[第一次上田合戦]沼田領引渡しを拒む真田昌幸が徳川家康から離反し次男真田信繁(真田幸村)を人質に上杉景勝に鞍替え沼田城に来襲した徳川・北条連合軍を寡兵で痛撃、信繁を羽柴秀吉(豊臣秀吉)の人質に転じ秀吉の調停で停戦

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真田昌幸は、武田信玄の智将真田幸隆の三男で、1575年長篠合戦で二兄が揃って戦死したため信濃真田郷6万石を相続、謀略で上杉方の信濃岩櫃城・上野沼田城を奪い、主君武田勝頼を滅ぼした織田信長に帰服、沼田を召上げられるも武田残党を吸収し勢力を増した。1582年本能寺事変が起り武田遺領の甲斐・信濃・上野が動乱の巷と化すと(天正壬午の乱)、真田昌幸は上杉→北条→徳川と乗換えつつ沼田を奪回し、徳川・北条同盟成立に伴う家康からの沼田割譲要求を拒絶し実力行使に出た北条軍を撃退した。1585年徳川・北条連合軍が大挙押寄せると、次男の真田信繁(真田幸村)を人質に送って上杉景勝に援軍を乞い、奇計を以て壊滅的打撃を与え上田・沼田の両城を死守したが(第一次上田合戦)、再び上杉を見限り天下人豊臣秀吉へ鞍替えした(真田信繁は上杉家を脱出し秀吉に近侍)。真田昌幸は海野竜宝(武田信玄の庶子)を盟主に担ぎ徳川領を侵食したが、秀吉の仲裁で家康と和睦し嫡子真田信之の妻に本多忠勝の娘(家康養女)小松姫を迎えた。1589年北条氏直の上洛を促す豊臣秀吉が懸案の沼田問題を裁定、真田昌幸は一応引渡しに応じたが泣付いて利根川西域と名胡桃城を留保し、怒った北条家臣の猪俣邦憲が真田の名胡桃城代から城を騙し取る事件が発生した。激怒した秀吉が小田原征伐を号令すると、真田昌幸は直ちに上野へ侵出し沼田領を奪回、戦後は関八州に入った徳川家康牽制の一翼を担った。1600年徳川家康が会津征伐を起し上方で石田三成が挙兵、真田昌幸は家康に従軍したが「甲斐・信濃二国進呈」を約す三成の書状で叛旗を翻し、真田信繁(妻は大谷吉継の娘)と共に上田城に籠城した。戦上手な真田昌幸は兵2千5百で徳川秀忠の中山道軍3万8千を足止めし関ヶ原合戦に遅参させる大功を立てたが(第二次上田合戦)西軍大敗で目論みは瓦解、東軍に付いた真田信之の嘆願で助命されたが高野山九度山村へ幽閉され同地で没した。真田信之は真田昌幸の遺領に3万石を加増され上田藩9万5千石を立藩、のち信濃松代藩13万石へ加転封され幕末まで存続した。真田信繁は高野山を脱走し大坂陣で徳川家康に一矢報いる。