[尼子再興(第一回)]山中鹿介幸盛ら尼子残党が京都東福寺にいた尼子勝久(新宮党国久の孫)を還俗させて主君に担ぎ大友宗麟・山名祐豊の支援を得て挙兵、隠岐から本土に渡って兵を募り、北九州攻めで手薄な毛利勢の虚を衝いて出雲・石見・伯耆を席巻し月山富田城に迫るが、大友宗麟と和睦した毛利氏の大軍が来襲、戦争中に毛利元就は死去するが、児玉就英の毛利水軍に制海権を奪われ最後の拠点新山城も落城、鹿介は吉川元春に捕捉されるが臣従を偽って助命され伯耆尾高城から脱走

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山中鹿介幸盛は、「七難八苦を授けたまえ」と月に祈り一騎打ちで武名を上げ、3度の尼子再興軍で毛利氏に挑み、最後は織田信長に見捨てられ上月城合戦で敗死した不撓不屈の勇将である。江戸時代を通じて軍記物や講談で人気を偶像化され、頼山陽・勝海舟・板垣退助などから絶賛され、第二次大戦期には教科書にも採用され忠君愛国の代名詞となった。山中鹿介は、尼子経久死の4年後に尼子一族山中家に生れ、8歳にして人を斬り、13歳の初陣で首を得る早熟ぶりを発揮した。病弱な兄に代わって山中家の家督と「三日月の前立と鹿の角の脇立のある冑」を相続すると、毛利の豪傑菊池音八・品川大膳を一騎討ちで討取り、怖気ずく重臣連を叱咤して特攻作戦を画策したが、1566年21歳のとき出雲月山富田城が陥落し戦国大名尼子氏は滅亡した。諸国遍歴に出た山中鹿介・立原久綱ら尼子残党は、京都東福寺にいた尼子勝久を還俗させて主君に担ぎ、1569年大友宗麟・山名祐豊の支援を得て挙兵、毛利の北九州攻めの虚を衝いて出雲・石見・伯耆を席巻するが富田城を落とせず、大友と和睦した毛利の大軍が来襲、渦中に毛利元就は死去したが、猛将吉川元春に敗北した(第一回尼子再興)。臣従を偽って助命された山中鹿介は、監視の目を潜って伯耆尾高城を脱走、諸浪人を集めて尼子再興軍を再結成し、海賊働きで軍資金を蓄え、山名豊国に加勢して鳥取城の逆臣武田高信を討って東因幡を制圧するが、豊国が毛利方に寝返り、但馬の山名祐豊も毛利と和睦、若桜鬼ヶ城で奮戦するも挽回ならず逃走した(第二回尼子再興)。山中鹿介と尼子再興軍は、織田信長に臣従し、明智光秀に属して転戦した後、豊臣秀吉の中国侵攻軍に加えられた。そして1578年、攻略した播磨上月城の守将に任じられるが、三木城主別所長治を寝返らせた毛利の大軍が来襲、上月城は織田信長の命で見捨てられ尼子勝久一族悉く自刃し降伏開城、山中鹿介は斬殺された(第三回尼子再興)。尼子再興軍を承継した部下の亀井茲矩は、徳川家康に転じて4万石の大名となった。清酒の発明から大名貸しで日本屈指の財閥となった鴻池家には、鹿介の遺児山中幸元を家祖とする伝承がある。