著名自分史「大友宗麟」

オリジナル

大友 宗麟

おおとも そうりん

大友 宗麟

1530年~1587年

30

父を謀殺して家督を奪い、宿敵大内氏の滅亡に乗じ立花道雪の活躍で九州6ヶ国に君臨したが、享楽と宗教に溺れ耳川の惨敗で運命が暗転、龍造寺隆信に領土を侵食され島津義久に追詰められて滅亡寸前、豊臣秀吉に救われ豊後1国を保つも愚息義統が自滅・改易された九州一の名門大名

寸評

基礎点 30点 大友宗麟(義鎮)は、父を謀殺して家督を奪い、宿敵大内氏の滅亡に乗じ立花道雪の活躍で豊後・筑後・肥後・豊前・筑前・肥前の6ヶ国を支配したが、享楽と宗教に溺れ耳川の惨敗で運命が暗転、龍造寺隆信に領土を侵食され島津義久に追詰められて滅亡寸前、豊臣秀吉に救われ豊後一国を保つも愚息義統が自滅・改易された九州一の名門大名である。豊後・筑後・肥後守護の大友義鑑の嫡子に生れ、21歳のとき廃嫡を企てた父を弟諸共に謀殺して家督を奪取(二階崩れの変)、翌1551年に陶晴賢の謀反で大内義隆が滅ぼされると(大寧寺の変)、弟の義長(義隆の甥)を大内家の傀儡当主に差出して陶と同盟し筑前・豊前を獲得、龍造寺隆信・菊池義武(叔父)ら反抗勢力を討平して肥前・肥後も制圧し、小原鑑元・秋月文種らを討って毛利元就の侵入を防いだ。絶頂の大友宗麟は見境無い女漁り(人妻強奪も)と享楽生活に耽って家臣の離反を招き、1562年門司城奪還戦で小早川隆景に大敗、1567年筑前の秋月種実・高橋鑑種・宗像氏貞・筑紫惟門・原田隆種が反旗を掲げた。1569年山中鹿介・大内輝弘の後方撹乱策と立花道雪の奮闘で毛利軍を九州から追出し、離反した龍造寺隆信を大軍で攻めるも大敗して肥前を奪われ(今山の戦い)、1578年伊東義祐の哀願に応じて日向を攻めるも島津義久・家久の「釣り野伏せ」にかかって壊滅的敗北を喫し田北鎮周・角隈石宗・佐伯惟教・蒲池鑑盛ら多くの武将を失い(耳川の戦い)、龍造寺に漁夫の利をさらわれて筑前・筑後・肥後北部・東豊前まで侵食された。耳川合戦直前に改宗した大友宗麟はキリスト教国建設を掲げて行軍中に寺社を破壊、祟りに怯える大友軍の戦意は乏しかった。1584年沖田畷の戦いで龍造寺を斃した島津の大軍が大友領に殺到、大黒柱の立花道雪を病で喪い、岩屋城の高橋紹運は玉砕、立花宗茂の孤軍奮闘で辛うじて筑前を防衛したが、大友宗麟は天下人豊臣秀吉に泣きつくほかなかった。1586年長宗我部元親の先発隊は島津家久に撃退されたが(戸次川の戦い)、秀吉が兵20万余を率いて来援すると島津軍は撤退、秀吉から豊後一国37万石を安堵された大友宗麟は栄枯盛衰の生涯を閉じた。

史実

1530年 豊後・筑後・肥後守護の大友義鑑の嫡子に大友宗麟(義鎮)が出生

1531年 [大物崩れ]将軍足利義晴・管領細川高国の挙兵要請に応じた播磨・備前・美作の領袖浦上村宗が京都を奪回、摂津尼崎大物で細川晴元・三好元長軍と対峙し優位に戦局を進めるが村宗を恨む赤松晴政勢の寝返り奇襲により壊滅し村宗は討取られ(嫡子政宗が家督を継ぐが浦上氏は播磨・備前・美作の支配力を失い尼子経久の侵攻で西播磨に追詰められる)高国は尼崎の路傍の民家で自害、永正の錯乱から24年続いた細川政元の養子3人(澄之・澄元・高国)による家督争奪戦が決着するが(晴元は事実上の管領となったが何故か正式襲名せず)、細川晴元と三好元長の権力争いへ移行

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1532年 [飯盛城の戦い~天文の錯乱・山科本願寺焼討]細川晴元の側近で播磨守護代の木沢長政が播磨守護畠山義堯に叛逆、三好元長・一秀が畠山に加勢し木沢を飯盛城に追い詰めるが、晴元の誘いに乗った山科本願寺証如・蓮淳が10万もの一向一揆勢を派遣、三好・畠山軍は撃滅され元長・一秀・義堯も討取られるが(切腹した元長は腸を天井に投げつけて壮絶死)、暴徒化した一向一揆勢は奈良を劫掠して京都へ侵入、本願寺と決別した晴元は近江守護六角定頼と法華一揆を動員して一向一揆を撃退、山科本願寺を焼かれた証如は摂津石山御坊(石山本願寺)へ逃避

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1533年 伊勢より上野上泉城へ来訪した愛洲移香斎久忠が城主の上泉伊勢守信綱に陰流の秘奥を伝授し2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げ退去、信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い「陰流ありてその他は計るに勝へず」と惚れ込んだ妙技に真正伝香取神道流や塚原卜伝の新当流を加味して新陰流を創始

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1533年 尼子経久が大物崩れで戦死した浦上村宗の遺領に攻込み備前・美作を奪取、播磨は細川晴元が制圧し村宗の嫡子浦上政宗は西播磨に追詰められる

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1534年 尾張那古野城主の織田信秀の嫡子に織田信長が出生

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1534年 銀山城主武田光和が重臣熊谷信直との対陣中に急死し安芸守護武田氏は空中分解で断絶、熊谷・宍戸・山内・天野氏等を従え安芸国人の盟主となった毛利元就が正式に尼子経久に手切れを通告し大内義隆へ鞍替え(事実上の転籍は1525年頃)、大内家からの独立も企図する元就は尼子領の備後を襲って領土拡張に励む

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1534年 肥後国人の菊池義武が大内義隆・相良晴広らと同盟して実兄の大友義鑑から独立するが攻められて相良氏へ亡命、戸次鑑連(立花道雪)は大友軍主力として活躍

1536年 周防の大内義隆(義興の嫡子)に攻められた肥前勢福寺城の少弐資元が降伏開城するが、和睦条件を反故にされ大宰大弐の官職と所領を奪われたうえ攻められて梶峰城で自害(嫡子冬尚は助命される)、義隆に通謀し主君を見捨てた龍造寺家兼は東肥前の戦国大名へ台頭

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1536年 [天文法華の乱]延暦寺の僧兵約6万人が京都に押し寄せ日蓮宗寺院二十一本山を焼払い門徒を虐殺

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交遊録

大友義長 祖父
大友義鑑 謀殺した父
大友義統 2度の敵前逃亡で大友家を潰した嫡子
大友親家 田原氏を継がせた次男・道雪に嫉妬して筑前戦線を離脱
大友親盛 養子に出した三男
菊池義武 反逆し討ち滅ぼした叔父
大内義長 大内氏を継いだが捨て殺しにした弟
大友到明 謀殺した弟
大友親貞 竜造寺に返討ちにされた従弟
入田親誠 誅殺した到明派重臣
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