越後に出征した関東管領山内上杉顕定が戦国大名長尾為景の反撃に遭い戦死

長尾氏は、坂東八平氏の一を称する鎌倉時代以来の古豪で、関東管領山内上杉氏の重臣となり繁栄したが、このうち越後長尾氏は三条・上田・古志の三家に別れ交互に守護代を世襲した。戦国乱世となり、三条家の長尾為景が勢力を伸張、越後守護上杉房能を殺して上杉定実を傀儡に立て、報復来襲した関東管領上杉顕定を返り討ちにしたが、未だ勢力争いが続くなか病没した。嫡子長尾晴景が後を継いだが、宥和策を弱腰と侮られ争乱が激化、弟の景康・景房まで反乱の渦中で落命した。片や末弟の景虎(上杉謙信)は13歳の初陣以来連戦連勝で反乱軍を撃破、家臣・国人衆の輿望を担い兄晴景に家督と越後守護代職を禅譲させ、上田家の長尾政景を降して(後に謀殺)越後統一を果し、上杉憲政から関東管領上杉家の名跡を継いだ。毘沙門天と飯縄権現を崇拝し必勝の願掛けをした上杉謙信は、生涯女犯戒を貫いて(童貞説あり)子をもうけず、後継未確定のまま急逝した。連戦の過労と大酒が死因とされる。4人の養子のうち景虎(北条氏康の実子)と景勝(謙信の姉仙桃院と長尾政景の子)の両派に別れ家中を二分する壮絶な家督争いが勃発(御館の乱)、武田勝頼を後援につけた上杉景勝が勝利したが、上杉家の弱体化は著しく織田信長に抵抗する力は蘇らなかった。上杉景勝は、上野・信濃・越中から織田軍団に攻込まれ存亡の淵に立たされたが、本能寺の変で命拾い、豊臣秀吉に臣従して朝鮮出兵にも従軍、徳川家康の抑えとして会津120万石に加増移封され五大老にも推された。が、石田三成と通謀した腹心直江兼続が関ヶ原合戦の戦端を開き(会津征伐)、敗戦後何とか生延びるも出羽米沢30万石に大減封された。江戸時代に入り上杉景勝の孫綱勝の代で後嗣が断絶、吉良上野介義央の幼児綱憲を末期養子に迎え家を保ったが15万石に減封され、日本屈指の貧乏藩に零落したが名君上杉鷹山が出て藩財政を立て直した。