戦国大名の先駆け北条早雲が嫡子北条氏綱に家督を譲り伊豆韮山城にて死去(享年88)、早雲の遺訓は『早雲寺殿廿一箇条』に受継がれる

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北条早雲は、小説などで素浪人から成り上がった戦国下克上の嚆矢とされてきたが、室町将軍家の重臣で伊勢平氏を継ぐ名門の出自とするのが通説となっている。通説によると、伊勢氏当主で母方の祖父貞国は政所執事を勤め、同職を継いだ伯父の貞親は8代将軍足利義政の傅役で「おやじどの」と呼ばれ信任が厚かった。父の盛定も伊勢氏の出で、将軍義政の申次衆にして備中荏原荘の領主であった。とはいえ衰亡する足利将軍家の郎党程度では象徴的権威しかなかったであろう、40歳を過ぎた北条早雲は妹北川殿が嫁いだ駿河守護今川家の被官となり、甥龍王丸(今川氏親)の当主擁立に働いて出世の糸口を掴んだ。北条早雲は、室町幕府奉公衆小笠原政清の娘で正室に迎えた南陽院殿に嫡子氏綱を産ませたほか、多くの男児に恵まれた。伊豆韮山城主北条氏の名跡を継ぐ際に未亡人の婿に収まったとする説もある。早雲の家督を継いだ氏綱は北条氏(後北条氏)を公称して武蔵国に勢力を伸ばし、その嫡子北条氏康の代に関東全域に覇を唱えたが、次代の北条氏政・氏直父子が豊臣秀吉の小田原征伐で滅ぼされた。北条早雲は「三代目の頃には両上杉家は亡んで関東一円は北条家のものになるに相違ない。金銀の蓄財は三代目まででよく、大国主となれば金銀を使わずとも国主の徳望を以て人心を掌握できる」と語ったというが、上方勢の圧倒的な物量戦術と天下統一の時流には歯が立たなかった。氏直病没により後北条氏の嫡流は絶えたが、家督を継いだ叔父の氏規が河内狭山藩を立藩して大名の末席に連なり幕末まで存続した。なお、氏直の落胤が伊達政宗の仙台藩士となり桑島に改姓して存続したとする異聞があり、幕末の勤皇志士桑島孟を経て子孫は今日に続いているという。