
きし のぶすけ
岸 信介
1896年~1987年
100
点
戦前は満州国の統制経済を牽引し東條英機内閣の商工大臣も務めた「革新官僚」、米国要人に食込みCIAから資金援助を得つつ日米安保条約の不平等是正に挑んだ智謀抜群の「昭和の妖怪」
同じ時代の人物

基礎点
80
点
「謎の発病」で退陣した石橋湛山に代わり自民党総裁を引継いだ岸信介が組閣した。「昭和の妖怪」岸信介は謎が多く真意が見えにくいが、アメリカの一枚上手を行く稀有な政治家であった。戦前の岸信介は統制経済を牽引した「革新官僚」で満州国総務庁次長として「弐キ参スケ」に数えられ、東條英機内閣の商工大臣を務めたことでA級戦犯容疑で投獄された。しかし獄中で岸信介が予見した通り東西冷戦に伴うアメリカの対日政策変更で不起訴のまま釈放され、1951年公職追放解除で政界に復帰した。社会党に拒まれた岸信介は実弟の佐藤栄作を頼り自由党に入るも吉田茂の従米路線に反対し除名処分、反吉田勢力が結党した日本民主党に加わり鳩山一郎総裁・重光葵副総裁に次ぐ幹事長に就任した。一方、岸信介は米国要人にも人脈を広げ国務長官・CIA長官のダレス兄弟と親密になりアイゼンハワー大統領にも食込んだ。1955年「保守合同」に際しダレス国務長官は保守政党への財政支援を示唆しCIAから巨額の資金が供与されたが(200万ドルとも1000万ドルとも)、受取り手の中心は岸信介であった。従米派とみられた岸信介首相はアメリカの期待に応え再軍備を推進したが、「戦前の大日本帝国の栄光を取り戻す」べく日米安保条約の不平等是正に挑みアジア重視の外交政策(外交三原則)に取組んだ。アイゼンハワー大統領は「安保改定」に理解を示したが米軍とCIAは岸信介政権を危険視し、池田勇人・三木武夫ら自民党従米派と「安保闘争」の妨害で本丸の日米行政協定には踏込めずに終わった。「新安保条約」成立直後に岸信介内閣は退陣したが安保闘争も忽ち終息、「学生運動指導者らに確たる目的はなく、従米派の政治家・財界人・新聞各社が岸信介内閣打倒のために仕掛けた扇動工作」との説が説得力を持った。岸信介は新安保の有効期限を10年に区切り以降は1年前予告で破棄できる条項をねじ込み「真の独立」を次代へ託したが、佐藤栄作以後の内閣は不変更新を続ける。2015年安倍晋三内閣は「集団的自衛権」を合法化したが、祖父の岸信介が目指した双務的体裁の実質化・米軍撤退・軍事的独立への再挑戦と信じたい。
10
点
岸信介は「昭和の妖怪」の渾名どおり常人には善悪の判別が難しいキャラクターだが、天才的智謀と愛国的信念の持主であったと思われる。戦前の岸信介は「革新官僚」の中心人物として統制経済を提唱し、「国家総動員体制」の陸軍統制派や「大政翼賛会」の近衛文麿首相と同志的関係にあり、東條英機内閣で商工相に補されたが、敗戦が決定的になると閣内不一致で東條内閣を退陣へ追込んだ。岸信介が満州国で行った壮大な実験的経済政策は成功を収め、戦後「傾斜生産方式」に代表される官僚主導の計画経済へ受継がれ日本復興の原動力となった。「開戦内閣」閣僚の岸信介はA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収監されたが、獄中にあってソ連の機関紙『プラウダ』などを入手して情報分析に励み、東西冷戦の激化に伴うアメリカの対日占領政策の変化を正確に予見していた。岸信介は『獄中日記』に「冷戦が起り始めている。このまま米国とソ連の対立が進めば、米国は自分を使いにくるだろう」と書き留め、後年「冷戦の推移は、巣鴨でのわれわれの唯一の頼みだった。これが悪くなってくれば、首を絞められずにすむだろうと思った」と述懐している。公職追放解除で政界復帰を果した岸信介は、米国要人に接近してアイゼンハワー大統領やダレス国務長官に食込み、CIAから巨額の資金援助を引出して「保守合同」を実現したが、首相に就任するとアメリカが嫌がるアジア重視の自主外交(外交三原則)を掲げ不平等安保の改定に挑戦した。猖獗を極めた「安保闘争」は岸信介内閣の総辞職で忽ち終息したが、打倒目標は日米安保条約より理解し難い岸首相個人だったのかも知れない。
10
点
従米派と見られた岸信介はアメリカの期待を担って組閣したが、首相に就任すると「国際連合中心・自由主義諸国との協調・アジアの一員としての立場の堅持」という「外交三原則」を掲げ自主外交に乗出した。岸信介は首相として初めて東南アジアおよびオセアニアの諸国を歴訪し、アメリカを刺激しかねない「東南アジア開発基金構想」を提唱した。岸信介首相の歴訪で戦争賠償問題は大きく前進しインドネシア・ラオス・カンボジア・南ベトナムと相次いで賠償協定を締結し国交回復を達成、日本政府が賠償額に相当する生産物やサービスを日本企業から調達し相手国に供与する方式を採ったため日本企業の東南アジア「再進出」にも道を拓いた。また岸信介首相は国際連合中心主義を実践し1958年日本は初めて国連安全保障理事会の非常任理事国となっている。岸信介は自民党きっての「親台湾派」「親韓国派」で退陣後も頻繁に両国を訪問、満州国以来旧知の朴正煕韓国大統領と池田勇人首相の間を取持ち日韓国交回復をサポートした。なお、軍事クーデターで発足した朴正煕政権は、国家予算を上回る日本の経済援助(日韓併合で同じ国だったので戦争賠償はありえない)で韓国経済を再建し李承晩が敷いた無闇な反日原理主義を改め本来の敵である反共反北へ舵を切ったが、盧泰愚の失脚で真当な軍事政権は終わり、金泳三以後の親北政権は教育により反日をエスカレートさせ「従軍慰安婦」と「靖国参拝」に特化した朴槿恵(父朴正煕の親日政策を自己批判)の反日専門政権へ至る。

1896
年
山口県庁官吏(酒造業に転身)佐藤秀助の次男佐藤信介(岸信介)が吉敷郡山口町にて出生(佐藤栄作は実弟)
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1910
年
佐藤秀助(婿養子)が次男の岸信介を実家岸家の養子に出す
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1912
年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
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1914
年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1917
年
イギリスの強要により日本海軍の艦隊が地中海へ出動
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1919
年
岸信介が岸良子と結婚し岸家を相続
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1920
年
岸信介が東京帝国大学法学部法律学科(独法)を卒業し農商務省出仕
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1922
年
山縣有朋死去
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1924
年
佐藤栄作が東京帝国大学法学部法律学科(独法)卒業、親戚の松岡洋右の引きで鉄道省に入省し門司鉄道局等勤務
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1925
年
日ソ基本条約調印、国交樹立
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1925
年
農商務省が商工省と農林省に分割、岸信介は商工省配属
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1926
年
幣原喜重郎外相が英米からの中国派兵要請を拒否
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1926
年
岸信介が1年間の欧米出張
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1926
年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
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1927
年
蒋介石軍が南京の日英領事館襲撃(南京事件)、対中国不干渉方針の幣原喜重郎外相が「軟弱外交」の批判を浴びる
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1929
年
岸信介が商工大臣官房文書課長任官
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1932
年
斎藤実内閣が満州国を承認
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1932
年
国際連盟ジュネーブ特別総会開幕、松岡洋右首席全権の対外硬演説に日本大衆が沸く
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1935
年
岸信介が商工省工務局長任官
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1936
年
商工官僚の岸信介が満州国国務院へ転出し統制経済を牽引
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1937
年
日本軍が北京・天津・上海を攻略(第二次上海事変)
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1937
年
近衛文麿内閣が統制経済推進のため企画院を開設
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1937
年
日本軍が国民政府の首都南京を占領
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1939
年
ドイツ軍がポーランド侵攻、英仏が独に宣戦布告し第二次世界大戦勃発
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1939
年
岸信介が満州から帰国し商工次官に就任
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1939
年
企画院事件発生、岸信介ら革新官僚が赤化思想として糾弾される
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1940
年
イタリアが英仏に宣戦布告
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1941
年
アメリカがレンドリース法を成立させ連合国へ大規模軍事支援開始
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1941
年
企画院事件で小林一三商工相と岸信介商工次官が対立し両者辞任(後任商工相は豊田貞次郎)
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1941
年
アメリカが在米日本資産を凍結し英蘭らも追随
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1942
年
日本軍が香港・マニラ・シンガポールを攻略
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1942
年
翼賛選挙、岸信介商工相が衆議院議員初当選(~1943)
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1943
年
谷正之に代わり重光葵が外相就任
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1943
年
ムッソリーニのイタリアが早々に連合国に降伏
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1943
年
商工省が軍需省へ改組され東條英機首相が軍需相兼任、岸信介商工相は国務大臣兼軍需次官に降格
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1945
年
昭和天皇・マッカーサー会談(以後11回)
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1945
年
マッカーサーが日本軍の武装解体完了を宣言
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1945
年
国際連合発足
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1945
年
日本社会党(片山哲書記長)・日本自由党(鳩山一郎総裁)・日本進歩党(町田忠治総裁)の結党が相次ぐ
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1945
年
陸軍省・海軍省が復員省に改組され700万人以上の復員軍人を処理
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1945
年
衆議院議員選挙法改定(婦人参政権容認)、「GHQ解散」
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1945
年
ハリー・S・トルーマン(共和党)が米大統領就任(~1953)
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1945
年
ドイツが連合国に降伏
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1945
年
玉音放送
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1945
年
東久邇宮稔彦王内閣(公家)発足、重光葵が外相就任(吉田茂に途中交代)
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1945
年
GHQが陸海軍解体指令
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1946
年
天皇の「人間宣言」(神格否定の詔書公表)
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1946
年
GHQが日本政府から沖縄施政権を剥奪
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1946
年
GHQが幣原喜重郎内閣の第一次農地改革法案を拒否し徹底的改革を命令
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1946
年
インフレ抑制のため預金封鎖・新円切替を断行
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1946
年
新選挙法による初の衆議院総選挙で鳩山一郎の自由党が勝利(初の女性議員39名が誕生)
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1946
年
GHQが自主路線の鳩山一郎を公職追放し第一党自由党の後継総裁に吉田茂が就任
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1947
年
佐藤栄作が運輸次官就任
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1947
年
トルーマン米大統領が「トルーマン・ドクトリン」発表(ギリシア・トルコへの支援表明により共産主義勢力と戦う決意を示唆)
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1947
年
総選挙、片山哲の社会党が第一党に躍進
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1947
年
GHQ作成日本国憲法施行
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1947
年
マーシャル米国務長官が「マーシャル・プラン」発表(西欧諸国への復興援助表明により東西対立が先鋭化、ソ連はコメコン設立で対抗)
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1947
年
芦田均外相がアメリカ政府に米軍の「有事駐留」を提案し怒りを買う
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1947
年
昭和天皇がGHQに「沖縄の恒久的軍事占領が望ましい」と伝達
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1947
年
民法改正(夫婦平等・戸主権や長子相続権の廃止・自由結婚など)
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1948
年
李承晩と金日成の対立で米ソ合同委員会による南北朝鮮統一工作が破綻
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1948
年
佐藤栄作が運輸次官を辞任し吉田茂の引きで民主自由党入り
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1948
年
アメリカ軍政のもと大韓民国樹立宣言
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1948
年
ソ連が「ベルリン封鎖」を強行し冷戦緊迫化
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1948
年
ソ連共産党の指導下に金日成が朝鮮民主主義人民共和国樹立
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1948
年
GHQが日本解体方針を緩和し「経済安定九原則」発表
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1949
年
衆議院総選挙、吉田茂の与党民主自由党が単独過半数獲得
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1949
年
佐藤栄作(民主自由党吉田茂派)が山口2区から出馬し衆議院議員初当選(~1975)
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1949
年
池田勇人(民主自由党吉田茂派)が広島2区から出馬し衆議院議員初当選(~1965)
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1949
年
幣原喜重郎が衆議院議長就任(~1951)
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1949
年
第三次吉田茂内閣(民主自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、吉田茂が外相就任(岡崎勝男に途中交代)
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1949
年
北大西洋条約機構(NATO)発足
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1949
年
ソ連の核実験成功で東西冷戦が本格化
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1949
年
毛沢東の共産党が国共内戦を制し北京で中華人民共和国樹立を宣言、アメリカで日本再軍備(反共の防波堤)要請が一層高まる
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1950
年
中ソ友好同盟相互援助条約成立、アメリカで日本再軍備(反共の防波堤)要請が一層高まる
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1950
年
吉田茂首相が池田勇人蔵相・宮澤喜一秘書官を派米し米軍駐留継続と単独講和を申入れ
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1950
年
GHQと反共の吉田茂首相がレッド・パージを開始し約1万2千人を公職追放(逆コース)
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1951
年
自由党に鳩山一郎の派閥が起り吉田茂の主流派と勢力伯仲
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1951
年
講和条約の恩赦で重光葵ら戦犯受刑者が釈放される
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1952
年
岸信介が日本再建連盟結成
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1952
年
ロバート・D・マーフィー米大使就任(~1953)
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1952
年
自由党で吉田茂派と鳩山一郎派の溝が深まり吉田首相は抜打解散で対抗
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1952
年
衆議院総選挙、自由党が圧勝し鳩山一郎ら公職追放解除者が衆議院議席の42%を占める、岸信介の日本再建連盟は大敗
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1952
年
鳩山一郎への首相禅譲密約により第四次吉田茂内閣(自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、岡崎勝男が外務大臣就任
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1953
年
ドワイト・D・アイゼンハワー(共和党)が米大統領就任(~1961)
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1953
年
ジョン・フォスター・ダレスが米国務長官就任(~1959)、引き続き対日政策を主導
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1953
年
吉田茂首相が衆議院を「バカヤロー解散」、鳩山一郎・広川弘禅が分派し分党派自由党結成
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1953
年
右派社会党に入党を断られた岸信介が福田赳夫ら配下と共に佐藤栄作のツテで与党自由党に入党
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1953
年
岸信介(自由党)が山口2区から出馬し衆議院議員に当選(~1979)
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1953
年
ソ連に人類史上最悪の恐怖政治を敷いたスターリンが死去、フルシチョフがベリヤ・マレンコフを粛清し後継体制確立
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1953
年
第五次吉田茂内閣(自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、岡崎勝男が外務大臣就任
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1953
年
ジョン・M・アリソン米大使就任(~1957)
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1953
年
朝鮮戦争休戦、反動需要減に日銀の金融引き締めが拍車をかけ長期不況に陥る
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1953
年
鳩山一郎が分自党を解消し吉田茂の自由党に復党、三木武吉・河野一郎・石橋湛山らが離脱し日本自由党結成
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1953
年
岸信介が自民党憲法調査会会長に就任
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1953
年
奄美群島が本土復帰
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1954
年
アメリカの圧力により吉田茂政府が国家警察予備隊を常設軍隊「自衛隊」へ改組(陸上13万人・海上1万5千人・航空6千人)
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1954
年
吉田茂首相の自由党が従米路線に反抗する岸信介を除名
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1954
年
反抗勢力が日本民主党に合同し(鳩山一郎総裁・重光葵副総裁・岸信介幹事長)内閣不信任決議で吉田茂内閣を打倒
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1955
年
総選挙、鳩山一郎首相の民主党政権は絶対多数を獲得できず憲法改正を断念し対ソ外交に注力
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1955
年
アジア・アフリカ会議(バンドン会議)開催
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1955
年
ワルシャワ条約機構(WTO)発足
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1955
年
左右社会党統一(鈴木茂三郎委員長・浅沼稲次郎書記長、衆院156議席・参院69議席)
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1955
年
保守合同で自由民主党(鳩山一郎総裁・岸信介幹事長、衆院299議席・参院69議席)が発足し「55年体制」開始
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1956
年
フルシチョフの「スターリン批判」演説が西側に伝わり「雪どけ」機運高まる
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1956
年
日ソ国交回復を期す鳩山一郎内閣の河野一郎農相・重光葵外相らが相次いでモスクワ訪問
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1956
年
スエズ動乱(第二次中東戦争)でイスラエル軍が勝利するが米ソの支持を得たエジプトがスエズ運河を国有化
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1956
年
日本・フィリピン国交回復(賠償金1980億円・借款900億円)
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1956
年
謎の急病に倒れた石橋湛山首相に代わり岸信介外相が首相臨時代理を務める
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1957
年
鳩山一郎が自民党を離党し吉田茂派の佐藤栄作らが自民党復帰
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1957
年
ダグラス・マッカーサー2世が米大使就任(~1961)、日本政府をリード
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1957
年
欧州経済共同体(EEC)発足
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1957
年
岸信介首相が台湾の蒋介石を訪問し日華協力委員会を発足させ副会長就任
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1957
年
岸信介首相が「憲法は自衛のための核兵器保有を禁ずるものではない」と発言、自衛隊の軍備拡張計画(第一次防衛力整備計画)を承認
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1957
年
岸信介首相がインドネシアのスカルノ大統領を訪問し賠償交渉打開
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1958
年
日本が初めて国連安全保障理事会の非常任理事国となる
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1958
年
岸信介首相が個人特使の矢次一夫を韓国に派遣し李承晩大統領に国交回復を打診
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1958
年
総選挙、岸信介首相の与党自民党は大勝できず憲法改正を断念し安保改定に注力
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1958
年
岸信介内閣が「勤務評定問題」で日協組を攻撃し対立が深まる
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1958
年
岸信介内閣が警職法改正案(警察権限の拡大)を提出するが反対運動により廃案
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1958
年
毛沢東の「大躍進」政策で中国経済が壊滅し数千万人が餓死(~1960)
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1958
年
毛沢東が台湾侵攻を図るが米軍の抵抗で断念(台湾海峡クライシス)
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1959
年
鳩山一郎死去
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1959
年
ジョン・フォスター・ダレス米国務長官が病気により辞任
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1959
年
「大躍進」の大失敗で毛沢東が一時失脚し劉少奇・鄧小平が経済再建を始動
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1960
年
毛沢東の「修正主義批判」により中ソ対立が表面化(~1989)
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1960
年
韓国で「四月革命」が起り反日専門の李承晩大統領がハワイに亡命
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1960
年
安保闘争によりアイゼンハワー米大統領の訪日中止
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1960
年
岸信介首相が大野伴睦配下の右翼暴漢に刺され翌日内閣総辞職
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1960
年
ベトナム戦争勃発(~1975)、韓国などアジア諸国が派兵するなか池田勇人政府は軍事協力を拒否
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1961
年
ジョン・F・ケネディ(民主党)が米大統領就任(~1963)
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1961
年
エドウィン・O・ライシャワー米大使就任(~1966)、日米蜜月関係を演出し沖縄返還に奔走
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1961
年
朴正煕(岸信介の友人・朴槿恵の父)が軍事クーデターで韓国大統領に就き無闇な反日原理主義から反共へ路線転換
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1961
年
東ドイツが「ベルリンの壁」建設
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1961
年
朴正煕韓国大統領が来日し友人の岸信介が池田勇人首相との国交回復交渉をサポート
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1962
年
キューバ危機、フルシチョフ首相のミサイル撤去決断により核戦争回避
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1963
年
米ソ英が部分的核実験停止条約調印
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1963
年
安倍晋太郎が山口1区で落選し岳父の岸信介を慌てさせる
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1963
年
リンドン・ジョンソン(民主党)が米大統領就任(~1969)
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1964
年
警視庁が暴力団全国一斉取締り(「第一次頂上作戦」)を開始
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1964
年
マッカーサー死去
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1964
年
米軍の謀略でトンキン湾事件発生、北爆によりベトナム戦争激化
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1964
年
ソ連でフルシチョフが失脚しブレジネフ政権へ移行
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1964
年
中国が核実験に成功(米ソ英仏に次ぐ5番目の保有国)
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1965
年
日韓基本条約調印
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1965
年
池田勇人死去
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1965
年
日韓国交回復(無償供与1080億円・借款720億円・民間借款1080億円超)
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1966
年
政権奪還を図る毛沢東が文化大革命を発動し中国が内乱状態となる(~1976)
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1967
年
公害問題が深刻化し四大公害訴訟はじまる(水俣病・第二水俣病・四日市ぜんそく・イタイイタイ病)
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1967
年
安倍晋太郎(岸信介の娘婿)が衆議院議員復活当選
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1967
年
中国が水爆実験実施(米ソに次ぐ3番目の水爆保有国)
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1967
年
東南アジア諸国連合(ASEAN)発足
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1967
年
吉田茂死去
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1968
年
全共闘運動が全国の大学に広がる
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1968
年
小笠原諸島が本土復帰
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1968
年
米ソ英仏中を含む62か国が核拡散防止条約調印
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1968
年
日本のGDPがアメリカに次ぐ世界2位となる
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1969
年
リチャード・ニクソン(共和党)が米大統領就任(~1974)
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1969
年
朴正煕と親しい岸信介が日韓協力委員会を設立し会長就任
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1969
年
岸信介が佐藤栄作首相の要請で渡米しニクソン大統領と沖縄返還の下交渉
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1969
年
冷戦のデタント時代(~1979)
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1971
年
アメリカの支持により中国が国際連合に加盟(台湾中華民国は脱退)
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1972
年
岸信介の後継者で佐藤栄作首相が推す福田赳夫を田中角栄が破り自民党総裁選に勝利(角福戦争)
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1973
年
第四次中東戦争、エジプト・シリア軍の先制攻撃にイスラエル軍が大苦戦
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1973
年
愛知揆一の急死を受け福田赳夫が蔵相就任、総需要抑制政策への転換で田中角栄内閣の「日本列島改造論」が挫折
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1974
年
ジェラルド・R・フォード(共和党)が米大統領就任(~1977)
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1975
年
佐藤栄作死去、日本武道館で大隈重信以来の「国民葬」(葬儀委員長は田中角栄)
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1975
年
第1回先進国首脳会議(サミット)開催、米英仏日独伊が参加
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1976
年
毛沢東が死去し華国鋒が中国最高指導者を継承、四人組逮捕により文化大革命終結
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1977
年
ジミー・カーター(民主党)が米大統領就任(~1981)
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1977
年
カーター米大統領が在韓地上軍の削減を発表し米国の「アジア離れ」が始まる
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1977
年
第10期3中全会で鄧小平が復活し中共中央の実権を掌握
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1978
年
鄧小平が日中平和友好条約批准で訪日し昭和天皇と会談し新日鉄・トヨタ・松下電器等を視察
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1978
年
第11期3中全会で鄧小平指導部が文革否定・改革開放路線決定
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1978
年
「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」運用開始
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1978
年
自民党総裁選で現職首相の福田赳夫が田中角栄の支持を得た大平正芳(宏池会)にまさかの敗北
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1979
年
鄧小平が訪米し米中国交樹立、「米中対ソ」の対立構図が鮮明となる
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1979
年
ホメイニーのイスラム勢力が米英の傀儡パーレビ王朝を滅ぼし(イラン革命)第二次オイルショック発生
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1979
年
解散総選挙で与党自民党が大敗、福田赳夫が首相指名選に挑むが田中角栄の支持で大平正芳首相が防衛(四十日抗争)
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1979
年
岸信介が地盤を吹田愰に譲り政界引退(衆院選不出馬)
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1979
年
アフガニスタン紛争で米ソ衝突(~1989)、デタントが終焉し冷戦が激化
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1980
年
内閣不信任決議を受け大平正芳内閣が「ハプニング解散」総選挙
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1980
年
大平正芳首相が総選挙の最中に心不全で急死(享年70)、田中角栄の支持で大平派の鈴木善幸が自民党総裁を後継
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1980
年
ワインバーガー米国防長官の防衛費増額要請を鈴木善幸首相が拒否
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1980
年
イラン・イラク戦争勃発(アメリカによるイラン叩き)(~1988)
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1983
年
中曽根康弘首相が韓国の全斗煥大統領を訪問、アメリカの対韓経済援助40億ドルの肩代わり献金を決定
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1983
年
中曽根康弘首相が訪米し「不沈空母」発言が物議を醸すが訂正せず
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1985
年
レーガン米大統領とゴルバチョフソ連書記長がジュネーヴで会談し核軍縮協議を開始
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1985
年
ソ連でゴルバチョフが政権を掌握しペレストロイカ(再建)・グラスノスチ(情報公開)を断行
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1986
年
ソ連チェルノブイリ原子力発電所事故
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1987
年
岸信介が死去(享年90)
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東條英機
「弐キ参スケ」仲間・商工相として倒閣に加担
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星野直樹
「弐キ参スケ」仲間
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鮎川義介
同郷の遠縁で「弐キ参スケ」仲間
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松岡洋右
同郷の親戚で「弐キ参スケ」仲間
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石原莞爾
満州の先駆者
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板垣征四郎
満州の先駆者
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武藤章
暴走陸軍の謀主
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田中新一
暴走陸軍の謀主
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南次郎
東條派
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瀬島龍三
満州人脈
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笹川良一
満州人脈
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児玉誉士夫
満州人脈
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里見甫
満州アヘン王
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椎名悦三郎
満州人脈
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大平正芳
満州人脈
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近衛文麿
同志
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平沼騏一郎
同志
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小林一三
企画院事件で刺し違えた商工相
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木戸幸一
商工省の先輩・反東條の同志
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米内光政
反東條の同志
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岡田啓介
反東條の同志
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鈴木貫太郎
反東條の同志
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橋本欣五郎
反東條の同志
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北一輝
尊敬する右翼
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大川周明
尊敬する右翼
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上杉慎吉
右翼の師匠
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我妻栄
東大同窓の親友
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三輪寿壮
東大同窓の親友
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伍堂卓雄
商工省の先輩
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村瀬直養
商工省の先輩
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重光葵
偉大な先輩
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鳩山一郎
反吉田の領袖
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石橋湛山
気の毒な同志
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河野一郎
鳩山派の大番頭
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大野伴睦
池田後継指名で対立
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三木武吉
鳩山派の大番頭
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福田赳夫
後継者
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吉田茂
GHQの代理人
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岡崎勝男
重光から吉田に乗り換えた男
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幣原喜重郎
吉田の傀儡
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池田勇人
吉田の愛弟子
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佐藤栄作
実弟ながら吉田派
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田中角栄
福田のライバル
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竹下登
田中派簒奪者
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宮澤喜一
池田の秘書官
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大平正芳
池田の秘書官
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藤山愛一郎
「外交三原則」の外相
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安倍晋太郎
女婿
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安倍晋三
孫
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吹田愰
地盤の後継者
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グルー
ゴルフ仲間の米大使
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ワイナー
CIA人脈
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アレン・ダレス
親密な元CIA長官
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パケナム
『ニューズ・ウィーク』東京支局長・英語の先生
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カーン
親密な『ニューズ・ウィーク』東京支局部長
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トルーマン
米大統領
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アイゼンハワー
親密な米大統領
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マッカーサー
旧王
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ジョン・フォスター・ダレス
新王・好敵手
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クレーギー
米大使
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マーフィー
米大使
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アリソン
米大使
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ダグラス・マッカーサー2世
理解ある米大使
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ライシャワー
米大使
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蒋介石
親密な台湾総統
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蒋経国
親密な台湾総統
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李承晩
日本嫌い
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朴正煕
満州人脈
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スカルノ
国交回復
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