
ふくざわ ゆきち
福澤 諭吉
1835年~1901年
70
点
慶應義塾の創始者にして「西洋事情」の紹介者、「脱亜論」が後世に禍根を残したが、大隈重信の黒幕として自由民権運動をリードした文明開化のカリスマ
同じ時代の人物

基礎点
80
点
緒方洪庵の「適塾」で蘭学・蘭語を修めた福澤諭吉は、通商条約批准の遣米使節および文久遣欧使節に随行して米英の優勢を悟り英語を習得、英語教育を売りに「慶應義塾」を大発展させた。福澤諭吉は教育活動に励むかたわら、森有礼の明六社に参加し、『西洋事情』『西洋旅案内』『学問のすゝめ』『文明論之概略』などを刊行して大衆の洋化啓蒙活動を牽引し、慶應義塾と共に福澤派の牙城となる『時事新報』を創刊した。福澤諭吉は政治活動には一定の距離を置いたが、明治十四年政変で大隈重信が失脚すると、専横を強める伊藤博文・井上馨ら薩長藩閥と絶交し、福澤派・慶應義塾グループを母体に立憲改進党を発足させ「元筆頭参議」の大隈を党首に担いだ。大隈重信・犬養毅・矢野文雄・尾崎行雄ら福澤諭吉の門人は政界に隠然たる勢力を形成し、また三菱・三井など経済界へも多くの門下生を提供した。固い結束を誇り今日も政財界の一角を占める慶應義塾「三田会」の親玉という点において、福澤諭吉が日本国に及ぼした影響は計り知れないものがある。また福澤諭吉は、東大閥から締出された北里柴三郎を救済し国立伝染病研究所・北里研究所・慶応義塾大学医学部を創設、医学会にも大きな足跡を残している。
-10
点
福澤諭吉は、親友の後藤象二郎と共に金玉均の朝鮮独立党を支援したが、甲申事変が失敗に終わり朝鮮民衆の排日姿勢が強まるのをみて従来の「興亜論」を一変、『時事新報』社説で「脱亜論」を発表した。福澤諭吉は近隣諸国の支配層にも民意にも匙を投げ「亜細亜東方の悪友を謝絶する」といった強い論調で近代化を進めない清や朝鮮を非難する一方、「日本は近代化路線を邁進して西欧列強の仲間入りを果し、他のアジア諸国に対しては西欧列強と同じ手法で接すべし」と主張した。折りしも、日本国内では文明開化の進展に連れアジア蔑視の風潮が起りつつあり、世論の主流は興亜論から福澤諭吉の脱亜論へ移り、日清戦争開戦の機運が醸成されていった。没後の事ゆえ福澤諭吉に直接責任は無いが、脱亜論は大隈重信・加藤高明らの「対外硬」へ受継がれ大衆迎合パフォーマンスで先鋭化し「対華21カ条要求」の暴挙へ繋がったともいえよう。

1835
年
豊前中津藩の下級藩士福澤百助の次男福澤諭吉が大坂堂島の藩蔵屋敷にて出生
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1836
年
父福澤百助の死去に伴い福澤諭吉は中津へ転居
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1843
年
福澤諭吉が儒学者白石照山の私塾「晩香堂」に入門
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1846
年
大村益次郎が大阪遊学し緒方洪庵の適塾に入門、翌年から1年間長崎へ遊学
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1848
年
久坂玄機(玄瑞の長兄)が緒方洪庵の適塾の塾頭となるが翌年長州藩に召還され医学所好生館の都講に就任、適塾塾頭は大村益次郎が後継
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1849
年
福井藩士の橋本佐内が緒方洪庵の適塾に入門
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1852
年
大鳥圭介が緒方洪庵の適塾に入門
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1854
年
久坂玄機が病死し弟の久坂玄瑞が家督を継ぎ医者坊主となる
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1854
年
福澤諭吉が長崎遊学し蘭学を学ぶ
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1855
年
福澤諭吉が大阪遊学し緒方洪庵の適塾に入門
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1858
年
福澤諭吉が築地鉄砲洲の中津藩中屋敷で蘭学塾を開講(慶應義塾の起源)
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1859
年
イギリス総領事ラザフォード・オールコックが着任
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1860
年
幕府と攘夷派の間で兵庫開港問題が過熱
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1860
年
宇和島藩士で幕府講武所教授の大村益次郎が木戸孝允の招聘で故郷の長州藩へ転籍、最先端の西洋知識で洋式軍制改革を推進
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1860
年
米国から帰国した福澤諭吉が築地鉄砲洲に復帰し蘭学塾から英学塾へ方針転換
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1860
年
福澤諭吉が木村摂津守の引きで中津藩籍のまま幕府外国方に出仕、公文書の翻訳にあたる
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1860
年
福澤諭吉が『増訂華英通語』を出版
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1862
年
ヨーロッパから帰国した福澤諭吉が洋化啓蒙活動を開始
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1863
年
緒方洪庵が江戸にて死去(享年54)
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1863
年
薩英戦争~イギリス艦隊による生麦事件の報復、賠償金は幕府が負担
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1863
年
幕府外国方の福澤諭吉が薩英戦争処理などに奔命
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1864
年
フランス公使レオン・ロッシュ着任
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1864
年
福澤諭吉が外国奉行支配調役次席翻訳御用出仕(幕府直参旗本)
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1865
年
イギリス公使ハリー・パークス着任
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1866
年
日本人の海外渡航が正式に認められる
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1866
年
福澤諭吉が『西洋事情』初編刊行(1870年完成)
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1866
年
徳川慶喜が15代将軍就任
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1867
年
徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表
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1867
年
大阪城に退去した徳川慶喜が辞官納地を拒否、諸外国に徳川政権による外交継続を宣言
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1867
年
福澤諭吉が幕府の軍艦受取委員会随員として渡米
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1867
年
福澤諭吉が『西洋旅案内』刊行
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1868
年
鳥羽伏見の戦いに官軍が圧勝~戊辰戦争始まる
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1868
年
明治天皇が徳川慶喜追討の親征を宣言、薩摩(西郷隆盛)・長州・佐土原・大村の東海道軍と薩長・土佐(板垣退助)など諸藩混成の東山道軍が江戸へ進発、徳川慶喜は小栗忠順ら主戦派を退け恭順派の勝海舟に全権を託す
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1868
年
東海道軍筆頭参謀の西郷隆盛が勝海舟との会談で総攻撃を中止し江戸城無血開城、長州藩の大村益次郎や佐賀藩の江藤新平は薩摩藩の専断に反発
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1868
年
福澤諭吉が明治政府からの出仕要請を謝辞、以後終生官職に就かず
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1868
年
福澤諭吉が私塾を芝新銭座(浜松町)に移転し慶應義塾と改称
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1868
年
官軍が高崎市に隠遁した小栗忠順を襲い斬首
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1868
年
明治天皇即位礼、明治に改元
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1868
年
盛岡藩に続き庄内藩が降伏、東北戦争終結
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1869
年
兵制論争、大久保利通・薩摩士族が大村益次郎の政府直轄軍構想を廃し薩長土供出の御親兵に決定、大村益次郎は木戸孝允に慰留され兵部大輔に就任(大村は弟子の山田顕義を兵部大丞に就ける)
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1869
年
大村益次郎が京都三条木屋町の旅館で会食中に急進的な兵制改革に反発する元長州藩士8人に襲われ大阪にて死去(享年46)、郷里の山口市鋳銭司に葬られる
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1871
年
福澤諭吉の慶應義塾が三田の現在地に移転
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1873
年
森有礼・福澤諭吉らが明六社結成、『明六雑誌』刊行
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1873
年
江藤新平司法卿の追及により尾去沢銅山汚職が事件化、井上馨が大蔵大輔を引責辞任し実業界へ転じる
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1874
年
福澤諭吉の慶應義塾に幼稚舎開設
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1875
年
福澤諭吉が『文明論之概略』刊行
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1875
年
『明六雑誌』廃刊、森有礼・福澤諭吉らの明六社解散
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1877
年
木戸孝允が京都にて死去(享年45)、京都霊山護国神社に葬られる
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1877
年
東京開成学校と東京医学校が統合され東京大学創立
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1878
年
大久保利通が紀尾井坂で不平士族に斬殺される(享年49)
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1879
年
伊藤博文の要請により井上馨が外務卿就任
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1880
年
板垣退助ら土佐派が国会期成同盟結成
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1881
年
福澤諭吉の肝煎りで明治生命保険会社設立
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1882
年
福澤諭吉が『時事新報』を創刊
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1882
年
松方正義主導で日本銀行開業、安田善次郎・三野村利助が創立事務御用掛を務める、福澤諭吉も支援
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1882
年
大隈重信が東京専門学校創立(早稲田大学)
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1883
年
鹿鳴館完成~外務卿井上馨の条約改正交渉
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1884
年
松方デフレによる不況深刻化
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1889
年
北里柴三郎・ベーリングが破傷風菌純粋培養法に成功
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1890
年
第一回帝国議会開催
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1890
年
福澤諭吉の慶應義塾に大学部開設
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1891
年
第一次松方正義内閣発足
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1892
年
第二回衆議院総選挙、松方正義政府が大選挙干渉するも民党勝利
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1893
年
三菱社が三菱合資会社に改組、岩崎弥之助が岩崎久弥(弥太郎の嫡子)に三菱3代目を禅譲
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1893
年
北里柴三郎が日本最初の結核サナトリウム「土筆ヶ岡養生園」(北里研究所病院の前身)設立
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1894
年
北里柴三郎が香港でペスト菌を発見(第一発見者の栄誉は同時期に香港に居たイェルサンが獲得)
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1897
年
北里柴三郎の伝染病研究所で志賀潔が赤痢菌発見
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1898
年
福澤諭吉が『時事新報』に『福翁自伝』を掲載(~1899)
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1899
年
勝海舟死去
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1901
年
北里柴三郎が第1回ノーベル医学生理学賞の候補となるが共同研究者のベーリングが単独受賞
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1901
年
福澤諭吉が死去(享年66)
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緒方洪庵
大師匠
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大村益次郎
そりが合わない適塾の同門
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橋本左内
適塾の同門
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大鳥圭介
適塾の同門にして親友
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箕作秋坪
適塾の同門
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長與專齋
適塾の同門
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佐野常民
適塾の同門
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横井小楠
交流は無いが自由主義の同志
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江川坦庵
尊敬する人物
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勝海舟
不仲の上役
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木村摂津守
幕閣の庇護者
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ジョン万次郎
幕閣仲間
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中島三郎助
幕閣仲間
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福地源一郎
幕閣仲間
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栗本鋤雲
幕閣仲間
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松本良順
幕閣仲間
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寺島宗則
遊学仲間
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大隈重信
実は門人
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後藤象二郎
何故か大好き
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板垣退助
民権のカリスマ
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岩崎弥太郎
門下生を大量派遣
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岩崎弥之助
三菱2代目
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荘田平五郎
三菱に送込んだ門人
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中上川彦次郎
「三井中興の祖」となった甥にして門人
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豊川良平
岩崎弥太郎の従兄弟にして三菱に送込んだ門人
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犬養毅
大隈のブレーンに就けた門人
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矢野文雄
大隈のブレーンに就けた門人
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尾崎行雄
大隈のブレーンに就けた門人
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森有礼
明六社仲間
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西周
明六社仲間
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箕作麟祥
明六社仲間
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榎本武揚
嫁の親戚故に助命嘆願
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黒田清隆
榎本の同志
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木戸孝允
学制の同志
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伊藤博文
大隈失脚で絶交
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井上馨
大隈失脚で絶交
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山縣有朋
大隈失脚で絶交
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大久保利通
明治政府のドン
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南方熊楠
友人
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北里柴三郎
応援した偉材
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安田善次郎
「日本初生保」のライバル
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金玉均
応援したが失望
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