織田信長を最も苦しめた本願寺顕如が死去(享年50)、嫡子教如が本願寺法主を継承するが、武闘派のため豊臣秀吉に廃され穏健派の三男准如が法主となる

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親鸞没後浄土真宗は衰亡、事実上の開祖は15世紀後半に登場した布教の天才蓮如である。母は賤民ながら父存如を継いで本願寺第8世となり、平易な『御文』と辻説法で瞬く間に教線を拡大、越前吉崎道場、山科本願寺、大阪石山別院(石山本願寺)を創建した。蓮如は不戦を説いたが、強大化した一向教団は各地の土豪と結びついて武力蜂起を展開、特に加賀一向一揆は1488年に守護富樫政親を討って加賀一国を制圧し90余年に渡り「百姓の持ちたる国」を堅持した。蓮如は親鸞譲りの精力家で、5人の妻との間に27もの子をもうけた。そして、蓮如の死から55年後に本願寺第11世を継いだのが、相婿の武田信玄と提携して織田信長を最も苦しめた「戦国大名」顕如である。父の証如は、管領細川晴元・六角定頼と結んだ日蓮宗教団の迫害に遭い、山科本願寺を焼討ちされて大坂に逃れ石山本願寺を新本拠地とした。天文法華の乱で京都から日蓮宗勢力が駆逐されると、細川晴元と和睦して養女(三条公頼の三女如春尼、次女は武田信玄正室)を顕如の妻に迎え、豊富な財力で室町幕府や皇室を支援して関係修復に努め本願寺教団を中央政界に押し出した。顕如は、全国の一向宗ネットワークを総動員して宗教特権を認めない織田信長に抵抗したが、信長包囲網の瓦解により降伏し石山本願寺を退去、日本の宗教勢力は武力を永久に奪われたが、豊臣秀吉に取り入って宗教的には復権を果し、京都堀川六条の現在地に本願寺(西本願寺)を創建した。顕如の死後、長男教如が本願寺法主を継承したが、武闘派のため豊臣秀吉に廃され穏健派の三男准如が法主に据えられた。が、豊臣家から天下を奪った徳川家康は、一向宗復活阻止のため離間策を採り、教如を法主とする新本願寺を創建(東本願寺)、現在まで続く東西本願寺の醜い泥仕合が始まった。聖職者の妻帯禁止は世界的常識だが、親鸞・蓮如・顕如の嫡流大谷家は今日に至るまで代々東西本願寺門首を世襲し、準皇族面で皇室に閨閥を張り巡らし、葬式仏教界の法王として庶民に君臨し続けている。第二次大戦前、壮大な大谷探検隊や文化事業・別荘建築で散財した末に破産した大谷光瑞は西本願寺第22世である。