西村勘九郎(斎藤道三)が仕官の恩人長井長弘夫婦を謀殺、美濃稲葉山城と家名を押領し長井新九郎利政(後に秀竜)へ改名、近江守護佐々木義秀の後援も得て土岐頼芸を担いで美濃一国の実権を掌握

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斎藤道三は、恩人を殺して家名と稲葉山城を乗っ取り、傀儡守護の土岐頼芸まで追放して美濃国盗りを達成したが、最期は嫡子斎藤義龍に誅殺された悪逆無道・戦国随一の梟雄である。「美濃の蝮」の下克上物語は親子二代の事績とする説も有力である(以下は従来説)。父の松波基宗は、代々の禁裏北面の武士ながら朝廷の衰微により帰農して京都西ノ岡に土着、生来利発な息子(道三)の才を惜しみ立身の夢を託して京都妙覚寺に預けた。頭脳明晰で弁舌も爽やかな法蓮房(道三)は将来を嘱望されたが、弟分南陽房の下山を機に還俗して松波庄五郎と名乗り灯油商人となった。禿オヤジのイメージが強いが実は大変な美男子で諸芸に通じていたといい、永楽銭の穴から油を注込む名人芸で評判をとり行商で大繁盛したが、故郷の美濃で常在寺住職となった南陽房(日運)との縁が出世の糸口となった。南陽房の親戚長井長弘の推薦で美濃守護の次男土岐頼芸に仕官すると忽ち信任を獲得、知行地と長井家家老西村家の名跡を与えられて西村勘九郎を名乗り、愛妾深芳野まで下賜された。深芳野は半年後に豊太丸を出産するが、周囲は土岐頼芸の落胤と信じ、これが成人して斎藤義龍となる。翌1527年クーデターを起して土岐政頼を追放し弟の土岐頼芸を美濃守護に擁立、3年後には目の上の瘤長井長弘を謀殺して稲葉山城と家名を押領、東美濃の有力者明智氏から正妻を迎え、美濃守護代斎藤氏の遺跡を継いで斎藤山城守秀竜と名を改め、美濃一国の実権を掌握した。1541年堪忍袋の緒が切れた土岐一族が挙兵、引責剃髪して斎藤道三と号し頼芸の庇護下で難を逃れたが、翌年には反撃に出て謀主の土岐頼満(頼芸の弟)を毒殺、さすがに怒った土岐頼芸も追放して名実共に美濃国守となり、打倒道三で和解した土岐政頼・頼芸兄弟を担ぐ越前朝倉孝景・尾張織田信秀の連合軍を撃退して反抗勢力を一掃した。1554年家督を斎藤義龍に譲って隠居するも廃嫡を企て、内戦に敗れて63年の生涯を閉じた。救援に駆けつけた娘婿織田信長に美濃の国譲り状を贈ったというが、義龍の子龍興の代に斎藤家は信長に滅ぼされる。