[五十子の戦い]古河公方足利成氏が長躯遠征して相模の堀越公方足利政知を襲撃、太田道灌率いる上杉軍は撃退し武蔵五十子陣まで押し返すが、扇谷上杉政真が戦死し(後継は叔父定正)山内上杉家家宰長尾景信も陣没(山内上杉は景信の弟忠景を後継としたため嫡子景春の謀反を招く)

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太田道灌は、江戸城を拠点に東奔西走し古河公方足利成氏を降して関東管領上杉氏に勝利をもたらしたが(享徳の乱)、下克上を恐れる主君に謀殺された戦国初期関東の最高実力者である。中国古典を渉猟して兵法に精通し、30余度の合戦で獅子奮迅の活躍、「山内上杉家が武蔵・上野両国を支配できるのは、私の功である」との自認に値する大功を立てたが、「狡兎死して走狗煮らる」の諺を地で行ってしまった。下克上の時勢が熟す数十年後に登場していれば、主家上杉氏を追落として関東に覇を唱え、同年生の北条早雲を退けたかも知れない。関東管領上杉氏は、山内・扇谷・犬懸・宅間の四家に分れたが、山内家が関東管領を独占し他の三家は分家的存在となった。1416年上杉禅秀の乱を機に上杉氏と鎌倉公方足利氏の対立抗争が激化、1438年将軍足利義教を味方に付けた上杉憲実が足利持氏を討ち鎌倉公方は一旦滅亡するも(永享の乱)、上杉氏が持氏の末子成氏を擁立して鎌倉公方を再興した。が、1454年傀儡の立場を潔しとしない足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺、将軍足利義政の支持を得た上杉氏は成氏勢を下総古河へ押しやり(古河公方)、関東諸豪は真二つに割れ利根川を挟んで対峙し30年に及ぶ大乱へ発展(享徳の乱)、将軍義政は成氏への対抗馬に弟足利政知を送込むも鎌倉入りを阻まれて伊豆堀越に留まった(堀越公方)。父太田資清から扇谷上杉家家宰を継いだ太田道灌は、武蔵国に河越城・江戸城・岩槻城・五十子陣を築いて防衛体制を敷き、関東管領山内上杉房顕に主君扇谷上杉政真まで合戦で喪いながらも死闘を征し、長尾景春の反乱を討ち平げて、1483年上杉氏勝利で関東大乱を終息させた(都鄙合体)。が、太田道灌の活躍で主家扇谷家の権勢が関東管領山内家を凌駕し両上杉家の対立抗争が勃発、そして3年後太田道灌は権勢を妬む主君扇谷上杉定正に謀殺された。柱石を失った関東諸豪は再び動揺し山内・扇谷の両陣営に別れ再び争乱に突入(長享の乱)、両上杉家は共倒れの途を辿り道灌末期の「当家滅亡」の叫びどおり60年を経て漁夫の利をさらった後北条氏に滅ぼされた。