

基礎点
70
点
桂太郎は、陸軍長州閥・山縣有朋の腹心として首相となり日露戦争と韓国併合を断行、三度組閣し首相の通算在職日数2886日は歴代1位である(単独内閣では佐藤栄作が首位)。桂太郎は、長州藩の中級藩士の嫡子で、吉田松陰の親友だった叔父の中谷正亮のコネで同族の木戸孝允らに引立てられ、戊辰戦争では下級仕官ながら異例の賞典禄を授かり、長期のドイツ遊学を経て山縣有朋の側近に納まり、ドイツ式陸軍「天皇の軍隊」の建設を牽引した。少壮にして実務を担った陸軍省=軍政の桂太郎・参謀本部=軍令の川上操六(薩摩)・児玉源太郎(長州)は「陸軍の三羽鴉」と称された。軍政に明るい桂太郎は、軍部大臣現役武官制など山縣有朋の政党弾圧の裏方を担い覚え目出度く順調に昇進、日清戦争では山縣の第1軍旗下の第三師団長として出征し、台湾総督・東京湾防御総督を経て第三次伊藤博文内閣で陸相に就任、約3年陸相を務めた後に首相に栄達し、伊藤博文から政友会を継いだ西園寺公望と交互に3度組閣し政治的安定期は「桂園時代」と称された。桂太郎首相は、日露協商・満韓交換論を説く伊藤博文・井上馨を退けて日露戦争に踏切り、勝利によって英雄となり韓国併合を断行、先輩の井上馨や松方正義より早く公爵を授かり位人臣を極めた。とはいえ桂太郎の業績は日露戦争勝利に尽きるが、開戦を可能にした日英同盟は林薫駐英公使と小村寿太郎外相の手柄で、軍事は陸軍の大山巌・児玉源太郎・川上操六や海軍の山本権兵衛・東郷平八郎・秋山真之ら優秀な軍人の功績、さらに物資欠乏・継戦不能の日本を救ったポーツマス条約は伊藤博文が派遣した金子堅太郎の対米工作と難交渉をまとめた小村主席全権の偉業であり、山縣有朋と桂太郎は賠償金に固執し講和潰しを図るなど感覚がズレていた。政友会の護憲運動で第三次内閣を倒された桂太郎は(大正政変)政党の必要性を痛感し、政党嫌いの山縣有朋を宥め反政友会勢力を掻集め「桂新党」同志会を結成、桂は間もなく病没したが同志会(憲政会・民政党)は政友会の対抗馬に成長し加藤高明・若槻禮次郞・濱口雄幸が組閣した。陸軍長州閥では山縣有朋が長寿を保ち没後は寺内正毅・田中義一が受継いだ。
-20
点
山縣有朋の腹心で陸軍長州閥の軍政を担った桂太郎は、軍部から政府や国民の意見を排除するシステムを構築、さらに外征を前提とした軍拡路線を常態化させた。後の軍部暴走に直接的な責任はないが、シビリアン・コントロール崩壊に加担した罪は重い。

1848
年
長州藩の中級藩士桂與一右衛門の嫡子桂太郎が萩城下にて出生
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1860
年
宇和島藩士で幕府講武所教授の大村益次郎が木戸孝允の招聘で故郷の長州藩へ転籍、最先端の西洋知識で洋式軍制改革を推進
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1864
年
桂太郎が長州藩世子毛利元徳の小姓役に任じられる
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1866
年
将軍徳川家茂が大阪城で急死し徳川慶喜が徳川宗家の家督を相続、自身の長州大討入りを宣言するが小倉城陥落を知り断念
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1867
年
徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表
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1867
年
長州藩世子毛利定広が藩兵1千余を率いて上洛(薩摩藩を警戒し出兵に反対した大村益次郎は掛助役に左遷)
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1868
年
鳥羽伏見の戦いに官軍が圧勝~戊辰戦争始まる
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1868
年
明治天皇が徳川慶喜追討の親征を宣言、薩摩(西郷隆盛)・長州・佐土原・大村の東海道軍と薩長・土佐(板垣退助)など諸藩混成の東山道軍が江戸へ進発、徳川慶喜は小栗忠順ら主戦派を退け恭順派の勝海舟に全権を託す
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1868
年
盛岡藩に続き庄内藩が降伏、東北戦争終結
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1869
年
兵制論争、大久保利通・薩摩士族が大村益次郎の政府直轄軍構想を廃し薩長土供出の御親兵に決定、大村益次郎は木戸孝允に慰留され兵部大輔に就任(大村は弟子の山田顕義を兵部大丞に就ける)
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1870
年
桂太郎がドイツ留学
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1872
年
明治政府が陸軍省・海軍省を創設し御親兵を廃して近衛兵を設置
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1873
年
江藤新平司法卿の追及により尾去沢銅山汚職が事件化、井上馨が大蔵大輔を引責辞任し実業界へ転じる
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1873
年
桂太郎がドイツ留学から帰国
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1874
年
桂太郎が陸軍大尉に任官し山縣有朋の側近となる
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1876
年
廃刀令布告
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1877
年
木戸孝允が京都にて死去(享年45)、京都霊山護国神社に葬られる
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1878
年
大久保利通が紀尾井坂で不平士族に斬殺される(享年49)
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1878
年
桂太郎がドイツから帰国
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1879
年
伊藤博文の要請により井上馨が外務卿就任
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1882
年
軍人勅諭公布
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1890
年
第一回帝国議会開催
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1891
年
第一次松方正義内閣発足
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1896
年
桂太郎が第2代台湾総督就任
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1897
年
朝鮮が大韓帝国と改称
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1901
年
井上馨に組閣大命が下るが渋沢栄一の入閣拒否で頓挫
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1905
年
第二次日英同盟協約締結
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1905
年
大倉喜八郎が陸軍長州閥に追随し大陸進出を本格化させ本渓湖煤鉄公司を設立
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1911
年
桂太郎が公爵を受爵し貴族院議員就任
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1912
年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
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1912
年
再組閣を期す山縣有朋が直系の桂太郎を内大臣に押込める
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1913
年
桂太郎が死去(享年65)、加藤高明が同志会総理を継ぐ
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毛利敬親
主君
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毛利元徳
若様
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中谷正亮
叔父にして出世の糸口
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高杉晋作
長州藩の英雄
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木戸孝允
大恩人
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大村益次郎
大先生
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前原一誠
上司
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山田顕義
上司
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山縣有朋
終生のボス
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児玉源太郎
後任の陸相
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寺内正毅
後任
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田中義一
後任
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伊藤博文
ボスのライバル
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井上馨
伊藤の盟友
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鮎川義介
井上親族の政商
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児玉源太郎
偉大な先輩
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大倉喜八郎
長州系武器商人
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松方正義
ボスの超然仲間
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黒田清隆
ボスの超然仲間
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西郷従道
前任の陸相
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大山巌
上官
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川上操六
優秀な薩摩軍人
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山本権兵衛
優秀な薩摩軍人
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東郷平八郎
優秀な薩摩軍人
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板垣退助
ボスの政敵
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大隈重信
ボスの政敵
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九条道孝
戊辰戦争の上官
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西園寺公望
桂園次代のパートナー
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小村寿太郎
手下の外交官
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