Yamadanagamasa

やまだ ながまさ

山田 長政

年~年

80

裸一貫でシャム(タイ)へ渡り中継貿易の利潤と日本人傭兵団の武力でアユタヤ王朝の軍事を握るが政争に敗れてリゴール王に左遷され毒殺された中世唯一の国際人、没後アユタヤ日本人町は焼払われ江戸幕府の鎖国により自然消滅

同じ時代の人物

Sunhyou

基礎点

80

山田長政は、裸一貫でシャム(タイ)へ渡り中継貿易の利潤と日本人傭兵団の武力でアユタヤ王朝の軍事を握るが政争に敗れてリゴール王に左遷され毒殺された中世唯一の国際人、没後アユタヤ日本人町は焼払われ江戸幕府の鎖国により自然消滅した。駿府馬場町の庶民の出自で、沼津藩主大久保忠佐の駕籠を担いだというから屈強な無頼青年であったろう、20歳のころ喧嘩で博徒を殺傷し国外へ逃亡したと伝わる。大御所徳川家康の膝元駿府は貿易船の往来も活発で、山田長政は清水港から朱印船に乗込み台南経由でアユタヤ日本人町に上陸、東南アジアを股に掛ける大仲買商人へ躍進する一方で津田又左右衛門が率いる日本人傭兵団に加盟した。チャオプラヤー川にパサック川が合流するアユタヤ(バンコク北郊)は古来物資の集積地で東南アジア貿易の商都として栄えたが、22代アユタヤ王のエーカートッサロットがオランダ・イギリスに門戸を開き中継貿易が興隆、市の南東に外国人居留地が現れ日本人町も形成された。一方、先代のナレースワン王の時代にアユタヤ王朝はビルマから独立を果したが豊かさ故に狙われ続け軍隊は脆弱、パタニなど南方のマレー系王朝を従えるも反乱に脅かされた。1611年ソンタムが後継王を簒殺し24代王位を奪取、敵国ビルマも雇うポルトガル人傭兵団から日本人傭兵団へ切替えると関ヶ原・大坂浪人・キリシタンや貿易商人がアユタヤに蝟集し日本人町は膨張した。日本人町・傭兵団の頭領に納まった山田長政は内乱や外征で武勲を重ねソンタムの信任を獲得、1621年ソンタムが徳川幕府に修好使節を派遣した際には老中土井利勝へ親書を送るなど斡旋の労をとり以後も幕閣と交流を続けた。1628年山田長政は王女を妻に迎え人臣最高位のオークヤーに栄達したが程無くソンタムが死去、長政は遺言に従い遺児を即位させるが政敵のプラーサートトーンが幼君を殺害し王位を簒奪、華僑勢力の圧力もあって長政はアユタヤから追出され南方マラッカの防衛拠点リゴールの王に左遷された。山田長政は反乱したパタニとの戦闘中に足を負傷し王の刺客に毒を塗られ落命、後継の嫡子は日本人に暗殺されアユタヤの日本人勢力は一掃された。

Shijitsu

1590

(詳細不明)山田長政が駿府馬場町の庶民の子として出生(紺屋に再嫁した女の連子とも)、長じて沼津藩主大久保忠佐の六尺(駕籠かき)となる

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1590

[小田原征伐・天下統一]後北条氏家臣猪俣邦憲による真田昌幸領侵犯・惣無事令違反を名分に豊臣秀吉が20万の大軍を率いて侵攻、支城を落とし小田原城を重包囲(大谷吉継・長束正家と共に忍城・館林城攻略を命じられ初めて実戦を指揮した石田三成は「猿真似」で水攻めを試みるが大失敗)、徳川家康(氏直は娘婿)が早期降伏を促すが断念、北条氏政・氏直父子は3ヶ月の「小田原評定」の末に結局降伏し後北条氏滅亡し(最後の説得役は軍師黒田官兵衛)秀吉は天下統一を達成~戦後仕置で秀吉は強敵家康から駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5カ国150万石を召上げ武蔵・伊豆・相模・上野・上総・下総の6カ国と下野・常陸の一部250万石へ移封、家康は黙って従い江戸城を本拠とし大規模都市開発に着手

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1590

[宇都宮仕置・奥州仕置]豊臣秀吉が大軍を率いて会津まで進み北関東・東北諸大名の領土再編を断行、佐竹義重(常陸太田城54万石)・最上義光(出羽山形城24万石)・南部信直(陸奥九戸城10万石)・相馬義胤(陸奥小高城4万8千石)・秋田実季(出羽秋田5万2千石)・小野寺義道(出羽横手4万7千石)・戸沢盛安(出羽角館4万4千石)・津軽為信(出羽津軽3万石)らは本領安堵、遅参した伊達政宗は本領72万石のみ安堵され本拠の会津も没収されて150万石から大減封(会津黒川城から米沢城へ移動)、反抗した葛西晴信・大崎義隆他は改易、没収領は蒲生氏郷に会津など42万石(伊勢松阪12万石から増転封、氏郷は黒川を若松に改名し増改築した鶴ヶ城へ転居、翌年再加増されて92万石)、木村吉清・清久父子に葛西・大崎領30万石(知行5千石から破格の出世)を付与、奥羽司令官任官且つ飛躍的増封ながら天下への夢絶たれ嘆く蒲生氏郷と領地奪回を企む伊達政宗の暗闘が勃発、仕置後の統治政策は検地奉行の石田三成が主導

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1590

関八州250万石へ移封された徳川家康が家臣団の領地を再編、「徳川四天王」の井伊直政(家康の養女婿)は上野箕輪城12万石(高崎城へ移動)・本多忠勝は上総大多喜城10万石・榊原康政は上野館林城10万石・酒井家次(忠次の嫡子)は下総臼井3万7千石(忠次が不満を訴えると家康は「お前も子が可愛いか」と信康事件の報復を仄めかす)、大久保忠世は相模小田原城4万5千石・嫡子の大久保忠隣は武蔵羽生2万石、後に台頭する本多正信は相模玉縄1万石に封じられ大名に列す

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1590

祖父の狩野元信が興した職業画家集団「狩野派」を引継ぎ織田信長・豊臣秀吉に寵遇され安土城・大坂城・聚楽第の障壁画や『聚光院障壁画(国宝)』『唐獅子図屏風(国宝)』『洛中洛外図屏風(国宝)』『檜図屏風』を制作した安土桃山文化の旗手 狩野永徳が東福寺法堂の天井画を制作中に過労死(享年47)、孫の狩野探幽が徳川幕府の御用絵師となり子孫は幕末まで日本画壇に君臨する

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1590

徳川家康家臣の服部半蔵正成が遠江に知行8千石を与えられ正式に伊賀・甲賀衆の支配役に任じられる

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1590

前田利家の家臣で中条流当主の富田重政(景政の婿養子で実父は山崎景隆)が佐々成政を撃退した「末森城の後巻」での一番槍・小田原征伐の武蔵八王子城攻めの武功により大名並みの1万3千石を与えられ「名人越後」と称される(武将としての知行だが1万石以上を得た兵法家は後の柳生宗矩のみ、ただし後嗣重康の没後に富田家と中条流=富田流は衰退する)

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1590

不行跡を改めない前田慶次郎利益が主君で義叔父の前田利家と衝突し出奔(改心を装って利家を茶の湯に招き水風呂に叩き込んでそのまま逃走したという伝説あり)、京都で気儘な浪人生活を送り「穀蔵院飄戸斎(ひょっとさい)」なるふざけた名乗りで里村紹巴・九条稙通・古田織部・細川藤孝ら一流文化人と交流(豊臣秀吉の諸大名饗応に紛れ込んだ慶次郎が「猿真似の猿舞」で秀吉をおちょくったという伝説あり)

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1591

豊臣秀吉の突然の命令により「利休道具」の錬金術と侘茶接待で大名統治に貢献した茶頭千利休が切腹(享年70)、千家は閉門となり茶頭は高弟の古田織部に引継がれるが蒲生氏郷・細川忠興ら「利休七哲」や徳川家康・前田利家の取成しで赦免され、孫の千宗旦の子が武者小路千家・表千家・裏千家を興し「三千家」は上流社会に憧れる庶民を惹きつけ全国に鼠講を張巡らせて今日まで繁栄を続ける

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1591

豊臣秀吉唯一の男児鶴松(生母は側室淀殿)が2歳で夭折

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1591

[身分統制令]豊臣秀吉政権による領民統治政策(明侵攻のための兵力と年貢米確保のための施策であり、世襲身分の固定化は企図せず)

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1591

[九戸政実の乱・奥州再仕置]北奥羽南部家で家督争いから一族の九戸政実が反乱挙兵、奥州仕置に反発する土豪一揆が呼応したが、京都から馳せ戻った蒲生氏郷が豊臣秀次・徳川家康の加勢を得て忽ち討平、秀吉は大崎・葛西一揆の戦後処理を兼ねて奥州大名再編を実施し氏郷は会津若松城42万石に7郡加増で92万石、木村吉清・清久父子は所領没収(氏郷の客将となる)、伊達政宗は出羽米沢城72万石から陸奥玉造郡岩出山城58万石(仙台北郊)への減転封、氏郷と政宗は秀吉の命を受けた前田利家の仲裁で一応和解

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1591

豊臣秀吉が明侵攻(唐入り)を宣言し前線拠点の肥前に名護屋城を築城、明の属国李氏朝鮮には道案内を要請するが双方に義理のある対馬領主宗義智のごまかしで交渉がこじれ激怒した秀吉は朝鮮征伐を断行

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1591

豊臣秀吉が姉日秀の子豊臣秀次に関白位を譲り太閤(前関白)となる

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1592

[文禄の役・朝鮮出兵開始]豊臣秀吉が明の属国李氏朝鮮に宣戦し当時世界最高の鉄砲装備を誇る日本軍を派遣(総大将は豊臣一門扱いの宇喜多秀家、総奉行石田三成、軍監黒田官兵衛・浅野長政、一番隊小西行長、二番隊加藤清正、三番隊黒田長政、四番隊島津義弘、五番隊福島正則、六番隊小早川隆景、七番隊毛利輝元ほか2隊と加藤嘉明・藤堂高虎・九鬼嘉隆・脇坂安治ら水軍隊の大編成で総勢15万余)、日本軍は戦わずに逃走する宣祖王・朝鮮軍を追って首都漢城を落とし平壌まで制圧し、加藤清正隊は更に宣祖王を追って朝鮮北辺に達し満州国境で臨海君・順和君の二王子を捕縛、水軍勢は釜山浦の戦いで李舜臣の朝鮮水軍を撃破するが、端から和平を望み秀吉をも欺く石田三成・小西行長・宗義智らと命令遵守の加藤清正・福島正則・黒田長政らの対立が深まる

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1592

織田信長を最も苦しめた本願寺顕如が死去(享年50)、嫡子教如が本願寺法主を継承するが武闘派のため豊臣秀吉に廃され穏健派の三男准如が法主に就任(西本願寺)、本願寺町奉行の下間頼廉は異議を唱え秀吉の勘気を蒙るが准如に忠誠を誓い赦免される(西本願寺刑部卿家)

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1593

軍監として朝鮮出兵に従った黒田官兵衛と浅野長政が石田三成・小西行長との確執により無断帰国、官兵衛は三成の讒言で豊臣秀吉の勘気を蒙るが剃髪入道して赦免される(如水と号す)

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1593

[碧蹄館の戦い]李如松率いる明の大軍(10万とも30万とも)が日本軍を急襲、休戦講和と偽られ攻め込まれた小西行長隊は平壌を放棄して漢城へ撤退し、後詰の大友義統隊は敵前逃亡(宗麟の嫡子。秀吉の逆鱗に触れて改易され戦国大名大友氏は滅亡、後に名門を惜しむ徳川家康が嫡子義乗を召抱え高家旗本として家名存続)、総大将の宇喜多秀家と石田三成・増田長盛・大谷吉継らの幕僚は漢城籠城を主張するが小早川隆景の反対で軍議は野戦に決定、先鋒を託された立花宗茂は兵3千弱を率いて漢城北方20キロ碧蹄館の隘路で決死の迎撃に打って出て2千余人を討取る快勝、毛利・宇喜多の本隊が押返されるなか立花勢の突撃と背後に回った小早川勢の奇襲により明軍を壊走させるが、漢城の食料貯蔵庫を焼かれた日本軍は明と講和し釜山まで撤退、秀吉には面従腹背で講和を進める三成・行長ら文治派と勇敢に戦ったのに讒言で貶められた加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派の対立が深刻化

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1593

豊臣秀吉の側室淀殿が嫡子拾丸を出産(豊臣秀頼)、淀殿は乳母の大蔵卿局・子の大野治長を重用して豊臣家の奥向きを掌握しつつ加藤清正(秀吉の又従兄弟)・福島正則(同従弟)・黒田長政(官兵衛の嫡子)ら北政所ライン(武断派)と敵対する石田三成(文治派)に接近し政治への介入姿勢を強める

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1593

[小金ヶ原の決闘]伊東一刀斎景久に命じられた小野善鬼と神子上典膳が流儀相伝を賭け真剣勝負し勝った典膳が一刀流を相伝(唯授一人)、徳川家康に招聘された一刀斎は忽然と消息を絶ち代わりに推挙した典膳が200石で召抱えられ徳川秀忠の兵法指南役に就任(典膳は小野忠明へ改名)、武芸一筋の忠明は将軍秀忠に嫌われるが一刀流は幕末まで柳生新陰流と並ぶ隆盛を誇る(明治維新後の剣道主査会の5人のうち2人は北辰一刀流・1人は小野派一刀流の系統、小野派と中西派を継いだと称する山岡鉄舟は一刀正伝無刀流を興す)

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1594

豊臣秀吉が男児の無い毛利輝元の養嗣子に羽柴秀俊(小早川秀秋。秀吉正室北政所の甥)を押付けるが小早川隆景は甥の毛利秀元への家督相続を主張して峻拒し代わりに小早川家の養嗣子に秀秋を迎え入れる、能島村上水軍の村上武吉・元吉父子は小早川家を辞して毛利輝元へ転籍(次男の村上景親は隆景死去まで小早川家に残留)

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1594

兵法大名の徳川家康が浪人中の柳生石舟斎宗厳を洛北鷹ヶ峯の居宅に招き試技、67歳の宗厳は素手で家康の木剣をもぎとって「無刀取り」の奥義を披露し(師の上泉伊勢守信綱から与えられた公案)感服した家康は宗厳の代わりに随行していた末子の柳生宗矩を200石で召抱える、宗矩は関ヶ原合戦後に旧領柳生の庄2千石を回復し将軍徳川家光に重用されて初代惣目付(大目付)から大和柳生藩1万石を立藩(江戸柳生)、宗厳嫡孫の柳生利厳も尾張徳川家の兵法指南役となり(尾張柳生)、柳生新陰流は将軍家お家流として隆盛を極める)

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1595

織田信長の娘婿で豊臣秀吉から奥州支配を託された蒲生氏郷が肥前名護屋で陣没(享年40。辞世:限りあれば 吹かねど花は 散るものを こころ短き 春の山風)、嫡子蒲生秀行は遺領収公の危機を逃れて会津92万石を相続するが、力量不足で徳川家康の抑え役は務まらず重臣の争い(蒲生騒動)を理由に宇都宮18万石へ減転封、会津には120万石で上杉景勝が入る(徳川家康の娘振姫を妻に迎えた秀行は関ヶ原合戦後に会津60万石に返り咲くが、後継の次男忠知の代で蒲生氏は無嗣断絶となる)

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1595

豊臣秀保(秀長の甥で婿養子)が後嗣無く急逝し大和豊臣家は断絶(謀殺説あり)、重臣の藤堂高虎は高野山で出家する素振を見せるが直ちに説諭に応じて豊臣秀吉に仕え一気に5万石を加増されて伊予板島(宇和島)7万石に封じられる

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1595

[秀次事件]豊臣秀吉が嫡子秀頼の後顧の憂いを絶つため(淀殿・石田三成が策動)甥の関白豊臣秀次を自害させ眷属悉くを三条河原で処刑、毛利輝元・浅野長政・伊達政宗・藤堂高虎・細川忠興・山内一豊ら秀次に近い諸大名にも追及が及び秀吉人気が急落する代わりに救済に奔走した徳川家康の株が上昇、武断派から首謀者と信じられた石田三成は近江佐和山19万4千石に加転封、秀次旧領の処分で秀吉は近江7万石を代官地として三成に、尾張清須城21万石を福島正則に、筑前・筑後30万7千石を小早川秀秋(秀吉の甥で隆景の養嗣子)に与える

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1595

豊臣秀吉が秀次事件の混乱終息を図り宿敵徳川家康を掣肘するため「御掟」五ヶ条と「御掟追加」九ヶ条を発令して合議制を制定、五大老には家康を取囲む形で与党の前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元・小早川隆景(間もなく家督を養嗣子秀秋に譲って筑前名島城に隠居し2年後に死去、大老職は上杉景勝が継承)を配し五奉行には子飼いの浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以を据える

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1596

[慶長の役・朝鮮出兵再開]日明双方に敵方降伏と偽った石田三成・小西行長の腹芸が明使沈惟敬の謁見で露呈し激怒した豊臣秀吉は再出兵を決定、総大将小早川秀秋率いる日本軍は計画どおり全羅道・忠清道を制圧し朝鮮南部を恒久領土化するため城郭群建築を開始するが、行長は敵に日本軍の兵糧不足を告げ「清野の計」(民を山に逃込ませ糧食の徴発を妨げる策)を教える売国行為も辞さず、三成は秀吉に讒言して講和を妨げる加藤清正ら武断派の排除を図る

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1596

[慶長伏見地震]伏見城が倒壊するが豊臣秀吉は無事、石田三成・小西行長の讒言により謹慎中の加藤清正が救護に駆けつけ感動した秀吉から朝鮮への出陣を許される(「地震加藤」と渾名される)、前年完成したばかりの方広寺大仏が倒壊

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1596

[蔚山城の戦い]築城中の朝鮮南岸蔚山城を明軍が襲撃、守将加藤清正は兵糧難の籠城戦に耐え毛利秀元・黒田長政・立花宗茂らの援軍到着により明軍を撃退し朝鮮南部を確保~軍監黒田官兵衛は自ら采配して長政の後詰を果し合戦後は石田三成派軍目付の讒言覚悟で戦線縮小を図る

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1597

[サン=フェリペ号事件・26聖人殉教]遭難したスペイン商船が土佐に漂着、豊臣秀吉政権は宣教師同乗を理由に積荷を没収、キリシタン大名による領民迫害やポルトガル商人による日本人奴隷売買が目に余る状況のなか船員が無敵艦隊による日本征服をちらつかせたため再び禁教令を公布、抵抗した京都のキリシタン26人(スペイン等外国人宣教師6人と日本人20人)を捕えキリシタンの多い長崎に送り処刑

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1597

元就没後の毛利家を宰領し豊臣秀吉の信任を得て安芸・備後・周防・長門・石見・出雲に120万石を保ち自身も筑前・筑後37万石と五大老職に封じられた小早川隆景が死去(享年65。親友の黒田官兵衛は「これで日本に賢人はいなくなった」と嘆く)、「器量の無い毛利輝元は天下の軍事に関わらず領国を堅守すべし、違えれば所領を失い身も危うくするだろう」との遺言が3年後の関ヶ原の戦いで的中、輝元は石田三成の甘言に釣られ西軍総大将に担がれるも南宮山の毛利軍は参戦せず小早川秀秋(隆景養嗣子)の寝返りで徳川家康に勝利を献上、恐怖した輝元は不戦のまま大阪城を明渡す醜態を晒し防長二州36万石に押込められる

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1597

[漆川梁海戦・鳴梁海戦]藤堂高虎・加藤嘉明・脇坂安治・来島通総の日本水軍が李舜臣率いる朝鮮水軍と激突し元均・李億祺・崔湖ら主将級を討取る完勝を収め制海権を掌握、陸軍と呼応して全羅道全域の掃討作戦を完遂

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1597

恩人の織田信長に反逆して自滅し晩年は豊臣秀吉に養われた室町幕府最後の将軍足利義昭が大坂で死去(享年61)、足利将軍家は断絶したが秀吉の取成しで古河公方・小弓公方の末孫足利国朝が下野喜連川に3500石を与えられ徳川家康に厚遇されて幕末まで喜連川藩として存続する

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1597

朝鮮水軍を撃破した藤堂高虎が大洲城1万石の加増を受け(合計8万石)本拠板島城の大規模改築を行い宇和島城へ改称、朝鮮役の論功行賞を巡り豊臣家臣団が武断派(加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興ら)と文治派(石田三成・小西行長・大谷吉継・宇喜多秀家ら)に割れるなか高虎は逸早く徳川家康に帰服し武断派懐柔に貢献する

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1598

豊臣秀吉が蔚山城合戦の失策を理由に小早川秀秋(秀吉の甥で隆景の養嗣子)を筑前・筑後30万7千石から越前北ノ庄15万石へ減転封、筑前・筑後は太閤蔵入地とし代官の石田三成が管理、秀吉没後すぐに秀秋は徳川家康の計らいで旧領を取り戻すが遺恨は関ヶ原寝返りの原因となる

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1598

[蒲生騒動]蒲生氏郷没後の会津藩で蒲生郷安と蒲生郷可・郷成らの内部抗争が発生、徳川家康への警戒を強める豊臣秀吉・石田三成は力量不足の蒲生秀行を宇都宮18万石へ移封し(会津92万石から減転封)上杉景勝を120万石で会津藩主・奥州司令官に起用(越後春日山90万石から増転封。出羽庄内は留め置かれたため上杉領は最上義光領により分断される)、三成と昵懇な直江兼続は秀吉の命により120万石のうち出羽米沢30万石を分与される

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1598

豊臣秀吉が五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)・五奉行(浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以)に嗣子豊臣秀頼の後見を念押しして死去(享年62、豊国大明神の神号で豊国神社に祀られる)、五大老・五奉行が朝鮮出兵中止を決定し撤兵開始、加藤清正・福島正則・黒田長政ら武断派の報復を恐れる石田三成は秀吉の喪秘をだしに家康・利家に取入ろうとするが術策が露見して逆効果・五奉行筆頭の浅野長政にも嫌われる

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1598

[泗川の戦い・日本軍圧勝のまま朝鮮出兵終結]豊臣秀吉没後直ちに日本軍が撤収を開始、明軍は蔚山・泗川・順天の三路から追撃に出るが、島津義弘が7千の手勢で10万余の敵軍を壊滅させるなど各方面で日本軍が完勝、水軍戦でも敵将李舜臣らを敗死させ殿軍島津義弘まで無事帰国

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1599

豊臣秀吉の遺言により前田利家が大坂城に入り豊臣秀頼を擁して徳川家康を掣肘するが、家康は堂々と秀吉の遺命を破り無断で伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則・加藤清正と婚姻を結び勢力扶植のため島津義弘・堀尾吉晴・細川忠興らへの知行加増を強行、前田利家ら四大老と五奉行をはじめ諸将が家康を糾弾し石田三成の策動(家康襲撃計画も)で一触即発の事態となるが、対決は時期尚早とみた家康の妥協により和解が成立、加藤清正・福島正則ら武断派に憎悪され利家ら味方にも不人気で追詰められた三成は上杉景勝・直江兼続と局面打開の密謀を凝らす

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1599

朝鮮役蔚山城合戦の失策を豊臣秀吉に咎められ越前北ノ庄15万石に減転封された小早川秀秋が徳川家康の計らいにより筑前名島30万7千石へ復帰

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1599

加賀・越中・能登の太守で豊臣秀吉が徳川家康の対抗馬に立てた前田利家が死去(享年62)、翌日加藤清正・福島正則・黒田長政・細川忠興・浅野幸長・池田輝政・加藤嘉明の7将が石田三成の大坂屋敷を襲撃、三成は佐竹義宣・上杉景勝・宇喜多秀家の助力で大坂から脱出し伏見城の家康に泣きついて難を逃れるが五奉行辞任・佐和山城退去の救済条件を呑まされ、三成失脚で家康が一層専横を強める結果となる

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1599

[加賀征伐(未遂)]徳川家康が本多正信の献策により前田利長(利家の嫡子)征伐を画策、利長は細川藤孝・宇喜多秀家を通じて豊臣秀頼に救援を求めるが断られ抵抗を断念・生母の芳春院(まつ)を江戸へ人質に送り養嗣子の前田利常と珠姫(徳川秀忠の娘)の縁談を受入れる、家康の信任を得た正信は天下簒奪に謀略を凝らす

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1599

[宇喜多騒動]宇喜多家執政長船綱直の死(毒殺説が濃厚)を機に戸川達安・岡利勝ら重臣が宇喜多秀家に反逆し大坂屋敷を占拠、秀家は逆臣討伐を宣するも宇喜多詮家(直家の甥)が戸川らに加担し一触即発の展開、徳川家康の裁定で首謀者の他家預けで決着し内乱は回避されるが主要な一門・重臣を失った宇喜多家は家勢を削がれる(家康に仕えた詮家改め坂崎直盛は関ヶ原・大阪陣の戦功で石見津和野藩4万3千石の大名に出世するが、豊臣家滅亡後の千姫強奪事件で切腹し家は滅亡)

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1600

蘭船リーフデ号が豊後佐志生に漂着、乗組員のヤン・ヨーステン(八重洲の由来)とウィリアム・アダムス(三浦按針)を徳川家康が家臣にする

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1600

井伊直政の策動により黒田長政が蜂須賀小六の娘糸姫を離縁して徳川家康の養女栄姫(実父は信濃高遠城主保科正直)と結婚・旗幟を鮮明にした長政は小早川秀秋ら豊臣恩顧大名や吉川広家ら毛利家重臣を東軍へ勧誘、直政は京極高次(淀殿の妹初の婿)・加藤貞泰・稲葉貞通(一鉄の嫡子)・関一政・相良頼房ら豊臣賜姓大名の調略も成功させる

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1600

[会津征伐]石田三成と直江兼続の密謀により会津120万石の上杉景勝が徳川家康の上洛命令を拒否し兼続は「直江状」で家康を挑発、家康は三成を誘うため敢えて計略に嵌り豊臣秀頼の命を得て諸将を従え上杉征伐に乗出す

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1600

石田三成が毛利輝元を総大将に担ぎ徳川家康征伐を宣言、在京阪の諸大名の妻子を人質とするが細川忠興の正室ガラシャの自害などで撤回、伏見城の守将鳥居元忠を血祭りにあげ(島津義弘は伏見城に馳せ参じるが警戒する元忠に拒否され已む無く西軍に加盟、小早川秀秋の長兄木下勝俊は元忠を見捨てて敵前逃亡)、輝元は豊臣秀頼を守って大阪城に陣取り(毛利勢は毛利秀元・吉川広家・小早川秀秋・安国寺恵瓊が率いて出陣)三成率いる西軍主力は東軍迎撃の拠点美濃大垣城に入り織田秀信(信長の嫡孫三法師)の岐阜城を調略

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1600

[小山評定]石田三成挙兵の報を受けた徳川家康が上総小山陣の評定で西軍打倒を宣言、黒田長政の根回しにより福島正則をはじめ豊臣恩顧大名が挙って賛同(加藤清正は熊本に在国。山内一豊は真先に掛川城提供を申し出ただけの功で関ヶ原合戦後に土佐20万石へ3倍加増)、会津征伐軍はそのまま東軍となり上杉・佐竹の抑えに宇都宮城に結城秀康の軍勢を残して大阪城の豊臣秀頼救出へ転進、岐阜城落城の報を受けた家康は江戸城を出陣し3万3千を率いて東海道を・秀忠率いる3万8千は中山道をとって前線拠点の名古屋城へ進軍、会津の直江兼続は追撃を説くが上杉景勝の拒絶で家康打倒の好機を逃し兵3万を率いて北の最上義光を攻める

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1600

[第二次上田合戦]会津征伐途上の天明宿(佐野)で石田三成の書状を受取った真田昌幸が甲斐・信濃二国進呈の餌に釣られて次男真田信繁(幸村、大谷吉継の娘婿)と共に西軍に加盟、兵2千5百で信濃上田城に籠城し徳川秀忠軍3万8千を足止めして関ヶ原合戦に遅参させる大功を挙げるが西軍大敗で目論みは瓦解(功に逸る秀忠は榊原康政・本多正信の諫止を聞かず大事の前の小事に固執、激怒・失望した家康は秀忠の廃嫡を考える)、東軍に属した嫡子真田信之(妻は本多忠勝の娘で家康養女の小松姫。昌幸領に3万石を加増され上田藩9万5千石を得る)の必死の嘆願で昌幸・信繁は辛くも助命され高野山へ追放される

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1600

[関ヶ原の戦い]石田三成の西軍が美濃大垣城から野戦に誘い出され関ヶ原で徳川家康率いる東軍を迎撃、西軍は兵数と布陣で有利な状況ながら吉川広家に抑えられた毛利勢の不戦と小早川秀秋の寝返りで大敗、大谷吉継(享年42)は戦死、石田三成(41)・小西行長(同43)・安国寺恵瓊(同62)は京都六条河原にて斬首、西軍主力の宇喜多秀家は改易のうえ八丈島に流罪、西軍総大将毛利輝元は偽りの領国安堵に釣られ鉄壁の大阪城を明け渡すが120万石から防長36万石へ大減封、上杉景勝は陸奥会津120万石から出羽米沢30万石へ減転封、佐竹義宣は常陸54万石から出羽久保田20万石へ減転封、島津義弘は家康の平定優先政策により辛くも免責、逆に最大加増者は毛利・小早川調略を担った黒田長政で豊前中津12万石から筑前福岡52万石へ加転封、漁夫の利で天下獲りを狙った黒田官兵衛は封土恩賞を辞退し筑前で悠々自適に余生を送る

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1600

井伊直政と娘婿の松平忠吉(家康の四男)が先鋒の福島正則を出抜き関ヶ原の戦いが開戦すると直政・黒田長政に篭絡された小早川秀秋・吉川広家の寝返りで東軍が完勝、直政は「島津の退き口」で負った鉄砲傷を悪化させながら戦後処理に奔走・周章狼狽する毛利輝元を本領安堵の偽約で大阪城から追出し、長宗我部盛親の改易処理と山内一豊の土佐入封支援、島津義弘との和平交渉、真田昌幸・真田信繁(真田幸村)父子の助命工作を主導、更に徳川家康の世子問題で娘婿の忠吉を後援する

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1600

越前北ノ庄15万石への減転封で石田三成を憎み筑前名島30万7千石への復帰で徳川家康に感謝する小早川秀秋(豊臣秀吉の正室高台院の甥で小早川隆景の養嗣子)が黒田長政を通じて東軍へ内応、関ヶ原南西の松尾山に陣取り戦闘を傍観するが家康の威嚇射撃で腰を上げ大谷吉継の陣を横撃(先鋒の松野重元は不義に怒って戦線離脱)、脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の寝返りを誘発して大谷隊を撃滅し吉継は秀秋に「人面獣心なり、三年の間に祟りをなさん」と叫んで自害、南宮山の毛利勢は吉川広家の寝返りで参戦せず、家康は本隊投入で総攻撃を掛け宇喜多秀家・石田三成を破り西軍は潰走、小早川秀秋は宇喜多旧領の備前岡山藩55万石に栄転するが祟りに怯えて発狂・寝返りを主導した重臣の稲葉正成(妻の春日局が徳川家光の乳母となり譜代大名稲葉家と堀田家の祖となる)・平岡頼勝は出奔し諫言した杉原重政を誅殺

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1600

関ヶ原合戦で西軍最大兵力を率いて石田三成・大谷吉継と共に奮戦した宇喜多秀家が小早川秀秋と刺違えようとするが明石全登(後に大坂陣で戦没)に制止され已む無く逃走、伊吹山中で落ち武者狩りに情をかけられ変装して海路西向し薩摩藩主島津義弘に匿われる、秀家の備前岡山城57万4千石は改易され秀秋が入封

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1600

[島津の退き口]西軍に属しつつも関ヶ原合戦を傍観した島津義弘が手勢(300人とも1500人とも)を率いて敵陣中央への強行突破を敢行、福島正則・小早川秀秋の陣を抜いて徳川家康の本陣前で転進すると追撃に出た井伊直政・本多忠勝・松平忠吉を「捨て奸」戦法で撃退(直政は鉄砲弾を受けて落馬し2年後に死去)、80名に減じながらも戦線を離脱した義弘一行は大和三輪山平等寺でほとぼりを冷まし難波津から海路薩摩へ帰還西軍に属して近江大津城を落とし守将に就いていた立花宗茂が撤退、大阪城に入って総大将の毛利輝元と増田長盛らに籠城抗戦を説くが容れられず憤慨して筑後柳川へ帰還(薩摩へ戻る島津義弘と同船)、、武備恭順策を採った島津義久・義弘は和平工作に励む一方で軍備増強を図り徳川家の明貿易船2隻を撃沈、内乱終息を優先する徳川家康は「西軍参陣は義弘の私闘」と断じて島津氏はお咎めなし、島津忠恒(義弘の次男)が薩摩藩56万石の初代藩主に就任

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1600

西軍に属して近江大津城を落とし守将に就いていた立花宗茂が撤退、大阪城に入って総大将の毛利輝元と増田長盛らに籠城抗戦を説くが容れられず憤慨して筑後柳川へ帰還(薩摩へ戻る島津義弘の船団と豊後まで同航)、逸早く投降し徳川家康から立花征伐を命じられた鍋島直茂軍を撃退するも黒田官兵衛・加藤清正の大軍が来襲し君臣全員の助命を条件に降伏、宗茂は清正から肥後玉名郡高瀬に住居を与えられ1万石を支給される(誾千代一派も肥後に引取られたが同郡腹赤村に別居)

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1600

小早川秀秋(隆景の養嗣子)が突如西軍に襲い掛かり吉川広家(元春の後嗣)が毛利秀元(輝元の養子)の参戦を遮ったため西軍は関ヶ原合戦で完敗、西軍総大将の毛利輝元は豊臣秀頼を擁し鉄壁の大阪城に陣取りながら周章狼狽し立花宗茂や毛利秀元の主戦論を退けて降伏開城、広家は開戦前に黒田長政・福島正則を通じて本多忠勝・井伊直政から本領安堵の起請文を得ており大阪城開城に際しても念押しの書状を受領したが反故にされ徳川家康は毛利家の取潰しと広家への周防・長門付与を通告するが最終的に輝元嫡子の毛利秀就に防長36万石の領有を承認(輝元は隠居するが実権は保持)、功労者の広家には岩国城3万石を立てさせるが毛利家では幕末まで支藩扱いされず、小早川秀秋は筑前名島30万7千石から宇喜多秀家旧領の岡山藩55万石へ増転封されるが祟りに怯え2年後に発狂死し無嗣改易

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1600

関ヶ原の戦いで石田三成に加担しながら豊臣秀頼の出陣や墨付きなどは許さず傍観の態を装った淀殿が感謝をもって徳川家康を大阪城へ迎え入れるが豊臣家は蔵入地を没収され大坂城65万石の一大名に没落、太閤秀吉の遺命にしがみつく淀殿は秀頼の上洛・臣従要求を「そんなことをするなら秀頼を殺して自害する」と感情的に拒絶し破滅へと突き進む

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1600

井伊直政に内応しつつ美濃大垣城に詰めた相良頼房・犬童頼安が秋月種長・高橋元種兄弟と共に東軍へ寝返り守将の福原長堯・熊谷直盛・垣見一直・木村由信らを謀殺、相良は肥後人吉藩2万石・秋月は高鍋藩3万石・高橋は日向延岡藩5万石を安堵される(相良藩・秋月藩は幕末まで存続)

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1600

関ヶ原合戦の漁夫の利を狙う黒田官兵衛が豊前中津で雑兵1万を掻き集めて挙兵、毛利輝元が派遣した大友義統(朝鮮出兵の敵前逃亡で改易された宗麟嫡子)の軍勢を別府石垣原の戦いで破り、怒涛の進撃で九州北半を制圧、立花宗茂・鍋島直茂・加藤清正を加えた4万の大軍で島津征伐に乗り込むが、予期せぬ西軍惨敗と毛利輝元の大阪城退去で早々に徳川家康の天下が固まり、家康と島津義久の和議成って肥後水俣で停戦命令を受け天下争覇の夢破れる

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1600

[慶長出羽合戦]会津征伐軍の上方転戦により最前線で孤立した最上義光領に上杉景勝・小野寺義道が侵攻、直江兼続率いる圧倒的軍勢を相手に江口光清の畑谷城は玉砕陥落するが長谷堂城の志村光安と鮭延秀綱・上山城の里見民部・湯沢城の楯岡満茂らは猛攻を凌ぎ、東軍勝利の報を得た伊達政宗・南部利直の助勢を得て上杉軍を撃退、義光は兜に被弾しつつも先頭切って上杉軍を追撃し十五里ヶ原の戦いで上杉に奪われた庄内を奪還(兼続は前田慶次郎らの奮闘で鮮やか撤退戦を演じ家康・義光からも賞賛される)、義光は徳川家康から孤軍奮闘の功を賞され出羽山形城主24万石に庄内等を併せ57万石へ大加増、義光は山形城・城下町の整備と商業奨励、酒田港へ通じる街道・水運の整備、治水工事と開墾等の産業振興に尽力

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1600

前田慶次郎利益(前田利家の義甥)が上杉景勝に1千石で出仕し(三本の大根を持参し「この大根のように見かけはむさ苦しいが、噛みば噛むほど滋味の出る拙者でござる」と述べたという伝説あり)慶長出羽合戦・長谷堂城の戦いで武功を立てる(慶次郎は図々しくも「だいぶへんもの(大武辺者)」の旗指物で出陣し反発した上杉家臣を「大分変者」と煙に巻くが合戦では単騎最上勢に乗入れを睨み帰したという伝説あり)、慶次郎は陸奥会津120万石から出羽米沢藩30万石へ大減封された上杉景勝に従って米沢藩士となり郊外の堂森(慶次清水)に隠棲し古典研究や和歌・連歌に遊ぶ自適の余生を送る

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1600

伊達政宗が徳川家康から得た「百万石のお墨付」を既成事実化するため西軍諸大名を攻撃、直江兼続率いる上杉軍が最上義光領へ侵攻すると援軍を送って刈田郡湯原城を攻略し北方の南部利直領内で一揆を扇動、上杉軍が撤退すると自ら出陣し南進するが本庄繁長の福島城を落とせず家康の叱責により渋々矛を収め撤収、戦後若干の加増を受けて62万石の封地が確定し岩出山城南方13里の千代に新本拠の造営を開始(仙台へ改名)

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1600

東軍に属して九州で戦い宿敵小西行長の宇土城・八代城を攻落とした加藤清正(肥後熊本城25万石)が小西領を併せて肥後一国54万石に加増され熊本城の大改築に着工(6年後に完成し隈本から熊本へ改名)、朝鮮式築城術に範を取ったよじ登れない「はねだし」の石垣が注目され築城名人と賞される(明治維新後の西南戦争で鎮台の置かれた熊本城は西郷隆盛軍の猛攻に遭うが崩されず)

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1600

豊臣恩顧大名のなかで真先に徳川家康に帰服して武断派大名の懐柔に奔走し関ヶ原合戦では脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱・赤座直保らの寝返工作を担った伊予宇和島城主の藤堂高虎が伊予今治12万石を加増され(合計20万石)外様ながら譜代大名格の厚遇を受ける、高虎は4年後に今治城を築き居城を移転

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1601

上杉景勝・直江兼続が上洛して徳川家康に陳謝し改易は免れるも陸奥会津120万石から出羽米沢藩30万石(置賜・信夫・伊達3郡)へ減転封、「不識庵」上杉謙信以来の格調を保つため家臣団圧縮を控えた米沢藩の財政は逼迫し兼続は治水・開墾・殖産興業に注力(日本屈指の貧乏藩と揶揄され続けるが名君上杉鷹山の藩政改革で汚名返上)

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1601

徳川家康が全国規模の幕藩体制を見据え譜代大名の領地を再編、関ヶ原で戦功を挙げた井伊直政(家康の娘婿)は上野高崎城12万石から近江佐和山城18万石(のち彦根城へ移動)・本多忠勝は上総大多喜10万石から伊勢桑名10万石(次男の本多忠朝が大多喜5万石を承継)へ移封、関ヶ原遅参の徳川秀忠隊に属した榊原康政は上野館林城10万石・本多正信は相模玉縄1万石に据置き、秀忠側近の大久保忠隣は上野高崎13万石を固辞し相模小田原6万5千石に留任

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1601

大和で西軍大名の諜報蒐集に任じ関ヶ原合戦でも活躍した柳生宗矩(宗厳の末子)が旧領の大和柳生の庄2千石を含む3千石を与えられ徳川秀忠の兵法指南役に就任、同役の小野忠明(小野派一刀流)は当時最強の剣豪ながら無骨で強弱に固執する余り秀忠に嫌われ退けられる

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1601

[天下二分の誓約](年次不祥)上泉伊勢守信綱の門下筆頭を自負する丸目蔵人長恵(肥後相良藩士)が新陰流正嫡を称し将軍家兵法指南役に就いた柳生宗矩(宗厳の末子)に張合い決闘を申込むが利口な宗矩は「天下に二人のみの達人を一人とて喪うのは惜しい」と謝辞し徳川家康は「東日本の天下一は柳生、西日本の天下一は丸目」と裁定(長恵は柳生との対決に固執する次男の丸目半十郎を猪狩りに誘い鉄砲で射殺したとも伝えられる)、長恵は娘婿の八左衛門にタイ捨流と家督を譲って隠居し球磨郡切原野(錦町)で開墾に勤しむ

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1601

関ヶ原合戦で毛利輝元家臣の村上元吉・景親(武吉の子)が毛利水軍を率いて蜂須賀家政の阿波猪山城を攻落とし加藤嘉明の伊予松前城を攻めるが佃十成の夜襲で元吉が落命し(三津浜夜襲)景親は細川忠興や池田輝政の招聘を断って毛利家に残留するが長州藩船手組組頭の微役で生涯を終える(元吉・景親の能島村上氏は因島村上氏と共に同職を世襲)、西軍に属した来島長親(来島通総の嫡子)は伊予風早郡1万4千石を没収されるが福島正則の取成しで赦され山間の豊後森藩1万4千石を与えられ大名に復帰(来島村上水軍は解体されるが子孫は久留島へ改姓し幕末まで森藩を保つ)

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1602

徳川家康に属しガラシャ夫人を殺されつつも関ヶ原合戦で奮闘した細川忠興が丹後宮津12万石から豊前中津33万9千石へ加転封され(豊後杵築6万石と併せ39万9千石)黒田官兵衛が築いた中津城から新築の小倉城へ藩庁を移動、忠興は家康に忠誠を示すため嫡子忠隆に正室(前田利家の娘)との離縁を迫るが背いたため勘当・廃嫡、父の細川藤孝は京都吉田の隠居所で悠悠自適の文芸生活に入る

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1602

武田遺臣の精鋭と「赤備え」を継いで武功を重ね武田の精鋭と「赤備え」を率いた「徳川四天王」の出世頭にして家康の外交を担い関ヶ原の戦いで寝返り工作を決めた井伊直政が「島津の退き口」で受けた鉄砲傷が元で死去(享年41)、近江佐和山藩18万石を継いだ次男井伊直孝は将軍徳川秀忠・家光の信任を得て大政参与に補され譜代筆頭彦根藩30万石(35万石格)を確立

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1602

豊臣家の強大な財力削減を目論む徳川家康の勧めに乗せられた淀殿・豊臣秀頼が秀吉の追善供養のため畿内の寺社修築に散財、再建途中の方広寺大仏・大仏殿が失火により焼失

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1602

立花宗茂が共回り19人を従えて肥後を出奔(小野和泉以下の家臣は肥後に留まり加藤清正の家臣となる。間もなく別居の妻誾千代は病没)、乞食・虚無僧や人夫働きで家臣に養われつつも加賀藩主前田利長(利家後嗣)からの10万石での招聘を「腰抜けの分際で生意気申すな」と撥ね付けたが、京都から江戸高田宝祥寺へ移動すると尺八吹きで托鉢をしていた十時摂津が狼藉者3人を斬捨てた事件が将軍徳川家忠の耳に届き1604年5千石の相伴衆に取立てられ、2年後に奥州棚倉藩1万石で大名に復活し大坂陣で活躍、1620年10万9千石で筑後柳川藩主に返咲く(宗茂に従って武功を挙げた実弟の立花直次は筑後三池藩1万石を立藩)

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1602

徳川家康が本多正信(かつて三河一向一揆を主導し徳川家を出奔)の献策により一向一揆の復活を阻むべく京都烏丸六条に顕如の嫡子教如を法主とする東本願寺を創建、三弟准如を擁する京都堀川六条の西本願寺との間に現在まで続く泥仕合が始まる(下間頼廉の刑部卿家は西本願寺に仕えるが孫の下間頼良は東本願寺支持に廻る)

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1602

関ヶ原合戦の寝返りで備前岡山藩55万石に栄転するも祟りに怯えて発狂し家臣団に見放された小早川秀秋が突然死(享年21)、毛利元就の三男隆景が興し五大老の格式を誇った小早川家は徳川政権初の無嗣改易となり関白豊臣秀次・秀勝・秀保兄弟(秀吉の姉日秀の子)に続く秀秋(高台院の甥)の滅亡で豊臣一門大名は宗家秀頼を除いて消滅(高台院の実家木下家と養家浅野家は大名として存続、秀秋を見限り出奔した稲葉正成は前妻の春日局が徳川家光の乳母となり実子の堀田正盛と共に譜代大名に引き立てられる)、岡山藩には姫路藩主池田輝政(徳川家康の娘婿)の次男忠継が28万石で入封

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1603

[徳川幕府発足]徳川家康が征夷大将軍就任、新築した二条城に入る

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1603

豊臣家との宥和を図る徳川家康が後嗣秀忠の娘千姫(7歳)を豊臣秀頼(10歳)に入輿させるが、淀殿は妹の刑部卿局(千姫の乳母)を側近に加え現実を直視せず感情的な抵抗を続ける(秀頼と千姫の子への政権禅譲を期待したとも考えられる)

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1603

徳川幕府の圧力に屈した薩摩藩主島津忠恒(実権は父義弘が保持)が元備前岡山城主宇喜多秀家を引渡す、秀家は加賀藩主前田利長(前妻豪姫の兄)の懇願で助命され駿河久能山に3年幽閉されたあと八丈島へ流罪、秀家は三児と共に前田利長・利常および花房正成(宇喜多騒動で出奔し前田家に仕官)の援助を得て50年も生延び流人のまま最後の関ヶ原武将として83歳で死去、子の秀高・秀継の子孫が八丈島に根付き宇喜多直家・秀家の血脈を伝える

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1603

徳川家康の肝煎りで京都・堺・長崎の商人が糸割符仲間を結成

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1603

敵対する盗賊向崎甚内(武田信玄の寵臣高坂昌信の子孫とも)の密告により徳川幕府が風魔小太郎(後北条忍者の頭目)を捕殺

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1604

豊臣秀吉を天下人に押上げ関ヶ原合戦で天下争覇に夢を馳せた黒田官兵衛が筑前で死去(享年59)、最期にキリシタン信仰を明示し後継の黒田長政に宣教師厚遇を遺言

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1604

(詳細不詳)剣術で立身を期す宮本武蔵が上洛し吉岡道場(鞍馬山の鬼一法眼を祖とする京八流の一流)を挑発、洛北蓮台野で当主の吉岡清十郎(16代吉岡憲法)に勝利し挑み来た弟の吉岡伝三郎を斬殺、吉岡一門100余名が5歳の吉岡又七郎(清十郎の嫡子)を担ぎ報復に出るが武蔵は又七郎を殺し包囲を破って遁走(生き残った清十郎は道場を畳み家業の染物屋に専念したとも)、武蔵は剣豪を求めて諸国を巡歴し手段を選ばない流儀で勝利を重ね江戸に滞在したのち上方へ戻る(神道流杖術の夢想権之助を相手に二刀流を試す。奈良興福寺の宝蔵院胤栄・胤舜、鎖鎌の宍戸某、柳生新陰流の大瀬戸隼人・辻風左馬助らとの仕合は史実に無い。柳生石舟斎宗厳は「あの男は獣のにおいがする」と面会を拒否したいう)

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1605

徳川家康が徳川秀忠を2代将軍に擁立し徳川氏による世襲将軍制(政権を豊臣家に返上しないこと)を明示、秀忠側近の大久保忠隣(武功派)と家康側近で結城秀康を推した本多正信・正純父子(吏僚派)の対立が顕在化する(亡き井伊直政は娘婿の松平忠吉を推薦)

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1605

徳川家康が豊臣家から南蛮貿易拠点の肥前長崎を奪い天領とする

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1605

服部半蔵正就(正成の嫡子)が組下の伊賀同心200人を家臣の如く酷使したため総反発に遭って支配役を解任され首謀者に報復を図るも別人斬殺で改易される(正就は大坂陣で戦死し、4代目服部半蔵を襲名した弟の正重は舅の「大久保長安事件」に連座し改易されるが桑名藩主松平定綱(正就の義兄弟)に拾われ家老職と2千石を世襲し、正就嫡子の服部正辰も3千石で桑名藩に拾われ家は幕末まで存続する)

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1605

ビルマからの独立を果したアユタヤ王朝の英雄ナレースワンがビルマ国境で陣没、12代国王に即位した弟のエーカートッサロットはビルマとの戦争を避け内政と貿易外交に注力

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1607

徳川家康が駿府城に移るが幕府の実権は留保し(大御所政治)大御所側近の本多正信・正純父子(吏僚派)と将軍徳川秀忠側近の大久保忠隣・長安および正信を憎む本多忠勝ら(武功派)の対立が先鋭化、正信は秀忠付の年寄(老中)として幕閣を監督し権勢を握り更に武功派の恨みを買う

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1607

戦争捕虜の回収を目的に朝鮮通信使が来航、以後徳川将軍の代替わりや世継ぎの誕生の都度祝賀使節が派遣される

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1607

鍋島直茂の主家簒奪に憤る龍造寺高房(隆信の嫡孫)が江戸桜田藩邸で妻(の養女)を刺殺して自殺未遂を起し佐賀に戻って自殺決行、僅か1ヵ月後に父の政家も死去し龍造寺嫡流は断絶(隆信弟の信周・長信の子孫は龍造寺四家として鍋島一門に準じる優遇を受け存続)、後顧の憂いを断ち肥前佐賀藩32万石を完全掌握した直茂は嫡子鍋島勝茂を初代藩主に据える

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1607

アユタヤ王朝のエーカートッサロット王がオランダに貿易使節団を派遣(タイ史上初の遣欧使節)、続いてイギリスに接触しアユタヤ・パタニでの商業活動を認可

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1608

徳川家康が側近の本多正純を下野小山藩3万3千石の大名に登用(老中首座の父本多正信は加増を固辞し死ぬまで相模玉縄1万石に留まる)

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1609

[琉球征伐]謝恩使派遣を拒否した琉球王朝の討伐を徳川幕府が承認、島津忠恒が80隻・3千人の軍勢を派遣すると首里城の尚寧王はほぼ戦わずに降伏、忠恒に伴われた尚寧王は駿府城で徳川家康・江戸城で秀忠に謁見し「琉球は古来島津氏の附庸国である」ことと琉球国王の代替り毎に謝恩使・徳川将軍の代替り毎に慶賀使を派遣する旨を誓約、奄美群島の直轄領編入と琉球支配(尚王朝による間接統治)・貿易管轄権を獲得した薩摩藩は実高90万石(表高77万石)へ躍進し幕末雄藩への礎を築く

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1610

戦国屈指の文化人大名で足利義昭・織田信長・明智光秀・豊臣秀吉・徳川家康と主を替え肥後熊本藩54万石の開祖となった細川藤孝が隠居地の京都屋敷にて死去(享年77)

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1610

武田信玄・豊臣秀吉も羨んだ「徳川四天王」最強武将の本多忠勝が死去(享年63)、伊勢桑名藩10万石を継いだ嫡子の本多忠政は嫡子忠刻が千姫(徳川秀忠の娘)を娶り逆玉の輿で播磨姫路藩15万石へ栄転、上総大多喜藩5万石の次男本多忠朝の系統とあわせ忠勝の子孫から6大名家を輩出したが零細化し幕末には本家の三河岡崎藩5万石と播磨山崎藩1万石のみ存続

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1610

山田長政が駿府商人が仕立てた台湾行きの御朱印船 「富士丸」 に乗込み駿河清水港を出帆し(喧嘩で博徒を殺傷し国外逃亡したとも)台南でシャム行き便船に乗換えアユタヤの日本人町に上陸、貿易で頭角を現した長政は東南アジアを股に掛ける大仲買商人となり一方で津田又左右衛門が率いる日本人傭兵団に加盟

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1611

加藤清正・福島正則・浅野幸長らが淀殿を説き伏せ豊臣秀頼が京都二条城に伺候し徳川家康と会見、清正は万一に備え家臣5百人を洛中・伏見に潜伏させ自らは懐中に短刀を忍ばせて秀頼を護衛

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1611

徳川家康を苦しめた西軍の敗将真田昌幸が次男の真田信繁(真田幸村)に打倒徳川の秘計を残し幽閉地の高野山九度山村にて死去(享年65)

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1611

豊臣秀吉の母の従妹の子で石田三成憎しで徳川家康に与し肥後熊本藩54万石の太守となるも豊臣家滅亡を招いた加藤清正が失意のうちに死去(享年49)、後嗣加藤忠広は老中土井利勝に改易され加藤家は断絶するが熊本の「清正公」人気は今日でも藩主細川氏を凌ぐとなるも豊臣家滅亡を招いた加藤清正が失意のうちに死去(享年49)、後嗣加藤忠広は老中土井利勝に改易され加藤家は断絶するが熊本の「清正公」人気は今日でも藩主細川氏を凌ぐ

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1611

アユタヤ王朝のエーカートッサロット王が長子のスタット親王を処刑したのち死去しシーサオワパークが即位するが間もなくクーデターが起り弑殺犯のソンタム(エーカートッサロットの子)が24代国王に就任、ソンタムが敵国ビルマも雇うポルトガル人傭兵団から津田又左右衛門が率いる日本人傭兵団(600人とも)に切替えると関ヶ原・大坂浪人・キリシタンや貿易商人がアユタヤに蝟集し日本人町は隆盛(最盛期に1500人とも)、中継貿易で財を成し日本人町・傭兵団の頭領に納まった山田長政は内乱や外征で武勲を重ねソンタムの信任を得てルアンの官位を授かる

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1612

徳川幕府直轄領にキリスト教禁止令、キリシタンでないことを仏教寺院に証明させる寺請制度を創設(宗門人別帳に発展)

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1612

徳川幕府が寺院諸法度による仏教教団の保護・統制政策を開始

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1612

[岡本大八事件]本多正純の家臣岡本大八が有馬晴信にお家最高を持ちかけ賄賂を詐取した罪で火あぶり刑(有馬も死罪)、将軍徳川秀忠側近の大久保忠隣・長安(武功派)が大御所徳川家康側近の本多正信・正純父子(吏僚派)に巻返しを図る

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1612

[巖流島の決闘]豊前小倉藩の剣術師範で西国一円に剣名を馳せる佐々木小次郎(富田勢源に長大剣「物干し竿」を仕込まれた中条流随一の強豪で、越前一乗谷を出奔して諸国を遍歴し秘剣「燕返し」と「巖流」を創始)に宮本武蔵が挑戦し藩主細川忠興の許可を得て小倉沖舟島(巖流島)で対決、武蔵は二時間も遅れて到着し出会い頭の一撃で小次郎を撲殺(享年は60歳前か。手段を選ばぬ武蔵は約を違えて弟子を同行し倒した小次郎を共に打殺したとも)、巌流と佐々木小次郎の盛名は忽ち消えうせ(1776年に武蔵の伝記物語『二天記』が世に出て復活)後に細川家の後釜には武蔵が座る

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1612

「巖流島の決闘」で佐々木小次郎を斃し13歳から29歳まで60余の真剣勝負に全勝を収めた宮本武蔵が血闘に終止符を打ち円明流の普及と仕官探しに専念し水野勝成(忠勝の嫡子)ら徳川譜代大名に接近を図る

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1613

[大久保長安事件]将軍徳川秀忠側近の大久保忠隣(武功派)の腹心で徳川家の金銀山経営を統括した大久保長安(金春流猿楽師の下層民の出自で武田信玄に仕え徳川家に移籍)が死去、大御所家康側近の本多正信・正純(武功派)は膨大な遺産を不正蓄財と断罪し長安の一族郎党を処刑

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1613

[慶長遣欧使節]仙台藩主伊達政宗が徳川幕府の許可を得てガレオン船を建造し正使ルイス・ソテロ-副使支倉常長を通商交渉のためスペインへ派遣(キリスト教禁止へ傾く徳川幕府への軍事介入を要請したとも)、一行180人はメキシコ経由で日本人初の太平洋・大西洋横断を果しソテロ・常長はマドリードでスペイン国王フェリペ3世・ローマで教皇パウルス5世に謁見、1620年に帰藩した常長は棄教を受入れ2年後に病没し密入国したソテロは長崎大村にて火刑に処される(使節が長期滞在したセビリア近辺コリア・デル・リオには現在支倉常長像が建てられ従者の子孫を称するJapon・Xapon姓の住民が数百人存在する)

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1613

敵対する盗賊鳶沢甚内(後北条の遺臣)の密告により徳川幕府が向崎甚内(武田信玄の寵臣高坂昌信の子孫とも)を捕殺、瘧(マラリア)のために捕縛されたことから浅草甚内神社は瘧治癒で崇敬され、鳶沢甚内は目明し兼古着商支配役を世襲し住地富沢町の名の由来となる

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1614

大御所家康側近の本多正信・正純父子(吏僚派)が大久保長安事件と豊臣秀頼への内通を口実に将軍秀忠側近の大久保忠隣(武功派の総帥)を改易に追込む

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1614

方広寺鐘銘事件の罠に嵌った大阪城の淀殿・豊臣秀頼が徳川幕府に宣戦、大野治長(淀殿の乳母の子というだけで家老に出世した凡将)の招聘を受けた真田信繁(幸村)が参陣を受諾(条件は50万石とも)、真田を恐れる徳川家康は上田藩主真田信之(信繁の兄)・大和五条領主松倉重政を送り勧誘するが信繁は拒否し手勢130人と高野山九度山村を脱出し大阪城入城、長宗我部盛親・毛利勝永・後藤又兵衛・明石全登と共に浪人軍「五人衆」に迎えられ兵5千を託されるが、治長らに兄への通謀を疑われ信義を明かすため大阪城の弱点南方に孤立無援の「真田丸」を構築、信繁は「先制攻撃で京都を押さえ近江瀬田で関東勢を防ぎ、時間を稼く間に秀頼自ら出陣して豊臣恩顧大名の離反を誘うべし(だが貫禄不足の幸村が説いても誰も従うまい)」という父真田昌幸の秘計を開陳、又兵衛ら老練者は賛同するも治長らに退けられ已む無く籠城策に従い真田丸に籠る

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1614

[大坂冬の陣]徳川家康が20万の大軍を率いて豊臣秀頼の大阪城を攻撃、孤立無援の真田丸に兵5千で籠る真田信繁(真田幸村)は前田利常・松平忠直・井伊直孝・伊達政宗・藤堂高虎・松倉重政の寄せ手を奇計を以て散々に痛撃し、信濃一国を条件に投降を勧める家康の誘いを拒絶、後藤又兵衛らの浪人軍10万も奮戦して鉄壁の大阪城を守り抜くが、戦知らずの豊臣家家老大野治長(淀殿の乳母の子)の差配で勝機を逸し、徳川方の大砲が本丸に着弾し侍女8名の圧死に怯えた淀殿が不利な講和を強行、真田丸は真先に破壊され欺かれて内堀まで埋められた大阪城は裸城となる

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1615

井伊直政没後の家督争いを徳川幕府が裁定し次男井伊直孝に近江彦根藩15万石を継がせ病弱(素行不良)の長男井伊直勝には上野安中藩3万石の分知で決着、直孝は将軍秀忠から3代将軍家光の大政参与(後の大老職)に任じられ家光政権を支えて35万石に加増され譜代筆頭の家格を固める

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1615

[大坂夏の陣・元和偃武]淀殿・豊臣秀頼が大阪城からの浪人退去か移封かの講和条件を断固拒絶すると、徳川家康は15万余の大軍を率いて大阪城を再攻、裸城の大坂方は打って出るほかなく早々に後藤又兵衛・木村重成が戦死、真田信繁(真田幸村)は伊達政宗の騎馬鉄砲隊を撃破して(道明寺の戦い)茶臼山に陣取り敵の背後を衝く起死回生の陽動作戦を講じるが淀殿が秀頼の出馬を拒絶し挫折、信繁は愛槍「十文字槍」を振って突撃し松平忠直の越前勢1万5千を切崩し本陣に迫るが力尽き討死(享年49)(天王寺口の戦い、家康は二度も自害を覚悟したという)、長宗我部盛親・毛利勝永・明石全登(生存説あり)も討たれて大阪城は落城し淀殿は助命嘆願虚しく秀頼と共に城中で自害(享年46)(戦犯の大野治長も自刃、真田幸昌は父信繁の命令で大阪城へ戻り秀頼の自害を見届けた後に傍らで切腹)、豊臣家を滅ぼした家康は秀吉=豊国大明神の神号も剥奪し徳川の一人勝ちで戦国時代は終結

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1615

大坂陣の先鋒大将水野勝成と対立した仙台藩主伊達政宗が味方討ちの嫌疑をかけられるがお咎め無し、武功により庶長子伊達秀宗に伊予宇和島藩10万石の立藩が許される(仙台藩は次男伊達忠宗が相続)

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1615

[佐野道可事件]毛利輝元が従兄弟の佐野道可こと内藤元盛を密かに大阪城へ送込み豊臣秀頼を支援した事実が露見、輝元は直ちに元盛を自害させ子孫を盛立てるとの約束を破り口封じのため子の内藤元珍と粟屋元豊を自害させる

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1615

徳川幕府が武家諸法度・禁中並公家諸法度を制定

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1615

徳川幕府が貿易都市堺を直轄地とし堺奉行を設置

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1615

徳川将軍家をライバル視する尾張藩主徳川義直が柳生利厳(宗厳の長子厳勝の次男)を兵法指南役に採用、柳生新陰流正統を自認する利厳は柳生宗矩の江戸柳生と張合い尾張柳生を立てる(剣技では長く宗厳の薫陶を受けた利厳が宗矩に優ったとも)

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1616

徳川家康の側近で老中首座として初期幕政を握りながら加増を固辞した本多正信が相模玉縄1万石のまま死去(享年79)、家督と幕政を引継いだ嫡子の本多正純は「3万石以上の加増自重」の遺命を破り下野小山藩3万3千石から5万3千石への加増を受ける(正純は更に自ら運動して下野宇都宮藩15万5千石への大幅加転封を受けるが将軍徳川秀忠と大久保忠隣一派・土井利勝ら秀忠側近の報復に遭い宇都宮城釣天井事件で改易となる)

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1616

鍋島直茂が朝鮮出兵で連行した李参平が肥前有田に白磁鉱を発見し有田焼を創始、島津家など諸藩で朝鮮人陶工や築城技術者が活躍

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1616

徳川幕府が中国船以外の船の入港を長崎・平戸に限定し南蛮貿易を独占

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1616

[千姫事件]石見津和野藩3万石の坂崎直盛(宇喜多騒動で出奔した直家の甥)が大坂陣で千姫(徳川秀忠の娘)を救出し4万3千石に加増されるが徳川家康が「救出者に千姫を与える」との言葉を違え本多忠刻(本多忠勝の嫡孫)との縁談を決めたことから千姫強奪を画策、懇意の柳生宗矩は直盛を諭して切腹させるが(坂崎家臣に暗殺させたとも)家康は相続を赦さず坂崎家は断絶、慙愧の宗矩は直盛の嫡子平四郎らを召抱え副紋に坂崎家の二蓋笠を採用

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1616

戦国の最終勝利者徳川家康が駿府城にて大往生(享年75)、東照大権現を推す南光坊天海が明神を推す金地院崇伝との神号争いに勝利、亡骸は久能山に葬られ(久能山東照宮)1年後に日光東照宮に改葬

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1616

信濃川中島・越後高田藩主で徳川家康六男の松平忠輝が行状不良により将軍徳川秀忠に改易処分、高田藩には上野高崎藩5万石の酒井家次が10万石で移封(酒井家は最終的に出羽庄内藩17万石へ累進し庶家が3藩を立てる)

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1619

将軍徳川秀忠が広島城の無断改築を口実に福島正則を改易、子の福島正利を召抱え大身の旗本として福島家を存続させる

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1619

九州制覇目前に野望を絶たれ西軍に与しながらも本領を保った西国最強武将島津義弘が死去(享年85)

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1619

徳川将軍家の血のスペアとして尾張(家康九男徳川義直)・紀州(家康十男徳川頼宣)・水戸(家康十一男徳川頼房)の御三家体制が確立、大久保忠隣を失脚させ幕政を握った本多正純が下野小山藩5万3千石から下野宇都宮藩15万5千石へ大幅加転封

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1620

朝幕融和のため将軍徳川秀忠の娘和子が後水尾天皇の中宮に輿入れ(東福門院)、伊勢津藩主藤堂高虎は露払い役を買って出て徳川氏への忠節をアピール

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1620

田中忠政の無嗣絶家に伴い立花宗茂が10万9千石で筑後柳川藩主に復帰、翌年立花直次(宗茂の実弟)が筑後三池藩1万石を立藩

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1621

アユタヤ王朝のソンタム王が徳川幕府に修好使節を派遣、日本人町・傭兵団頭領の山田長政は部下を同行させ老中土井利勝へ親書を送るなど斡旋の労をとり以後も幕閣に贈物や書状を送り両国の修好に努める

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1621

狩野探幽(永徳の孫)が徳川幕府の御用絵師に採用され狩野派は京都から江戸へ本拠を移転(永徳養子の狩野山楽は京都に留まり「京加納」を立てる)、泰平時代に合う淡麗瀟洒な画風で江戸城・大坂城・名古屋城・二条城の障壁画を次々手掛けた狩野派は磐石の地位を築き探幽子孫の「奥絵師」4家を頂点に幕末まで日本画壇を支配するが大量均質生産のため技量の習得に重きが置かれ次第に芸術的創造性を失う

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1622

[最上騒動]出羽山形藩57万石を承継した最上義俊(義光の嫡孫)の暴政に反発する楯岡光直(同弟)・鮭延秀綱ら家臣団が山野辺義忠(同四男)擁立を画策、孤立した義俊は佞臣松根光広(同甥)を通じて幕府に泣付くも6万石への減封を言渡され、家臣団が頑なに義俊更迭を主張したため佐竹家は取潰し、上野山義直(同五男)・大山光隆(同六男)は配流先で切腹したが張本人の最上義俊は近江大森1万石を供され子孫は5千石の交代寄合として存続、山野辺・楯岡・松根は10余年後に赦免され水戸藩・熊本藩・宇和島藩の重臣となり子孫は家老職を世襲、鮭延は赦免後に家臣を伴い流転し「乞食大名」と称されたが最期に土井利勝の招聘に応じ5千石で仕官

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1622

[宇都宮城釣天井事件]幕閣を牛耳る下野宇都宮藩主本多正純が宇都宮城で将軍徳川秀忠暗殺を企てた嫌疑を掛けられ改易・出羽久保田藩主佐竹義宣にお預けとなる

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1623

徳川秀忠の嫡子徳川家光が三代将軍就任

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1624

イギリスの日本撤退に続き、キリスト教を先鋒に植民地化を推進するイスパニア(スペイン)と断交

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1624

徳川幕府がスペイン人の来航禁止、慶長遣欧使節正使を終えて密入国したルイス・ソテロとキリスト教宣教師4名を長崎大村にて火刑

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1624

豊臣秀吉の正室ねね(北政所・高台院)死去、実家の木下家は足守・日出の両藩主として、養家の浅野家は広島藩主として幕末まで存続

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1625

天海が上野寛永寺を創建

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1625

将軍徳川秀忠の側近として宇都宮城釣天井事件で本多正純を倒し幕政を握った土井利勝が下総佐倉藩6万2千石から14万2千石へ加増される(のちに下総古河藩16万石)

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1626

本願寺顕如に軍権を託され11年に及ぶ石山合戦を凌ぎ切り散々に織田信長を苦しめたが降伏後は武力放棄・局外中立を堅持し浄土真宗の法灯を護った下間頼廉が死去(享年89)、子孫の刑部卿家は西本願寺坊官を世襲し繁栄

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1626

柳生十兵衞三厳(宗矩の嫡子)が将軍徳川家光の勘気を蒙り蟄居を命じられ(家光を遠慮なく打ち据えたためとも、隠密任務の隠蔽とも)代わりに弟の柳生友矩・宗冬が小姓出仕、大和柳生に戻った十兵衞は上泉信綱・柳生石舟斎の事跡を辿って新陰流研究に専念し『月之抄』など多くの兵法書を著し1万2千人もの門弟を育成(柳生利厳に倣い武者修行に出て山賊退治や剣豪との仕合に励んだともいうが真偽不明)

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1627

伊予松山藩20万石の加藤嘉明が会津藩40万石へ栄進、娘婿で下野烏山藩2万800石の松下重綱(柳生十兵衞の伯父)は加藤家与力として陸奥二本松藩5万石へ増転封となるが間もなく病没し後嗣の松下長綱は若年を理由に陸奥三春藩3万石へ移される

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1628

ソンタム王がアユタヤ王朝の軍事を担う日本人町・傭兵団頭領の山田長政に王女を入輿させオークヤー(人臣最高の三位)の官位を授与したあと病没、長政はソンタムの遺言に従い日本人傭兵800人とシャム軍2万を率いて王宮を護り遺児のチェーターティラート・次いでアーティッタヤウォンを即位させるが政敵のプラーサートトーン(ソンタムの従兄弟)が幼君を殺害・廃位し王位を簒奪、貿易を牛耳る日本人に対抗する華僑勢力の圧力も受けて長政はアユタヤから追出され南方マラッカの防衛拠点リゴール(ナコーンシータマラート)の王(知事とも)に左遷される

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1629

[紫衣事件]徳川幕府の朝廷統制に憤る後水尾天皇が幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用を勅許、幕府は禁中並公家諸法度違反を理由に勅許無効を宣し沢庵宗彭(大徳寺154世住持)ら反抗者を流罪、不満の後水尾は幕府に無断で明正天皇に譲位

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1630

アユタヤ王朝を簒奪したプラーサートトーン王との政争に敗れ南方のリゴール(ナコーンシータマラート王国)王に左遷された山田長政が日本人傭兵団を率い反乱を起したパタニ王国ラジャ・ウング女王を攻撃するがプラーサートトーンの刺客により負傷した足に毒を塗られ死亡、後を継いだ子のクン・セーナーピムックは日本人傭兵に暗殺されアユタヤ日本人町は焼打ちにより壊滅(2年後に日本人町は復興するが徳川幕府の鎖国政策で流入が激減し自然消滅する)

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Kouyuuroku

クン・セーナーピムック

没後暗殺された嫡子

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エーカートッサロット

22代アユタヤ王

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スタット親王

エーカートッサロットが誅殺した長子

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シーサオワパーク

23代アユタヤ王・ソンタムが殺害

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ソンタム

主君・24代アユタヤ王

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チェーターティラート

ソンタム遺児・25代アユタヤ王に擁立したがプラーサートトーンが殺害

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アーティッタヤウォン

ソンタム遺児・26代アユタヤ王に擁立したがプラーサートトーンが殺害

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プラーサートトーン

政敵・27代アユタヤ王

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プラパン・シーシン

プラーサートトーンが殺害

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大久保忠佐

駕籠かきとして仕えた沼津藩主

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太田治郎右衛門

駿府商人

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滝佐右衛門

駿府商人

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木屋弥三右衛門

長崎商人

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津田又左右衛門

アユタヤ日本人傭兵団首領

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徳川家康

江戸幕府創設者

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徳川秀忠

2代将軍

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徳川家光

3代将軍

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土井利勝

親書を送った老中

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