
よしだ しげる
吉田 茂
1878年~1967年
-20
点
強硬外交の「大陸派」から親英米派へ転じ戦後GHQの傀儡政権に君臨、「押付け憲法」・恒久的米軍駐留と膨大な経費負担・不平等安保条約を受容し戦後日本の従米路線を決定付けた貴族趣味の「ワンマン宰相」
同じ時代の人物

基礎点
0
点
吉田茂は、板垣退助の腹心竹内綱の妾腹の子で、横浜の貿易商吉田健三に入嗣し11歳で膨大な遺産を相続した。学業成績が冴えない吉田茂は学校を転々したが、学習院大学科の閉鎖に伴う無試験編入という裏口を使って東大法学部に潜り込み、28歳で外交官試験に合格した。吉田茂は中国領事など外務省の傍流を歩んだが、牧野伸顕伯爵(大久保利通の次男)の長女雪子と結婚し、岳父の威光でパリ講和会議の随員に加えられ1928年外務次官へ栄進、陸軍も顔負けの対中国強硬論で鳴らし(大陸派)幣原喜重郎・重光葵の「協調外交」と対立した。二・二六事件の直後、吉田茂は同志近衛文麿の命により広田弘毅(外交官同期の主席)の組閣に働き、本命の外相は逃したが同格の駐英大使に任じられた。駐英大使後任の重光葵は国際的に高い評価を得たが、吉田茂は貴族趣味に染まるだけで相手にされず1939年「待命」となり一線を退いた。牧野伸顕の影響もあり強硬外交から親英米派へ転じた吉田茂は、日独伊三国同盟に反対し、対米開戦後は早期講和を訴え東條英機内閣打倒に加担、1945年2月「近衛上奏文事件」に連座し憲兵隊に2ヶ月間拘置された。第二次大戦後、逮捕歴が「反軍部の勲章」となり吉田茂はウィロビー参謀第2部長から「窓口役」を仰せつかり、1954年までGHQ傀儡政権の外相・首相を占め「軍事は解体」「経済も解体」「民主化は促進」の占領政策を実行、日本国民にはGHQとの「対等」を演じ「ワンマン宰相」と畏怖された。重光葵・芦田均ら自主外交派が排除されるなか、吉田茂は日本一国を「俎板の上の鯉」の如く差出し、「押付け憲法」を受入れ、国家予算の2割を超す「戦後処理費」を献上し、講和条約と引換えに不平等な日米安保条約・行政協定を呑まされた。講和独立後も吉田茂は政権にしがみついたが、東西冷戦の本格化で日本の再軍備へ転じたアメリカに見捨てられ、再軍備・自主外交を掲げる鳩山一郎に政権を奪われた。しかし吉田茂の経済優先・外交従米路線は池田勇人・佐藤栄作・宮澤喜一らに引継がれ高度経済成長により「保守本流」に定着、アメリカが日本を「保護国」と呼ぶ状況は今も続く。
-20
点
第二次大戦後の重要期に通算2616日も首相を務めた吉田茂は、極端な従米路線を採ってGHQの命じるままに日本解体政策を実行し「押付け憲法」と米軍基地問題という今なお解決を見ない重大な禍根を残した。「占領下の日本政府などというものは、あってなきがごときもの」という状況でGHQに逆らうことは難しく吉田茂が反抗しても別の人間に挿げ替えられたに違いない。しかし吉田茂と同時期に、宿敵というべき重光葵は敢然と米軍基地撤退・駐留経費負担廃止を要求して非業の死を遂げ、後任首相の鳩山一郎と石橋湛山も対米依存脱却・自主外交を推進、強かな岸信介はCIAから保守合同の資金援助を引出しつつ首相に就くと日米安保条約・行政協定の不平等是正に挑んだ。さらに「吉田学校」の後継者でも、池田勇人は「経済自主」を掲げて対中貿易の道を拓き、佐藤栄作は沖縄返還に絡む「密約」問題でアメリカを激怒させ報復の「ニクソン・ショック」に遭難している。こう考えると吉田茂の単純明快な従順さは尋常ではなく、親友の近衛文麿首相と同様、重大局面に能弁なだけの腰抜けが政権を担当すると最悪の結果を招く好例となった。日本は高度経済成長に乗りアメリカに次ぐ経済大国へ発展を遂げたが、東西冷戦に伴うアメリカ自身の都合による対日政策転換と製造業者の努力の賜物であって吉田茂とは関係無い。返す返すも、戦後日本の針路を決める重大局面で「ワンマン宰相」吉田茂が登場したことは日本人にとって最悪の不幸であった。

1878
年
旧土佐藩士で民権土佐派幹部(板垣退助の腹心)竹内綱の妾腹の五男竹内茂(吉田茂)が東京神田駿河台にて出生
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1880
年
国会期成同盟結成、実父の竹内綱も参加
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1881
年
吉田茂が旧福井藩士で横浜貿易商の吉田健三に入嗣
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1889
年
吉田健三が死去、養嗣子の吉田茂は11歳で50万円(現在価値で20億円)もの遺産を相続
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1896
年
衆議院議員を1期で辞めた竹内綱(吉田茂の実父)が朝鮮に渡り京仁鉄道や京釜鉄道の経営に従事
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1904
年
吉田茂が学校を転々するが学習院大学科の閉鎖に乗じ無試験で東京帝国大学法科大学に編入
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1906
年
吉田茂が27歳で東京帝国大学法科大学政治科卒業
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1906
年
吉田茂が外交官試験(主席は広田弘毅)・領事官試験・文官高等試験に合格し外務省入省、領事官補として中国へ赴任
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1909
年
吉田茂が牧野伸顕の長女雪子と結婚しロンドン・イタリアへ出向
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1912
年
外交官傍流の吉田茂が安東領事・在米大使館・本省勤務・済南領事を転々
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1912
年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
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1914
年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1917
年
イギリスの強要により日本海軍の艦隊が地中海へ出動
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1921
年
重光葵が傍流のチャイナ・サービスを志願し上海総領事就任
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1922
年
吉田茂が天津総領事就任
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1925
年
日ソ基本条約調印、国交樹立
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1925
年
吉田茂が奉天総領事就任
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1926
年
幣原喜重郎外相が英米からの中国派兵要請を拒否
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1926
年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
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1927
年
蒋介石軍が南京の日英領事館襲撃(南京事件)、対中国不干渉方針の幣原喜重郎外相が「軟弱外交」の批判を浴びる
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1928
年
吉田茂が駐スウェーデン公使就任
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1928
年
吉田茂が岳父の牧野伸顕のツテで田中義一首相に対中強硬論(大陸派)を直訴し外務次官就任
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1930
年
重光葵が駐中国特命全権公使就任
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1930
年
吉田茂が駐伊大使就任
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1932
年
斎藤実内閣が満州国を承認
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1932
年
国際連盟ジュネーブ特別総会開幕、松岡洋右首席全権の対外硬演説に日本大衆が沸く
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1936
年
広田内閣成立の論功行賞で吉田茂が駐英大使就任
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1937
年
日本軍が北京・天津・上海を攻略(第二次上海事変)
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1937
年
イタリアが日独防共協定に参加
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1937
年
日本軍が国民政府の首都南京を占領
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1939
年
親英米派に転じた吉田茂が待命大使となり一線を退く
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1939
年
ドイツ軍がポーランド侵攻、英仏が独に宣戦布告し第二次世界大戦勃発
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1941
年
松岡洋右外相が南進から北進へ転じ対ソ開戦を主張
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1941
年
重光葵が駐中国(汪兆銘政権)大使就任
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1942
年
日本軍が香港・マニラ・シンガポールを攻略
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1943
年
谷正之に代わり重光葵が外相就任
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1943
年
ムッソリーニのイタリアが早々に連合国に降伏
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1945
年
ハリー・S・トルーマン(共和党)が米大統領就任(~1953)
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1945
年
ドイツが連合国に降伏
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1945
年
玉音放送
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1945
年
東久邇宮稔彦王内閣(公家)発足、重光葵が外相就任(吉田茂に途中交代)
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1945
年
GHQが陸海軍解体指令
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1945
年
昭和天皇・マッカーサー会談(以後11回)
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1945
年
マッカーサーが日本軍の武装解体完了を宣言
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1945
年
国際連合発足
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1945
年
日本社会党(片山哲書記長)・日本自由党(鳩山一郎総裁)・日本進歩党(町田忠治総裁)の結党が相次ぐ
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1945
年
陸軍省・海軍省が復員省に改組され700万人以上の復員軍人を処理
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1945
年
衆議院議員選挙法改定(婦人参政権容認)、「GHQ解散」
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1945
年
吉田茂が廃止直前の貴族院議員の勅撰を獲得
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1946
年
天皇の「人間宣言」(神格否定の詔書公表)
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1946
年
GHQが日本政府から沖縄施政権を剥奪
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1946
年
GHQが幣原喜重郎内閣の第一次農地改革法案を拒否し徹底的改革を命令
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1946
年
インフレ抑制のため預金封鎖・新円切替を断行
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1946
年
新選挙法による初の衆議院総選挙で鳩山一郎の自由党が勝利(初の女性議員39名が誕生)
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1946
年
GHQが自主路線の鳩山一郎を公職追放し第一党自由党の後継総裁に吉田茂が就任
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1946
年
経済安定本部(安本)・物価庁設置
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1946
年
復興金融公庫法・戦時保障特別措置法成立
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1946
年
吉田茂内閣が当用漢字1850字・旧かなづかい禁止の内閣告示
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1946
年
吉田茂内閣が閣議で鉄鋼・石炭の「傾斜生産方式」採用を決定
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1947
年
トルーマン米大統領が「トルーマン・ドクトリン」発表(ギリシア・トルコへの支援表明により共産主義勢力と戦う決意を示唆)
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1947
年
GHQにより独占禁止法制定
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1947
年
総選挙、片山哲の社会党が第一党に躍進
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1947
年
吉田茂が旧高知全県区から出馬し衆議院議員初当選(~1963)
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1947
年
マーシャル米国務長官が「マーシャル・プラン」発表(西欧諸国への復興援助表明により東西対立が先鋭化、ソ連はコメコン設立で対抗)
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1947
年
芦田均外相がアメリカ政府に米軍の「有事駐留」を提案し怒りを買う
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1947
年
昭和天皇がGHQに「沖縄の恒久的軍事占領が望ましい」と伝達
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1947
年
民法改正(夫婦平等・戸主権や長子相続権の廃止・自由結婚など)
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1947
年
GHQが匿退蔵物資事件捜査部(東京地検特捜部)を設置
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1948
年
佐藤栄作が運輸次官を辞任し吉田茂の引きで民主自由党入り
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1948
年
ソ連が「ベルリン封鎖」を強行し冷戦緊迫化
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1948
年
GHQが日本解体方針を緩和し「経済安定九原則」発表
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1948
年
内閣不信任案が可決され吉田茂首相は衆議院解散で対抗
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1949
年
衆議院総選挙、吉田茂の与党民主自由党が単独過半数獲得
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1949
年
佐藤栄作(民主自由党吉田茂派)が山口2区から出馬し衆議院議員初当選(~1975)
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1949
年
池田勇人(民主自由党吉田茂派)が広島2区から出馬し衆議院議員初当選(~1965)
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1949
年
牧野伸顕(大久保利通の次男で吉田茂の岳父)が死去
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1949
年
第三次吉田茂内閣(民主自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、吉田茂が外相就任(岡崎勝男に途中交代)
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1949
年
GHQが1ドル=360円の単一為替レートを設定
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1949
年
北大西洋条約機構(NATO)発足
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1949
年
吉田茂首相が日本独立後も米軍駐留を望む旨を示唆
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1949
年
ドッジ・ラインに基づく国鉄人員整理発表、下山事件・三鷹事件・松川事件
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1949
年
シャウプ勧告(税制改革指令)
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1949
年
ソ連の核実験成功で東西冷戦が本格化
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1949
年
毛沢東の共産党が国共内戦を制し北京で中華人民共和国樹立を宣言、アメリカで日本再軍備(反共の防波堤)要請が一層高まる
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1949
年
吉田茂首相が西側陣営との単独講和にも応じる旨を声明
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1950
年
民主自由党が自由党に改称
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1950
年
中ソ友好同盟相互援助条約成立、アメリカで日本再軍備(反共の防波堤)要請が一層高まる
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1950
年
学者グループが「厳正中立・全面講和」声明発表、西側との「単独講和」を進める吉田茂首相は「曲学阿世」発言で対抗
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1950
年
吉田茂首相が池田勇人蔵相・宮澤喜一秘書官を派米し米軍駐留継続と単独講和を申入れ
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1950
年
GHQと反共の吉田茂首相がレッド・パージを開始し約1万2千人を公職追放(逆コース)
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1951
年
自由党に鳩山一郎の派閥が起り吉田茂の主流派と勢力伯仲
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1951
年
サンフランシスコ講和条約を巡り社会党が左右派に分裂
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1952
年
GHQ指令を受け吉田茂政府が海上警備隊(海上自衛隊)創設
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1952
年
血のメーデー事件(2人射殺・逮捕者1230人)
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1952
年
ロバート・D・マーフィー米大使就任(~1953)
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1952
年
自由党で吉田茂派と鳩山一郎派の溝が深まり吉田首相は抜打解散で対抗
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1952
年
衆議院総選挙、自由党が圧勝し鳩山一郎ら公職追放解除者が衆議院議席の42%を占める
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1952
年
鳩山一郎への首相禅譲密約により第四次吉田茂内閣(自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、岡崎勝男が外務大臣就任、池田勇人が通商産業大臣就任
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1953
年
ドワイト・D・アイゼンハワー(共和党)が米大統領就任(~1961)
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1953
年
ジョン・フォスター・ダレスが米国務長官就任(~1959)、引き続き対日政策を主導
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1953
年
吉田茂首相が衆議院を「バカヤロー解散」、鳩山一郎・広川弘禅が分派し分党派自由党結成
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1953
年
ソ連に人類史上最悪の恐怖政治を敷いたスターリンが死去、フルシチョフがベリヤ・マレンコフを粛清し後継体制確立
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1953
年
第五次吉田茂内閣(自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、岡崎勝男が外務大臣就任
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1953
年
ジョン・M・アリソン米大使就任(~1957)
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1953
年
朝鮮戦争休戦、反動需要減に日銀の金融引き締めが拍車をかけ長期不況に陥る
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1953
年
鳩山一郎が分自党を解消し吉田茂の自由党に復党、三木武吉・河野一郎・石橋湛山らが離脱し日本自由党結成
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1953
年
奄美群島が本土復帰
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1954
年
造船疑獄、佐藤栄作逮捕を拒否した犬養健(犬養毅の次男)法相が辞任
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1954
年
アメリカの圧力により吉田茂政府が国家警察予備隊を常設軍隊「自衛隊」へ改組(陸上13万人・海上1万5千人・航空6千人)
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1954
年
吉田茂首相の自由党が従米路線に反抗する岸信介を除名
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1954
年
反抗勢力が日本民主党に合同し(鳩山一郎総裁・重光葵副総裁・岸信介幹事長)内閣不信任決議で吉田茂内閣を打倒
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1955
年
総選挙、鳩山一郎首相の民主党政権は絶対多数を獲得できず憲法改正を断念し対ソ外交に注力
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1955
年
ワルシャワ条約機構(WTO)発足
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1955
年
左右社会党統一(鈴木茂三郎委員長・浅沼稲次郎書記長、衆院156議席・参院69議席)
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1955
年
保守合同で自由民主党(鳩山一郎総裁・岸信介幹事長、衆院299議席・参院69議席)が発足し「55年体制」開始
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1955
年
吉田茂・佐藤栄作らが自由民主党に参加せず無所属となる
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1956
年
フルシチョフの「スターリン批判」演説が西側に伝わり「雪どけ」機運高まる
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1957
年
ダグラス・マッカーサー2世が米大使就任(~1961)、日本政府をリード
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1958
年
総選挙、岸信介首相の与党自民党は大勝できず憲法改正を断念し安保改定に注力
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1959
年
ジョン・フォスター・ダレス米国務長官が病気により辞任
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1959
年
池田勇人が通商産業大臣就任
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1960
年
ベトナム戦争勃発(~1975)、韓国などアジア諸国が派兵するなか池田勇人政府は軍事協力を拒否
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1961
年
ジョン・F・ケネディ(民主党)が米大統領就任(~1963)
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1961
年
エドウィン・O・ライシャワー米大使就任(~1966)、日米蜜月関係を演出し沖縄返還に奔走
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1962
年
吉田茂が皇學館大學総長就任
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1962
年
キューバ危機、フルシチョフ首相のミサイル撤去決断により核戦争回避
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1963
年
吉田茂が池田勇人首相の特使として台湾を訪問し蒋介石と会談
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1963
年
衆議院解散に伴い吉田茂が漸く政界引退
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1963
年
リンドン・ジョンソン(民主党)が米大統領就任(~1969)
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1964
年
マッカーサー死去、吉田茂が旧主の国葬に参列
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1965
年
池田勇人死去
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1967
年
吉田茂が死去(享年89)、戦後唯一の国葬で送られる
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マッカーサー
主人
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ウィロビー
副主人
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ケーディス
副主人の政敵
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ホイットニー
副主人の政敵
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トルーマン
王様だが主人の政敵
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アイゼンハワー
新王様
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ドッジ
市場原理主義者
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ダレス
主人の政敵
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グルー
戦前の米大使
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クレーギー
戦前の英大使
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マーフィー
戦後の米大使
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アリソン
戦後の米大使
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ダグラス・マッカーサー2世
お坊ちゃま
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ライシャワー
戦後の米大使
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岡崎勝男
手下
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白洲次郎
手下
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東久邇宮稔彦王
総懺悔首相
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幣原喜重郎
傀儡首相
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重光葵
宿命のライバル
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片山哲
政敵
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芦田均
政敵
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鳩山一郎
ライバル
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河野一郎
鳩山の大番頭
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大野伴睦
鳩山の大番頭
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石橋湛山
鳩山の後継者
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中曽根康弘
河野の弟子・反吉田の青年将校
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岸信介
自主路線の奇才
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池田勇人
愛弟子
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佐藤栄作
吉田学校生
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田中角栄
吉田学校生
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宮澤喜一
従米路線継承者
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大平正芳
従米路線継承者
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出光佐三
日章丸事件を起した出光興産創業者
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牧野雪子
出世の切り口
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牧野伸顕
対英米協調派の岳父
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近衛文麿
現状打破の同志
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広田弘毅
組閣を支援した同期の秀才
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松岡洋右
大陸派同志
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森恪
大陸派同志
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加藤高明
対外硬仲間
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濱口雄幸
軟弱外交
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若槻禮次郞
軟弱外交
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田中義一
同志
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大島浩
同志
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白鳥敏夫
同志
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石井菊次郎
外交仲間
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林薫
外交仲間
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内田康哉
外交仲間
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有田八郎
外交仲間
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東條英機
打倒目標
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小磯國昭
打倒目標
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岩淵辰雄
終戦工作の同志
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殖田俊吉
終戦工作の同志
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東郷茂徳
終戦工作の同志
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若槻禮次郞
終戦工作の同志
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木戸幸一
終戦工作の同志
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真崎甚三郎
終戦工作の同志
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小畑敏四郎
終戦工作の同志
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宇垣一成
終戦工作の同志
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鈴木貫太郎
終戦工作の同志
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