著名自分史「島津家久」

オリジナル

島津 家久

しまづ いえひさ

島津 家久

1547年~1587年

90

「釣り野伏せ」を駆使して耳川・沖田畷・戸次川の戦いで芸術的快勝を収め龍造寺隆信はじめ名立たる武将を討取った島津四兄弟の末弟にして戦国随一の野戦指揮官

寸評

基礎点 90点 島津家久は、「釣り野伏せ」を駆使して耳川・沖田畷・戸次川の戦いで芸術的快勝を収め龍造寺隆信はじめ名立たる武将を討取った戦国随一の野戦指揮官である。島津貴久の四男だが妾腹のため嫡出の兄義久・義弘・歳久とは別扱いで育ち、発奮して武芸軍略を磨き15歳の初陣で敵将工藤隠岐守を鑓合せで討取る活躍、祖父島津忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と嘱目された。1570年肥後人吉城主相良義陽から大口城を奪回して薩摩平定へ導き、1578年北部九州の支配者大友宗麟が日向に押寄せると、田原親賢率いる3万余の大軍を迎え撃ち田北鎮周・角隈石宗・佐伯惟教・蒲池鑑盛を含む3千名を討取る完勝、島津氏は南九州の覇権を確立した(耳川の戦い)。敗走を装って囮部隊を退却させ追走する敵を伏兵の鉄砲攻撃で包囲殲滅する「釣り野伏せ」は家久のお家芸となった。深手を負った大友氏が衰退すると、被官の肥前国主龍造寺隆信が台頭し盛んに大友領を侵食したが、過酷な国人統治に離反が相次ぎ島原城主有馬晴信が島津氏へ寝返り、決戦を決意した隆信は大軍(2万5千とも6万とも)を率いて島原へ侵攻した。肥後・日向戦線で手一杯の島津義久は取り急ぎ島津家久の先発隊(3千とも)を派遣、圧倒的劣勢ながら撃滅を企図する家久は敵を湿地帯に誘い込んで鉄砲隊で急襲、大混乱に陥った龍造寺軍を撫で斬りにし龍造寺隆信・康房兄弟に成松信勝・江里口信常・百武賢兼・円城寺信胤・木下昌直を討取る奇跡的勝利を収め(沖田畷の戦い)、後継の龍造寺政家を降伏させて肥前・筑前・筑後・肥後北部・東豊前を奪取した。1586年島津氏が総力挙げて大友討伐に乗出すと、宗麟の哀訴に応じた豊臣秀吉は長宗我部元親率いる先発隊2万を派遣し、日向から豊後へ向かう島津家久軍1万3千は戸次川で対峙、軍監仙石秀久が無謀な冬季渡川で戦端を開くと家久は鮮やかに「釣り野伏せ」を決め、壊走する敵を殲滅して長宗我部信親・十河存保を討取った。が、20万余に膨れ上がった秀吉軍には成す術無く、日向佐土原城に退いて逸早く降伏、九州征伐の顛末を見ることなく病没した。

史実

1547年 薩摩・大隅守護の島津貴久の庶子(四男)に島津家久が出生(島津義久・島津義弘は嫡腹の異母兄)

1548年 連戦連勝の長尾景虎(上杉謙信・長尾為景の子)が家臣・国人衆に推戴され家督と越後守護代を承継(兄長尾晴景は隠居)、2年後に傀儡守護の上杉定実が後嗣無く死去し室町将軍足利義輝から越後国主の承認を受け、翌年坂戸城の戦いで上田長尾政景を降して22歳で越後国統一を達成

詳細を見る

1549年 [キリスト教伝来]イエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸、薩摩国主島津貴久は布教を許すが仏教界の反対に遭って獲得信者は150人のみ、期待した南蛮船も入航せず貴久は布教を禁止、ザビエル一行は全国布教許可を得るため上洛するが京都の荒廃と足利将軍の権威失墜に失望して在京15日で退去し再び西下、仰々しい装いに改めた効果で肥前平戸の松浦隆信・周防山口の大内義隆・豊後府内の大友義鎮(宗麟)から歓待され、各領内に布教体制を築いてインドへ去る(日本滞在は2年余)

1549年 龍造寺本家当主の胤栄(龍造寺隆信の傀儡)が後嗣無く死去、隆信は大内義隆を後ろ盾に付けて反対派を抑え胤栄未亡人に入婿する形で龍造寺本家の家督を横領(このとき義隆の偏諱を受けて隆信を名乗る)

1549年 [江口の戦い~細川政権崩壊と三好政権発足]三好長慶が細川氏綱・遊佐長教と提携し一門のライバルで細川晴元側近の三好政長を襲撃し政長以下800人を討取る大勝、晴元と将軍足利義輝は六角定頼を頼って近江坂本へ逃亡、三好長慶は細川氏綱を管領に擁立して室町幕府の実権を掌握するが、以後9年も晴元・義輝との抗争は継続、三好家家宰の松永久秀は京都所司代の重職を与えられ40歳で歴史舞台に登場(摂津滝山城主・堺代官も兼務して富を築き三好家中第一の勢力家へ台頭)

詳細を見る

1550年 [二階崩れの変]豊後・肥後・筑後守護の大友義鑑が長子義鎮の廃嫡を企て反対派の重臣を誅殺するが反撃に遭って擁立を企てた三男到明と共に討取られ(義鎮の陰謀疑惑が濃厚)、大友義鎮(宗麟)が戸次鑑連(立花道雪)の後見を得て家督相続、義鑑に加担した入田親誠は岳父の阿蘇惟豊を頼って肥後に逃れるが鑑連に攻められて自害に追込まれる

詳細を見る

1550年 島津忠良(日新斎)が鹿児島内城から隠居所の加世田に転居

1550年 ポルトガル商船が肥前平戸へ来航し南蛮貿易がスタート、平戸領主松浦隆信と肥前の領袖有馬晴純(大村純忠の実父で有馬晴信の祖父)は貿易の利で勢力を伸ばすがキリスト教は禁断

1550年 毛利元就が大内義隆の協力を得て盲人の小早川又鶴丸(戦死した正平の嫡子)を出家に追込み田坂全慶ら反対派を大粛清して婿養子の三男小早川隆景が家督を承継(高山城主に納まった隆景は沼田川対岸に新高山城を築き転居)、竹原・沼田の両小早川家を乗取り安芸・備後沿岸部の支配を確立した元就は大内家からの独立を果たす

詳細を見る

1550年 筒井順昭(興福寺衆徒の領袖)が太平寺の戦いで三好長慶に討たれた木沢長政の残党を次々攻略し柳生家厳・宗厳父子ら国侍衆を降して大和を平定するが病を苦に比叡山へ出奔し死去、2歳の嫡子筒井順慶が後を継ぐが大和は再び国侍衆が割拠する情勢となり三好政権・松永久秀に支配圏を脅かされる(「元の木阿弥」の故事成句あり)

詳細を見る
もっと見る

交遊録

島津忠良 祖父
島津貴久
島津豊久 関が原に散った嫡子
島津忠仍 東郷氏の養子に出した次男
島津義久
島津義弘
島津歳久
島津勝久 父祖が追放した島津宗家当主
島津実久 薩州家当主で父祖の宿敵
島津義虎 帰服した実久嫡子
もっと見る