[細沢山の戦い]大内と山名が反尼子で提携、尼子経久は備後に出陣するも陶興房(晴賢)率いる大内軍に敗北、国人衆は尼子から離脱し大内義興が安芸・備後を支配圏に収める

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尼子経久は、流浪の身から父が治めた出雲を奪回し、大内・山名・浦上氏領を切取って山陰・山陽11ヶ国に君臨した戦国初期の謀略王、死の25年後曾孫の代に元配下の毛利元就に滅ぼされた。京極家家臣で出雲守護代の尼子清定の嫡子に生れ、前半生は不詳だが、税収横領の罪で征伐され流浪生活を送り、1500年42歳のとき月山冨田城を攻め落とし守護塩冶掃部介を討取って出雲を制圧、家督争いに敗れた主家の京極政経を保護したが後継者の吉童子丸を排除した(おそらく謀殺)。一説には、窮乏の流浪生活を経て出雲に舞い戻り、旧臣山中勝重(鹿介の先祖)と鉢屋(賤視された遊芸民)を従え、元旦の千秋万歳と偽って城内に潜入する奇計を用いたという。山陽の盟主大内義興の上洛不在に乗じて近隣諸国へ侵出、石見西部・備後・備中・備前まで勢力を伸ばした尼子経久は、1523年毛利元就の活躍で安芸を勢力圏に収め(鏡山城の戦い)、翌年伯耆も制圧したが、大内・山名の提携成って挟撃の危機に立たされ、1527年陶晴賢率いる大内軍に敗れて安芸・備後の支配権を失い(細沢山の戦い)、西出雲を治める三男塩冶興久の謀反が起って家勢は衰えた。西国統治の特徴で、配下の国人衆は直接の家臣団ではなく、支配力は脆弱であった。大内氏と和睦した尼子経久は、浦上攻めに転じて美作を攻略するが、安芸の盟主に成長し山内方へ寝返った毛利元就の蠢動に悩まされ、1537年嫡孫晴久に家督を譲り隠居した。尼子晴久は、播磨に出征するも背後を脅かされて撤退し、1541年武田信実を担いで大軍で吉田郡山城を攻囲するが毛利元就の計略と大内家陶晴賢の援軍によりまさかの大敗(吉田郡山城の戦い)、その渦中に尼子経久は月山冨田城で病没した。2年後、勢い付いた大内義隆は大軍を率いて出雲に攻め返すが指揮能力欠如により壊滅的大敗(月山富田城の戦い)、尼子勢は息を吹き返し石見銀山も奪回したが、尼子晴久が病死し、陶晴賢を滅ぼして大内領を征した毛利元就が怒涛の進撃、5年に及ぶ籠城戦の末に1566年尼子義久が降伏開城し戦国大名尼子氏は3代で滅亡した。(第二次月山富田城の戦い)。