著名自分史「米内光政」

オリジナル

米内 光政

よない みつまさ

米内 光政

1880年~1948年

50

第一次近衛文麿内閣の海相として日中戦争拡大に加担したが、日独伊三国同盟・対米開戦には断固反対し東条内閣打倒と終戦工作に働いた海軍良識派のリーダー

寸評

基礎点 80点 米内光政は対米英協調派(条約派・良識派)海軍人の枢要として海相・首相を歴任し、同志の山本五十六・井上成美と共に、伏見宮博恭王・加藤寛治・末次信正・岡敬純ら軍拡強硬派(艦隊派)に対抗、日独伊三国同盟および対米開戦の回避に尽力した。時流には逆らえず太平洋戦争が勃発したが、米内光政は早期講和を唱え続け、敗色濃厚になると岡田啓介・若槻禮次郞・宇垣一成ら重臣と結束して東條英機内閣を打倒、続く小磯國昭・鈴木貫太郎内閣で海相を務め閣内で終戦工作をリードした。米内光政は終戦後も東久邇宮稔彦王・幣原喜重郎内閣で海相に留まり海軍解体まで責務を全うした。
-30点 日中戦争勃発時、第一次近衛文麿内閣の海相だった米内光政は、近衛首相・広田弘毅外相の断固継戦論に追従し日中戦争泥沼化を招く重大な汚点を残した。また、東條英機内閣の打倒および鈴木貫太郎内閣の終戦決断に重要な役割を果した米内光政だが、米英ソのポツダム宣言に対して鈴木首相に「黙殺」声明を出させ、原爆投下・ソ連侵攻に口実を与える失策も犯している。生来モノグサな米内光政は、決定的対立を避けて妥協に奔る傾向があり、身命を賭して信念を貫く気概にも欠けた。

史実

1880年 旧盛岡藩の下級藩士米内受政の嫡子米内光政が盛岡市にて出生

1889年 大日本帝国憲法発布

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1891年 山本権兵衛が西郷従道海相のもと海軍省大臣官房主事に就き海軍の分離独立改革を断行

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1893年 海軍軍令部設置

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1894年 日清戦争勃発

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1895年 下関条約で日清戦争終結、朝鮮(李朝)が初めて中国から独立しソウルに独立門建立

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1895年 三国干渉~露仏独が日本に遼東半島返還を要求

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1895年 台湾総督府設置

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1898年 米内光政が海軍兵学校に入校

1898年 列強による清の植民地争奪競争が激化

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交遊録

山本権兵衛 海軍の父
加藤友三郎 偉大な先輩
山本五十六 悲劇の盟友
井上成美 盟友
財部彪 海軍仲間
斎藤実 海相時の首相
岡田啓介 同志
鈴木貫太郎 同志
吉田善吾 弱すぎたか
野村吉三郎 同志
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