[九頭竜川の戦い]本願寺が反朝倉の管領細川政元と結び加賀・越中の一向一揆が越前に侵入、朝倉宗滴は圧倒的寡勢で越前九頭竜川の決戦に勝利(1万対30万とも)、吉崎道場を破却し一揆勢を加賀へ撃退

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朝倉宗滴は、若狭・丹後・加賀・近江・美濃・京都と命の限り戦い磐石の越前王国を築いた猛将である。『朝倉孝景条々』で有名な越前守護朝倉孝景(英林)の八男に生れ、朝倉景豊の謀反討伐の功で敦賀郡司に任じられると、1506年19歳のとき九頭竜川の戦いで見事な勝利を収め朝倉軍の指導者となった。本願寺が反朝倉の管領細川政元と結び加賀・越中の一向一揆が越前に侵入、朝倉宗滴は一揆勢30万に対し1万ともいわれる圧倒的寡勢で撃退し、吉崎道場を破却して一揆勢を加賀へ押し返した。甥の幼君朝倉孝景(宗淳)を補佐し事実上の当主として東奔西走、若狭守護武田元光を助けて守護代の反乱を鎮圧し、土岐政頼を擁して美濃守護家の家督争いに介入、1527年には将軍足利義晴の要請で率兵上洛し三好勢を掃討して京都を実効支配(管領細川高国の叛心により翌年撤兵)、本願寺の内紛に乗じて加賀一向一揆を攻撃した。守護土岐氏を滅ぼして美濃国獲りを果した斎藤道三に対しては、尾張の織田信秀・近江の六角定頼と提携して掣肘を加えるも、1547年加納口の敗戦により美濃侵出の夢は絶たれた。越中・加賀方面では、一向一揆を追い詰めるも壊滅には至らず、1555年自ら出征して決戦に臨んだが陣中で病に倒れ死の床についた。朝倉宗滴は、生涯現役の宣言どおり最期まで戦い続けたが、領土拡大の成果は乏しく、将軍を擁して天下に覇を唱えることもできなかった。しかし、隣国に武威を示して磐石の越前王国を築き、畿内の戦乱を逃れた公家や文化人を招き入れて一乗谷に京風文化を華開かせ、一方で武芸を奨励し中条流から富田勢源・富田重政・佐々木小次郎らの剣豪を輩出した。京都に近い地勢を占め室町幕府や朝廷に勢力を扶植した朝倉家は天下に最も近いといわれたが、宗滴没後、当主義景をはじめ凡庸な人材揃いで一族や家臣の内紛が起り、一向一揆の反攻を喰って和睦に追込まれ、ようやく越前を保つ有様となった。朝倉宗滴は臨終の際に「あと三年生き長らえたかった。別に命を惜しんでいるのではない。織田上総介の行く末を見たかったのだ」と語ったというが、その信長の手で18年後に朝倉家は滅ぼされた。