流浪の身から最盛期には山陰・山陽11ヶ国に君臨した尼子経久が月山富田城にて病没(享年82)

尼子氏は、近江源氏佐々木氏の末流で、佐々木道誉の孫高久が所領の近江犬上郡尼子から名字を採った。出雲は鎌倉時代初期から佐々木氏の管国で、一時山名氏に奪われたが、応仁の乱後に佐々木(京極)氏が奪回し、高久の次男持久を出雲守護代に任じ月山富田城に拠らしめた。軍記物によると・・・持久を継いだ嫡子の尼子清定は、領民に対して暴悪であったばかりでなく、主家京極氏に叛逆して税収を全部横領、大軍に攻められて敗走し行方知れずのまま世を去った。清定には経久・久幸の二男があり、山深い生母の実家へ落ち延びたが、厄介者に居場所は無く、成長すると養家を出て諸国を流浪、乞食坊主に身をやつして餓死を免れつつ、復讐心と尼子家再興の意志を研ぎ澄ましたという。出雲を回復した尼子経久は、吉川経基の娘を妻に迎え、政久・国久・興久の三男をもうけた。嫡子尼子政久は、智勇に優れた頼もしい跡取りであったが、磨石城攻城戦で運悪く落命、激怒した経久は次男国久に猛攻を命じ城兵悉くを誅殺し、政久の死を惜しみ遺児晴久を後継者とした。尼子国久は、月山富田城東北の新宮谷に拠って戦闘集団新宮党を率い、経久没後は尼子の柱石と頼られたが、権勢を妬む晴久が毛利元就の離間策に嵌り一族諸共殺害した。墓穴を掘った尼子晴久は完全にジリ貧となり、山陽道を制圧し山陰攻めに転じた毛利元就に追い詰められ、悲憤のうちに月山富田城で陣没した。その5年後、後継の嫡子義久が毛利氏に降伏し、(同時ではないが)山陽・山陰11ヶ国に支配を及ぼした戦国大名尼子氏は滅亡した。毛利元就は、尼子氏族滅を主張する吉川元春・小早川隆景らの強硬論を退け、尼子義久・倫久・秀久の三兄弟を助命、義久は関ヶ原合戦後1292石の大禄を与えられて毛利家重臣に列した。義久には男児が無く、倫久の子元知が養嗣子となり、元知の子就易の代に本姓の佐々木に改めて幕末まで存続した。毛利家家臣の福永氏も尼子氏の末裔といわれる。山中鹿介が尼子再興軍の旗印に担ぎ出した尼子勝久は、国久と共に誅殺された嫡子誠久の五男である。