駿河・遠江を征し三河・甲斐へも勢力を伸ばした今川氏親が死去(享年53)、幼い嫡子今川氏輝のために分国法『今川仮名目録』を遺す

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今川氏は、北条早雲を先鋒に駿河・遠江・三河を制圧し海道一の弓取りと称されたが、桶狭間の戦いで織田信長の奇襲に敗れ、武田信玄・徳川家康に滅ぼされた名門戦国大名である。1476年駿河守護今川義忠が戦死、扇谷上杉定正・太田道灌の介入を退けて妹の産んだ氏親を今川家当主に擁立した北条早雲は、論功行賞によって60歳で一城の主となり、今川軍を率いて東奔西走、守護斯波氏を追い払って遠江を今川領に組込み、自身は伊豆・相模を奪って独立を果した。駿河・遠江の反抗勢力を討平し両国守護に就いた今川氏親は、甲斐・三河へ勢力を伸張、検地や金山開発で経済基盤を固め、分国法『今川仮名目録』を遺し病没した。1536年氏親の嫡子氏輝が後嗣無く死去、次男彦五郎も同時に死亡し(謀殺説あり)、同母弟の今川義元が母寿桂尼と謀臣太原雪斎の後押しで家督相続、異母兄の玄広恵探を推す国人衆が反乱挙兵するが、北条氏綱の援軍を得た義元が家督争いに勝利した(花倉の乱)。今川義元は三河侵攻に集中すべく武田信虎の娘を妻に迎え和睦するが(甲駿同盟)、怒った北条氏綱は氏親・早雲以来の駿相同盟を解消し東駿河へ侵攻、尾張の織田信秀も三河に攻寄せた。今川義元は東西挟撃の窮地に立ったが、武田信虎追放、北条氏綱死去、斎藤道三の美濃国獲りに伴う濃尾戦線の加熱と幸運が続き、関東管領上杉氏と結ぶ遠交近攻策で北条氏康を追い詰め東駿河と駿相同盟を回復、1548年三河で織田信秀軍を撃退し(第二次小豆坂の戦い)、岡崎城主松平広忠の死と後嗣(徳川家康)の身柄確保で松平家を属国化した。織田信秀急死と嫡子信長の家督相続で尾張が内乱に陥ると、今川義元は、上杉謙信との対戦で忙しい武田・北条と甲相駿三国同盟を結んで尾張侵攻を開始、松平軍を先鋒に三河の織田勢を掃討し、1560年自ら4万の大軍を率いて攻込んだが、田楽狭間で織田信長の急襲に遭い討取られた(桶狭間の戦い)。怯懦で享楽に溺れるばかりの嫡子今川氏真は隣国の好餌となり、織田へ寝返った徳川家康に三河を攻め取られ、1569年家康・信玄に遠江・駿河を分捕りにされ滅ぼされた。