北条氏康が永禄飢饉救済のため徳政令を施行、領主層を納得させるため建前上引責隠居し次男北条氏政(長男は夭逝)に家督を譲る

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北条氏康の政治力は祖父早雲譲りで戦国時代随一といわれる。領国拡大よりも統治に重きを置き、無理な外征を控えて戦費を抑え他国より低い税負担を実現した。北条領を引継いだ徳川家康は税率引上げに苦労し、忍者の風魔小太郎(江戸幕府創設直後に処刑)や鳶沢甚内(幕府に帰順し目明し兼古着商支配役を世襲)など北条家遺臣が成した盗賊団の跳梁にも手を焼いた。義戦の名の下に実益乏しい外征に明け暮れ重い戦費負担を強いた上杉謙信とは好対照で、局地戦では敵わなかったものの、家臣と領民の支持が長期持久戦を可能にし広い領土を保つことができた。豊臣政権の太閤検地に先駆けで領内の検地を徹底し度量衡も統一、検地即ち隠田摘発は農民の反発を買うものだが、徴税体制強化の代わりに減税の恩恵を施した。中間搾取排除で領民の負担を減らしつつ一極支配体制を固め、目安箱を設置し、凶作や飢饉の際には柔軟に税の減免を施して酷いときには徳政令を施行、それでも領主層=家臣団や豪商を手懐け得たのは政治力の成せる業であった。北条氏康は、城下町小田原の都市開発にも鮮やかな手腕を見せた。街区や上水道(小田原早川上水)を整備し、全国から商人・職人を呼び寄せて商工業を振興、文化人・芸人を招聘して活気も演出し、清掃にも気を配り、西の山口と並び称される東国最大の都市を築き上げた。戦国期の城郭は、松永久秀の信貴山城や斎藤道三の稲葉山城に代表される山城から経済活動に有利な平城へ移り、末期には堀と防塁で城下を囲い込む巨大要塞(総構え)へ発展したが、小田原城はその画期を為す傑作であり、攻低守高の時代にあって難攻不落を誇った。海外貿易と重商主義を成功させ兵農分離まで到達した織田信長ほど派手ではないが、北条氏康の政治手腕は封建領主としては抜群で領民にとっては最も有難い名君であった。