
おおひら まさよし
大平 正芳
1910年~1980年
20
点
池田勇人から保守本流・宏池会を引継ぎ盟友田中角栄の支持で首相に就任、従米路線へ回帰し「日米同盟」強化と中国への「贖罪外交」を進めたが福田赳夫との不毛な政争の渦中に絶命した「アーウー宰相」
同じ時代の人物

基礎点
50
点
大平正芳は「保守本流」池田勇人の後継者で、盟友田中角栄の支持で首相となったが在任2年目に絶命した。「アーウー宰相」「讃岐の鈍牛」と揶揄されたが、政界有数の読書家で教養人だったという。香川の農家に生れた大平正芳は、苦学して東京商科大学(一橋大学)へ進み同郷の津島壽一大蔵次官の推薦で大蔵省出仕、税務畑を歩み傍流の先輩池田勇人に属した。池田勇人蔵相の秘書官を3年務めた大平正芳は1952年衆議院議員へ転身し、1960年池田内閣で官房長官に就くと「低姿勢」のスポークスマンぶりを評価され外相に栄転、利子平衡税や原潜寄港問題を捌いて良好な日米関係に寄与し、朴正煕政権との日韓交渉に働いた。大平正芳は池田勇人を喪い後継の佐藤栄作首相に敬遠されたが、田中角栄の尽力で政調会長・通産相にありつき、1971年「大平クーデター」で前尾繁三郎を追放し「宏池会」会長に納まった。佐藤栄作退陣に伴う自民党総裁選で、大平正芳は存在感を示すべく出馬したが、実際は田中角栄を支持し共に福田赳夫を破った。田中角栄内閣で外相・蔵相に補された大平正芳は、航空協定交渉を妥結へ導き日中国交正常化に貢献、田中首相の「資源外交」を支え、金大中事件・オイルショック・ニクソンショックと噴出する難題の対処に追われた。続く三木武夫内閣で大平正芳は蔵相に留まり「日本列島改造論」とオイルショックによる経済混乱の沈静化に努め、福田赳夫の赤字国債復活には異を唱えたが不況打開のため容認を決断した。1976年「2年後の政権禅譲の密約(大福密約)」で福田赳夫と大平正芳の提携が成り「三木おろし」で福田内閣が成立、大平は幹事長に就任したが、福田が密約を反故にしたため自民党総裁選に挑み田中角栄を後ろ盾に番狂わせを演じた。1978年「角影内閣」こと大平正芳内閣が発足、大平首相は福田赳夫政権の「全方位外交」を引込め「日米同盟」強化で従米路線へ戻し対中「贖罪外交」で「自虐史観」を強めたが、自民党を二分する福田との「怨念の対決」に忙殺され、総選挙の最中に心不全で急逝した。黒幕の田中角栄は大平派の鈴木善幸を後継総裁に担ぎ、福田赳夫の政権復帰は阻まれた。
-30
点
1979年「東京サミット」を前にアメリカに呼ばれた大平正芳首相は、カーター大統領との会談で「日米同盟」の文句を始めて公式の場で使い「日本は良しにつけ悪しきにつけ、どこまでもアメリカを支持し、良きパートナーとしての役割を果します。なんでもご遠慮なくご相談ください」と営業マンのような追従を奉った。吉田茂・池田勇人の直系「保守本流」を自認する大平正芳首相は「福田首相のかかげた『全方位外交』の旗をおろし、『対米協調路線の前進』という立場を鮮明に打ち出し、日本外交の新しい選択を示した」というが、前の佐藤栄作・田中角栄・福田赳夫内閣が推し進めた自主外交を従米路線へ押戻す重要な役割を演じた。また大平正芳は田中角栄内閣の蔵相として日中国交正常化にあたったが、「戦争で中国にはひどい目にあわせたんだから、ここはやっぱり日本がいろんなことで我慢をして、正常な関係をつくって行かなければならないという、非常に強い信念」に基づき悪しき「贖罪外交」の端緒を開いた。「反日」「抗日」を建国の正統性に置く中国・韓国の現政権にとって贖罪外交は格好の支援材料となり、日本が詫びれば詫びるほど「歴史認識問題」はエスカレート、大平正芳を師と仰ぐ加藤紘一や「江乃傭兵」(江沢民の傭兵)こと河野洋平ら中朝ロビーが傷口を拡げた。贖罪外交の象徴が「従軍慰安婦問題」で、1992年宮澤喜一内閣の加藤紘一官房長官は朝日新聞記者の作り話に基づき碌な調査もせずに日本政府の関与を認め公式に謝罪(加藤談話)、翌年官房長官を継いだ河野洋平は贖罪意識から事実無根の「強制連行」を認めた(河野談話)。従軍慰安婦問題は「靖国参拝」と共に韓国の二大「政策」となり朴槿惠の反日専門政権を支えている。1995年社会党政権の村山富市首相は独断で「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」と述べ日本政府として公式に謝罪を表明、不用意な「村山談話」で日本は自ら日本叩きを正当化する羽目に陥り、日韓併合で同じ国だった韓国まで謝罪の対象となった。

1910
年
香川県三豊郡和田村の農家大平利吉の三男に大平正芳が出生
もっと見る
1926
年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1934
年
池田勇人が奇跡的に難病を克服し新規採用扱いで大蔵省復職、玉造税務署長を皮切りにドサ回りが続く
もっと見る
もっと見る
1935
年
大平正芳が東京商科大学(一橋大学)を卒業し高等文官試験合格、同郷の津島壽一大蔵次官の推薦で大蔵省へ進み税務畑を歩む
もっと見る
もっと見る
1937
年
大平正芳が横浜税務署長に就任し上司の池田勇人と邂逅
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1938
年
大平正芳が仙台税務監督局間税部長・本省主計局主査等勤務
もっと見る
もっと見る
1939
年
大蔵官僚の大平正芳が興亜院へ出向し中国勤務(~1940)
もっと見る
もっと見る
1939
年
ドイツ軍がポーランド侵攻、英仏が独に宣戦布告し第二次世界大戦勃発
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1941
年
池田勇人が大蔵省本省に復帰し主税局国税課長・東京財務局長を歴任
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1943
年
大平正芳が東京財務局関税部長就任
もっと見る
もっと見る
1945
年
池田勇人が大蔵省主税局長に昇進
もっと見る
もっと見る
1945
年
津島壽一(大平正芳の後見人)が大蔵大臣就任
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1945
年
ハリー・S・トルーマン(共和党)が米大統領就任(~1953)
もっと見る
1945
年
ドイツが連合国に降伏
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1945
年
玉音放送
もっと見る
1945
年
東久邇宮稔彦王内閣(公家)発足、重光葵が外相就任(吉田茂に途中交代)、津島壽一が大蔵大臣就任
もっと見る
1945
年
大平正芳が親分の津島壽一蔵相の秘書官となる
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1945
年
GHQが陸海軍解体指令
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1945
年
昭和天皇・マッカーサー会談(以後11回)
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1945
年
マッカーサーが日本軍の武装解体完了を宣言
もっと見る
1945
年
国際連合発足
もっと見る
もっと見る
1945
年
日本社会党(片山哲書記長)・日本自由党(鳩山一郎総裁)・日本進歩党(町田忠治総裁)の結党が相次ぐ
もっと見る
1945
年
陸軍省・海軍省が復員省に改組され700万人以上の復員軍人を処理
もっと見る
もっと見る
1945
年
衆議院議員選挙法改定(婦人参政権容認)、「GHQ解散」
もっと見る
1946
年
天皇の「人間宣言」(神格否定の詔書公表)
もっと見る
もっと見る
1946
年
GHQが日本政府から沖縄施政権を剥奪
もっと見る
1946
年
GHQが幣原喜重郎内閣の第一次農地改革法案を拒否し徹底的改革を命令
もっと見る
もっと見る
1946
年
インフレ抑制のため預金封鎖・新円切替を断行
もっと見る
もっと見る
1946
年
新選挙法による初の衆議院総選挙で鳩山一郎の自由党が勝利(初の女性議員39名が誕生)
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1946
年
GHQが自主路線の鳩山一郎を公職追放し第一党自由党の後継総裁に吉田茂が就任
もっと見る
もっと見る
1946
年
経済安定本部(安本)・物価庁設置
もっと見る
1946
年
復興金融公庫法・戦時保障特別措置法成立
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1946
年
吉田茂内閣が当用漢字1850字・旧かなづかい禁止の内閣告示
もっと見る
もっと見る
1946
年
吉田茂内閣が閣議で鉄鋼・石炭の「傾斜生産方式」採用を決定
もっと見る
もっと見る
1947
年
石橋湛山蔵相の引きで大蔵次官に昇進
もっと見る
1947
年
トルーマン米大統領が「トルーマン・ドクトリン」発表(ギリシア・トルコへの支援表明により共産主義勢力と戦う決意を示唆)
もっと見る
1947
年
GHQにより独占禁止法制定
もっと見る
1947
年
総選挙、片山哲の社会党が第一党に躍進
もっと見る
1947
年
吉田茂が旧高知全県区から出馬し衆議院議員初当選(~1963)
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1947
年
マーシャル米国務長官が「マーシャル・プラン」発表(西欧諸国への復興援助表明により東西対立が先鋭化、ソ連はコメコン設立で対抗)
もっと見る
もっと見る
1947
年
芦田均外相がアメリカ政府に米軍の「有事駐留」を提案し怒りを買う
もっと見る
1947
年
昭和天皇がGHQに「沖縄の恒久的軍事占領が望ましい」と伝達
もっと見る
もっと見る
1947
年
民法改正(夫婦平等・戸主権や長子相続権の廃止・自由結婚など)
もっと見る
1947
年
GHQが匿退蔵物資事件捜査部(東京地検特捜部)を設置
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1948
年
池田勇人が大蔵省を退官し政治家に転身
もっと見る
1948
年
ソ連が「ベルリン封鎖」を強行し冷戦緊迫化
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1948
年
GHQが日本解体方針を緩和し「経済安定九原則」発表
もっと見る
もっと見る
1948
年
内閣不信任案が可決され吉田茂首相は衆議院解散で対抗
もっと見る
1949
年
衆議院総選挙、吉田茂の与党民主自由党が単独過半数獲得
もっと見る
1949
年
池田勇人(民主自由党吉田茂派)が広島2区から出馬し衆議院議員初当選(~1965)
もっと見る
1949
年
第三次吉田茂内閣(民主自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、吉田茂が外相就任(岡崎勝男に途中交代)、池田勇人が蔵相就任
もっと見る
1949
年
大平正芳が池田勇人蔵相の秘書官となる(~1952)
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1949
年
GHQが1ドル=360円の単一為替レートを設定
もっと見る
1949
年
北大西洋条約機構(NATO)発足
もっと見る
もっと見る
1949
年
吉田茂首相が日本独立後も米軍駐留を望む旨を示唆
もっと見る
1949
年
ドッジ・ラインに基づく国鉄人員整理発表、下山事件・三鷹事件・松川事件
もっと見る
1949
年
シャウプ勧告(税制改革指令)
もっと見る
1949
年
ソ連の核実験成功で東西冷戦が本格化
もっと見る
1949
年
毛沢東の共産党が国共内戦を制し北京で中華人民共和国樹立を宣言、アメリカで日本再軍備(反共の防波堤)要請が一層高まる
もっと見る
1949
年
吉田茂首相が西側陣営との単独講和にも応じる旨を声明
もっと見る
もっと見る
1950
年
民主自由党が自由党に改称
もっと見る
1950
年
中ソ友好同盟相互援助条約成立、アメリカで日本再軍備(反共の防波堤)要請が一層高まる
もっと見る
1950
年
学者グループが「厳正中立・全面講和」声明発表、西側との「単独講和」を進める吉田茂首相は「曲学阿世」発言で対抗
もっと見る
1950
年
吉田茂首相が池田勇人蔵相・宮澤喜一秘書官を派米し米軍駐留継続と単独講和を申入れ
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1950
年
GHQと反共の吉田茂首相がレッド・パージを開始し約1万2千人を公職追放(逆コース)
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1951
年
自由党に鳩山一郎の派閥が起り吉田茂の主流派と勢力伯仲
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1951
年
サンフランシスコ講和条約を巡り社会党が左右派に分裂
もっと見る
もっと見る
1952
年
GHQ指令を受け吉田茂政府が海上警備隊(海上自衛隊)創設
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1952
年
血のメーデー事件(2人射殺・逮捕者1230人)
もっと見る
1952
年
ロバート・D・マーフィー米大使就任(~1953)
もっと見る
1952
年
自由党で吉田茂派と鳩山一郎派の溝が深まり吉田首相は抜打解散で対抗
もっと見る
1952
年
衆議院総選挙、自由党が圧勝し鳩山一郎ら公職追放解除者が衆議院議席の42%を占める
もっと見る
1952
年
大平正芳(自由党池田勇人派)が香川2区から出馬し衆議院議員初当選(~1980)
もっと見る
1952
年
鳩山一郎への首相禅譲密約により第四次吉田茂内閣(自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、岡崎勝男が外務大臣就任、池田勇人が通商産業大臣兼経済審議庁長官就任
もっと見る
もっと見る
1953
年
ドワイト・D・アイゼンハワー(共和党)が米大統領就任(~1961)
もっと見る
1953
年
ジョン・フォスター・ダレスが米国務長官就任(~1959)、引き続き対日政策を主導
もっと見る
1953
年
吉田茂首相が衆議院を「バカヤロー解散」、鳩山一郎・広川弘禅が分派し分党派自由党結成
もっと見る
1953
年
ソ連に人類史上最悪の恐怖政治を敷いたスターリンが死去、フルシチョフがベリヤ・マレンコフを粛清し後継体制確立
もっと見る
1953
年
第五次吉田茂内閣(自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、岡崎勝男が外務大臣就任
もっと見る
1953
年
ジョン・M・アリソン米大使就任(~1957)
もっと見る
1953
年
朝鮮戦争休戦、反動需要減に日銀の金融引き締めが拍車をかけ長期不況に陥る
もっと見る
1953
年
鳩山一郎が分自党を解消し吉田茂の自由党に復党、三木武吉・河野一郎・石橋湛山らが離脱し日本自由党結成
もっと見る
1953
年
奄美群島が本土復帰
もっと見る
1954
年
造船疑獄、佐藤栄作逮捕を拒否した犬養健(犬養毅の次男)法相が辞任
もっと見る
1954
年
アメリカの圧力により吉田茂政府が国家警察予備隊を常設軍隊「自衛隊」へ改組(陸上13万人・海上1万5千人・航空6千人)
もっと見る
1954
年
吉田茂首相の自由党が従米路線に反抗する岸信介を除名
もっと見る
1954
年
反抗勢力が日本民主党に合同し(鳩山一郎総裁・重光葵副総裁・岸信介幹事長)内閣不信任決議で吉田茂内閣を打倒
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1955
年
総選挙、鳩山一郎首相の民主党政権は絶対多数を獲得できず憲法改正を断念し対ソ外交に注力
もっと見る
もっと見る
1955
年
アジア・アフリカ会議(バンドン会議)開催
もっと見る
1955
年
ワルシャワ条約機構(WTO)発足
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1955
年
左右社会党統一(鈴木茂三郎委員長・浅沼稲次郎書記長、衆院156議席・参院69議席)
もっと見る
1955
年
保守合同で自由民主党(鳩山一郎総裁・岸信介幹事長、衆院299議席・参院69議席)が発足し「55年体制」開始
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1956
年
フルシチョフの「スターリン批判」演説が西側に伝わり「雪どけ」機運高まる
もっと見る
1956
年
鳩山一郎政府が経済白書に「もはや戦後ではない」と記し戦後復興完了を宣言
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1957
年
吉田茂から派閥を引継いだ池田勇人が「宏池会」結成
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1957
年
ダグラス・マッカーサー2世が米大使就任(~1961)、日本政府をリード
もっと見る
もっと見る
1957
年
欧州経済共同体(EEC)発足
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1958
年
日本が初めて国連安全保障理事会の非常任理事国となる
もっと見る
もっと見る
1958
年
総選挙、岸信介首相の与党自民党は大勝できず憲法改正を断念し安保改定に注力
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1959
年
鳩山一郎死去
もっと見る
1959
年
ジョン・フォスター・ダレス米国務長官が病気により辞任
もっと見る
1959
年
池田勇人が通商産業大臣就任
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1960
年
安保闘争によりアイゼンハワー米大統領の訪日中止
もっと見る
もっと見る
1960
年
石油輸出国機構 (OPEC) 設立
もっと見る
1960
年
浅沼稲次郎社会党委員長が演説中に刺殺される
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1960
年
ベトナム戦争勃発(~1975)、韓国などアジア諸国が派兵するなか池田勇人政府は軍事協力を拒否
もっと見る
もっと見る
1961
年
ジョン・F・ケネディ(民主党)が米大統領就任(~1963)
もっと見る
1961
年
エドウィン・O・ライシャワー米大使就任(~1966)、日米蜜月関係を演出し沖縄返還に奔走
もっと見る
1961
年
朴正煕が軍事クーデターにより韓国政権を掌握
もっと見る
1961
年
日本経済団体連合会(経団連)発足
もっと見る
1961
年
東ドイツが「ベルリンの壁」建設
もっと見る
1961
年
朴正煕韓国大統領が来日し友人の岸信介が池田勇人首相との国交回復交渉をサポート
もっと見る
1962
年
内閣改造で大平正芳が外務大臣就任(~1964)
もっと見る
1962
年
キューバ危機、フルシチョフ首相のミサイル撤去決断により核戦争回避
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1963
年
米ソ英が部分的核実験停止条約調印
もっと見る
もっと見る
1963
年
ジョン・F・ケネディ米大統領暗殺
もっと見る
1963
年
リンドン・ジョンソン(民主党)が米大統領就任(~1969)
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1964
年
マッカーサー死去
もっと見る
もっと見る
1964
年
米軍の謀略でトンキン湾事件発生、北爆によりベトナム戦争激化
もっと見る
1964
年
IMF・世界銀行東京総会
もっと見る
1964
年
東海道新幹線・名神高速道路・首都高速道路が相次ぎ開通
もっと見る
1964
年
東京オリンピック
もっと見る
1964
年
ソ連でフルシチョフが失脚しブレジネフ政権へ移行
もっと見る
1964
年
中国が核実験に成功(米ソ英仏に次ぐ5番目の保有国)
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1965
年
日韓基本条約調印
もっと見る
1965
年
池田勇人死去
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1965
年
日韓国交回復(無償供与1080億円・借款720億円・民間借款1080億円超)
もっと見る
1965
年
戦後初の国債発行
もっと見る
1966
年
政権奪還を図る毛沢東が文化大革命を発動し中国が内乱状態となる(~1976)
もっと見る
1967
年
公害問題が深刻化し四大公害訴訟はじまる(水俣病・第二水俣病・四日市ぜんそく・イタイイタイ病)
もっと見る
1967
年
津島壽一(大平正芳の恩人)死去
もっと見る
もっと見る
1967
年
中国が水爆実験実施(米ソに次ぐ3番目の水爆保有国)
もっと見る
1967
年
東南アジア諸国連合(ASEAN)発足
もっと見る
1967
年
吉田茂死去
もっと見る
1968
年
米ソ英仏中を含む62か国が核拡散防止条約調印
もっと見る
1968
年
内閣改造で大平正芳が通商産業大臣就任(~1970)
もっと見る
1968
年
日本のGDPがアメリカに次ぐ世界2位となる
もっと見る
1968
年
全共闘運動が全国の大学に広がる
もっと見る
1968
年
小笠原諸島が本土復帰
もっと見る
もっと見る
1969
年
リチャード・ニクソン(共和党)が米大統領就任(~1974)
もっと見る
1969
年
岸信介が佐藤栄作首相の要請で渡米しニクソン大統領と沖縄返還の下交渉
もっと見る
もっと見る
1969
年
冷戦のデタント時代(~1979)
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1971
年
大平正芳が前尾繁三郎を追放し宏池会会長職を奪取(大平クーデター)
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1971
年
アメリカの支持により中国が国際連合に加盟(台湾中華民国は脱退)
もっと見る
もっと見る
1972
年
政権を狙う田中角栄が福田赳夫を支持する佐藤栄作の派閥を割り田中派結成
もっと見る
1972
年
岸信介の後継者で佐藤栄作首相が推す福田赳夫を田中角栄が破り自民党総裁選に勝利(角福戦争)
もっと見る
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1973
年
日本を含む各国が変動相場制へ移行し円急騰
もっと見る
1973
年
田中角栄内閣が小選挙区制導入に失敗
もっと見る
1973
年
金大中事件、日韓関係が国交断絶寸前まで悪化
もっと見る
1973
年
日米首脳会談、ニクソン大統領が田中角栄首相に北方領土問題支持を匂わせ日ソ緊密化を牽制
もっと見る
1973
年
田中角栄内閣が北ベトナムと国交樹立
もっと見る
1973
年
田中角栄首相が欧州歴訪し「資源外交」を展開
もっと見る
1973
年
田中角栄首相がモスクワ訪問、鳩山一郎以来の日ソ首脳会談が実現するが北方領土交渉は頓挫
もっと見る
1973
年
第四次中東戦争、エジプト・シリア軍の先制攻撃にイスラエル軍が大苦戦
もっと見る
もっと見る
1973
年
田中角栄首相がアメリカの恫喝を無視し中東政策を産油国寄りに転換、原油確保で日本経済は危機を凌ぐ
もっと見る
1973
年
愛知揆一の急死を受け福田赳夫が蔵相就任、総需要抑制政策への転換で田中角栄内閣の「日本列島改造論」が挫折
もっと見る
1973
年
周恩来の工作により鄧小平が中国中央政界に復活
もっと見る
1974
年
田中角栄首相が東南アジア歴訪し「資源外交」を展開、米CIAは反日暴動扇動で妨害
もっと見る
1974
年
鄧小平が訪米し新日本製鐵等からの技術導入を号令
もっと見る
1974
年
参議院選挙で自民党が議席を減らし田中角栄内閣が失速
もっと見る
1974
年
大平正芳が外務大臣から大蔵大臣へ転任(~1976)
もっと見る
1974
年
ウォーターゲート事件でニクソンが米国史上初めて大統領辞任
もっと見る
1974
年
ジェラルド・R・フォード(共和党)が米大統領就任(~1977)
もっと見る
1974
年
田中角栄首相がメキシコ・ブラジル・カナダ・オーストラリア歴訪し「資源外交」を展開
もっと見る
もっと見る
1974
年
フォード米大統領が現職として初めて訪日し田中角栄首相と会談
もっと見る
もっと見る
1975
年
佐藤栄作死去、日本武道館で大隈重信以来の「国民葬」(葬儀委員長は田中角栄)
もっと見る
1975
年
第1回先進国首脳会議(サミット)開催、米英仏日独伊が参加
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1976
年
毛沢東が死去し華国鋒が中国最高指導者を継承、四人組逮捕により文化大革命終結
もっと見る
もっと見る
1977
年
ジミー・カーター(民主党)が米大統領就任(~1981)
もっと見る
1977
年
カーター米大統領が在韓地上軍の削減を発表し米国の「アジア離れ」が始まる
もっと見る
1977
年
福田赳夫首相が訪米しカーター大統領と会談、アジア政策での日米協調を根回し
もっと見る
もっと見る
1977
年
第10期3中全会で鄧小平が復活し中共中央の実権を掌握
もっと見る
もっと見る
もっと見る
1978
年
鄧小平が日中平和友好条約批准で訪日し昭和天皇と会談し新日鉄・トヨタ・松下電器等を視察
もっと見る
1978
年
第11期3中全会で鄧小平指導部が文革否定・改革開放路線決定
もっと見る
1978
年
「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」運用開始
もっと見る
もっと見る
1979
年
鄧小平が訪米し米中国交樹立、「米中対ソ」の対立構図が鮮明となる
もっと見る
1979
年
ベトナムがカンボジアに侵攻し中越戦争勃発(ソ連と中国の代理戦争)
もっと見る
1979
年
ホメイニーのイスラム勢力が米英の傀儡パーレビ王朝を滅ぼし(イラン革命)第二次オイルショック発生
もっと見る
1979
年
米国スリーマイル島原発事故
もっと見る
もっと見る
1979
年
第5回先進国首脳会議(東京サミット)
もっと見る
1979
年
解散総選挙で与党自民党が大敗、福田赳夫が首相指名選に挑むが田中角栄の支持で大平正芳首相が防衛(四十日抗争)
もっと見る
もっと見る
1979
年
アフガニスタン紛争で米ソ衝突(~1989)、デタントが終焉し冷戦が激化
もっと見る
1980
年
内閣不信任決議を受け大平正芳内閣が「ハプニング解散」総選挙
もっと見る
もっと見る

池田勇人
ボス
もっと見る
吉田茂
池田のボス
もっと見る
岡崎勝男
吉田派仲間
もっと見る
津島壽一
同郷の恩人で大蔵省の大先輩
もっと見る
林譲治
池田派長老
もっと見る
益谷秀次
池田派長老
もっと見る
周藤英雄
池田派四家老
もっと見る
小坂善太郎
池田派四家老
もっと見る
大橋武夫
池田派四家老
もっと見る
前尾繁三郎
池田派四家老・宏池会会長職を奪取
もっと見る
宮澤喜一
池田の秘書官仲間
もっと見る
鈴木善幸
宏池会後継者
もっと見る
下村治
池田の腹心
もっと見る
田村敏雄
池田の腹心
もっと見る
河上弘一
池田の腹心
もっと見る
渡辺武
池田の腹心
もっと見る
石野信一
池田の腹心
もっと見る
森田一
腹心・長女の婿
もっと見る
伊東正義
盟友
もっと見る
鈴木善幸
宏池会後継者
もっと見る
加藤紘一
愛弟子
もっと見る
衛藤征士郎
愛弟子
もっと見る
白川勝彦
愛弟子
もっと見る
西村英一
副総裁
もっと見る
大来佐武郎
外相
もっと見る
佐藤定吉
キリスト教信仰の師
もっと見る
重光葵
吉田の宿敵
もっと見る
鳩山一郎
吉田のライバル・石橋正二郎繋がり
もっと見る
河野一郎
鳩山の大番頭
もっと見る
大野伴睦
鳩山の大番頭
もっと見る
三木武吉
鳩山の大番頭
もっと見る
石橋湛山
鳩山の後継者
もっと見る
岸信介
自主路線の奇才
もっと見る
福田赳夫
怨念の対決
もっと見る
川島正次郎
福田のライバルで岸派分裂
もっと見る
安倍晋太郎
岸の女婿
もっと見る
佐藤栄作
吉田派の後継者
もっと見る
田中角栄
佐藤派後継者
もっと見る
三木武夫
従米派同志
もっと見る
中曽根康弘
三木派後継者
もっと見る
ニクソン
田中が怒らせた米大統領
もっと見る
ライシャワー
話の分る米大使
もっと見る
キッシンジャー
田中を敵視
もっと見る
カーター
主君
もっと見る
毛沢東
贖罪外交
もっと見る
周恩来
贖罪外交
もっと見る
鄧小平
贖罪外交
もっと見る