著名自分史「龍造寺隆信」

オリジナル

龍造寺 隆信

りゅうぞうじ たかのぶ

龍造寺 隆信

1529年~1584年

70

一族虐殺を生延びて曽祖父から家督を継ぎ大友宗麟の力添えで東肥前支配を確立、耳川合戦の漁夫の利をさらって肥前統一を果し大友領の筑前・筑後・肥後北部・東豊前を侵食するが、疑心暗鬼の国人統治で離反が相次ぎ沖田畷の戦いで島津家久に討取られた九州下剋上の第一人者

寸評

基礎点 70点 龍造寺隆信は、一族虐殺を生延びて曽祖父から家督を継ぎ大友宗麟の力添えで東肥前支配を確立、耳川合戦の漁夫の利をさらって肥前統一を果し大友領の筑前・筑後・肥後北部・東豊前を侵食するが、疑心暗鬼の国人統治で離反が相次ぎ沖田畷の戦いで島津家久に討取られた九州下剋上の第一人者である。馬場頼周の反乱で父と祖父を殺されたが曽祖父の龍造寺家兼に伴われて筑後柳川城主蒲池鑑盛に身を寄せ、家兼が復讐を果した直後に病死したため17歳で家督を相続した。周防の大内義隆に臣従して主家の少弐冬尚を追放し傀儡の本家から家督を奪ったが、1551年陶晴賢の謀反で後ろ盾の義隆を失い立花道雪の猛攻を受けて敗走、再び蒲池鑑盛に救われて2年後に肥前に帰還すると、1559年大友宗麟に帰服して旧主の少弐冬尚・千葉胤頼を攻め滅ぼし東肥前支配を確立した。1563年肥前の領袖有馬義貞・大村純忠兄弟を撃退し(丹坂峠の戦い)、1567年高橋鑑種・秋月種実の反乱に呼応して大友氏に反旗、筑前・筑後を鎮圧した立花道雪の討伐軍が来襲するも毛利軍の九州侵攻で難を逃れ、1570年宗麟率いる6万の大軍を夜襲で破り干渉を排除した(今山の戦い)。1578年宗麟が耳川の戦いで惨敗すると道雪が堅持した防衛ラインが決壊、龍造寺隆信は島原半島の大村純忠・有馬晴信を降して肥前を平定し、一気に筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで支配圏を広げ九州三強の一角に躍り出た。が、冷酷で猜疑心が強く「肥前の熊」と称された龍造寺隆信は酷薄な恐怖政治に陥り、蒲池鎮漣(大恩人鑑盛の後嗣で娘婿)を族滅して柳川城を奪った暴挙を機に離反者が続出、武威を示すべく北上する島津氏に決戦を挑み有馬晴信の島原城へ攻込んだが、寡兵の島津家久に戦国史上最悪の惨敗を喫し隆信自身と龍造寺四天王全員(成松信勝・江里口信常・百武賢兼・円城寺信胤・木下昌直)が討取られた(沖田畷の戦い)。嫡子の龍造寺政家は、島津氏を降した豊臣秀吉に肥前佐賀城32万石を安堵されたが、秀吉に取り入った鍋島直茂に家を乗取られ、嫡子高房が抗議の自殺を遂げた直後に死去し龍造寺の嫡流は断絶した。

史実

1529年 龍造寺周家(少弐資元の被官で肥前水ヶ江城主の龍造寺家兼の嫡孫)の嫡子に龍造寺隆信が出生

1530年 尼子経久の三男で西出雲を治める塩冶興久が謀反、出雲を二分する大乱となるが、漁夫の利を狙う大内義隆は経久と和睦・支持、興久は敗北し備後に落ち延びるが4年後に自害、西出雲は経久の次男国久の支配地となる

1530年 豊後・筑後・肥後守護の大友義鑑の嫡子に大友宗麟(義鎮)が出生

1530年 [田手畷の戦い]少弐政資を滅ぼした周防の大内義隆(義興の嫡子)が止めを刺すべく杉興連に軍勢1万を預けて肥前勢福寺城の少弐資元(政資の後嗣)を攻めるが龍造寺家兼が撃退、少弐氏から実権を奪った家兼は大内義隆(義興の嫡子)に通じて独立を図る

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1530年 将軍足利義政により室町幕府御用絵師に抜擢され漢画の手法で慈照寺銀閣の障壁画や『周茂叔愛蓮図』『山水図』を描いた狩野正信が死去、幕府御用絵師を次いだ嫡子の狩野元信は職業画家集団「狩野派」を興し宮廷絵所預の大和絵土佐派(創始者の土佐光信は元信の舅とも)と日本画壇を二分する勢力へ躍進する

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1531年 [大物崩れ]将軍足利義晴・管領細川高国の挙兵要請に応じた播磨・備前・美作の領袖浦上村宗が京都を奪回、摂津尼崎大物で細川晴元・三好元長軍と対峙し優位に戦局を進めるが村宗を恨む赤松晴政勢の寝返り奇襲により壊滅し村宗は討取られ(嫡子政宗が家督を継ぐが浦上氏は播磨・備前・美作の支配力を失い尼子経久の侵攻で西播磨に追詰められる)高国は尼崎の路傍の民家で自害、永正の錯乱から24年続いた細川政元の養子3人(澄之・澄元・高国)による家督争奪戦が決着するが(晴元は事実上の管領となったが何故か正式襲名せず)、細川晴元と三好元長の権力争いへ移行

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1532年 [飯盛城の戦い~天文の錯乱・山科本願寺焼討]細川晴元の側近で播磨守護代の木沢長政が播磨守護畠山義堯に叛逆、三好元長・一秀が畠山に加勢し木沢を飯盛城に追い詰めるが、晴元の誘いに乗った山科本願寺証如・蓮淳が10万もの一向一揆勢を派遣、三好・畠山軍は撃滅され元長・一秀・義堯も討取られるが(切腹した元長は腸を天井に投げつけて壮絶死)、暴徒化した一向一揆勢は奈良を劫掠して京都へ侵入、本願寺と決別した晴元は近江守護六角定頼と法華一揆を動員して一向一揆を撃退、山科本願寺を焼かれた証如は摂津石山御坊(石山本願寺)へ逃避

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1533年 伊勢より上野上泉城へ来訪した愛洲移香斎久忠が城主の上泉伊勢守信綱に陰流の秘奥を伝授し2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げ退去、信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い「陰流ありてその他は計るに勝へず」と惚れ込んだ妙技に真正伝香取神道流や塚原卜伝の新当流を加味して新陰流を創始

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1533年 尼子経久が大物崩れで戦死した浦上村宗の遺領に攻込み備前・美作を奪取、播磨は細川晴元が制圧し村宗の嫡子浦上政宗は西播磨に追詰められる

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1534年 尾張那古野城主の織田信秀の嫡子に織田信長が出生

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交遊録

龍造寺家兼 曽祖父
龍造寺胤家 家兼長兄で家兼が追放
龍造寺家純 馬場頼周に討たれた家兼長男
龍造寺家門 舅・馬場頼周に討たれた家兼次男
龍造寺周家 実父・馬場頼周に討たれた家純嫡子
慶誾尼 強い母
龍造寺政家 島津に降り肥前佐賀を保ったが鍋島直茂に家を奪われた嫡子
龍造寺高房 鍋島直茂に滅ぼされた政家嫡子
江上家種 養子に出した次男
後藤家信 養子に出した三男
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