著名自分史「真田信繁(幸村)」

オリジナル

真田 信繁(幸村)

さなだ のぶしげ(ゆきむら)

真田 信繁(幸村)

1567年~1615年

60

父の真田昌幸と共に「上田合戦」を闘い高野山幽閉を脱し大阪陣に見参、孤立無援の「真田丸」で奮闘し徳川家康を切腹寸前まで追詰めた破軍の星

寸評

基礎点 60点 真田信繁(真田幸村)は謀将真田昌幸の次男、15歳で織田方の沼田城へ人質に出され「第一次上田合戦」で武将デビュー、上杉景勝の人質を脱して豊臣秀吉に近侍し大谷吉継の娘婿となった。真田昌幸に従う真田信繁は小田原征伐を闘い上野沼田領を奪回、1600年「第二次上田合戦」で徳川秀忠の中山道軍を関ヶ原合戦に遅参させたが西軍惨敗で破滅、東軍に付いた長兄真田信之(妻は本多忠勝の娘)の嘆願で辛くも助命され父と共に高野山九度山村へ幽閉された。真田信之は昌幸領を安堵・加増され子孫は幕末まで松代藩13万石を保った。真田昌幸は没したが1614年「大坂冬の陣」が起ると、真田信繁は兄の勧誘を断って高野山を脱出し大阪城に見参(条件は50万石とも)、手勢130人ながら長宗我部盛親・毛利勝永・後藤又兵衛・明石全登と並ぶ浪人軍「五人衆」に迎えられ5千の兵を託された。真田の通字は「幸」、兄の信幸は徳川を憚り「真田信之」へ改めたが、弟の信繁は「真田幸村」を名乗り意気地を示している。さて、大野治長(淀殿の乳母の子)らに兄への通謀を疑われた真田信繁は、大阪城の弱点である南方に孤立無援の「真田丸」を築いて信義を立て、真田昌幸の遺策を披露し「先制攻撃で京都を押さえ近江瀬田で関東勢を防ぎ、豊臣秀頼自ら出陣して恩顧大名の離反を誘うべし」と説いたが、「貫禄不足の信繁が説いても誰も従うまい」との父の予言通りとなった。真田信繁は無念を抑えて真田丸に籠り20万の徳川軍を奇計で翻弄、信濃一国の恩賞で投降を勧められたが謝絶し大坂城を護り切った。が、愚将大野治長の差配で豊臣方は勝機を逃し大砲に怯えた淀殿が不利な講和を強行、真田丸は破壊され大阪城は内堀まで埋められた。翌1615年、徳川家康は15万余の大軍で「大坂夏の陣」を起し裸城を再攻撃、真田信繁は伊達政宗自慢の騎馬鉄砲隊を撃退し、茶臼山に布陣し起死回生の陽動作戦を献じたが肝心の豊臣秀頼が出馬せず挫折、「十文字槍」を振い家康本陣に斬込んだが包囲殲滅された。真田信繁の猛撃に徳川家康は二度も自害を覚悟したという。豊臣家は滅亡し戦国時代は徳川の一人勝ちで終結したが、真田信繁は己の死花で掉尾を飾った。

史実

1567年 真田昌幸(信濃小県郡真田郷の領主真田幸隆の三男で後継者)の次男に真田信繁(真田幸村)が出生

1568年 将軍足利義輝を殺害した松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が阿波に居た足利義栄(11代将軍義澄の孫で13代義輝の従弟)を担ぎ出して14代室町将軍の宣下を受けるが、専横を強める松永久秀と三好一門衆の抗争が勃発し将軍義栄は入京できぬまま半年後に病死

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1568年 足利義昭(三好三人衆・松永久秀が弑殺した将軍足利義輝の弟)が上洛要請に応じない朝倉義景に失望し幕臣の細川藤孝・新参の明智光秀の手引きで越前を脱走し尾張の織田信長へ鞍替え、信長は直ちに5万余の上洛軍を挙げ南近江の六角義賢と畿内の三好三人衆を一掃し(松永久秀・三好義継は逸早く投降)、入洛して義昭を15代室町将軍に擁立、織田信長は関所撤廃と楽市楽座により寺社特権を剥奪し松永久秀が敷いたキリスト教宣教師追放令も撤廃

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1568年 [観音寺城の戦い]上洛に向かう織田信長が通路確保のため南近江の六角義賢に従軍を要請するが拒絶(領地明渡しや臣従の強要ではなかったが、義賢は近江で争う浅井長政と同盟した信長を警戒、将軍足利義栄を担ぐ三好三人衆に与して信長に抵抗)、支城の箕作城を一夜で落とされた義賢は観音寺城を放棄して逃亡し鎌倉幕府創立から続く佐々木氏嫡流の六角氏は滅亡、六角家中で唯一抗戦した蒲生賢秀は嫡子蒲生氏郷を人質に出して降伏、蒲生氏の義理堅さに感じた信長は氏郷を近侍させ厚遇する

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1568年 織田信長軍団の高級将校木下藤吉郎(豊臣秀吉)が六角義賢討伐・観音寺城の戦いで主戦場となった支城の箕作城攻めで活躍(信頼できる資料に初登場)、翌年京都警備役(師団長格)に大抜擢され1万石の所領を得る

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1568年 [甲相同盟破綻と越相同盟]武田信玄が徳川家康と今川領の東西分割を約し駿河侵攻開始、難なく駿府城を落として今川氏真を遠江掛川城へ追い払うが、甲相同盟を解消した北条氏康の侵攻により甲府へ撤退、北条氏康は宿敵上杉輝虎(謙信)に上野国支配と関東管領職を認めて越相同盟を結び元盟友武田信玄を圧迫(今川と北条に塩の移出を止められ難渋する武田信玄に上杉謙信が越後の塩商人を派遣した「敵に塩を送る」逸話はこのときの出来事)

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1568年 [毛利氏の伊予出兵]大友宗麟と通じる大洲城主宇都宮豊綱・土佐中村城主一条兼定が湯築城主河野通宣を攻撃、河野重臣の村上通康(渦中に病死し嫡子の来島通総が家督と来島村上水軍を承継)から援軍要請を受けた毛利元就は小早川隆景・乃美宗勝を派遣し宇和島の西園寺公広と同盟して大洲城を攻略、元就は元寇の勇将河野通有以来伊予を支配した河野氏と村上通康ら水軍衆を支配下に置くも九州大友氏との二方面戦争を余儀なくされ敗戦で没落した一条家では被官の長宗我部元親が台頭する

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1569年 [本圀寺の変]織田信長の岐阜城帰還を衝いて三好三人衆と斎藤龍興ら浪人衆が将軍足利義昭が仮寓する京都本圀寺を襲撃、引き返して反乱を一蹴した信長は豪壮な二条御所(烏丸中御門第)を造営して将軍の権威を示し衰微した皇室の経営再建にも尽力、「幕府再興」に有頂天の将軍義昭は独断で論功行賞を行い「御父」と持上げた信長には副将軍職を献じるが信長は逆に『殿中御掟』を突きつけて傀儡将軍の増長を掣肘、義昭から貿易都市堺支配のお墨付き得た信長は町衆を脅して自治権を剥奪し外国貿易と鉄砲・硝煙の供給ルートを掌握(信長は堺商人で侘茶名人の千利休を茶頭に召抱える)

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1569年 織田信長の滝川一益軍団が伊勢に侵攻、三男信孝を神戸氏・弟信包を長野氏の当主に据え、伊勢国司(飛騨姉小路・土佐一条と並ぶ三国司)北畠具教の大河内城を攻囲・恭順させて次男信雄を養嗣子に据え名門北畠家と伊勢国を奪取(北畠具教は塚原卜伝から秘剣「一つの太刀」の印可を受けた剣豪であったが、1576年三瀬の変で一族と共に殺戮された)~信長近侍の蒲生氏郷が初陣し介添役無しで首級を挙げる活躍、信長は自ら烏帽子親となって岐阜城で氏郷を元服させ、娘の冬姫を妻に与え近江日野城への帰還を許す

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1569年 [掛川城攻略]武田信玄と今川領の東西分割を約した徳川家康が遠江へ侵攻、掛川城落城により駿河守護今川家滅亡(今川氏真は妻早川殿の実家後北条氏に亡命後、徳川家康の庇護下に入り家名存続)、遠江一国を制圧した徳川家康は三河岡崎城から遠江浜松城に居城を移し大井川を隔てて武田信玄と対峙

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交遊録

真田幸隆 苦労人の曽祖父
真田昌幸 復帰かなわず高野山で没した父
真田信綱 長篠合戦で戦死した幸隆嫡子
真田昌輝 長篠合戦で戦死した幸隆次男
真田信尹 徳川幕府旗本となった幸隆四男
真田信之 徳川について大名家を保った昌幸嫡子・妻小松姫は本多忠勝娘
真田幸昌 共に滅びた嫡子
片倉守信 片倉重臣となり真田姓を残した次男
三好幸信 生き延びた三男
矢沢頼綱 大叔父
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