著名自分史「平沼騏一郎」

オリジナル

平沼 騏一郎

ひらぬま きいちろう

平沼 騏一郎

1867年~1952年

30

検察のドンの立場で軍部に加担し左翼と政党を排撃、念願の首相に上り詰めたが独ソ不可侵条約に遭遇し「欧州情勢は複雑怪奇」の言葉を残して退陣した観念右翼の総帥

寸評

基礎点 30点 東大法学部を主席で卒業した平沼騏一郎は、司法官僚から検察のドンとなり、司法相・枢密院議長を経て陸軍・右翼の支持を背景に首相に上り詰めたが、独ソ不可侵条約でドイツの二面外交に翻弄され「欧州情勢は複雑怪奇」の名言を残し僅か8ヶ月で退陣した。平沼騏一郎は、政治的中立たるべき法曹界の重鎮ながら国粋主義・観念右翼の総帥、右翼団体「国本社」で大衆教化を図り、軍部に加担して左翼・政党勢力の排撃に奔走、大逆事件・企画院事件・帝人事件を引起し、天皇機関説問題と国体明徴運動でも大いに働き西園寺公望ら重臣を攻撃、軍部の政権掌握に貢献し念願の首相の座を射止めた。退陣後の平沼騏一郎は、第二次・第三次近衛文麿内閣の内相・国務相に就任し憎きナチス・ドイツとの同盟に反対し陸軍統制派や近衛文麿・広田弘毅・松岡洋右ら日独同盟派と対立、ドイツに範をとった国家総動員体制にも異を唱えた。対米開戦後、重臣会議に列した平沼騏一郎は陸軍統制派との因縁から岡田啓介・米内光政・若槻禮次郞ら和平派陣営に属し東条英機内閣打倒やポツダム宣言受諾に一票を投じたが、常に態度不鮮明な平沼を昭和天皇は「結局、二股かけた人物というべきである」と軽蔑した。第二次大戦後、平沼騏一郎は東京裁判で終身禁固刑判決を受け巣鴨プリズンで精神を病み1952年に病没したが、「日本が今日の様になったのは、大半西園寺公の責任である。老公の怠け心が、遂に少数の財閥の跋扈を来し、政党の暴走を生んだ。これを矯正せんとした勢力は、皆退けられた」と、戦争主導の主体を軍部・右翼から財閥・政党にすり替え穏健派の西園寺公望に戦争責任を押付けるという独善的な歴史認識を開陳している。平沼騏一郎は「頭の良い馬鹿ほど始末に困る」の典型というべき複雑怪奇な観念論者だが、文官の身で終身刑に処されるほどの大物では無かった。

史実

1852年 平沼騏一郎が病気を理由に仮釈放され間もなく死去(享年84)

1867年 美作津山藩士平沼晋の次男平沼騏一郎が津山城下南新座にて出生

1872年 平沼騏一郎が上京し箕作秋坪の三叉学舎に学ぶ

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1878年 平沼騏一郎が東京大学予備門に入学

1888年 平沼騏一郎が帝国大学法科大学を首席で卒業し司法省出仕

1889年 大日本帝国憲法発布

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1889年 民法典論争が起る

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1890年 第一回衆議院総選挙で民党が過半数を獲得

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1890年 教育勅語発令

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1890年 第一回帝国議会開催

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交遊録

西園寺公望 宿敵
清浦奎吾 貴族院のドン
近衛文麿 重臣仲間
岡田啓介 重臣仲間
米内光政 重臣仲間
若槻禮次郞 攻撃目標転じて重臣仲間
濱口雄幸 攻撃目標
東條英機 打倒目標
箕作秋坪 先生