
ながた てつざん
永田 鉄山
1884年~1935年
80
点
陸軍エリート幕僚を組織化した下克上の盟主で石原莞爾・武藤章・田中新一・東條英機らのリーダー、「国家総動員」へのレールを敷くが内輪揉めで斬殺された昭和史のキーマン
同じ時代の人物

基礎点
80
点
戦後教育は昭和史の本質たる軍事史を教えず、「一夕会」「統制派」を率いた永田鉄山さえあまり知られていないが、「陸軍の至宝」「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と称された逸材で「永田がいれば大東亜戦争は起きなかった」ともいわれる。陸幼・陸士(16期)・陸大を最優等で卒業した永田鉄山は、事務能力も抜群で陸軍の綱紀粛正・教育制度改革(軍隊教育令)を主導し一般学校の軍事教練(陸軍現役将校学校配属令)も創始、病弱で実戦経験は無いが、部隊に出れば謙虚・公正・合理性で「陸軍一の名連隊長」と慕われ、少壮から陸軍を背負うべき人材と輿望を集めた。第一次大戦前後の欧州情勢視察に任じた永田鉄山は、総力戦時代を痛感し「国家総動員」を提唱、同志のエリート将校を一夕会に組織化し、林銑十郎を陸相に担いで陸軍省枢要の軍務局長に就き長州閥から主導権を奪取した。永田鉄山は、国力の乏しい日本は総力戦に備え中国大陸の軍需資源を利用すべしと主張したが、非合法手段や派閥争いは認めず、十月事件では橋本欣五郎(23期)の極刑を主張し、石原莞爾(陸士21期)らの満州事変では暴走抑止に努めた。一夕会系は「陸軍三長官」を独占したが、統制を重んじる永田鉄山(統制派)と実力行使も辞さない「皇統派」の内部対立が発生、真崎甚三郎の教育総監更迭を巡り抗争が激化するなか皇統派の相沢三郎中佐が永田鉄山斬殺事件を起し、勢いづいた皇統派は巻返しを図り青年将校グループが二・二六事件を引起した。皇統派の自滅で陸軍を掌握した統制派の武藤章・田中新一(25期)・東條英機(17期)らは、永田鉄山の遺志を継いで満州から中国へ侵出し国家総動員体制を実現させたが、強引な手段で泥沼の日中戦争を引起し中国不戦を説く石原莞爾を追放、仲間割れの度に過激へ傾き、近衛文麿・松岡洋右ら反欧主義者と組んで日本を亡国の対米開戦へと導いた。永田鉄山個人は日本型官僚組織・部課長制組織史上の傑物で独断専行の抑止役でもあり、存命なら昭和史が変わった蓋然性は高いが、結果が敗戦ゆえに「陸軍暴走」の先駆者となり、故郷の上諏訪でも記憶されず高島公園の胸像に名残を留めるのみである。

1884
年
長野県上諏訪村の郡立高島病院院長の永田志解理の四男に永田鉄山が出生
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1895
年
永田志解理が死去、困窮した永田鉄山一家は次兄の永田十寸穂(陸軍中尉)を頼り上京
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1906
年
永田鉄山が歩兵第五十八連隊附となり朝鮮へ赴任(翌年内地帰任)
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1912
年
永田鉄山が陸軍教育総監部へ転任し軍規粛正・軍隊教育令を担当
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1913
年
桂太郎が死去(享年65)、加藤高明が同志会総理を継ぐ
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1913
年
永田鉄山がドイツ駐在(第一次大戦勃発に伴い帰国)
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1914
年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1915
年
永田鉄山が中立国のデンマーク・スウェーデン駐在、第一次大戦研究を通じて国家総動員体制に目覚める
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1917
年
永田鉄山が帰国し臨時軍事調査委員(教育総監部附)となり国家総動員体制を提起
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1919
年
寺内正毅死去
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1920
年
永田鉄山が国家総動員体制研究のため三度目の渡欧を命じられウィーン駐在
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1921
年
宮中某重大事件、山縣有朋の権威失墜
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1921
年
永田鉄山がスイス公使館附武官へ異動
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1922
年
陸軍長州閥を築いた山縣有朋が政敵の伊藤博文・大隈重信・板垣退助や子飼の桂太郎・寺内正毅の誰よりも長寿を保ち84歳で死去
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1924
年
永田鉄山が陸軍省枢要の軍務局高級課員に栄転、国家総動員機関設置準備委員会を発足させ幹事に就く
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1925
年
日ソ基本条約調印、国交樹立
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1925
年
平沼騏一郎の右翼団体・国本社の評議員嘱託となる
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1926
年
陸軍省に戦用資材調達・産業統制を担う整備局が開設され主導者の永田鉄山が動員課長に就任、永田は自動車産業の育成にも注力
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1926
年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
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1928
年
永田鉄山が第一師団歩兵第三連隊長に就任し原隊復帰、師団長の真崎甚三郎と交流を深める
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1928
年
永田鉄山の後任として東條英機が陸軍省整備局動員課長就任
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1929
年
田中義一死去
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1930
年
永田鉄山が陸軍省軍務局軍事課長に栄進、満州・華北の視察旅行で反日運動を目にし関東軍の兵力不足を痛感
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1932
年
斎藤実内閣が満州国を承認
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1933
年
派閥抗争の懲罰人事で統制派の永田鉄山参謀本部第2部長が歩兵第1旅団長・小畑敏四郎参謀本部第3部長が近衛歩兵第一旅団長へ転出
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1933
年
塘沽停戦協定締結
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小畑敏四郎
宿命のライバル
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岡村寧次
盟友
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石原莞爾
優秀な後輩
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板垣征四郎
石原派
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東條英機
不肖の後輩
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武藤章
統制派の後継者
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田中新一
統制派の後継者
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土肥原賢二
統制派仲間
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鈴木貞一
統制派仲間
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上原勇作
反長州閥のドン
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真崎甚三郎
皇道派の重鎮
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荒木貞夫
皇道派の重鎮
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林銑十郎
ロボット
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河本大作
陸軍仲間
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牟田口廉也
陸軍仲間
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山下奉文
陸軍仲間
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辻政信
陸軍仲間
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梅津美治郎
陸軍仲間
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杉山元
陸軍仲間
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阿南惟幾
陸軍仲間
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相沢三郎
暗殺者
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山縣有朋
長州軍閥のドン
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宇垣一成
長州系の重鎮
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白川義則
長州系の重鎮
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田中義一
長州系の重鎮
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寺内正毅
長州系の重鎮
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寺内寿一
長州閥のぼっちゃん
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阿部信行
長州系転じて東條の子分
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小磯國昭
陸軍仲間
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南次郎
陸軍仲間
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畑俊六
陸軍仲間
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平沼騏一郎
変なおっさん
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幣原喜重郎
軟弱外交
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松岡洋右
同志
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