
とよだ きいちろう
豊田 喜一郎
1894年~1952年
100
点
豊田佐吉の長男で共に画期的な動力織機を発明するが、繊維産業の凋落を見越し紡績から自動車への事業転換を敢行したトヨタグループ創業者
同じ時代の人物

基礎点
80
点
豊田喜一郎は日本最強トヨタグループの創業者である。国産初の動力織機を発明し一代で「紡績財閥」を築いた豊田佐吉の長男であり、自らも織機開発の第一人者であったが、繊維産業の衰退を予見し自動車事業への大転換を図った先見の明が光る。東大工学部機械工学科を卒業し「豊田紡織」に入った豊田喜一郎は、経営者より技術者を志向し「無停止杼換式自動織機(G型自動織機)」の開発を陣頭指揮、「豊田自動織機製作所」で織機事業に参入し本場イギリスへも進出した。が、世界恐慌が繊維産業を直撃すると、豊田喜一郎は愛知県で勃興する自動車産業への参入を決意、妹婿で家長の豊田利三郎の猛反対を抑え1933年豊田自動織機製作所内に自動車部を創業した。豊田喜一郎は、大番頭の西川秋次や従弟の豊田英二の支援で膨大な開発資金を捻出し、「A1型乗用車」「G1型トラック」の試作成功で日産自動車と共に自動車製造事業法の助成認可を獲得、1937年「トヨタ自動車工業」を設立し量産を開始した。日中戦争の激化でトヨタ自動車工業には軍用トラックの注文が舞込み、国策に乗った豊田喜一郎は挙母(→豊田市)に巨大工場を立上げ部品製造子会社の継足しで急速に業容を拡大(愛知製鋼・アイシン精機・トヨタ車体・デンソー・豊田通商などへ発展)、業績不振の豊田紡織を吸収し第二次大戦の輸出封鎖で壊滅した紡績関連事業を自動車事業に取込んだ。第二次大戦後、トヨタ自動車工業は財閥解体の対象とされるも分社化戦略が幸いし実害を免れたが、1950年ドッジ・ライン恐慌で経営危機に陥り大規模労働争議も発生、東海銀行・三井銀行などの協調融資で倒産は免れたが、「工販分離」を強制され豊田喜一郎社長ら首脳陣は引責辞任へ追込まれた。が、皮肉にも直後に朝鮮戦争が始まり軍用トラックの特需で業績はV字回復、権威回復した豊田喜一郎は石田退三ら後継体制から社長復帰を要請されたが1952年57歳で急逝した。1955年クラウン発売で自家用車へ転換したトヨタは高度経済成長に乗り「工販合併」も果し世界一へ躍進、社長は豊田喜一郎直系の豊田英二・豊田章一郎・豊田章男へ受継がれ同族支配が続いている。
20
点
トヨタといえば自家用車だが、豊田喜一郎が豊田自動車工業を興した1937年から日中戦争・第二次大戦・朝鮮戦争に至るまで軍用トラックで業容を拡大したものであり、「クラウン」発売で民需へ転換したのは創業者の死から3年目の1955年であった。このため今日のトヨタ自動車と豊田喜一郎の直接的な関係を否定する向きもあるが、大きなリスクが伴う自動車産業参入を断行した企業家精神と技術開発力が全ての発端であった。さらに結果論ではあるが、ライバルの日産やマツダが外資の軍門に降るなか、トヨタがホンダと共に日本企業であり続ける意義は大きく、今も豊田喜一郎の直系子孫による同族経営が保たれており、優れた創業理念と技術者魂の賜物といえよう。「自動車立国」の旗艦であると同時に膨大な外貨と税収をもたらすトヨタグループと創業者の豊田喜一郎に対し、日本国民は深く感謝すべきであり、間違っても国外退避を促す愚を犯してはならない。

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1894
年
豊田佐吉の長男豊田喜一郎が愛知県湖西市山口にて出生
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1897
年
豊田佐吉が石川藤八の援助で乙川綿布合資会社を設立し動力織機製綿布を発売
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1906
年
豊田佐吉が三井物産の出資を得て豊田式織機株式会社(現豊和工業)を設立し常務取締役兼技師長に就任
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1909
年
豊田佐吉が自動杼換装置を発明し特許取得
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1910
年
豊田佐吉が三井物産と対立し豊田式織機(現豊和工業)を追放される
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1910
年
豊田佐吉が西川秋次を伴い欧米巡察(ニューヨークで高峰譲吉博士と知合う)
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1912
年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
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1912
年
豊田佐吉が名古屋市に豊田自働織布工場設立(現トヨタ紡織)
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1915
年
豊田佐吉が長女愛子の婿養子に児玉利三郎を迎える
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1915
年
大戦景気により東京株式市場暴騰
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1920
年
小平浪平の日立製作所が鮎川義介の日産傘下で再編され株式会社へ改組
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1920
年
小平浪平の日立製作所が電気機関車製造に着手
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1920
年
豊田喜一郎が東京帝国大学工学部機械工学科卒業
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1920
年
豊田佐吉が三井物産の支援を得て上海に紡織工場建設(豊田紡織廠)
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1921
年
神戸三菱・川崎両造船所ストライキ(戦前最大規模の労働争議)
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1921
年
豊田喜一郎が豊田佐吉の豊田紡織に入社、欧米視察へ出され英国プラット・ブラザーズ社で工場実習
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1923
年
豊田佐吉が愛知県刈谷町に豊田自動織機試験工場を開設し豊田喜一郎に実務を託す
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1924
年
小平浪平の日立製作所が大型電気機関車「ED15」を完成させ翌年鉄道省へ納入
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1926
年
豊田佐吉が株式会社豊田自動織機製作所を設立し(現豊田自動織機)豊田喜一郎が常務取締役就任
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1928
年
八木秀次東北帝大教授がテレビアンテナの原型「八木アンテナ」を開発、日本では理解されないが欧米の軍隊で採用が進む
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1929
年
豊田喜一郎が欧米出張しG型自動織機を売込み、英国プラット・ブラザーズ社と特許譲渡契約締結
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1929
年
世界的な繊維業界不況がはじまる
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1929
年
東京石川島造船所(現IHI)から石川島自動車製造所(現いすゞ自動車)が独立
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1930
年
豊田喜一郎が帰国し自動車事業参入準備に着手
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1930
年
豊田佐吉が死去(享年63)
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1931
年
渋沢栄一死去
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1935
年
石原莞爾が参謀本部作戦課長就任、陸軍中枢の指導的地位に就く
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1935
年
豊田喜一郎の豊田自動織機製作所自動車部が「A1型乗用車」「G1型トラック」の試作に成功
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1937
年
日本軍が北京・天津・上海を攻略(第二次上海事変)
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1937
年
近衛文麿内閣が統制経済推進のため企画院を開設
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1937
年
日本軍が国民政府の首都南京を占領
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1937
年
東京自動車工業株式会社(現いすゞ自動車)設立
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1937
年
豊田喜一郎が京三製作所と合弁で京豊自動車工業設立
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1938
年
陸軍が豊田喜一郎のトヨタ自動車工業・鮎川義介の日産自動車に軍用トラック増産を要請
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1939
年
ドイツ軍がポーランド侵攻、英仏が独に宣戦布告し第二次世界大戦勃発
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1940
年
豊田喜一郎が軍用トラック増産のため豊田製鋼(現愛知製鋼)設立
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1941
年
豊田喜一郎がトヨタ自動車工業の社長に昇格し軍用トラック増産で業容拡大
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1941
年
豊田喜一郎のトヨタ自動車工業から精密工作機械部門の豊田工機が分社化
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1942
年
日本軍が香港・マニラ・シンガポールを攻略
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1943
年
豊田喜一郎が東海飛行機(現アイシン精機)設立
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1943
年
豊田喜一郎のトヨタ自動車工業が中央紡績(豊田紡織)を吸収合併
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1943
年
ムッソリーニのイタリアが早々に連合国に降伏
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1944
年
ブレトン・ウッズ協定、金本位制に基づく対ドル固定相場制の導入
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1945
年
豊田喜一郎のトヨタ自動車工業から車体製造部門のトヨタ車体工業(現トヨタ車体)が分社化
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1945
年
ドイツが連合国に降伏
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1945
年
玉音放送
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1947
年
井植歳男(松下幸之助の義弟)がGHQ対策のため松下電器産業を退社し三洋電機創業(自転車用発電ランプ事業を承継)
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1947
年
石橋正二郎の日本タイヤ・石橋徳次郎の日本ゴムが株式交換で資本および経営を峻別し財閥解体を免れる
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1947
年
過度経済力集中排除法(財閥解体の施行細則)施行
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1949
年
ドッジ・ライン(GHQによる超緊縮財政政策)が深刻な反動デフレを引起し日本産業界は壊滅に瀕す
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1949
年
中島飛行機技術者が設立した「たま電気自動車」(プリンス自動車工業へ改称)に石橋正二郎が出資し会長就任
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1952
年
豊田喜一郎がトヨタ自動車工業社長への復帰を目前に死去(享年57)
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豊田佐吉
偉大な父
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豊田利三郎
義兄
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豊田英二
優秀な従兄弟
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豊田章一郎
長男
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豊田達郎
次男
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豊田章男
孫
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飯田新七
岳父
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西川秋次
父の右腕
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石田退三
後継者
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神谷正太郎
後継者
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中川不器男
後継者
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奥田碩
後継者
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張富士夫
後継者
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渡辺捷昭
後継者
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臥雲辰致
動力織機の先達
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高橋是清
特許の恩人
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石川藤八
父の親友
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児玉一造
三井の恩人
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藤野亀之助
三井の恩人
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三野村利助
三井仲間
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中上川彦次郎
三井仲間
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益田孝
三井仲間
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團琢磨
三井仲間
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渋沢栄一
財界総理
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大倉喜八郎
長州系武器商人
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小林一三
阪急の奇才
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鮎川義介
ライバル
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小平浪平
鮎川の部下
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石橋正二郎
ブリジストン創業者
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本田宗一郎
ホンダ創業者
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出光佐三
出光興産創業者
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鈴木修
スズキのやり手
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早川徳次
シャープの奇才
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八木秀次
お見逸れしました
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松下幸之助
松下電器創業者
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御手洗毅
キヤノン創業者
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村田昭
村田製作所創業者
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一万田尚登
日銀の魔王
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高梨壮夫
日銀の恩人
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ドッジ
日本経済の破壊者
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マッカーサー
日本の破壊者
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