
ふくだ たけお
福田 赳夫
1905年~1995年
70
点
岸信介の後継者として首相となりカーター米政権の「アジア離れ」を衝いて「全方位外交」を追求、ASEANとの連帯強化と日中平和友好条約締結を果たすも自民党総裁選に弱く僅か2年で退陣
同じ時代の人物

基礎点
60
点
福田赳夫は自主路線・岸信介の後継者である。群馬の旧庄屋に生れた福田赳夫は東大法学部から高等文官試験主席合格で大蔵省へ進み、軍部と闘う高橋是清蔵相に感銘を受け、ロンドン勤務や汪兆銘政権の財政顧問も経験した。戦後も出世コースを歩んだ福田赳夫は主計局長に上ったが「昭和電工疑獄」を機に退官し(のち無罪)、1952年衆議院議員へ転じた。福田赳夫は大蔵省傍流の池田勇人ではなく同じエリート官僚の岸信介に仕え、岸内閣で自民党三役となり農林相で初入閣、池田勇人内閣では政調会長に登用されたが「党風刷新連盟」で経済偏重主義を批判して解任され5年も冷飯を食った。しかし続く佐藤栄作内閣は派閥横断人事を行い(人事の佐藤)、福田赳夫は蔵相・幹事長・外相を歴任、戦後初の国債発行で「昭和四十年不況」を克服し「昭和元禄」を守り、沖縄返還では米軍駐留費負担の密約で交渉妥結に寄与、佐藤首相は退陣にあたり福田を後継指名した。1972年、田中角栄が佐藤派を割り「角福戦争」が勃発、大平正芳・三木武夫・中曽根康弘と包囲網を組み自民党総裁戦で福田赳夫を破った。田中角栄首相の「日本列島改造論」はオイルショックで挫折し、蔵相を託された福田赳夫は「総需要抑制策」へ転換し「狂乱物価」を終息させた。続く三木武夫内閣で福田赳夫は副総理兼経済企画庁長官に就任したが、「2年後の政権禅譲の密約(大福密約)」で宏池会の大平正芳と提携し「三木おろし」に成功、1976年71歳にして悲願の政権に就いた。「さあ働こう内閣」を掲げた福田赳夫首相は、カーター米政権の「アジア離れ」の隙を埋める形で「全方位外交」を推進、「福田ドクトリン」でASEAN諸国との連携を強化し懸案の日中平和友好条約を成立させた。しかし1978年、密約を反故にされた大平正芳が自民党総裁選に挑み田中角栄の支持を得て番狂わせの勝利、長期政権を期待された福田赳夫は僅か2年での退陣となった。その後も「昭和の黄門」福田赳夫は「清和会」に影響力を保持し1990年85歳で引退するまで衆議院議員を務めた。福田赳夫の没後、清和会を継いだ森喜朗・小泉純一郎・安倍晋三が政権を担い、長男の福田康夫も首相となった。
10
点
福田赳夫首相はカーター米政権の「アジア離れ」の隙を埋める形で「全方位外交」を追求し、従米脱却に挑んだ岸信介直系の名に恥じない働きを示した。ベトナム戦争敗北の翌1977年、大統領に就任したジミー・カーターは直ちに在韓米地上軍の削減を発表し「アジア離れ」の外交方針を鮮明にした。これを受けて福田赳夫首相は、カーター大統領を訪問し日米協調を確認したうえで、ASEAN5ヶ国の首脳を歴訪し「ASEAN工業プロジェクト」への10億ドル拠出およびODA支出額倍増を約束、最後の訪問地マニラで「日本の軍事大国化の否定・心と心が触れ合う相互信頼関係の確立・ASEAN各国の連帯性と強靭性強化に向けた自主的努力への協力」を骨子とする「福田ドクトリン」を表明した。福田ドクトリンとは即ち「米国のプレゼンス喪失で生じたアジアの力の空白を日本の経済力を求心力にASEAN諸国との政治経済両面での連帯強化によって埋めていく」外交方針の宣言であり、あわせて福田赳夫首相はベトナム問題や中ソ対立の波及など国際環境の分極化を未然に防ぐ日本の役割を国際社会に明示した。続いて福田赳夫首相は、改革解放を進める鄧小平復活後の中国と日本国内の親中・反ソ世論に促され、田中角栄内閣が達成した「日中国交正常化」の仕上げに乗出した。福田赳夫首相は、反ソ戦略の一環で対中接近を図るアメリカの了解を取付け、母体の岸派に根強い親台湾派を懐柔し、「反覇権条項」に抗議するソ連の牽制を黙殺して、1978年「日中平和友好条約」締結に漕ぎ着けた。福田赳夫首相は日中関係が「吊り橋から鉄橋になった」と自賛したが、中国への肩入れで「全方位外交」の建前は崩れ日ソ関係は悪化、さらに中国とベトナムの関係悪化を受け対越経済援助を堅持するも中越戦争勃発の抑止力にはなれず、日ソ関係改善に取組むなか自民党総裁選で大平正芳に敗れあっけなく退陣した。国内政治に弱い福田赳夫政権は短命に終わり岸信介以来の悲願である憲法改正・再軍備には踏込めなかったが、しっかりアメリカの了解を得ながらアジア経済共同体の構築を目指した外交戦術は秀逸で後世に範を示すものであった。

1905
年
群馬県群馬郡金古町の素封家(旧庄屋)福田善治の次男に福田赳夫が出生
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1912
年
明治天皇が崩御し大正天皇が即位
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1926
年
大正天皇が崩御し昭和天皇が即位
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1929
年
福田赳夫が東京帝国大学法学部を卒業し高等文官試験に主席合格、大蔵省へ進みエリート本流の文書課勤務
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1930
年
福田赳夫が大蔵省財務書記でロンドン勤務
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1933
年
福田赳夫がロンドンから帰国し陸軍担当主計官任官、軍部と闘う高橋是清蔵相に感銘を受ける
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1937
年
日本軍が国民政府の首都南京を占領
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1939
年
ドイツ軍がポーランド侵攻、英仏が独に宣戦布告し第二次世界大戦勃発
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1939
年
岸信介が満州から帰国し商工次官に就任
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1939
年
企画院事件発生、岸信介ら革新官僚が赤化思想として糾弾される
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1941
年
大蔵省エリートの福田赳夫が汪兆銘の南京政府へ財政顧問として転出
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1943
年
福田赳夫が南京から帰国し官房文書課長など大蔵省本流を歩む
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1943
年
商工省が軍需省へ改組され東條英機首相が軍需相兼任、岸信介商工相は国務大臣兼軍需次官に降格
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1945
年
池田勇人が大蔵省主税局長に昇進
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1945
年
ハリー・S・トルーマン(共和党)が米大統領就任(~1953)
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1945
年
ドイツが連合国に降伏
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1945
年
玉音放送
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1945
年
東久邇宮稔彦王内閣(公家)発足、重光葵が外相就任(吉田茂に途中交代)
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1945
年
福田赳夫が大蔵省官房長任官
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1945
年
GHQが陸海軍解体指令
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1945
年
昭和天皇・マッカーサー会談(以後11回)
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1945
年
マッカーサーが日本軍の武装解体完了を宣言
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1945
年
国際連合発足
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1945
年
日本社会党(片山哲書記長)・日本自由党(鳩山一郎総裁)・日本進歩党(町田忠治総裁)の結党が相次ぐ
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1945
年
陸軍省・海軍省が復員省に改組され700万人以上の復員軍人を処理
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1945
年
衆議院議員選挙法改定(婦人参政権容認)、「GHQ解散」
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1946
年
天皇の「人間宣言」(神格否定の詔書公表)
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1946
年
GHQが日本政府から沖縄施政権を剥奪
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1946
年
GHQが幣原喜重郎内閣の第一次農地改革法案を拒否し徹底的改革を命令
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1946
年
インフレ抑制のため預金封鎖・新円切替を断行
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1946
年
新選挙法による初の衆議院総選挙で鳩山一郎の自由党が勝利(初の女性議員39名が誕生)
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1946
年
GHQが自主路線の鳩山一郎を公職追放し第一党自由党の後継総裁に吉田茂が就任
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1946
年
福田赳夫が公職追放を免れ大蔵省銀行局長就任
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1947
年
トルーマン米大統領が「トルーマン・ドクトリン」発表(ギリシア・トルコへの支援表明により共産主義勢力と戦う決意を示唆)
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1947
年
総選挙、片山哲の社会党が第一党に躍進
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1947
年
GHQ作成日本国憲法施行
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1947
年
マーシャル米国務長官が「マーシャル・プラン」発表(西欧諸国への復興援助表明により東西対立が先鋭化、ソ連はコメコン設立で対抗)
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1947
年
福田赳夫が大蔵省枢要の主計局長に栄転
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1947
年
芦田均外相がアメリカ政府に米軍の「有事駐留」を提案し怒りを買う
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1947
年
昭和天皇がGHQに「沖縄の恒久的軍事占領が望ましい」と伝達
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1947
年
民法改正(夫婦平等・戸主権や長子相続権の廃止・自由結婚など)
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1948
年
李承晩と金日成の対立で米ソ合同委員会による南北朝鮮統一工作が破綻
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1948
年
アメリカ軍政のもと大韓民国樹立宣言
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1948
年
ソ連が「ベルリン封鎖」を強行し冷戦緊迫化
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1948
年
ソ連共産党の指導下に金日成が朝鮮民主主義人民共和国樹立
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1948
年
大蔵省主計局長の福田赳夫が昭和電工疑獄で逮捕される(のち無罪)
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1948
年
GHQが日本解体方針を緩和し「経済安定九原則」発表
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1949
年
衆議院総選挙、吉田茂の与党民主自由党が単独過半数獲得
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1949
年
第三次吉田茂内閣(民主自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、吉田茂が外相就任(岡崎勝男に途中交代)
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1949
年
北大西洋条約機構(NATO)発足
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1949
年
ソ連の核実験成功で東西冷戦が本格化
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1949
年
毛沢東の共産党が国共内戦を制し北京で中華人民共和国樹立を宣言、アメリカで日本再軍備(反共の防波堤)要請が一層高まる
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1950
年
中ソ友好同盟相互援助条約成立、アメリカで日本再軍備(反共の防波堤)要請が一層高まる
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1950
年
吉田茂首相が池田勇人蔵相・宮澤喜一秘書官を派米し米軍駐留継続と単独講和を申入れ
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1950
年
GHQと反共の吉田茂首相がレッド・パージを開始し約1万2千人を公職追放(逆コース)
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1950
年
福田赳夫が大蔵省を退官し政界へ転身
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1951
年
自由党に鳩山一郎の派閥が起り吉田茂の主流派と勢力伯仲
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1952
年
岸信介が日本再建連盟結成
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1952
年
ロバート・D・マーフィー米大使就任(~1953)
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1952
年
自由党で吉田茂派と鳩山一郎派の溝が深まり吉田首相は抜打解散で対抗
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1952
年
衆議院総選挙、自由党が圧勝し鳩山一郎ら公職追放解除者が衆議院議席の42%を占める、岸信介の日本再建連盟は大敗
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1952
年
福田赳夫が群馬3区から無所属(岸信介派)で出馬し衆議院議員初当選(~1990)
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1952
年
鳩山一郎への首相禅譲密約により第四次吉田茂内閣(自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、岡崎勝男が外務大臣就任
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1953
年
ドワイト・D・アイゼンハワー(共和党)が米大統領就任(~1961)
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1953
年
ジョン・フォスター・ダレスが米国務長官就任(~1959)、引き続き対日政策を主導
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1953
年
吉田茂首相が衆議院を「バカヤロー解散」、鳩山一郎・広川弘禅が分派し分党派自由党結成
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1953
年
右派社会党に入党を断られた岸信介が福田赳夫ら配下と共に佐藤栄作のツテで与党自由党に入党
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1953
年
岸信介(自由党)が山口2区から出馬し衆議院議員に当選(~1979)
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1953
年
ソ連に人類史上最悪の恐怖政治を敷いたスターリンが死去、フルシチョフがベリヤ・マレンコフを粛清し後継体制確立
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1953
年
第五次吉田茂内閣(自由党・外務官僚・従米路線の祖)発足、岡崎勝男が外務大臣就任
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1953
年
ジョン・M・アリソン米大使就任(~1957)
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1953
年
朝鮮戦争休戦、反動需要減に日銀の金融引き締めが拍車をかけ長期不況に陥る
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1953
年
鳩山一郎が分自党を解消し吉田茂の自由党に復党、三木武吉・河野一郎・石橋湛山らが離脱し日本自由党結成
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1953
年
奄美群島が本土復帰
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1954
年
アメリカの圧力により吉田茂政府が国家警察予備隊を常設軍隊「自衛隊」へ改組(陸上13万人・海上1万5千人・航空6千人)
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1954
年
吉田茂首相の自由党が従米路線に反抗する岸信介を除名
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1954
年
反抗勢力が日本民主党に合同し(鳩山一郎総裁・重光葵副総裁・岸信介幹事長)内閣不信任決議で吉田茂内閣を打倒
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1955
年
総選挙、鳩山一郎首相の民主党政権は絶対多数を獲得できず憲法改正を断念し対ソ外交に注力
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1955
年
アジア・アフリカ会議(バンドン会議)開催
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1955
年
ワルシャワ条約機構(WTO)発足
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1955
年
左右社会党統一(鈴木茂三郎委員長・浅沼稲次郎書記長、衆院156議席・参院69議席)
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1955
年
保守合同で自由民主党(鳩山一郎総裁・岸信介幹事長、衆院299議席・参院69議席)が発足し「55年体制」開始
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1956
年
フルシチョフの「スターリン批判」演説が西側に伝わり「雪どけ」機運高まる
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1956
年
謎の急病に倒れた石橋湛山首相に代わり岸信介外相が首相臨時代理を務める
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1957
年
鳩山一郎が自民党を離党し吉田茂派の佐藤栄作らが自民党復帰
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1957
年
ダグラス・マッカーサー2世が米大使就任(~1961)、日本政府をリード
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1957
年
欧州経済共同体(EEC)発足
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1957
年
岸信介首相が台湾の蒋介石を訪問し日華協力委員会を発足させ副会長就任
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1957
年
岸信介首相が「憲法は自衛のための核兵器保有を禁ずるものではない」と発言、自衛隊の軍備拡張計画(第一次防衛力整備計画)を承認
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1957
年
岸信介首相がインドネシアのスカルノ大統領を訪問し賠償交渉打開
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1958
年
日本が初めて国連安全保障理事会の非常任理事国となる
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1958
年
岸信介首相が個人特使の矢次一夫を韓国に派遣し李承晩大統領に国交回復を打診
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1958
年
総選挙、岸信介首相の与党自民党は大勝できず憲法改正を断念し安保改定に注力
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1958
年
岸信介直系の福田赳夫が自民党政調会長就任
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1958
年
岸信介内閣が「勤務評定問題」で日協組を攻撃し対立が深まる
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1958
年
岸信介内閣が警職法改正案(警察権限の拡大)を提出するが反対運動により廃案
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1958
年
昭和電工疑獄で東京高裁が福田赳夫に無罪判決
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1958
年
毛沢東の「大躍進」政策で中国経済が壊滅し数千万人が餓死(~1960)
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1958
年
毛沢東が台湾侵攻を図るが米軍の抵抗で断念(台湾海峡クライシス)
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1959
年
岸信介直系の福田赳夫が自民党幹事長就任
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1959
年
鳩山一郎死去
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1959
年
ジョン・フォスター・ダレス米国務長官が病気により辞任
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1959
年
福田赳夫が第二次岸信介内閣に農林大臣で初入閣
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1959
年
「大躍進」の大失敗で毛沢東が一時失脚し劉少奇・鄧小平が経済再建を始動
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1960
年
毛沢東の「修正主義批判」により中ソ対立が表面化(~1989)
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1960
年
韓国で「四月革命」が起り反日専門の李承晩大統領がハワイに亡命
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1960
年
安保闘争によりアイゼンハワー米大統領の訪日中止
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1960
年
岸信介首相が大野伴睦配下の右翼暴漢に刺され翌日内閣総辞職
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1960
年
岸信介直系の福田赳夫が自民党政調会長就任
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1960
年
岸信介派が分裂し福田赳夫が「党風刷新連盟」で池田勇人内閣の経済偏重主義を批判し不遇を託つ
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1960
年
ベトナム戦争勃発(~1975)、韓国などアジア諸国が派兵するなか池田勇人政府は軍事協力を拒否
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1961
年
ジョン・F・ケネディ(民主党)が米大統領就任(~1963)
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1961
年
エドウィン・O・ライシャワー米大使就任(~1966)、日米蜜月関係を演出し沖縄返還に奔走
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1961
年
朴正煕(岸信介の友人・朴槿恵の父)が軍事クーデターで韓国大統領に就き無闇な反日原理主義から反共へ路線転換
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1961
年
東ドイツが「ベルリンの壁」建設
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1961
年
朴正煕韓国大統領が来日し友人の岸信介が池田勇人首相との国交回復交渉をサポート
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1962
年
キューバ危機、フルシチョフ首相のミサイル撤去決断により核戦争回避
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1963
年
米ソ英が部分的核実験停止条約調印
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1963
年
安倍晋太郎が山口1区で落選し岳父の岸信介を慌てさせる
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1963
年
リンドン・ジョンソン(民主党)が米大統領就任(~1969)
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1964
年
マッカーサー死去
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1964
年
米軍の謀略でトンキン湾事件発生、北爆によりベトナム戦争激化
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1964
年
ソ連でフルシチョフが失脚しブレジネフ政権へ移行
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1964
年
中国が核実験に成功(米ソ英仏に次ぐ5番目の保有国)
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1965
年
内閣改造で田中角栄に代わり福田赳夫が大蔵大臣就任、田中は自民党幹事長・政調会長等を歴任し佐藤栄作首相を補佐
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1965
年
日韓基本条約調印
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1965
年
池田勇人死去
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1965
年
日韓国交回復(無償供与1080億円・借款720億円・民間借款1080億円超)
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1965
年
戦後初の国債発行
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1966
年
政権奪還を図る毛沢東が文化大革命を発動し中国が内乱状態となる(~1976)
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1966
年
内閣改造で福田赳夫に代わって三木武夫が大蔵大臣就任
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1967
年
福田赳夫が自民党幹事長就任、「黒い霧解散」後の総選挙で自民党勝利
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1967
年
公害問題が深刻化し四大公害訴訟はじまる(水俣病・第二水俣病・四日市ぜんそく・イタイイタイ病)
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1967
年
安倍晋太郎(岸信介の娘婿)が衆議院議員復活当選
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1967
年
中国が水爆実験実施(米ソに次ぐ3番目の水爆保有国)
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1967
年
東南アジア諸国連合(ASEAN)発足
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1967
年
吉田茂死去
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1968
年
全共闘運動が全国の大学に広がる
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1968
年
小笠原諸島が本土復帰
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1968
年
米ソ英仏中を含む62か国が核拡散防止条約調印
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1968
年
内閣改造で水田三喜男に代わって福田赳夫が大蔵大臣就任
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1968
年
日本のGDPがアメリカに次ぐ世界2位となる
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1969
年
リチャード・ニクソン(共和党)が米大統領就任(~1974)
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1969
年
朴正煕と親しい岸信介が日韓協力委員会を設立し会長就任
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1969
年
岸信介が佐藤栄作首相の要請で渡米しニクソン大統領と沖縄返還の下交渉
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1969
年
冷戦のデタント時代(~1979)
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1971
年
アメリカの支持により中国が国際連合に加盟(台湾中華民国は脱退)
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1972
年
政権を狙う田中角栄が福田赳夫を支持する佐藤栄作の派閥を割り田中派結成
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1972
年
岸信介の後継者で佐藤栄作首相が推す福田赳夫を田中角栄が破り自民党総裁選に勝利(角福戦争)
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1973
年
第四次中東戦争、エジプト・シリア軍の先制攻撃にイスラエル軍が大苦戦
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1973
年
愛知揆一の急死を受け福田赳夫が蔵相就任、総需要抑制政策への転換で田中角栄内閣の「日本列島改造論」が挫折
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1974
年
ジェラルド・R・フォード(共和党)が米大統領就任(~1977)
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1975
年
佐藤栄作死去、日本武道館で大隈重信以来の「国民葬」(葬儀委員長は田中角栄)
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1975
年
第1回先進国首脳会議(サミット)開催、米英仏日独伊が参加
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1976
年
毛沢東が死去し華国鋒が中国最高指導者を継承、四人組逮捕により文化大革命終結
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1977
年
ジミー・カーター(民主党)が米大統領就任(~1981)
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1977
年
カーター米大統領が在韓地上軍の削減を発表し米国の「アジア離れ」が始まる
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1977
年
福田赳夫首相が訪米しカーター大統領と会談、アジア政策での日米協調を根回し
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1977
年
第3回先進国首脳会議(ロンドンサミット)、福田赳夫首相が自由貿易体制堅持の必要性を説く
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1977
年
福田赳夫内閣が北方領土問題と切離すことで日ソ漁業協定を妥結
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1977
年
日本赤軍が日航機をハイジャック、福田赳夫首相が身代金および赤軍メンバー釈放の要求に応じる
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1977
年
第10期3中全会で鄧小平が復活し中共中央の実権を掌握
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1978
年
三里塚闘争が掃討され成田国際空港開業
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1978
年
鄧小平が日中平和友好条約批准で訪日し昭和天皇と会談し新日鉄・トヨタ・松下電器等を視察
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1978
年
第11期3中全会で鄧小平指導部が文革否定・改革開放路線決定
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1978
年
「日米防衛協力のための指針(ガイドライン)」運用開始
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1978
年
自民党総裁選で現職首相の福田赳夫が田中角栄の支持を得た大平正芳(宏池会)にまさかの敗北
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1979
年
岸信介・福田赳夫ラインが清和会結成
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1979
年
鄧小平が訪米し米中国交樹立、「米中対ソ」の対立構図が鮮明となる
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1979
年
ベトナムがカンボジアに侵攻し中越戦争勃発(ソ連と中国の代理戦争)
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1979
年
ホメイニーのイスラム勢力が米英の傀儡パーレビ王朝を滅ぼし(イラン革命)第二次オイルショック発生
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1979
年
解散総選挙で与党自民党が大敗、福田赳夫が首相指名選に挑むが田中角栄の支持で大平正芳首相が防衛(四十日抗争)
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1979
年
岸信介が地盤を吹田愰に譲り政界引退(衆院選不出馬)
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1979
年
アフガニスタン紛争で米ソ衝突(~1989)、デタントが終焉し冷戦が激化
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1980
年
内閣不信任決議を受け大平正芳内閣が「ハプニング解散」総選挙
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1980
年
大平正芳首相が総選挙の最中に心不全で急死(享年70)、田中角栄の支持で大平派の鈴木善幸が自民党総裁を後継
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1980
年
ワインバーガー米国防長官の防衛費増額要請を鈴木善幸首相が拒否
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1980
年
イラン・イラク戦争勃発(アメリカによるイラン叩き)(~1988)
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1983
年
中曽根康弘首相が韓国の全斗煥大統領を訪問、アメリカの対韓経済援助40億ドルの肩代わり献金を決定
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1983
年
中曽根康弘首相が訪米し「不沈空母」発言が物議を醸すが訂正せず
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1983
年
福田赳夫が岸信介の女婿安倍晋太郎に清和会会長を禅譲
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1985
年
ソ連でゴルバチョフが政権を掌握しペレストロイカ(再建)・グラスノスチ(情報公開)を断行
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1985
年
レーガン米大統領とゴルバチョフソ連書記長がジュネーヴで会談し核軍縮協議を開始
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1986
年
ソ連チェルノブイリ原子力発電所事故
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1986
年
ODAが50億ドル突破・アジア向けが急増
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1987
年
中曽根康弘政権下で国鉄が分割民営化されJR各社発足
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1987
年
岸信介死去
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1987
年
「ほめ殺し」の皇民党事件、極道の仲介で竹下登が田中角栄邸を訪ね謝罪するが門前払い
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1987
年
米ソが中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)締結
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1988
年
イラン・イラク戦争終結
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1989
年
昭和天皇が崩御し平成に改元
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1989
年
竹下登政権が初の消費税導入(3%)
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1989
年
宇野宗佑内閣(自民党・中曽根系)発足
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1989
年
革新派の胡耀邦追悼集会が第二次天安門事件に発展、保守派優勢となり趙紫陽総書記失脚
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1989
年
第一次海部俊樹内閣(自民党三木三木武夫系・従米路線)発足
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1989
年
アジア太平洋経済協力(APEC)発足
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1989
年
「ベルリンの壁」崩壊
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1989
年
H・W・ブッシュ米大統領とゴルバチョフソソ連書記長がマルタ会談で冷戦終結を宣言
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1989
年
バブル潰しの土地基本法成立
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1989
年
日経平均株価の終値最高値更新(38915.87円)
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1990
年
衆議院解散に伴い福田赳夫が政界引退、群馬3区の地盤を継いだ長男の福田康夫が衆議院議員初当選
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1990
年
衆議院解散に伴い田中角栄が政界を引退し越山会も解散
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1990
年
第二次海部俊樹内閣(自民党・三木系従米路線)発足
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1990
年
「土地関連融資抑制に関する行政指導(総量規制)」を機に一気に信用収縮へ向かう
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1990
年
ゴルバチョフのライバル・エリツィンがロシアの実権掌握
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1990
年
ドイツ再統一
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1990
年
世界の金融機関総資産ランキングで邦銀7行がベスト10入り
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1991
年
ゴルバチョフが訪日し海部俊樹首相と会談
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1991
年
宮澤喜一内閣(自民党・財務官僚)発足(経世会の小沢一郎が総裁選出馬を見送るが「面接」で宮澤総理を選択)
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1991
年
エリツィン・ロシアの脱退でソ連が崩壊し米ソ冷戦が完全終結
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1991
年
米国覇権主義「グローバリズム」「新自由主義」が台頭
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1991
年
ODAが100億ドル突破・以後高止まり
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1992
年
鄧小平が「南巡講話」で保守派を抑え改革開放路線を決定付ける
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1992
年
田中角栄が中国訪問し鄧小平を筆頭に「日中友好の井戸を掘った友人」と大歓待
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1993
年
田中眞紀子が田中角栄の地盤新潟3区から出馬し衆議院議員初当選
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1993
年
小沢一郎の造反で細川護熙内閣(非自民連立・公家・自主路線)が発足し「55年体制」終焉
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1993
年
欧州連合(EU)発足
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1993
年
APECシアトル会議でクリントン米大統領が貿易・投資の自由化促進を提唱
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1994
年
アメリカによる対日内政干渉「年次改革要望書」の運用開始
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1994
年
羽田孜内閣(非自民連立)発足
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1994
年
村山富市内閣(自社さ連立)発足
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1994
年
赤字国債発行が再開され以後国債発行残高が急増
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1995
年
GATTが発展解消し世界貿易機関(WTO)発足
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1995
年
阪神・淡路大震災
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1995
年
地下鉄サリン事件
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1995
年
円高が急進しドル円が80円割れ
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1995
年
オウム真理教の麻原彰晃らを逮捕
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1995
年
福田赳夫が死去(享年90)
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岸信介
ボス
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安倍晋太郎
岸の女婿・清和会後継者
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安倍晋三
岸の孫
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藤山愛一郎
岸の盟友
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坊秀男
同志
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田中龍夫
同志
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一万田尚登
同志
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倉石忠雄
同志
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川島正次郎
岸派分裂のライバル
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水田三喜男
蔵相仲間
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園田直
他派閥ながら同志・外相に登用
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保利茂
他派閥ながら同志
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西山健彦
腹心外交官
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森喜朗
清和会後継者
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小泉純一郎
清和会後継者
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町村信孝
清和会後継者
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福田康夫
息子
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高橋是清
尊敬する外相
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重光葵
偉大な先輩
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鳩山一郎
反吉田の領袖
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鳩山威一郎
外相に登用
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石橋湛山
気の毒な同志
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河野一郎
鳩山派の大番頭
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大野伴睦
鳩山派の大番頭
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三木武吉
鳩山派の大番頭
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吉田茂
GHQの代理人
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池田勇人
冷飯くわされた
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佐藤栄作
岸の実弟・引上げサンキュー
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田中角栄
勝てなかったライバル
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大平正芳
怨念の対決
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宮澤喜一
池田の後継者
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三木武夫
三木おろしで政権奪取
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中曽根康弘
群馬の宿敵
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鈴木善幸
宏池会
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竹下登
経世会
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金丸信
経世会
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小沢一郎
経世会
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鈴木貞一
葬儀委員長
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大谷貴義
黒い人脈
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アントニオ猪木
仲良し
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堤義明
仲良し
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芦田均
昭和電工疑獄仲間
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西尾末広
昭和電工疑獄仲間
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ウィロビー
昭和電工疑獄の謀主
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ケーディス
巻き添え勘弁
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ホイットニー
巻き添え勘弁
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ニクソン
米大統領
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キッシンジャー
田中を敵視
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フォード
米大統領
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カーター
アジア離れの米大統領
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ブレジンスキー
米大統領補佐官
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ブレジネフ
ソ連指導者
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鄧小平
中国指導者
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