の佐久間象山・福井の横井小楠を歴訪して萩へ戻り、猛然と読書に励みつつ藩校明倫館の都講・長州藩世子毛利定広の小姓役に就任した。横井小楠の『国是三策』は外国との戦争を覚悟して富国強兵に努め海軍力の充実を図るべしという理論で、高杉晋作は持論の「防長割拠論」「開国武備」「大攘夷」の正当性を確信した。高杉は横井を「唯一無二の士」と評価し明倫館学頭に推挙したが実現せず、代わりに水戸の加藤有隣を明倫館教授に招聘した。

久坂玄瑞は長州藩へ『廻瀾條議』を上書、相手国との戦争を覚悟のうえで幕府に条約破棄を迫るよう提言し、長井雅楽の処罰、吉田松陰の遺骸を改葬して忠烈節義を顕彰すること、キリスト教会の廃止、御殿場公使館の撤去なども提案した。久坂は『廻瀾條議』を朝廷へも披瀝し、安政の大獄以来幕府に処刑された志士の改葬が許された。江戸に居た高杉晋作は、伊藤博文・赤根武人・山尾庸三を伴い小塚原刑場に仮葬された吉田松陰の遺骸を掘出し世田谷若林の毛利家地所に葬った(後に松蔭神社となる)。

横井小楠は、開国通商・民主主義の開祖と呼ぶべき天才思想家で、吉田松陰・高杉晋作・西郷隆盛・勝海舟らを教化し、坂本龍馬の「船中八策」や愛弟子の由利公正が起草した「五箇条の御誓文」は「国是七条」「国是十二条」など横井著作の焼直しである。熊本藩士の次男に生れた横井小楠は、立身のため猛勉強して藩校時習館の優等生となり江戸へ遊学、吉田松陰・藤田東湖・川路聖謨らと交流したが酒乱で喧嘩騒ぎを起し熊本へ召還された。横井小楠は水戸学・尊攘論に染まったが、経世済民を重視する実学へ転じ、一を聞いて十を知る頭脳は『海国図志』や勝海舟の米国談から国際情勢を理解し開国通商・殖産興業・富国強兵・民主主義に開眼、さらに「西洋列強は実業の学ばかりで心徳の学がないから戦争の止む日がない」と看破し日本は富国強兵を果し平和主義のアメリカと共に(横井はワシントンを尊敬し自宅に肖像画を飾った)道義をもって国際平和を牽引すべしという崇高な国連思想に到達した。佐久間象山と並称された横井小楠は、熊本藩に開国論を説くも宮部鼎蔵ら尊攘派の旧同志からも憎まれ失脚した。が、私塾「小楠堂」には藩内外から門人が参集し、三寺三作を介して福井藩の松平春嶽に招聘され政治顧問に就任、春嶽は宿願の藩校再興(明道館)を果し横井に託した。安政の大獄で松平春嶽は松平茂昭への藩主交代を強いられ橋本佐内は処刑されたが井伊直弼暗殺で復活、公武合体運動に乗出し薩摩藩・島津久光の文久の改革で幕府中枢に入った。謀臣の横井小楠は西郷隆盛ら志士と交流し、勝海舟・坂本龍馬の神戸海軍操練所に福井藩から資金提供した(横井の甥二人が入学)。が、徳川慶喜の専横を持余した松平春嶽は政治総裁職を投出し福井に帰国、横井小楠は「士道忘却事件」(刺客に襲われ友人を置去りにして逃走)で苦境に陥り、主従は乾坤一擲の「挙藩上洛計画」で巻返しを図るも中根雪江ら守旧派の反対で挫折、横井は熊本藩に連戻され士籍剥奪・知行召上げに処された。熊本に隠棲するも松平春嶽らの援助で生延びた横井小楠は、由利公正と共に明治政府の参与に徴され念願の「国師」となったが、間もなく京都寺町で攘夷狂に暗殺された。

適塾は、蘭学者・医者として高名な緒方洪庵が大坂に開いた私塾で、1838年から1868年までの間に600人以上が学んだ。「血尿が出るほど」の猛勉強で知られ、大村益次郎・橋本左内・福澤諭吉・大鳥圭介・箕作秋坪(三叉学舎創立者)・佐野常民(日本赤十字社初代総裁)・本野盛亨(読売新聞社創業者)・手塚良仙(手塚治虫の曽祖父)・久坂玄機(玄瑞の兄)など、幕末維新期をリードする偉材を多く輩出した。大阪大学医学部の前身とされる。大村益次郎と福澤諭吉は共に適塾で塾頭を務めた大秀才だが就学時から反りが合わず、過激な攘夷屋を嫌悪し逸早く英語教育に目を着け文明開化のカリスマとなった福澤諭吉と、長州藩・明治政府で軍政の指導者となった大村益次郎(尊攘運動には距離を置いた)、二人は出発点を同じくしながら対照的な出世コースを辿った。大鳥圭介は、適塾を出てジョン万次郎に英語を学び尼崎藩・徳島藩に出仕、幕府の蕃書調所に招聘され日本初の合金製活版を作った(大鳥活字)。ここまでの経歴は同じ村医(庶民)の出自で宇和島藩を経て蕃書調所・講武所教授へ進んだ大村益次郎と同様だが、幕府に留まった大鳥は陸軍幹部となり、江戸開城の日に伝習隊を率いて江戸を脱走、新撰組の土方歳三らと共に北関東から会津へ転戦し仙台で幕府軍艦を率いる榎本武揚に合流して五稜郭へ入り陸軍奉行として函館戦争を戦った。大鳥圭介の人格と才能を惜しむ大村益次郎と福澤諭吉は赦免工作に努め、特赦で出獄した大鳥は明治政府に出仕、軍務には就けなかったが開拓使・工部省の技術官僚を経て日清戦争直前に駐清国特命全権公使・朝鮮公使を努め枢密顧問官・男爵に叙された。津山藩出身の箕作秋坪は、緒方洪庵の適塾に学んで洋学の権威となり、明治維新後に東京で三叉学舎を開いた。三叉学舎は福澤諭吉の慶應義塾と並び称された洋学塾で、東郷平八郎・原敬・平沼騏一郎(津山藩出身)らを輩出した。

緒方洪庵は、種痘を広めた蘭方医にして「適塾」から大村益次郎・福澤諭吉・橋本左内・大鳥圭介らを輩出した大教育者である。政治への影響では討幕の原動力となった吉田松陰の「松下村塾」に及ばないが、純粋な学問的成果において緒方洪庵の適塾は際立っており、日本庶民に学問による立身出世の夢を与えた。備中足守藩の下級藩士の三男に生れた緒方洪庵は、虚弱体質のため武士を諦め16歳で大坂の中天游に入門、江戸で坪井信道や宇田川玄真(玄随の養子)に学び長崎でオランダ人医師ニーマンに師事して西洋医学を修めた後、大阪で町医者を開業し蘭学塾「適々斎塾(適塾)」で後進の指導にあたった。緒方洪庵のオランダ語の読解・翻訳力は抜群で、多数の秀才が適塾に入門したが誰も敵わなかったといわれる。が、思考が柔軟で偏見に捕われない緒方洪庵は、門人の箕作秋坪から高価な英蘭辞書を購入して英語学習に取組み、本業では漢方医学も積極的に取入れた。適塾はスパルタ教育で知られ、門人は寝食を惜しみ「血尿が出るほど」猛勉強に励んだが、緒方洪庵はしばしば花見や舟遊びに連れ出し、歌会を開いて得意の和歌を披露、学習態度には厳格でしばしば叱責したが笑顔で諭すのが常で決して声を荒げたことは無かったという。緒方洪庵は医師としても活躍した。幼少期に天然痘に罹患した緒方洪庵は、「人痘法」で患者を死なせたことを悔やみ、佐賀藩を通じてイギリスのジェンナーが発明した「牛痘接種法」を導入、「牛痘を打つと牛になる」といった無知と戦いながら大阪と備中足守に「除痘館」を設置し幕府の理解を促しつつ普及に努めた。コレラが流行すると治療の手引書『虎狼痢治準』を出版し医師に配布している。江戸幕府は「名医」緒方洪庵を招聘、健康不安を抱える緒方は逡巡するも断り切れず奥医師兼西洋医学所頭取を引受け将軍徳川家茂の侍医として法眼の地位を与えられた。医師の極冠に栄達した緒方洪庵だったが、堅苦しい宮仕えに馴染めず、攘夷派志士の襲撃を心配する不安な日々を送り、僅か1年後に54歳で病没した。

広瀬淡窓が天領の豊後日田に開いた咸宜園は、身分性別を問わず入門を認め1805年から1887年の閉鎖までに4800人が学んだ日本最大級の私塾で、門下から高野長英・大村益次郎・清浦奎吾などを輩出した。広瀬自身は儒学者・漢詩人であったが、数学・天文学・医学などの講義も行った。藩校は諸藩にあったが庶民の教育機関は村の寺子屋しかなく高等教育機関は画期的であった。