尼子晴久勢が月山富田城の戦いで戦死した小早川正平の備後竹原高山城に侵攻するが毛利元就出陣により撤退、正平の嫡子又鶴丸が盲目のため毛利元就が三男又四郎を婿養子に送込む(元服後に又鶴丸一派を粛清して家督を継ぎ小早川隆景を名乗る)

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毛利氏の始祖は政所初代別当として鎌倉幕府の政治体制を築いた大江広元で、相模国愛甲郡毛利庄の所領を譲られた四男季光が毛利姓を名乗り、その孫時親の代に安芸国吉田に土着した。毛利弘元は、吉田郡山城主ながら国人(小領主)の一つに過ぎず、大内氏と尼子氏のいずれかに属さなければ家は存立できない苦境にあった。毛利元就は弘元の次男だが、嫡子興元の遺児幸松丸を後見して家を切り盛りしつつ、幸松丸の外祖父高橋興光を滅ぼして外堀を埋め、幸松丸が急死(謀殺説あり)すると尼子経久の介入を退け弟を殺して毛利家を継いだ。毛利元就は、盟友吉川家から妙玖を妻に迎え、隆元・元春・隆景の三兄弟を産ませた。嫡子毛利隆元は、尼子氏との手切れの際に大内義隆への人質として山口に送られ、男色家義隆の寵愛を得て大内シンパとなり、形式上毛利家当主を譲られたが若死にし、11歳の嫡子毛利輝元が家督を継いだ。月山富田城の戦いで備後竹原を領する小早川正平が戦死すると、毛利元就は援軍に駆け付けて尼子軍を退け、盲目の遺児又鶴丸を廃して三男隆景を養子に据え、元服を待って反対派を粛清し小早川家を乗っ取った。そして妙玖が亡くなると、里の吉川家の内紛に乗じて当主興経を強制隠居させ(後に殺害)次男元春を吉川家当主に据えた。この養子戦略で毛利氏は勢力を拡げたが、「毛利の両川」と讃えられた猛将吉川元春・智将小早川隆景に活躍の道を開いたことこそ重要であった。元就死後も勢力を保った「毛利の両川」が亡くなると、「戦国一の暗君」の呼び声も高い毛利輝元の独壇場となった。徳川家康に次ぐ領地を誇る毛利輝元は、石田光成に甘言で釣られて西軍総大将に担がれるも、関ヶ原合戦で毛利勢は支離滅裂、徳川方に通じた吉川広家に制されて毛利秀元(輝元養子)の大軍は戦闘に加わらず、小早川秀秋(豊臣秀吉養子→隆景養嗣子)の寝返りで東軍に勝利を献上した。合戦後、豊臣秀頼を擁して鉄壁の大阪城に籠る総大将の毛利輝元は、戦わずして城を明け渡した挙句、本領安堵の約束を反故にされ改易は免れたものの120万余石から防長37万石に大減封された。