
しげみつ まもる
重光 葵
1887年~1957年
100
点
戦前は日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け外相として降伏文書に調印、アメリカ=吉田茂政権に反抗しA級戦犯にされたが鳩山一郎内閣で外相に復帰し自主外交路線を敷いた「ラストサムライ」
同じ時代の人物

基礎点
80
点
東大法学部から外務省本流へ進んだ重光葵は「過大な人口を抱え成長を続ける日本は中国と提携する他ない」と平和的日中提携を提唱、対英米協調・対中不干渉の幣原喜重郎に属し、傍流の中国勤務を志願して融和政策を推進したが、松岡洋右・白鳥敏夫・大島浩ら強硬派外交官から「軟弱外交」と罵倒され、武力行使容認の広田弘毅・吉田茂ら「大陸派」の支持も得られず、満州事変で「幣原外交」は瓦解した。それでも中国公使の重光葵は上海事変講和に奔走したが、1932年「上海天長節爆弾事件」で右脚切断の重傷を負った。奇跡的に快復した重光葵は翌年外務次官に昇進し駐ソ連大使・駐英大使を歴任、対英米関係の破綻を招く日独同盟に反対し、欧州戦争に関与せず日中戦争解決と関係再構築に専念すべしと繰返し訴えたが、軍部と大衆に迎合する近衛文麿・広田弘毅・松岡洋右らは耳を貸さず日中戦争を泥沼化させ日独伊三国同盟を断行、東條英機内閣が対米開戦へ追込まれた。重光葵は中国(汪兆銘政権)大使を経て1943年外相に就任、「大東亜会議」で日本の正義を訴えたが戦局は悪化の一途を辿り、木戸幸一ら講和派に与し小磯國昭内閣を総辞職に追込んだ。ポツダム宣言受諾の3日後に東久邇宮稔彦王内閣が発足し、外相に復帰した重光葵は天皇と政府を代表して米戦艦ミズーリ艦上の降伏文書調印式に臨んだ。日本国中がGHQへの追従で染まるなか、孤軍奮闘の重光葵は「英語を公用語に」「米軍票を通貨に」という不条理な布告を撤回させたが、GHQの走狗と化した吉田茂への外相交代を強いられ東京裁判で禁固7年の判決を受けた。1951年講和条約の恩赦で釈放された重光葵は衆議院議員となり、1954年反吉田茂連合の民主党に副総裁で加盟し鳩山一郎内閣の外相兼副総理に就任、憲法改正・再軍備・自主外交(中ソ外交)を推進した。重光葵外相は吉田茂内閣で膨張した「防衛分担金」の削減に成功したが、在日米軍撤退・防衛分担金廃止はダレス米国務長官に一蹴され、日ソ国交回復と国際連合加盟を花道に鳩山一郎内閣は退陣した。その1ヵ月後、アメリカの不条理に抗い自主外交を牽引した重光葵は69歳で急逝、謎の突然死であった。
20
点
重光葵は「ラストサムライ」の呼称が最も相応しい硬骨漢、冷静な国際情勢分析により日本の針路を模索し「長いものに巻かれる」ことなく命懸けでエリート官僚の矜持を貫いた。軍国主義一色の時勢のなか、重光葵は朝鮮人の爆弾テロで右脚切断の重傷を負い陸軍の田中隆吉に暗殺されかかったが、平和的日中提携・欧州戦争不関与を訴え続け、外相として小磯國昭の陸軍内閣を打倒した。第二次大戦後、再び外相に就いた重光葵は皆が嫌がる降伏文書調印を堂々と引受け、日本国中がGHQへの追従に染まるなか不条理な米軍占領統治に抵抗、鳩山一郎内閣で外相に返咲き日ソ国交回復および国際連合加盟を果したが、1ヶ月後に謎の発病で落命した。戦前は各期10人前後の狭い世界で陸奥宗光・小村寿太郎・幣原喜重郎・松岡洋右・吉田茂と主導者が変遷した外交官サークルにおいては、外交官試験主席合格の重光葵は有田八郎・堀内謙介らと「革新同志会」を立上げ外務省改革を提唱、満州事変で「幣原外交」が瓦解した後も要路に留まり広田弘毅・松岡洋右・白鳥敏夫・大島浩・吉田茂ら軍部迎合派への対抗軸として大使・外相を歴任した。壊滅的敗戦にも絶望しない重光葵は外務省同期の芦田均と共に、対中強硬の「大陸派」から反戦の「親米派」へ鞍替えし戦後GHQの走狗と化した吉田茂と鋭く対立、吉田の従米路線(保守本流)に対抗し憲法改正・再軍備・自主外交のレールを敷いた。戦前戦後を通じ時流に逆行し続けた重光葵に大仕事の出番は回って来なかったが、信念と反骨の生き様自体が見事で日本人が範とすべき偉材であった。右翼のドンで田中角栄を歯牙に掛けなかった笹川良一は、巣鴨プリズンで重光葵に心酔し「真に男が男として惚れきれるのが重光葵の真骨頂であった。腕も度胸も兼ね備わったこんな人にこそ救国の大業を託すべきではあるまいか」と絶賛したが、統治者アメリカも日本大衆も国士を望んではいなかった。

1887
年
元豊後杵築藩士(漢学者)で大分県大野郡長の重光直愿の次男に重光葵が出生
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1911
年
重光葵が東京帝国大学法学部卒業
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1911
年
重光葵が外交官試験(主席)・領事官試験・文官高等試験に合格し外務省入省(同期に芦田均・堀内謙介ら)
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1912
年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
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1913
年
加藤高明が駐英大使から外相へ転任
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1914
年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1915
年
大浦兼武の選挙汚職事件により与党同志会の加藤高明外相・若槻禮次郞蔵相・大浦兼武内相が辞任
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1915
年
石井菊次郎外相のもと幣原喜重郎が外務次官就任
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1917
年
イギリスの強要により日本海軍の艦隊が地中海へ出動
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1919
年
朝鮮で三・一独立運動が起る
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1920
年
重光葵が外務省条約局第一課長任官
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1921
年
重光葵が傍流の中国勤務を志願し上海総領事就任
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1921
年
原敬首相が東京駅で暴漢に刺殺される(享年65)、高橋是清が政友会総裁を継ぐ
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1922
年
山縣有朋死去
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1925
年
日ソ基本条約調印、国交樹立
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1926
年
幣原喜重郎外相が英米からの中国派兵要請を拒否
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1926
年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
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1927
年
蒋介石軍が南京の日英領事館襲撃(南京事件)、対中国不干渉方針の幣原喜重郎外相が「軟弱外交」の批判を浴びる
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1928
年
吉田茂が岳父の牧野伸顕のツテで田中義一首相に対中強硬論(大陸派)を直訴し外務次官就任
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1930
年
重光葵が駐中国特命全権公使就任
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1931
年
幣原喜重郎外相が116日間首相代理を務める
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1932
年
重光葵が大分県に帰省し別府温泉で静養
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1932
年
斎藤実内閣が満州国を承認
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1932
年
国際連盟ジュネーブ特別総会開幕、松岡洋右首席全権の対外硬演説に日本大衆が沸く
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1936
年
重光葵が外務次官から駐ソ連大使へ転任しモスクワ赴任
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1937
年
日本軍が北京・天津・上海を攻略(第二次上海事変)
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1937
年
イタリアが日独防共協定に参加
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1937
年
日本軍が国民政府の首都南京を占領
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1938
年
ドイツがオーストリアを併合
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1938
年
張鼓峰事件、重光葵駐ソ連大使が停戦協定締結
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1938
年
重光葵が外相と同格の駐英大使に昇進しロンドン赴任
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1939
年
ドイツ軍がポーランド侵攻、英仏が独に宣戦布告し第二次世界大戦勃発
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1940
年
イタリアが英仏に宣戦布告
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1940
年
松岡洋右外相が松岡・アンリ協定を締結(親独の仏ビシー政権が仏印における日本の優越的地位を承認)
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1941
年
アメリカがレンドリース法を成立させ連合国へ大規模軍事支援開始
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1941
年
軍部が仕掛けたタイ仏印国境紛争を松岡洋右外相が沈静化
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1941
年
松岡洋右外相が南進から北進へ転じ対ソ開戦を主張
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1941
年
アメリカが在米日本資産を凍結し英蘭らも追随
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1941
年
重光葵が駐中国(汪兆銘政権)大使就任
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1942
年
日本軍が香港・マニラ・シンガポールを攻略
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1943
年
谷正之に代わり重光葵が外相就任
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1943
年
ムッソリーニのイタリアが早々に連合国に降伏
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1945
年
陸軍省・海軍省が復員省に改組され700万人以上の復員軍人を処理
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1945
年
衆議院議員選挙法改定(婦人参政権容認)、「GHQ解散」
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1945
年
ハリー・S・トルーマン(共和党)が米大統領就任(~1953)
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1945
年
ドイツが連合国に降伏
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1945
年
玉音放送
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1945
年
東久邇宮稔彦王内閣(公家)発足、重光葵が外相就任(吉田茂に途中交代)
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1945
年
GHQが陸海軍解体指令
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1945
年
昭和天皇・マッカーサー会談(以後11回)
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1945
年
マッカーサーが日本軍の武装解体完了を宣言
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1945
年
国際連合発足
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1945
年
重光葵が鎌倉に転居
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1945
年
日本社会党(片山哲書記長)・日本自由党(鳩山一郎総裁)・日本進歩党(町田忠治総裁)の結党が相次ぐ
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1946
年
天皇の「人間宣言」(神格否定の詔書公表)
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1946
年
GHQが日本政府から沖縄施政権を剥奪
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1946
年
GHQが幣原喜重郎内閣の第一次農地改革法案を拒否し徹底的改革を命令
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1946
年
インフレ抑制のため預金封鎖・新円切替を断行
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1946
年
新選挙法による初の衆議院総選挙で鳩山一郎の自由党が勝利(初の女性議員39名が誕生)
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1946
年
GHQが自主路線の鳩山一郎を公職追放し第一党自由党の後継総裁に吉田茂が就任
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1947
年
トルーマン米大統領が「トルーマン・ドクトリン」発表(ギリシア・トルコへの支援表明により共産主義勢力と戦う決意を示唆)
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1947
年
総選挙、片山哲の社会党が第一党に躍進
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1947
年
GHQ作成日本国憲法施行
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1947
年
マーシャル米国務長官が「マーシャル・プラン」発表(西欧諸国への復興援助表明により東西対立が先鋭化、ソ連はコメコン設立で対抗)
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1947
年
芦田均外相がアメリカ政府に米軍の「有事駐留」を提案し怒りを買う
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1947
年
昭和天皇がGHQに「沖縄の恒久的軍事占領が望ましい」と伝達
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1947
年
民法改正(夫婦平等・戸主権や長子相続権の廃止・自由結婚など)
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1948
年
李承晩と金日成の対立で米ソ合同委員会による南北朝鮮統一工作が破綻
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1948
年
ソ連が「ベルリン封鎖」を強行し冷戦緊迫化
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1948
年
GHQが日本解体方針を緩和し「経済安定九原則」発表
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1948
年
内閣不信任案が可決され吉田茂首相は衆議院解散で対抗
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1949
年
衆議院総選挙、吉田茂の与党民主自由党が単独過半数獲得
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1949
年
幣原喜重郎が衆議院議長就任(~1951)
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1949
年
第三次吉田茂内閣(民主自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、吉田茂が外相就任(岡崎勝男に途中交代)
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1949
年
北大西洋条約機構(NATO)発足
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1949
年
ソ連の核実験成功で東西冷戦が本格化
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1949
年
毛沢東の共産党が国共内戦を制し北京で中華人民共和国樹立を宣言、アメリカで日本再軍備(反共の防波堤)要請が一層高まる
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1950
年
民主自由党が自由党に改称
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1950
年
中ソ友好同盟相互援助条約成立、アメリカで日本再軍備(反共の防波堤)要請が一層高まる
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1950
年
吉田茂首相が池田勇人蔵相・宮澤喜一秘書官を派米し米軍駐留継続と単独講和を申入れ
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1950
年
GHQと反共の吉田茂首相がレッド・パージを開始し約1万2千人を公職追放(逆コース)
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1951
年
幣原喜重郎死去
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1951
年
自由党に鳩山一郎の派閥が起り吉田茂の主流派と勢力伯仲
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1951
年
講和条約の恩赦で重光葵ら戦犯受刑者が釈放される
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1952
年
ロバート・D・マーフィー米大使就任(~1953)
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1952
年
重光葵が政界復帰し三木武夫ら改進党の総裁に迎えられる
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1952
年
自由党で吉田茂派と鳩山一郎派の溝が深まり吉田首相は抜打解散で対抗
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1952
年
衆議院総選挙、自由党が圧勝し鳩山一郎ら公職追放解除者が衆議院議席の42%を占める
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1952
年
重光葵が地元の大分2区から衆議院議員に初当選(~1957)
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1952
年
鳩山一郎への首相禅譲密約により第四次吉田茂内閣(自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、岡崎勝男が外務大臣就任
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1953
年
ドワイト・D・アイゼンハワー(共和党)が米大統領就任(~1961)
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1953
年
ジョン・フォスター・ダレスが米国務長官就任(~1959)、引き続き対日政策を主導
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1953
年
吉田茂首相が衆議院を「バカヤロー解散」、鳩山一郎・広川弘禅が分派し分党派自由党結成
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1953
年
ソ連に人類史上最悪の恐怖政治を敷いたスターリンが死去、フルシチョフがベリヤ・マレンコフを粛清し後継体制確立
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1953
年
第五次吉田茂内閣(自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、岡崎勝男が外務大臣就任
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1953
年
ジョン・M・アリソン米大使就任(~1957)
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1953
年
朝鮮戦争休戦、反動需要減に日銀の金融引き締めが拍車をかけ長期不況に陥る
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1953
年
鳩山一郎が分自党を解消し吉田茂の自由党に復党、三木武吉・河野一郎・石橋湛山らが離脱し日本自由党結成
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1953
年
奄美群島が本土復帰
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1954
年
アメリカの圧力により吉田茂政府が国家警察予備隊を常設軍隊「自衛隊」へ改組(陸上13万人・海上1万5千人・航空6千人)
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1954
年
反抗勢力が日本民主党に合同し(鳩山一郎総裁・重光葵副総裁・岸信介幹事長)内閣不信任決議で吉田茂内閣を打倒
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1955
年
総選挙、鳩山一郎首相の民主党政権は絶対多数を獲得できず憲法改正を断念し対ソ外交に注力
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1955
年
アジア・アフリカ会議(バンドン会議)開催
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1955
年
ワルシャワ条約機構(WTO)発足
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1955
年
左右社会党統一(鈴木茂三郎委員長・浅沼稲次郎書記長、衆院156議席・参院69議席)
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1955
年
保守合同で自由民主党(鳩山一郎総裁・岸信介幹事長、衆院299議席・参院69議席)が発足し「55年体制」開始
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1955
年
アメリカの意を受けた中曽根康弘主導で「原子力の平和利用」促進のための原子力基本法成立
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1956
年
原子力基本法に基づき原子力委員会が発足し正力松太郎が初代委員長就任(委員にノーベル物理学賞受賞の湯川秀樹ら)
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1956
年
フルシチョフの「スターリン批判」演説が西側に伝わり「雪どけ」機運高まる
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1956
年
日ソ国交回復を期す鳩山一郎内閣の河野一郎農相・重光葵外相らが相次いでモスクワ訪問
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1956
年
スエズ動乱(第二次中東戦争)でイスラエル軍が勝利するが米ソの支持を得たエジプトがスエズ運河を国有化
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1956
年
重光葵外相が日ソ交渉全権委員としてソ連訪問
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1956
年
日本・フィリピン国交回復(賠償金1980億円・借款900億円)
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幣原喜重郎
弱い先輩
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加藤高明
幣原のボス
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濱口雄幸
幣原の盟友
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若槻禮次郞
民政党の後継者
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田中義一
宿敵
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松岡洋右
宿敵
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広田弘毅
愚か者
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大島浩
愚か者
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白鳥敏夫
愚か者
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石井菊次郎
外交仲間
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林薫
外交仲間
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内田康哉
外交仲間
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有田八郎
外交仲間
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重光葵
外交仲間
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東郷茂徳
外交仲間
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芦田均
東大同窓の同志
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青木一男
大東亜会議仲間
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木戸幸一
終戦工作仲間
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西園寺公望
キングメーカー
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石原莞爾
困り者
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板垣征四郎
困り者
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林銑十郎
困り者
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南次郎
困り者
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武藤章
困り者
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田中新一
困り者
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東條英機
外相時の首相
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小磯國昭
外相時の首相
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金谷範三
困り者
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杉山元
困り者
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白川義則
同志にして爆弾テロの犠牲者
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宇垣一成
同志
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梅津美治郎
調印仲間
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米内光政
同志
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山本五十六
同志
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井上成美
同志
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野村吉三郎
同志
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鈴木貫太郎
同志にして爆弾テロ仲間
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岡田啓介
同志
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吉田善吾
気の毒な同志
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末次信正
困り者
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伏見宮博恭王
困り者
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岡敬純
困り者
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豊田貞次郎
困り者
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及川古志郎
困り者
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蒋介石
困り者
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汪兆銘
同志
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毛沢東
一枚上手
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周恩来
一枚上手
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鄧小平
一枚上手
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スターリン
ソ連の暴君
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ヒトラー
ドイツの暴君
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リッペントロップ
ドイツ外相
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チャーチル
イギリスのやり手
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トルーマン
宿敵
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マッカーサー
宿敵
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ウィロビー
副将軍
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ケーディス
憲法作者
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ホイットニー
ケーディスのボス
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ドッジ
市場原理主義者
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ダレス
マッカーサーの政敵
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アリソン
話の分る大使
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東久邇宮稔彦王
外相時の総懺悔首相
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吉田茂
GHQの代理人
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池田勇人
吉田の愛弟子
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佐藤栄作
吉田学校生
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宮澤喜一
吉田学校生
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岡崎勝男
吉田に奔った部下
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鳩山一郎
戦後の盟友
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河野一郎
鳩山の大番頭
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大野伴睦
鳩山の大番頭
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石橋湛山
後は頼む
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岸信介
後は頼む
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三木武夫
戦後の同志
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田中角栄
幣原派→吉田学校生
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