著名自分史「明智光秀」

オリジナル

明智 光秀

あけち みつひで

明智 光秀

1528年~1582年

50

足利義昭の将軍擁立や対朝廷工作、丹波攻略に働いて織田家軍団長に出世したが、本能寺の変で織田信長を弑逆、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れて「三日天下」を失った謀反人の代名詞

寸評

基礎点 50点 明智光秀は、足利義昭の将軍擁立や対朝廷工作、丹波攻略に働いて織田家軍団長に出世したが、本能寺の変で織田信長を弑逆、山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れて「三日天下」を失った謀反人の代名詞である。美濃守護土岐氏の庶流で東美濃の大豪族明智氏の嫡子に生れたが、斎藤道三の外戚明智氏は斎藤義龍謀反で共に滅亡(長良川の戦い)、28歳の光秀は逃亡し、諸国流浪の末に越前朝倉義景に仕官、足利義昭に勧めて織田信長との間を取り持ち、義昭と信長に両属の形で活躍を始めた。信長の正室帰蝶は光秀の従妹であり、織田家接近の有力な手蔓になったと考えられる。一流の文化人細川藤孝を従えて儀礼や文芸に精通する明智光秀は、京都政界の外交折衝で頭角を現し、1570年朝廷を動かして信長包囲網(第一次)を和睦に導いた功で近江坂本10万石を与えられ44歳で一城の主となった。恩人信長の追落しに励む義昭を見限って織田家専属となり、1573年室町幕府滅亡、軍団を託されて丹波攻略を開始すると、石山合戦や松永久秀・荒木村重の謀反討伐に駆出されつつも、丹波亀山城を攻略して前線拠点を確保し、1579年波多野秀治・赤井直正を討破って丹波を平定(人質に差し出した叔母を光秀が捨殺しにしたという説があるが信憑性は低い)、近江坂本に加えて丹波を賜り(合計25万石または60万石)、織田家5軍団長の一人となった。そして1582年、「ときは今あめが下しる五月かな」と詠んだ光秀は、秀吉の出馬要請に応じて寡勢で京都に入った信長を急襲し殺害(本能寺の変)、畿内を軍政下に置いたが、縁戚の細川藤孝・忠興をはじめ筒井順慶(洞ヶ峠)・中川清秀・高山右近ら与力衆に悉く見放され、神速の中国大返しで駆けつけた豊臣秀吉に洛外天王山で決戦を挑むも惨敗(山崎の戦い)、逃亡した光秀は伏見小栗栖で土民の落ち武者狩りに討たれ、本拠地の近江坂本城も落ちて明智氏は滅亡した。光秀謀反の原因には、怨恨説・野望説・恐怖心説・発作説から、黒幕説には朝廷・長曽我部元親・イエズス会・徳川家康や秀吉まで様々あるが、歴史上の効果は天下統一目前の信長を討って秀吉・家康に道を開いた一点に尽きる。

史実

1528年 美濃源氏土岐氏の庶流で可児郡明智城主の明智光綱の嫡子に明智光秀が出生

1530年 西村勘九郎(斎藤道三)が仕官の恩人長井長弘夫婦を謀殺、美濃稲葉山城と家名を押領し長井新九郎利政(後に秀竜)へ改名、近江守護佐々木義秀の後援も得て土岐頼芸を担いで美濃一国の実権を掌握

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1530年 将軍足利義政により室町幕府御用絵師に抜擢され漢画の手法で慈照寺銀閣の障壁画や『周茂叔愛蓮図』『山水図』を描いた狩野正信が死去、幕府御用絵師を次いだ嫡子の狩野元信は職業画家集団「狩野派」を興し宮廷絵所預の大和絵土佐派(創始者の土佐光信は元信の舅とも)と日本画壇を二分する勢力へ躍進する

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1531年 [大物崩れ]将軍足利義晴・管領細川高国の挙兵要請に応じた播磨・備前・美作の領袖浦上村宗が京都を奪回、摂津尼崎大物で細川晴元・三好元長軍と対峙し優位に戦局を進めるが村宗を恨む赤松晴政勢の寝返り奇襲により壊滅し村宗は討取られ(嫡子政宗が家督を継ぐが浦上氏は播磨・備前・美作の支配力を失い尼子経久の侵攻で西播磨に追詰められる)高国は尼崎の路傍の民家で自害、永正の錯乱から24年続いた細川政元の養子3人(澄之・澄元・高国)による家督争奪戦が決着するが(晴元は事実上の管領となったが何故か正式襲名せず)、細川晴元と三好元長の権力争いへ移行

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1532年 町衆を中心とする日蓮宗門徒が京都の自治権を掌握し山科本願寺焼打ちなどで他宗派を排斥

1532年 本願寺蓮如の子の勢力争いに起因して加賀一向一揆で内紛が発生(享禄の錯乱)、機に乗じた朝倉宗滴は能登畠山氏と提携して出征、手取川付近まで侵攻するが畠山勢壊滅により本願寺と停戦和睦

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1532年 [飯盛城の戦い~天文の錯乱・山科本願寺焼討]細川晴元の側近で播磨守護代の木沢長政が播磨守護畠山義堯に叛逆、三好元長・一秀が畠山に加勢し木沢を飯盛城に追い詰めるが、晴元の誘いに乗った山科本願寺証如・蓮淳が10万もの一向一揆勢を派遣、三好・畠山軍は撃滅され元長・一秀・義堯も討取られるが(切腹した元長は腸を天井に投げつけて壮絶死)、暴徒化した一向一揆勢は奈良を劫掠して京都へ侵入、本願寺と決別した晴元は近江守護六角定頼と法華一揆を動員して一向一揆を撃退、山科本願寺を焼かれた証如は摂津石山御坊(石山本願寺)へ逃避

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1533年 伊勢より上野上泉城へ来訪した愛洲移香斎久忠が城主の上泉伊勢守信綱に陰流の秘奥を伝授し2年の猛稽古の末に「見事、もはや教えることは何も無い」と告げ退去、信綱は兵法の合理的分析と系統立てを行い「陰流ありてその他は計るに勝へず」と惚れ込んだ妙技に真正伝香取神道流や塚原卜伝の新当流を加味して新陰流を創始

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1533年 長井新九郎(斎藤道三)が土岐一族で可児郡明智城主明智光継(明智光秀の祖父説あり)の娘小見の方を正室に迎える(小見の方は織田信長の妻となる帰蝶=濃姫などを出産)、新九郎の父松波基宗死去

1534年 尾張那古野城主の織田信秀の嫡子に織田信長が出生

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交遊録

明智光継 祖父
明智光綱
明智光慶 共に滅んだ嫡子
明智光安 義龍に討たれた養父の叔父
明智光久 義龍に討たれた叔父
明智光忠 光久後嗣・娘婿
明智秀満 湖水渡りの養子・明智四天王
明智秀忠 明智四天王
斎藤利三 明智四天王
藤田伝五 明智四天王
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