
やまがた ありとも
山縣 有朋
1838年~1922年
0
点
奇兵隊幹部から運良く陸軍長州閥の首領に納まり汚職にまみれながら徴兵令を敷き外征のための軍事国家建設と政党弾圧に邁進、統帥権・軍部大臣現役武官制で文民統治を抹殺した軍部暴走の元凶
同じ時代の人物

基礎点
20
点
長州藩の庶民軍である奇兵隊から明治政府で長州系軍人のトップに立った山縣有朋は、徴兵令・鎮台制に基づく国民皆兵政策を主導し近代的軍隊創設に貢献した。欧米列強が植民地争奪競争を繰広げる当時の世界情勢にあっては、国防上も強力な軍隊の建設は不可避の国家的課題であり、軍拡路線自体は責められない。山縣有朋は、上位者の相次ぐ失脚・横死で軍首脳に納まり、大村益次郎の国軍建設プランを踏襲したに過ぎないが、強大な長州閥で陸軍を牛耳り文民統治を排除した政治手腕は並々ならぬものであった。明治の政局は要するに国内外協調派の伊藤博文と藩閥主義・軍拡派の山縣有朋の綱引きであり、個人的力量はともかく歴史的役割は大きかった。しかし、軍閥・政商の利益代表と化した山縣有朋は、軍事から政府や国民の干渉(文民統治)を排除するシステムを構築し、外征を前提とした軍拡路線を常態化させ、薩長藩閥に対抗する政党勢力を弾圧した。さらに、山縣有朋の極端な長州閥優遇人事に不満を溜めたエリート陸軍将校が結束し陸軍の実権を奪取、一夕会の永田鉄山・石原莞爾・東條英機・武藤章・田中新一らは満州事変以後の外征で暴走を深め日本を亡国の対米開戦へと引きずり込んだ。昭和陸軍の暴走は山縣有朋の没後のことだが、シビリアン・コントロールの崩壊を招いた罪は極めて重い。具体的には、大日本帝国憲法に天皇の「統帥権の独立」を規定して軍令が政府の干渉を受けない枠組みを整え、教育勅語などで天皇崇拝思想を浸透させて実効性の担保とし、軍部大臣現役武官制で内閣を打す力を獲得した。ただし軍事費予算については明治憲法上も帝国議会の承認を要する仕組みとなっており、実際に起った軍拡と外征は国民の総意であったといえる。
-10
点
若き日に剣術師範を志し奇兵隊から出世した山縣有朋は、政治家より「生涯一介の武弁」たることを誇りとしたが、軍政はともかく軍令や実戦指揮は不得手なようで、保守的な性格故か攻めに弱く、目立つ武勲が無いまま失策を繰返した。山縣有朋は、高杉晋作から奇兵隊を引継ぎながら功山寺挙兵で日和見を決込み(高杉が敗れると諸隊解散が確実な情勢となってから参戦)、戊辰戦争では薩摩藩の黒田清隆との主導権争いで北陸方面軍を混乱させ、日清戦争では首相経験者ながら陸軍第1軍司令官に志願し朝鮮に出陣したが、大本営の冬営命令に背いて無謀な突撃を敢行し味方に大損害が発生、超大物現地司令官の解任・内地召還という前代未聞の大失態を演じた。日露戦争が起ると、懲りない山縣有朋は総司令官に志願したが現場の意を汲んだ明治天皇の英断により日本国内に留め置かれ、代わりに大山巌・児玉源太郎コンビが日露戦争を勝利に導いた。なお、『坂の上の雲』で無能のレッテルを貼られた乃木希典の第三軍司令官就任は、山縣有朋の推挙によるものであった。
-10
点
公私混同は長州人共通の悪弊で、西郷隆盛に「三井の番頭」と面罵された井上馨が貪官汚吏の代表格だが、山縣有朋と陸軍長州閥も相当なものだった。山縣有朋は、生涯最大のピンチ「山城屋事件」を西郷隆盛に救われたが、三井・大倉喜八郎ら政商と癒着して汚職にまみれ、東京で「椿山荘」京都で「無鄰菴」の豪華庭園造りに励み、奇兵隊軍監時代に隊士の給料を着服していたことを幹部の三浦梧楼に暴露された。西南戦争後に論功行賞の遅れと減給に怒った近衛砲兵隊士が暴動を起したが(竹橋事件)、逸早く勲章をもらい椿山荘建築に精を出す山縣有朋陸軍卿ら軍首脳への不満が背景にあったと思われる。

1838
年
長州藩の中間山縣有稔の嫡子山縣小助(山縣有朋)が萩近郊阿武郡川島村にて出生
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1842
年
異国船打払令を緩和し薪水給付令施行
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1851
年
吉田松陰が東北旅行へ出奔、手続き不備のため脱藩の罪を得る
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1852
年
江戸桜田藩邸に戻った吉田松陰が萩へ召還され脱藩罪により士籍・家禄剥奪のうえ杉百合之助の「育み」とされる
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1854
年
吉田松陰が江戸伝馬町の獄舎で取調べを受け幕府より自藩幽閉を命じられる
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1855
年
長州藩主毛利敬親の温情により吉田松陰が病気保養の名目で野山獄を出され実家の杉家で閉門蟄居
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1858
年
木戸孝允が長州藩に出仕し大検使となり江戸番手を命じられる
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1858
年
大村益次郎が長州藩江戸藩邸に招かれ兵学書を講義、木戸孝允は大村を長州藩へスカウト
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1858
年
吉田松陰が長州藩庁に度々上書し藩政改革を提言、若手藩士の遊学や軍制改革の諸献策が容れられ松下村塾が活気付く(松陰の後押しで多くの塾生が遊学を許される)
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1858
年
大老井伊直弼の意を受けた老中間部詮勝が入洛し安政の大獄を断行
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1858
年
吉田松陰盟友の梅田雲浜が幕府に逮捕され翌年獄死(拷問死とも)
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1859
年
神奈川・長崎・函館開港
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1860
年
ロシア軍艦が対馬に侵攻するがイギリスの圧力で退去
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1860
年
宇和島藩士で幕府講武所教授の大村益次郎が木戸孝允の招聘で故郷の長州藩へ転籍、最先端の西洋知識で洋式軍制改革を推進
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1863
年
高杉晋作が長州藩主毛利敬親に召喚され馬関の防御を一任される
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1863
年
長州藩尊攘派が俗論党の坪井九右衛門を逮捕し野山獄で処刑
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1864
年
長州藩が高杉晋作を召還し脱藩罪により野山獄へ投獄
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1864
年
長州藩世子毛利定広の上洛・出兵に最後まで反対した周布政之助が逼塞に処される
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1864
年
来島又兵衛の遊撃軍300人が上方へ発進し久坂玄瑞・真木和泉が率いる諸隊が続く
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1864
年
長州藩主毛利敬親から全権委任された高杉晋作が有利な条件で馬関戦争の講和を実現、高杉は政務座役に復帰するがすぐに辞任
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1864
年
俗論党政府が奇兵隊ら諸隊の解散を命令、諸隊は結束して従わず
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1864
年
高杉晋作が長州へ舞戻り長府に駐屯する諸隊に決起を促す
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1864
年
奇兵隊総督の赤根武人が逃亡し軍監の山縣有朋が奇兵隊の事実上のトップとなる
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1865
年
高杉晋作が第二次長州征討に備えるべく戦時物資調達の責任者に就任、井上馨・伊藤博文を長崎へ派遣
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1866
年
薩摩藩が幕府からの再三の出兵要請を拒否し朝廷に長州再征反対を建白
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1866
年
将軍徳川家茂が大阪城で急死し徳川慶喜が徳川宗家の家督を相続、自身の長州大討入りを宣言するが小倉城陥落を知り断念
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1866
年
徳川慶喜が15代将軍就任
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1866
年
孝明天皇崩御
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1867
年
孝明天皇崩御に伴う大赦で長州系の三条実美ら五卿のほか九条尚忠・岩倉具視ら公卿が赦免される
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1867
年
伊藤博文が三十三人通士に昇格、京都出張を経て長崎に常駐し武器購入の任にあたる
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1867
年
高杉晋作が下関にて死去(享年27)、下関郊外吉田の清水山に埋葬される
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1867
年
島津久光が薩摩藩兵700を率いて上洛、西郷隆盛が先発し四候会議のお膳立て
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1867
年
薩摩藩・西郷隆盛が土佐藩・後藤象二郎からの出兵延期要請を拒否
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1867
年
徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表
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1867
年
朝廷が幕府の大政奉還を勅許
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1867
年
西郷隆盛と木戸孝允が山口で討幕挙兵を確認、西郷は薩摩へ
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1867
年
薩摩藩主島津忠義が藩兵3千を率いて上洛(軍司令官は西郷隆盛)
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1867
年
長州藩世子毛利定広が藩兵1千余を率いて上洛(薩摩藩を警戒し出兵に反対した大村益次郎は掛助役に左遷)
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1867
年
長州藩が朝廷により公式に赦免され藩主毛利敬親は従四位・参議に復帰
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1867
年
大阪城に退去した徳川慶喜が辞官納地を拒否、諸外国に徳川政権による外交継続を宣言
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1868
年
鳥羽伏見の戦いに官軍が圧勝~戊辰戦争始まる
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1868
年
明治天皇が徳川慶喜追討の親征を宣言、薩摩(西郷隆盛)・長州・佐土原・大村の東海道軍と薩長・土佐(板垣退助)など諸藩混成の東山道軍が江戸へ進発、徳川慶喜は小栗忠順ら主戦派を退け恭順派の勝海舟に全権を託す
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1868
年
西郷隆盛が東征大総督府下参謀(実質的司令官)に任命される
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1868
年
伊藤博文が明治政府に徴され外国事務掛、外国事務局判事、兵庫県知事などを歴任
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1868
年
西郷隆盛が独断で先鋒軍を率いて先発し箱根を占拠
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1868
年
東海道軍筆頭参謀の西郷隆盛が勝海舟との会談で総攻撃を中止し江戸城無血開城、長州藩の大村益次郎や佐賀藩の江藤新平は薩摩藩の専断に反発
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1868
年
河井継之助の長岡藩が降伏、北陸方面軍の山縣有朋隊は会津・黒田清隆隊は庄内へ転戦
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1868
年
明治政府が徳川宗家16代当主の徳川家達に駿府70万石を与える・徳川慶喜も駿府へ移され駿河宝台院で謹慎
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1868
年
明治天皇即位礼、明治に改元
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1868
年
西郷隆盛が薩摩藩北陸出征軍の総差引(司令官)を命じられ越後柏崎へ出征
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1868
年
盛岡藩に続き庄内藩が降伏、東北戦争終結
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1869
年
兵制論争、大久保利通・薩摩士族が大村益次郎の政府直轄軍構想を廃し薩長土供出の御親兵に決定、大村益次郎は木戸孝允に慰留され兵部大輔に就任(大村は弟子の山田顕義を兵部大丞に就ける)
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1869
年
大村益次郎が京都三条木屋町の旅館で会食中に急進的な兵制改革に反発する元長州藩士8人に襲われ大阪にて死去(享年46)、郷里の山口市鋳銭司に葬られる
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1871
年
西郷隆盛が明治政府に出仕し木戸孝允と共に参議(最高実力者)となる
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1872
年
大倉喜八郎が欧米旅行、岩倉使節団の大久保利通・伊藤博文らと交際
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1873
年
岩倉使節団が帰国
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1873
年
木戸孝允が憲法制定の意見書を提出
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1873
年
江藤新平司法卿の追及により尾去沢銅山汚職が事件化、井上馨が大蔵大輔を引責辞任し実業界へ転じる
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1874
年
参議の木戸孝允が兼文部卿・宮内省統括職を歴任
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1875
年
木戸孝允の持病の頭痛が悪化し左足が麻痺し半身不随となる
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1876
年
廃刀令布告
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1876
年
岩倉具視が華族会館館長に就き旧公家偏重の優遇政策を推進、旧大名・士族の反発を招く
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1877
年
木戸孝允が京都にて死去(享年45)、京都霊山護国神社に葬られる
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1878
年
大久保利通が紀尾井坂で不平士族に斬殺される(享年49)
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1878
年
山縣有朋に代わり西郷従道が陸軍卿就任(参議兼務)
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1879
年
伊藤博文の要請により井上馨が外務卿就任
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1880
年
板垣退助ら土佐派が国会期成同盟結成
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1882
年
軍人勅諭公布
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1883
年
鹿鳴館完成~外務卿井上馨の条約改正交渉
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1883
年
山縣有朋が内務卿就任(~1885)
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1884
年
松方デフレによる不況深刻化
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1886
年
井上馨が内閣臨時建築局を設置し官庁集中計画始動(井上失脚により頓挫)
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1890
年
府県制・郡制公布
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1890
年
第一回帝国議会開催
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1891
年
吉田松蔭・高杉晋作・久坂玄瑞・周布政之助・武市半平太・中岡慎太郎・坂本龍馬・吉村寅太郎・平野国臣・有馬新七・宮部鼎蔵ら明治維新の功労者に追贈正四位(有馬のみ従四位)
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1892
年
第二回衆議院総選挙、松方正義政府が大選挙干渉するも民党勝利
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1895
年
山縣有朋が貴族院議員となる
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1897
年
朝鮮が大韓帝国と改称
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1900
年
伊藤博文が貴族院議長就任
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1901
年
井上馨に組閣大命が下るが渋沢栄一の入閣拒否で頓挫
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1905
年
第二次日英同盟協約締結
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1905
年
大倉喜八郎が陸軍長州閥に追随し大陸進出を本格化させ本渓湖煤鉄公司を設立
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1907
年
伊藤博文が公爵に昇叙
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1908
年
山縣有朋が公爵に昇叙
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1911
年
不平等条約改正で完全平等達成(関税自主権の完全回復)
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1912
年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
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1912
年
再組閣を期す山縣有朋が直系の桂太郎を内大臣に押込める
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1913
年
桂太郎が死去(享年65)、加藤高明が同志会総理を継ぐ
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1914
年
大隈重信政府が日英同盟を名分にドイツに宣戦布告し南洋諸島・山東省青島を占領
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1915
年
井上馨死去
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1918
年
ソビエト政権がドイツと休戦協定(ブレスト・リトフスク条約調印)
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1919
年
自由民権運動のカリスマ板垣退助が死去(享年82)
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1919
年
寺内正毅死去
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1921
年
宮中某重大事件、山縣有朋の権威失墜
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1921
年
原敬首相が東京駅で暴漢に刺殺される(享年65)、高橋是清が政友会総裁を継ぐ
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1922
年
大隈重信が早稲田の自宅で死去し盛大な「国民葬」で送られる(享年83)
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1922
年
陸軍長州閥を築いた山縣有朋が政敵の伊藤博文・大隈重信・板垣退助や子飼の桂太郎・寺内正毅の誰よりも長寿を保ち84歳で死去
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毛利敬親
主君にして良き理解者
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毛利定広
敬親養嗣子の長州藩世子
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吉田松陰
出世の大恩人
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木戸孝允
気難しいボス
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高杉晋作
松下村塾の双璧・奇兵隊のボス
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久坂玄瑞
松下村塾の双璧・光明寺党のボス
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大村益次郎
暗殺された長州軍首領
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前原一誠
失脚した上司・萩の乱首謀者
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伊藤博文
松下村塾生・宿命のライバル
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井上馨
伊藤の大親友
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吉田稔麿
松下村塾の四天王
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入江九一
松下村塾の四天王
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品川弥二郎
松下村塾生
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山田顕義
松下村塾生・大村愛弟子のライバル
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赤根武人
松下村塾生の裏切り者
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寺島忠三郎
松下村塾生
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周布政之助
正義派首領
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広沢真臣
木戸舎弟
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来島又兵衛
困った過激派
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長井雅楽
正義派だが政敵
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浦靱負
正義派家老
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益田弾正
正義派家老
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椋梨藤太
俗論党首領
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滝弥太郎
奇兵隊幹部
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河上弥市
奇兵隊幹部
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三浦梧楼
奇兵隊三人衆・山田顕義一派
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鳥尾小弥太
奇兵隊三人衆・山田顕義一派
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三好重臣
奇兵隊三人衆
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時山直八
失策で死なせた親友
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山城屋和助
奇兵隊あがりの政商・疫病神
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大楽源太郎
諸隊反乱の首謀者
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桂太郎
先に死んだ陸軍長州閥後継者
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寺内正毅
先に死んだ陸軍長州閥後継者
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児玉源太郎
優秀な後輩
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乃木希典
無能扱いの後輩
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田中義一
陸軍長州閥後継者
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宇垣一成
陸軍長州閥後継者
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鮎川義介
井上親族の政商
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渋沢栄一
井上派財界人
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大倉喜八郎
長州系武器商人
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三条実美
長州系公卿
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姉小路公知
長州系公卿
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岩倉具視
薩摩系公卿
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真木和泉
困った扇動家
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平野国臣
困った扇動家
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島津久光
薩摩藩国父
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西郷隆盛
偉大な恩人
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大久保利通
偉大なボス
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小松帯刀
薩摩の執政
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桐野利秋
西郷子分で政敵
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篠原国幹
西郷子分で政敵
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村田新八
西郷子分で政敵
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黒田清隆
犬猿の仲の薩摩閥首領
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西郷従道
西郷隆盛弟・薩摩閥首領
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大山巌
西郷隆盛従弟・薩摩閥首領
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黒木為楨
優秀な薩摩軍人
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野津道貫
優秀な薩摩軍人
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奥保鞏
優秀な陸軍人
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松方正義
伊藤の手下
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山本権兵衛
日本海軍創設者
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山内容堂
武市を殺した土佐国主
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武市半平太
土佐勤皇党首領・久坂の盟友
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中岡慎太郎
長州系土佐浪士
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坂本龍馬
薩摩系土佐浪士
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谷干城
山田顕義一派の土佐軍人
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板垣退助
宿敵の民権カリスマ
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後藤象二郎
板垣の愚友
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大隈重信
懐柔した民権派
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福澤諭吉
大隈の黒幕
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岩崎弥太郎
大隈の金脈
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大木喬任
大久保舎弟
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江藤新平
征韓派
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副島種臣
征韓派
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勝海舟
海軍卿
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河井継之助
長岡藩の難敵
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小村寿太郎
桂太郎の盟友
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陸奥宗光
伊藤舎弟
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西園寺公望
伊藤後継者
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原敬
伊藤後継者
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永田鉄山
陸軍の反逆児
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東條英機
永田舎弟
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石原莞爾
陸軍の異端児
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