著名自分史「真田昌幸」

オリジナル

真田 昌幸

さなだ まさゆき

真田 昌幸

1547年~1611年

40

二度の「上田合戦」で徳川家康に苦渋を舐めさせた戦国屈指の戦上手だが大局眼無き領地欲の権化、叛服の果てに小田原征伐を誘発し関ヶ原合戦で勲一等の殊勲を挙げながら西軍敗北で破滅

寸評

基礎点 40点 真田昌幸は、武田信玄の智将真田幸隆の三男で、1575年長篠合戦で二兄が揃って戦死したため信濃真田郷6万石を相続、謀略で上杉方の信濃岩櫃城・上野沼田城を奪い、主君武田勝頼を滅ぼした織田信長に帰服、沼田を召上げられるも武田残党を吸収し勢力を増した。1582年本能寺事変が起り武田遺領の甲斐・信濃・上野が動乱の巷と化すと(天正壬午の乱)、真田昌幸は上杉→北条→徳川と乗換えつつ沼田を奪回し、徳川・北条同盟成立に伴う家康からの沼田割譲要求を拒絶し実力行使に出た北条軍を撃退した。1585年徳川・北条連合軍が大挙押寄せると、次男の真田信繁(真田幸村)を人質に送って上杉景勝に援軍を乞い、奇計を以て壊滅的打撃を与え上田・沼田の両城を死守したが(第一次上田合戦)、再び上杉を見限り天下人豊臣秀吉へ鞍替えした(真田信繁は上杉家を脱出し秀吉に近侍)。真田昌幸は海野竜宝(武田信玄の庶子)を盟主に担ぎ徳川領を侵食したが、秀吉の仲裁で家康と和睦し嫡子真田信之の妻に本多忠勝の娘(家康養女)小松姫を迎えた。1589年北条氏直の上洛を促す豊臣秀吉が懸案の沼田問題を裁定、真田昌幸は一応引渡しに応じたが泣付いて利根川西域と名胡桃城を留保し、怒った北条家臣の猪俣邦憲が真田の名胡桃城代から城を騙し取る事件が発生した。激怒した秀吉が小田原征伐を号令すると、真田昌幸は直ちに上野へ侵出し沼田領を奪回、戦後は関八州に入った徳川家康牽制の一翼を担った。1600年徳川家康が会津征伐を起し上方で石田三成が挙兵、真田昌幸は家康に従軍したが「甲斐・信濃二国進呈」を約す三成の書状で叛旗を翻し、真田信繁(妻は大谷吉継の娘)と共に上田城に籠城した。戦上手な真田昌幸は兵2千5百で徳川秀忠の中山道軍3万8千を足止めし関ヶ原合戦に遅参させる大功を立てたが(第二次上田合戦)西軍大敗で目論みは瓦解、東軍に付いた真田信之の嘆願で助命されたが高野山九度山村へ幽閉され同地で没した。真田信之は真田昌幸の遺領に3万石を加増され上田藩9万5千石を立藩、のち信濃松代藩13万石へ加転封され幕末まで存続した。真田信繁は高野山を脱走し大坂陣で徳川家康に一矢報いる。

史実

1547年 武田信玄の被官で信濃小県郡真田郷を所領する真田幸隆の三男に真田昌幸が出生

1547年 武田晴信(信玄)が信濃佐久の村上義清領に侵攻、志賀城を落とし北進して村上勢を圧迫

1547年 三河岡崎城主松平広忠が6歳の嫡子竹千代(徳川家康)を今川義元へ人質に送るが、駿府へ護送中に家臣戸田康光が裏切り織田信秀に売却、信秀は臣従を強要するが広忠は拒絶、竹千代は危うくも生かされ2年間を尾張で過ごす(織田信長と会った可能性が高い)

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1547年 [加納口の戦い]斎藤道三が尾張織田信秀の侵攻軍を撃破し美濃一国を完全平定、土岐政頼自害・土岐頼芸の越前朝倉家亡命で美濃守護土岐氏は滅亡

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1548年 [上田原の戦い・塩尻峠の戦い]信濃の覇権を賭けて武田晴信(信玄)が葛尾城の村上義清に決戦を挑むが宿老板垣信方・甘利虎泰の戦死を含む大損害を出し侵攻停止、村上義清に呼応した小笠原長時が諏訪に攻め寄せるが再起不能の大敗を喫し深志(松本)林城に逃げ戻る

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1548年 連戦連勝の長尾景虎(上杉謙信・長尾為景の子)が家臣・国人衆に推戴され家督と越後守護代を承継(兄長尾晴景は隠居)、2年後に傀儡守護の上杉定実が後嗣無く死去し室町将軍足利義輝から越後国主の承認を受け、翌年坂戸城の戦いで上田長尾政景を降して22歳で越後国統一を達成

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1548年 [第2次小豆坂の戦い]駿遠の今川義元と尾張の織田信秀が三河を巡り決戦、太原雪斎の軍略により勝利した今川氏が三河を支配圏に治め駿河・遠江・三河の太守となる

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1548年 [天文の乱]奥州探題大崎義直・羽州探題最上義守をはじめ葛西・相馬・蘆名ら南奥羽諸豪を従属させた陸奥守護伊達稙宗(政宗の曽祖父)が娘婿相馬顕胤への領地割譲・三男伊達実元の越後守護上杉定実への入嗣を画策、猛反発した嫡子伊達晴宗が稙宗を幽閉するが脱出し諸豪を巻込んで6年に及ぶ大乱に発展、室町将軍足利義輝の仲裁により稙宗隠居・晴宗への家督禅譲で決着するが伊達氏は求心力を喪失、稙宗を寝返り晴宗勝利に導いた蘆名盛氏は伊達氏と肩を並べるまでに成長し伊達家中では中野宗時が台頭

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1549年 斎藤道三が織田信秀と和睦し娘の帰蝶を嫡子織田信長に嫁がせる

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1549年 [キリスト教伝来]イエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸、薩摩国主島津貴久は布教を許すが仏教界の反対に遭って獲得信者は150人のみ、期待した南蛮船も入航せず貴久は布教を禁止、ザビエル一行は全国布教許可を得るため上洛するが京都の荒廃と足利将軍の権威失墜に失望して在京15日で退去し再び西下、仰々しい装いに改めた効果で肥前平戸の松浦隆信・周防山口の大内義隆・豊後府内の大友義鎮(宗麟)から歓待され、各領内に布教体制を築いてインドへ去る(日本滞在は2年余)

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交遊録

真田幸隆 苦労人の父
真田信綱 長篠合戦で戦死した幸隆嫡子
真田昌輝 長篠合戦で戦死した幸隆次男
真田信尹 徳川幕府旗本となった幸隆四男
真田信之 徳川について大名家を保った嫡子・妻小松姫は本多忠勝娘
真田幸村 打倒徳川の遺志を継いだ次男・妻は大谷吉継娘
矢沢頼綱 叔父
矢沢頼康 頼綱嫡子
宇多頼忠
海野幸光 謀殺した同族
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