著名自分史「黒田官兵衛」

オリジナル

黒田 官兵衛

くろだ かんべえ

黒田 官兵衛

1546年~1604年

80

播磨小寺家重臣の嫡子に生れ、織田方の急先鋒として毛利攻めを牽引、本能寺事変後の中国大返しで豊臣秀吉を天下人に押上げるも智謀を警戒されて不遇に泣き、関ヶ原合戦中に漁夫の利を狙い九州北半を征するが東軍完勝で挫折、心優しき天才軍師にして福岡藩52万石の祖

寸評

基礎点 40点 黒田官兵衛孝高は、東播磨の盟主小寺家の筆頭家老で姫路城代の黒田職隆の嫡子に生れ、織田方の急先鋒として毛利攻めを牽引、備前の宇喜多直家を調略し、主君小寺政職に裏切られ荒木村重に幽閉されても操守を貫き、本能寺事変後の中国大返しで豊臣秀吉を天下人に押上げるも智謀を警戒されて不遇に泣き、関ヶ原合戦中に漁夫の利を狙い九州北半を征するが東軍完勝で天下争覇の夢破れた心優しき天才軍師である。嫡子黒田長政は、徳川家康の養女婿となり小早川隆景・吉川広家を寝返らせた功績で豊前中津12万石から筑前福岡52万石へ諸大名中最大の加増を受けた。守護赤松氏がお家騒動で没落し播磨・備前・美作は国人割拠の情勢を強めるなか、21歳で家督を継いだ黒田官兵衛は、姫路へ侵攻した赤松政秀を寡勢で撃退して武名を上げ(青山・土器山の戦い)、1575年織田信長の天下を予見し主君小寺政職と別所長治を口説いて帰順させたが、織田方の備前国主浦上宗景が毛利の加勢を得た家臣の宇喜多直家に追放され(天神山城の戦い)、一向宗門徒の盟友三木通秋が反信長に転じて乃美宗勝の毛利水軍が来襲(英賀合戦)、偽装援軍の奇計で撃退するも国人衆は動揺し、局面打開のため嫡子長政を人質に送って援軍を督促した。1577年中国征伐を決意した織田信長は豊臣秀吉軍団を派遣、姫路城に入った秀吉は忽ち要衝上月城を攻略するが、別所長治の離反を機に播磨国人の大半が毛利方へ靡き毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の大軍が来援、備前宇喜多直家の調略で窮地は凌いだが、息つく間もなく荒木村重が謀反、村重と通じた小寺政職に欺かれ説得に赴いた黒田官兵衛は有岡城の土牢に幽閉され、官兵衛反意を疑う信長は人質長政の殺害を命じた。1年後、有岡城落城で半死半生の官兵衛は救出され(梅毒性唐瘡と歩行困難の後遺症が残る)、竹中半兵衛に匿われた長政も無事、軍師官兵衛が戻った秀吉軍団は別所長治を滅ぼし(三木合戦)、反抗勢力を掃討して播磨を平定(小寺政職は官兵衛の嘆願で助命)、吉川経家の鳥取城を落として因幡を制圧、清水宗治の備中高松城を水攻めで攻囲した秀吉は手柄献上のため信長に出馬を要請した。
40点 1582年本能寺の変報を備中高松陣で受けた豊臣秀吉は茫然自失となったが、軍師黒田官兵衛は「開運の好機到来」と励まし弔合戦を進言(後に秀吉から警戒される発端となる)、正気に返った秀吉は妥協的条件で毛利と即時和睦し、京都まで200kmを10日で移動(中国大返し)、柴田勝家らに先駆けて明智光秀を討ち果し後継レースの主役に躍り出た(山崎の戦い)。黒田官兵衛は、毛利・宇喜多との戦後処理をまとめ、大坂城築城の総奉行を務め、賤ヶ岳合戦から九州征伐に転戦、播磨篠の丸城5万石から1587年豊前中津12万石の大名となったが、功績に比して評価は過小であり、秀吉子飼いの石田三成に参謀長の地位も奪われた。中津入り直後、官兵衛が肥後国人一揆討伐に出征した隙に城井鎮房ら豊前国人が一斉蜂起、苦戦しつつも持久戦に切替えて無事鎮圧した。1589年家督を長政に譲り隠居、秀吉が自身没後の天下は官兵衛が獲ると語った由を伝え聞き粛清を予見して引退したというが、官兵衛の智謀を頼む秀吉は軍師辞任は許さなかった。小田原征伐では北条氏政・氏直父子への勧降使を務め、秀吉が諫止を聞かず始めた文禄の役(朝鮮出兵)には軍監として渡航するが、現地で石田三成・小西行長と対立し無断帰国、剃髪入道して勘気赦免され(如水と号す)、慶長の役・蔚山城の戦いでは長政の後詰で采配を振るい、処罰覚悟で戦線縮小を図るなか、秀吉が大阪城で病没した。風雲急を告げる情勢下、黒田官兵衛は、長政を徳川家康に縁付けて西軍切崩しにあたらせ、関ヶ原合戦が起ると自身は豊前中津で雑兵1万を掻き集めて挙兵、最古参の栗山善助・母里太兵衛・井上九郎右衛門を従えて毛利配下大友義統の西軍勢を打破り(石垣原の戦い)、怒涛の進撃で九州北半を制圧、立花宗茂・鍋島直茂・加藤清正を加えた4万の大軍で島津征伐に乗り込むが、予期せぬ西軍惨敗と毛利輝元の大阪城退去で早々に徳川の天下が固まり、家康と島津義久の和議成って肥後水俣で停戦命令を受け解軍した。最後の大勝負に負けた黒田官兵衛は、封土恩賞を辞退して筑前に隠居し、好々爺然で家臣・領民に親しみ悠々自適のうちに59年の見事な生涯を閉じた。

史実

1546年 小寺政職の筆頭家老で播磨姫路城主の小寺職隆の嫡子に小寺孝高(黒田官兵衛)が出生

1547年 三河岡崎城主松平広忠が6歳の嫡子竹千代(徳川家康)を今川義元へ人質に送るが、駿府へ護送中に家臣戸田康光が裏切り織田信秀に売却、信秀は臣従を強要するが広忠は拒絶、竹千代は危うくも生かされ2年間を尾張で過ごす(織田信長と会った可能性が高い)

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1547年 [加納口の戦い]斎藤道三が尾張織田信秀の侵攻軍を撃破し美濃一国を完全平定、土岐政頼自害・土岐頼芸の越前朝倉家亡命で美濃守護土岐氏は滅亡

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1547年 寝返りの常習者吉川興経が毛利元就の仲介で大内義隆に帰順するが家臣団の反抗で強制隠居、毛利元就は次男を養嗣子に入れ新当主吉川元春を擁立(3年後に興経と一族を殺害)、毛利氏は養子戦略(毛利の両川体制)により安芸一国を制圧

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1548年 連戦連勝の長尾景虎(上杉謙信・長尾為景の子)が家臣・国人衆に推戴され家督と越後守護代を承継(兄長尾晴景は隠居)、2年後に傀儡守護の上杉定実が後嗣無く死去し室町将軍足利義輝から越後国主の承認を受け、翌年坂戸城の戦いで上田長尾政景を降して22歳で越後国統一を達成

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1548年 [第2次小豆坂の戦い]駿遠の今川義元と尾張の織田信秀が三河を巡り決戦、太原雪斎の軍略により勝利した今川氏が三河を支配圏に治め駿河・遠江・三河の太守となる

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1548年 [天文の乱]奥州探題大崎義直・羽州探題最上義守をはじめ葛西・相馬・蘆名ら南奥羽諸豪を従属させた陸奥守護伊達稙宗(政宗の曽祖父)が娘婿相馬顕胤への領地割譲・三男伊達実元の越後守護上杉定実への入嗣を画策、猛反発した嫡子伊達晴宗が稙宗を幽閉するが脱出し諸豪を巻込んで6年に及ぶ大乱に発展、室町将軍足利義輝の仲裁により稙宗隠居・晴宗への家督禅譲で決着するが伊達氏は求心力を喪失、稙宗を寝返り晴宗勝利に導いた蘆名盛氏は伊達氏と肩を並べるまでに成長し伊達家中では中野宗時が台頭

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1549年 斎藤道三が織田信秀と和睦し娘の帰蝶を嫡子織田信長に嫁がせる

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1549年 [キリスト教伝来]イエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に上陸、薩摩国主島津貴久は布教を許すが仏教界の反対に遭って獲得信者は150人のみ、期待した南蛮船も入航せず貴久は布教を禁止、ザビエル一行は全国布教許可を得るため上洛するが京都の荒廃と足利将軍の権威失墜に失望して在京15日で退去し再び西下、仰々しい装いに改めた効果で肥前平戸の松浦隆信・周防山口の大内義隆・豊後府内の大友義鎮(宗麟)から歓待され、各領内に布教体制を築いてインドへ去る(日本滞在は2年余)

1549年 今川義元と織田信秀の合戦で松平家・岡崎衆は今川方先鋒として三河安祥城を攻略し城主の織田信広(信長の庶兄)を確保(本多忠勝の父本多忠高が戦死)、太原雪斎の献策により竹千代(徳川家康)と織田信広の人質交換が成立・竹千代は駿府に移され当主を人質にとられた松平家は今川の属国となり家臣は虐待され合戦ごとに最前線の危地に送られる

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交遊録

黒田重隆 目薬で財を成し黒田家を興した祖父
黒田職隆 小寺家主席家老・姫路城代の父
小寺休夢 重隆次男
黒田利高 黒田八虎筆頭の次弟
黒田利則 黒田八虎の三弟
黒田直之 黒田八虎の四弟
黒田長政 優秀な嫡子
黒田忠之 黒田騒動を起した不肖の長政嫡子
黒田長興 筑前秋月藩初代藩主となった長政三男
黒田高政 筑前東蓮寺藩初代藩主となった長政四男
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