
おおむら ますじろう
大村 益次郎
1824年~1869年
80
点
木戸孝允の招聘で長州藩に出仕し適塾仕込みの洋式兵学と武器輸入で近代的軍隊を創建、浜田城制圧や上野彰義隊との戦争を指揮し維新後は徴兵制・近代的国軍建設を進めたが暴漢に襲われ横死した「日本陸軍の創始者」
同じ時代の人物

基礎点
90
点
大村益次郎(村田蔵六)は、木戸孝允の招聘で長州藩に出仕し適塾仕込みの洋式兵学と武器輸入で近代的軍隊を創建、浜田城制圧や上野彰義隊との戦争を指揮し維新後は徴兵制・近代的国軍建設を進めたが暴漢に襲われ横死した「日本陸軍の創始者」である。大村益次郎は、庶民の出自ながら、緒方洪庵の適塾に学んで塾頭に進み幕府の講武所教授に招聘されて蘭学者の道を極め、洋式軍制改革の第一人者として長州藩・明治政府で軍政官僚のトップに立った立志伝中の偉材である。出身地は周防だが最初から長州藩士だったわけではなく、江戸で存分に実力を示してから「先生」として長州藩に招かれ藩政に参与した。長州藩に乗込んだ大村益次郎は、藩校明倫館での熱血指導に留まらず、高杉晋作が創始した奇兵隊など諸隊の現場監督に任じて洋式兵制を導入し、軍艦やミニエー銃・ゲベール銃などの新式兵器を大量購入、険悪な関係にあった正規軍と諸隊を統合再編して全軍を洋式軍隊に改造し、自ら軍隊を指揮して幕府方の浜田城を攻落し江戸に乗込んで上野彰義隊を撃滅した。西洋通の大村益次郎には、諸藩兵の廃止と鎮台兵の設置、徴兵制の導入、兵学校による職業軍人の育成、兵器工場の建設といった明確な近代的軍事国家の建設プランがあり、大村は暴漢に襲われ道半ばで斃れたが明治国家は大村の方針通りに進み後輩の山縣有朋ら長州人が陸軍を牛耳った。
-10
点
軍事で鬼才を発揮した大村益次郎だが、政治力には関心が薄い或いはセンスが乏しく過剰な薩摩嫌いは自身の活躍の場を狭めた。薩摩藩は、禁門の変で幕府に与し長州藩を追落しながら密かに薩長同盟を結び、長州藩が第二次長州征討に勝利すると強硬な討幕路線へ転換、戊辰戦争が始まると西郷隆盛は徳川家赦免へ転じ江戸総攻撃を中止した。西郷隆盛・大久保利通の抜群の政治力の為せる業だが、大村益次郎には単なる反覆変転に映り、鳥羽伏見の戦いを制した薩摩藩が長州藩へ出兵を求めると猛反対、江戸無血開城が成ると西郷隆盛が勝海舟や大久保一翁に騙されたと憤慨し、自ら無法地帯と化した江戸へ乗込むと兵員不足を理由に慎重論を説く有村俊斎(西郷の子分で横柄な態度が他藩人から憎まれた)を「君は戦を知らぬ」と侮辱し上野彰義隊の武力討伐を断行した。長州軍首領として明治政府に入った大村益次郎は、見事な近代的軍事国家のプランを持ちながら兵制論争で桐野利秋ら薩摩士族と対立し徴兵制を頓挫させられ、間もなく暴漢に襲われ落命した。暗殺犯は長州士族だが有村俊斎の差金という噂がたった。大村益次郎の遺志を継いだ山縣有朋は西郷隆盛を味方につけて徴兵制を実現したが、大村に薩摩藩と妥協する要領があれば横死せずに済んだかも知れず、フランス流国民軍を志向した愛弟子の山田顕義が軍政を継げば山縣有朋は現場の大将で終わり歪な陸軍長州閥や文民統治の排除は無かったかも知れない。

1824
年
周防吉敷郡鋳銭司村の村医者村田孝益の嫡子に大村益次郎が出生
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1825
年
異国船打払令
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1842
年
異国船打払令を緩和し薪水給付令施行
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1842
年
大村益次郎が周防防府に出て梅田幽斎(シーボルトの弟子)の私塾で医学や蘭学を学ぶ
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1844
年
大村益次郎が帰国し梅田塾に復帰
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1846
年
大村益次郎が大阪遊学し緒方洪庵の適塾に入門、翌年から1年間長崎へ遊学
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1848
年
久坂玄機(玄瑞の長兄)が緒方洪庵の適塾の塾頭となるが翌年長州藩に召還され医学所好生館の都講に就任、適塾塾頭は大村益次郎が後継
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1849
年
福井藩士の橋本佐内が緒方洪庵の適塾に入門
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1850
年
佐賀藩が日本初の反射炉の実証炉を建設し洋式砲の鋳造を開始
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1850
年
大村益次郎が周防へ戻り四辻村で村医を開業
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1851
年
大村益次郎が隣村の農家の娘琴子と結婚
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1852
年
大鳥圭介が緒方洪庵の適塾に入門
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1853
年
徳川斉昭が江戸防備のため大砲74門を幕府に献上、老中安倍正弘の要請により幕府海防参与に就任
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1853
年
海防参与徳川斉昭の献策により幕府が大船建造を解禁
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1853
年
老中阿部正弘に抜擢された江川坦庵が佐賀藩主鍋島直正の技術支援を得て伊豆韮山に反射炉を設置
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1854
年
宇和島藩士の大村益次郎が長崎へ派遣され軍艦製造の技術を学ぶ
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1854
年
久坂玄機が病死し弟の久坂玄瑞が家督を継ぎ医者坊主となる
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1855
年
福澤諭吉が緒方洪庵の適塾に入門
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1856
年
大村益次郎が宇和島藩主伊達宗城の参勤に随い江戸出府
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1856
年
宇和島藩士の大村益次郎が藩の許しを得て江戸麹町に私塾鳩居堂を開き蘭学・洋式兵学・医学を教授
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1858
年
福澤諭吉が築地鉄砲洲の中津藩中屋敷で蘭学塾を開講(慶應義塾の起源)
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1858
年
大村益次郎が長州藩江戸藩邸に招かれ兵学書を講義、木戸孝允は大村を長州藩へスカウト
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1859
年
神奈川・長崎・函館開港
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1860
年
ロシア軍艦が対馬に侵攻するがイギリスの圧力で退去
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1860
年
米国から帰国した福澤諭吉が築地鉄砲洲に復帰し蘭学塾から英学塾へ方針転換
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1862
年
大村益次郎が幕府の要請でヘボンに英語を学ぶ
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1862
年
生麦事件~薩摩藩主島津忠義・久光の行列がイギリス人を殺傷
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1862
年
緒方洪庵が江戸幕府に招聘され奥医師兼西洋医学所頭取に就任・将軍徳川家茂の侍医として法眼の地位を与えられる
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1863
年
緒方洪庵が江戸にて死去(享年54)
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1863
年
松平春嶽が徳川慶喜の専横に怒り政治総裁職を辞任し福井に帰国
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1863
年
大村益次郎が長州藩の政務座役・奇兵隊総管に任じられる
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1863
年
大村益次郎が奇兵隊など諸隊に加え選鋒隊など長州藩正規兵の軍制改革、京都へ出張
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1863
年
大村益次郎が萩に帰国し手当防御事務用掛に任じられる
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1863
年
河上弥市・平野国臣らによる生野の変
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1863
年
長州藩尊攘派が俗論党の坪井九右衛門を逮捕し野山獄で処刑
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1864
年
大村益次郎が藩校明倫館の兵学校教授役に任じられる
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1864
年
大村益次郎が鉄煩御用取調方を兼任し製鉄所建設などに従事
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1864
年
高杉晋作が暴発寸前の遊撃軍の制止に赴くが来島又兵衛に妨害され二度目の脱藩事件を起し上方へ出奔
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1864
年
高杉晋作が来島又兵衛・久坂玄瑞らの激発を抑えるべく京都で長州藩復権運動、島津久光要撃を企てる
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1864
年
長州藩が高杉晋作を召還し脱藩罪により野山獄へ投獄
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1864
年
長州藩世子毛利定広の上洛・出兵に最後まで反対した周布政之助が逼塞に処される
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1864
年
来島又兵衛の遊撃軍300人が上方へ発進し久坂玄瑞・真木和泉が率いる諸隊が続く
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1864
年
長州藩主毛利敬親から全権委任された高杉晋作が有利な条件で馬関戦争の講和を実現、高杉は政務座役に復帰するがすぐに辞任
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1864
年
大村益次郎が外人応接掛に補され高杉晋作の講和交渉を補佐
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1864
年
大村益次郎が政務座役事務掛として軍事業務に復帰
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1865
年
中岡慎太郎が京都で西郷隆盛に薩長和解工作、田中顕助・那須盛馬・大橋慎三(元長州藩忠勇隊士)らと会盟
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1866
年
福澤諭吉が『西洋事情』初編刊行(1870年完成)
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1866
年
薩摩藩が幕府からの再三の出兵要請を拒否し朝廷に長州再征反対を建白
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1866
年
将軍徳川家茂が大阪城で急死し徳川慶喜が徳川宗家の家督を相続、自身の長州大討入りを宣言するが小倉城陥落を知り断念
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1866
年
山口に凱旋、海軍用掛となり、海軍頭取前原一誠を補佐する
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1866
年
徳川慶喜が15代将軍就任
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1866
年
孝明天皇崩御
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1867
年
孝明天皇崩御に伴う大赦で長州系の三条実美ら五卿のほか九条尚忠・岩倉具視ら公卿が赦免される
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1867
年
高杉晋作が下関にて死去(享年27)、下関郊外吉田の清水山に埋葬される
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1867
年
島津久光が薩摩藩兵700を率いて上洛、西郷隆盛が先発し四候会議のお膳立て
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1867
年
大村益次郎が木戸孝允らの討幕挙兵に慎重論を唱え左遷される
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1867
年
薩摩藩・西郷隆盛が土佐藩・後藤象二郎からの出兵延期要請を拒否
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1867
年
徳川慶喜が二条城で大政奉還を発表
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1867
年
朝廷が幕府の大政奉還を勅許
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1867
年
西郷隆盛と木戸孝允が山口で討幕挙兵を確認、西郷は薩摩へ
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1867
年
薩摩藩主島津忠義が藩兵3千を率いて上洛(軍司令官は西郷隆盛)
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1867
年
長州藩世子毛利定広が藩兵1千余を率いて上洛(薩摩藩を警戒し出兵に反対した大村益次郎は掛助役に左遷)
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1867
年
長州藩が朝廷により公式に赦免され藩主毛利敬親は従四位・参議に復帰
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1867
年
大阪城に退去した徳川慶喜が辞官納地を拒否、諸外国に徳川政権による外交継続を宣言
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1868
年
明治天皇が徳川慶喜追討の親征を宣言、薩摩(西郷隆盛)・長州・佐土原・大村の東海道軍と薩長・土佐(板垣退助)など諸藩混成の東山道軍が江戸へ進発、徳川慶喜は小栗忠順ら主戦派を退け恭順派の勝海舟に全権を託す
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1868
年
西郷隆盛が東征大総督府下参謀(実質的司令官)に任命される
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1868
年
西郷隆盛が独断で先鋒軍を率いて先発し箱根を占拠
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1868
年
大村益次郎が長州藩世子毛利定広の出兵に随行し上京、江戸攻撃案を作成
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1868
年
東海道軍筆頭参謀の西郷隆盛が勝海舟との会談で総攻撃を中止し江戸城無血開城、長州藩の大村益次郎や佐賀藩の江藤新平は薩摩藩の専断に反発
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1868
年
福澤諭吉が私塾を芝新銭座(浜松町)に移転し慶應義塾と改称
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1868
年
大村益次郎が無法地帯と化した江戸の鎮定を建言し東征大総督府補佐・江戸府判事として江戸へ入る
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1868
年
河井継之助の長岡藩が降伏
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1868
年
明治政府が徳川宗家16代当主の徳川家達に駿府70万石を与える・徳川慶喜も駿府へ移され駿河宝台院で謹慎
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1868
年
明治天皇即位礼、明治に改元
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1868
年
盛岡藩に続き庄内藩が降伏、東北戦争終結
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1868
年
鳥羽伏見の戦いに官軍が圧勝~戊辰戦争始まる
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1869
年
大村益次郎が軍務官副知事に就き近代的軍隊の建設を主導
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1869
年
大村益次郎が東京招魂社(靖国神社)建立を建言(境内の一等地に今も大村益次郎像が建つ)
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1869
年
兵制論争、大久保利通・薩摩士族が大村益次郎の政府直轄軍構想を廃し薩長土供出の御親兵に決定、大村益次郎は木戸孝允に慰留され兵部大輔に就任(大村は弟子の山田顕義を兵部大丞に就ける)
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1869
年
大村益次郎が京都河東操練所開設、児玉源太郎・寺内正毅らが入学
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1869
年
大村益次郎が京都三条木屋町の旅館で会食中に急進的な兵制改革に反発する元長州藩士8人に襲われ大阪にて死去(享年46)、郷里の山口市鋳銭司に葬られる
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1891
年
大村益次郎の功により嫡孫の大村寛人が子爵を受爵
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1896
年
東京靖国神社に大村益次郎の銅像が建立される
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1919
年
大村益次郎に追贈従二位
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緒方洪庵
大師匠
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梅田幽斎
蘭学の先生
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シーボルト
梅田の先生
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広瀬淡窓
咸宜園の先生
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久坂玄機
適塾生・前任塾頭
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橋本左内
適塾生
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福澤諭吉
適塾生
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大鳥圭介
適塾生
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箕作秋坪
適塾生
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佐野常民
適塾生
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二宮敬作
シーボルト門人
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伊達宗城
最初に仕えた宇和島藩主
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前原巧山
宇和島藩の部下
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ヘボン
英語の先生
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佐久間象山
洋式兵学者・松陰の師匠
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江川坦庵
洋式兵学者
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中島三郎助
洋式兵学者
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毛利敬親
主君にして良き理解者
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毛利定広
敬親養嗣子の長州藩世子
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木戸孝允
盟友
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吉田松陰
松下村塾主宰
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高杉晋作
松下村塾の双璧
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久坂玄瑞
松下村塾の双璧
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吉田稔麿
松下村塾の四天王
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入江九一
松下村塾の四天王
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伊藤博文
松下村塾生・高杉舎弟
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山縣有朋
松下村塾生・徴兵制後継者
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前原一誠
松下村塾生・徴兵制反対者
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品川弥二郎
松下村塾生
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山田顕義
松下村塾生・愛弟子
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赤根武人
松下村塾生の裏切り者
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寺島忠三郎
松下村塾生
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井上馨
高杉舎弟
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周布政之助
正義派首領
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浦靱負
正義派家老
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広沢真臣
木戸舎弟
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来島又兵衛
困った過激派
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長井雅楽
正義派だが政敵
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益田弾正
正義派家老
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椋梨藤太
俗論党首領
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大楽源太郎
諸隊反乱の首謀者
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三条実美
長州系公卿
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姉小路公知
長州系公卿
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岩倉具視
薩摩系公卿の政敵
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真木和泉
困った扇動家
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平野国臣
困った扇動家
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山内容堂
武市を殺した土佐国主
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武市半平太
土佐勤皇党首領・久坂の盟友
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吉村寅太郎
土佐浪士・久坂の盟友
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坂本龍馬
薩摩系土佐浪士
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中岡慎太郎
長州系土佐浪士
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島津久光
薩摩藩国父
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西郷隆盛
死ぬまで警戒
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大久保利通
死ぬまで警戒
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小松帯刀
死ぬまで警戒
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有村俊斎
西郷舎弟・戦知らず
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桐野利秋
西郷舎弟・徴兵制反対者
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有馬新七
薩摩の過激派
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黒田清隆
西郷の使者
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西郷従道
西郷弟
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大山巌
西郷従弟
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江藤新平
薩摩嫌い仲間
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板垣退助
土佐の勇将
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後藤象二郎
土佐執政
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徳川家茂
14代将軍
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徳川慶喜
15代将軍
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松平春嶽
慶喜の傅役
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松平容保
慶喜腹心の京都守護職
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松平定敬
容保実弟の京都所司代
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近藤勇
新撰組局長
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土方歳三
新撰組鬼の副長
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勝海舟
西郷を懐柔した幕府首脳
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大久保一翁
勝の同志
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キューバ提督
講和交渉した連合国軍提督
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