[甲州征伐・天目山の戦い]織田信長軍が武田領に反攻、穴山梅雪・小山田信茂ら重臣の離反で孤立化した武田勝頼・信勝父子が自害し甲斐守護・武田宗家滅亡、続いて織田軍は越中・信濃・上野を攻略し上杉領に侵攻

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甲斐武田氏は、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光が甲斐守在任中にもうけた次男義清を祖とする。清和源氏の名門ではあるが、逸見、甘利、板垣、小笠原、南部、秋山、平賀など、甲斐の豪族はほぼ同族で、飛び抜けた存在ではなかった。猛将武田信虎は、武力でライバルを切り従え甲斐守護職も獲得、伊沢(石和)から甲府躑躅ヶ崎に居館を移し東信濃にも侵出した。暴虐な性質で、胎児の発育過程を見るため妊娠1ヶ月から10ヶ月まで10人の妊婦をとらえて腹を割いたという。武田信玄は信虎の嫡子だが、信虎が同母弟の信繁を偏愛したため阿呆な振りを作って怒りをかわし、成人すると重臣と姉婿今川義元を味方につけて信虎を駿河へ追放するクーデターを起し家督を継いだ。信玄の駿河追放・廃嫡を企てた信虎の逆手をとったとも伝わる。武田信玄は、継室三条の方(本願寺顕如の妻如春尼の姉)との間に嫡子義信ら三男をもうけ、滅ぼした諏訪頼重の娘で「かくれなき美人」諏訪御料人を強引に側室にして四男勝頼を産ませた。嫡子武田義信は、優秀で立派な跡取りだったが、妻が今川義元の娘(氏真の妹)のため義元亡き後駿河侵攻を狙う信玄と対立、謀反の罪で廃嫡・幽閉され最期は自害させられた。次男信親は盲人、三男信之は夭逝のため、信玄は四男勝頼を後継者に据えた。武勇を自負する武田勝頼は闇雲な領土拡張策で武田家の最大版図を獲得したが、戦費調達の重税で領民は離心し、佞臣の重用で家中が割れ、信玄の遺命を果たすべく織田信長に挑戦するも1575年長篠の戦いでまさかの大敗、石山本願寺を降して畿内を征した織田・徳川軍の大攻勢を受け1582年天目山の戦いで滅ぼされた。武田軍を蛇蝎の如く恐れる織田信長は禍根を断つべく根絶やし作戦を断行したが、生残りの多くは徳川家康に召抱えられ旗本となって存続した。信玄の直系は断絶したが、次男信親の孫信興は柳沢吉保の引立てで武田氏再興を許され表高家に列し、信玄の弟信俊の家も大身の旗本として残った。仕官の選に漏れた者は武士の面目を許されて武蔵多摩に集住し八王子同心と称されたが、近藤勇をはじめ新撰組の多くはこの家柄である。